1 |
1950年代,アメリカの〔 ① 〕大統領は国連総会で「原子力の平和利用」を提唱し,〔 ② 〕(IAEA)の設立を提唱する一方で,太平洋上での水爆実験をおこなった。1954年の〔 ③ 〕環礁での実験では,日本の〔 ④ 〕が被爆し,原水爆禁止運動の発端となった。 |
答 |
①アイゼンハワー ②国際原子力機関 ③ビキニ ④第五福竜丸 |
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《歴史:第9回発展編③》参照 |
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2 |
1950年,平和擁護世界委員会は原子力兵器使用者を人類の敵・犯罪者とし,その製造・使用を禁止する〔 〕を発表した。 |
答 |
ストックホルムアピール |
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《歴史:第9回世界史発展編③》参照 |
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3 |
1955年,イギリスの哲学者:〔 ① 〕とアメリカの物理学者:〔 ② 〕が核廃絶のための〔 ① 〕・〔 ② 〕宣言を発表した。この宣言を受けて,1957年,カナダで科学者による核廃絶のための〔 ③ 〕会議が開かれ,日本初ノーベル賞受賞者:〔 ④ 〕なども参加した。 |
答 |
①ラッセル ②アインシュタイン ③パグウォッシュ ④湯川秀樹 |
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《歴史:第9回発展編③》参照 |
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4 |
1987年,アメリカとソ連との間で〔 〕(中距離核戦力)全廃条約が締結された。 |
答 |
INF |
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《歴史:第9回発展編③》参照 |
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5 |
1970年代,アメリカはソ連との間で戦略兵器制限交渉:〔 ① 〕をおこない,1990年代から,ロシア(初めソ連)との間で戦略兵器削減交渉:〔 ② 〕をおこなっている。 |
答 |
①SALT(ソルト) ②START(スタート) |
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戦争ではよく「戦略」と「戦術」を区別します。「戦略」とは戦争全体の大局的・長期的視点をいい,「戦術」とは部分的・短期的視点をいいます。したがって戦略を練るのは上層部で,戦地から遠く離れている。そしてその作戦は最終的に勝敗を決するものになる。一方,戦術は実践の戦闘現場です。臨機応変に対処し,現場の指揮官の指示に従います。
これを武器にあてはめると,戦略とは大局的に勝敗を決することができる兵器ということになり,それが示すのはたいてい核兵器ということなってしまう。そして戦術兵器とは,銃・弾薬・戦車・戦闘機などをいいます。
1970年代,米ソは戦略兵器(核ミサイル)とその運搬手段(潜水艦・戦略爆撃機など)の量的・質的制限を交渉しましたが,1979年,ソ連がアフガニスタン侵攻をおこなったため,両国の緊張が再び高まり,交渉は成立しませんでした。このときの交渉が戦略兵器制限交渉:SALT(ソルト)といい,第1回目を「SALT Ⅰ」と表記し,「ソルト ワン」と読みます。(2回目は「SALT Ⅱ(ソルト ツー」)
冷戦終結後の1991年,ソ連末期になって,両国は再び戦略兵器の制限に乗り出します。今度は「制限」を越えて,今ある核弾頭を「削減」,実際に減らすことが目標となりました。よって名称は「戦略兵器削減交渉:START(スタート)」といいます。いくつかの段階を経て,現在では交渉開始から核弾頭の数が約4分の1に減らされました。(それでも両国とも1500発ぐらいの核弾頭をもっている) |
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6 |
1996年に採択された,核実験を全面的に禁止する条約を〔 〕(包括的核実験禁止条約)という。 |
答 |
CTBT |
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爆発をともなうあらゆる核実験を禁止する条約を包括的核実験禁止条約(CTBT)といいます。1963年の部分的核実験停止条約と【比較】しておぼえましょう。
またこの条約は1996年,国連で採択されたのですが,現在も発効していないことが注意点。CTBTの発効には,研究用や発電用の原子炉がある44ヶ国の批准が必要なんですが,アメリカ,中国,パキスタン,北朝鮮,インド(イギリス・フランス・ロシア以外の核保有国)が批准していない。 |
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7 |
国連で採択され,1968年に発効した〔 ① 〕(核兵器拡散防止条約)は,非核保有国の核保有を禁止する条約であり,〔 ② 〕(国際原子力機関)の査察を受ける義務がある。さらに核兵器の全廃に向け,2021年には〔 ③ 〕が発効した。 |
答 |
①NPT ②IAEA ③核兵器禁止条約 |
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現在,世界の核兵器保有状況は,国連の常任理事国5ヶ国に,インド・パキスタン,そして北朝鮮の計8ヶ国です。核兵器拡散防止条約は,核兵器の保有を安保理の五大国に限り,非核保有国が新たに核保有国となるのを禁止しています。
そこで北朝鮮はこの条約を脱退して核実験を繰り返し,現在はアメリカまで飛距離を伸ばす努力(大陸弾道弾)を開発中です。
8ヶ国以外にもイスラエルはNPT未加入であり,核保有の疑いがある国です。当のイスラエル自体は核保有を肯定・否定もしていない。
このイスラエルの核保有疑惑に対して,周辺のイスラム教国は脅威を感じているわけですが,中でもイランはNPTに加盟しているにも関わらず,核兵器の開発を進めているとアメリカなどから非難の対象となっています。
インドとパキスタンは分離独立後,国境問題などがあり軍事的衝突が絶えませんでした。両国の紛争をある意味抑止したのが,両国の核保有でした。NPTには当初からに未加入です。
2017年,国連総会で採択された核兵器禁止条約は,2021年に発効しました。この条約の採択には,ICAN(アイキャン 核兵器廃絶国際キャンペーン)という組織が尽力し,2017年のノーベル平和賞を受賞しています。もちろん現核保有国は不参加ですが,アメリカと同盟関係にある被爆国日本も参加していないことが重要な点です。 |
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8 |
オバマ大統領は「核なき世界」について〔 〕で演説をおこない,ノーベル平和賞を受賞した。 |
答 |
プラハ |
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オバマ大統領はプラハ演説にはじまり,任期末期の2016年,被爆地広島を訪問を果たします。プラハはチェコの首都です。 |
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9 |
非人道的な兵器を禁止しようとする国際条約には,〔 〕を全面禁止するオタワ条約(1999年)などがある。 |
答 |
対人地雷 |
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特定の民族や人権などを迫害したり,殺害したりすることを防止し,違反に対しては個人の処罰がおこなわれている条約をジェノサイド条約といい,日本はこの条約に批准していないというのが注意点。⇒《公民:第1回発展編》
日本が批准している条約には,対人地雷禁止条約(オタワ条約)に加え,生物・毒素兵器を包括的に禁止する条約:生物兵器禁止条約,化学兵器の禁止を定めた条約:化学兵器禁止条約,容器となる大型の筒の中にたくさんの爆弾を詰め込んだ爆弾(クラスター爆弾)の禁止と廃棄を定めた条約を「クラスター爆弾禁止条約(オスロ条約)」などがあります。
対人地雷禁止条約とクラスター爆弾禁止条約は,NGO主導で制定された兵器禁止条約として重要です。 |
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10 |
2002年,〔 ① 〕首相が北朝鮮の〔 ② 〕総書記との間で国交正常化のためピョンヤンで日朝首脳会談をおこなった。 |
答 |
①小泉純一郎 ②金正日(キム・ジョンイル) |
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日朝ピョンヤン宣言の内容は,拉致問題の解決,日朝国交正常化交渉の開始などでしたが,拉致問題では数組の家族が帰国を果たしたのち進展せず,度重なる北朝鮮の核とミサイル実験によって有名無実化しています。 |
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11 |
第二次世界大戦中,日本が占領した地域での軍隊の慰安のために設けられた施設で,朝鮮などの占領地の女性を働かせたとすることに対しての個人的な補償問題を〔 〕問題という。 |
答 |
従軍慰安婦 |
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北朝鮮の日本人拉致問題に対して,韓国との間で常に外交問題となるのは,戦中の従軍慰安婦問題です。この問題に対しては2015年,最終的かつ不可逆的に解決したとする慰安婦問題日韓合意がさなれました。 |
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12 |
1989年,中国で民主化を要求する学生や労働者を人民解放軍が武力で鎮圧する〔 〕事件がおこった。 |
答 |
天安門 |
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1989年,東欧で民主化運動がおこったのと同時期に中国でも中国共産党(鄧小平)政権の人権抑圧に対して不満を持つ民衆が決起しました。天安門は毛沢東が中華人民共和国建国を宣言した故宮というかつての王宮の正門です。
政府はこの暴動を人民解放軍を動員して鎮圧。その様子はテレビで中継され,国際的非難が高まりました。東欧革命との大きな違いは,この暴動によって政権が覆らなかったという点です。 |
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中国の〔 ① 〕自治区では,ラマ教とよばれる〔 ② 〕を最高指導者とする独自の仏教が信仰されており,中国から分離独立を求めている。 |
答 |
①チベット ②ダライ=ラマ |
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チベット仏教は,大乗仏教の1つで,日本でいう密教の教義によく似ています。生ける仏であるダライ=ラマ(ラマは僧・師の意味)を最高位として崇め,その地位の継承は生まれ変わり(転生)と思われる子どもを探し出します。そこでチベット仏教はラマ教ともよばれます。
13世紀,モンゴル帝国がこの地を征服し,フビライ=ハンがチベット仏教に帰依すると,モンゴル人の中にその信仰が広がりました。現在でもチベット仏教は,チベット民族とモンゴル民族の間で信仰されています。(中国の内モンゴル自治区もチベット仏教)
17世紀(清の時代)から,ダライ=ラマはチベットの元首としての地位を与えられましたが,中華人民共和国が成立すると共産党政府はチベット民族の政教一致体制を認めず,チベット民族の中では反共・反中運動がおこります。
1959年,チベットのラサで中国に対する大規模なデモがおこると,中国人民解放軍が暴動の制圧に派遣されます。現在のダライ=ラマ14世はインドに亡命し,そこでチベット亡命政府を樹立し,中国に対しチベットに高度な自治権を与えるように訴え続けています。 |
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14 |
近年,中国の海洋進出が活発になり,南シナ海の〔 ① 〕諸島をめぐって,〔 ② 〕・〔 ③ 〕・〔 ④ 〕との間で領有権争いが激しくなっている。 |
答 |
①南沙(スプラトリー) ②フィリピン ③ベトナム ④マレーシア(②・③・④は順不同) |
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中国の海洋進出は,東シナ海における尖閣諸島だけでなく,南シナ海においても南沙(スプラトリー)諸島で活発になっています。対立する国はフィリピン・ベトナム・マレーシア。実際,これらの国はこれまで入り乱れてこの地の開発をおこなっていましたが,ここ最近,大外から厚かましく中国が進出開始。あっという間に岩礁を埋め立てては,軍事施設を建設して,多くの海域を実効支配してしまいました。
日本にとって,この地域の中国進出を懸念する訳は,当然東南アジア諸国との良好な関係の他に,この海域が日本までの石油輸送路(オイルロード)となっているからです。 |
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15 |
1989年から軍事政権によって断続的に自宅軟禁されていたミャンマーの民主化運動の指導者:〔 ① 〕が,2010年に解放され,現在はミャンマーの国家(最高)顧問に就いている。また国内のイスラム教を信仰する少数民族:〔 ② 〕に対する弾圧が国際問題となっている。 |
答 |
①アウン=サン=スー=チー ②ロヒンギャ |
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スー=チーさんのお父さんは,かつてミャンマーがビルマとよばれたころ,イギリスや日本に対して独立運動を指揮し,戦後は「ビルマ独立の父」とよばれたアウン=サン将軍という人です。戦中,日本軍に協力していたころは「面田紋次」という日本名も名のっていました。
独立後,1962年に軍事クーデターによって,ビルマでは軍事独裁政権が誕生します。スー=チー氏は1980年代の後半から祖国の民主化運動に取り組み,お父さんと同様指導者的な地位に就きます。
軍事政権との対立によって,計14年の獄中そして自宅軟禁生活を余儀なくされました。2010年に解放されると,ようやく自由化を模索し始めていた軍事政権と協力して平和的に民主化に移行するため,政権の要職で活動しています。
ミャンマーは仏教国ですが,西部のバングラデシュ国境付近には,ロヒンギャとよばれるイスラム教を信仰する少数民族が居住しています。ミャンマーの軍事政権は,この人々をミャンマー人ではないと差別・迫害してきました。スー=チー氏が国家顧問となった今もこの問題は解決せず,ロヒンギャの人々は隣国バングラデシュへ逃れようとしますが,バングラデシュ側も受け入れを拒否。彼らは難民となって日々苦しい生活を強いられています。 |
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16 |
インドとパキスタンは,〔 〕地方の領有権をめぐって,その紛争は核開発にも発展した。 |
答 |
カシミール |
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カシミール地方はインド北西部とパキスタン北部にまたがる地方です。高級毛織物カシミアの語源ともなっています。
第二次世界大戦後,インドとパキスタンが分離独立した際,この地方の帰属が問題になりました。というのもこの地方を治めていた有力者(マハラジャ)はヒンドゥー教徒であったためインド帰属を求め,一方住民の多くはイスラム教徒であったため,パキスタンへの帰属を求めたからです。
この問題はやがてインドとパキスタンの戦争となり,度重なる両国の国境紛争となりました。挙句の果ては核開発競争にまで発展します。現在もこの地域の国境は未画定で,地図帳などでも点線や薄い線で停戦ラインが引かれているだけです。 |
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17 |
〔 ① 〕戦争は,〔 ② 〕湾への出口となるシャトルアラブ川の領有問題が引き金となった。 |
答 |
①イラン=イラク ②ペルシャ |
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1979年,イランでイスラム教シーア派によるイスラム原理主義革命(イラン革命)がおこると,イラン=イラク戦争が勃発しました。⇒《歴史:第9回発展編③》
引き金となったのは,両国の国境となっているシャトルアラブ川の国境問題でした。国際河川の国境には,川底の最深部(航路の中央線)とするタールベークの原則があります。この河川においても1930年,国際連盟指導のもとでテヘラン条約が結ばれ,タールベーク原則が適応されていましたが,イラク側がこれを破棄,以後1988年までこの戦争は続くことになります。あまりに長引いたので「イラ・イラ戦争」ともよばれました。 |
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18 |
1991年,イラクが〔 ① 〕に侵攻したことをきっかけに,アメリカを中心とする多国籍軍がイラクを攻撃した。これを〔 ② 〕という。 |
答 |
①クウェート ②湾岸戦争 |
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イラン=イラク戦争では,アメリカはイスラム原理主義の拡大を阻む防波堤としてイラクを援助します。イラクは当時からサダム=フセインが独裁政権を樹立。アメリカは自ら中東の独裁者を育ててしまったのです。
湾岸戦争については《歴史:第9回発展編③》参照。 |
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19 |
9・11テロを実行したオサマ=ビン=ラディンを指導者とするテロ組織:〔 ① 〕は,アフガニスタンの〔 ② 〕政権の援助を受けていたため,アメリカとイギリスはこれを攻撃した。〔 ② 〕は,イスラム原理主義に基づき,世界遺産である〔 ③ 〕の石仏を爆破するなど,世界的に非難を受けていた。 |
答 |
①アルカイダ ②タリバン ③バーミヤン |
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1979年,アフガニスタンに親ソ政権が誕生すると,ソ連はイスラム原理主義の反政府ゲリラを一掃するためアフガニスタンに侵攻します。アメリカや西欧諸国はこれを非難し,冷戦が再び過熱。日本を含めた西側諸国の翌年のモスクワオリンピック(1980)不参加につながります。
アメリカがこのままソ連の勢力圏が拡大するのを指をくわえてみているはずがありません。反政府ゲリラ対して武器などの援助を開始,ソ連軍は苦戦を強いられ,戦闘は長期化,そして泥沼化していきます。
ゴルバチョフ大統領は1988年,アフガニスタンからの撤退を決定しますが,侵攻失敗もまたソ連崩壊の一因となりました。アフガニスタンはソ連にとってのベトナムになってしまった。
さてアメリカの援助によってソ連を撃退したアフガニスタンの反政府組織ですが,その中でも力をもったタリバン(もともとの意味はイスラム神学生)が次第に国内を制圧していきます。イランと同様こちらもイスラム原理主義(こちらはスンニ派)による政治を掲げ,やがて過激化していきます。イラン=イラク戦争における独裁者フセインと同様,アメリカはアフガニスタンの過激派組織を育ててしまったことになってしまった。
やがてそこには世界中のスンニ派過激思想の持ち主たちが集まり,その中にビン=ラディン率いるアルカイダもありました。彼らはイスラム世界の混乱の元凶はアメリカとイスラエルにあるとして,世界中でのテロを呼びかけました。その最大規模といわれるのが,2001年9月11日のアメリカ同時多発テロだった。
テロのあと,アメリカはビン=ラディンの引渡しを拒んだアフガニスタンを攻撃するわけですが,これに関しての注意点。
・安保理決議が採択された。
・テロ攻撃に対する集団的自衛権が行使された。
例えばNATOが創設以来はじめての集団的自衛権を行使し,アメリカとともに攻撃に参加した。
・日本はテロ対策特別措置法(テロ特措法)を制定
艦隊への給油活動のため自衛隊をインド洋に派遣した。この法律は期限つきの時限立法であったため,期限がすぎると再び新しく制定させる必要があった。 |
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20 |
2003年,テロ支援国家であり大量破壊兵器を所有しているという疑惑で,アメリカは〔 ① 〕を攻撃し,〔 ② 〕大統領の身柄を拘束,裁判の上,処刑した。 |
答 |
①イラク ②フセイン |
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アメリカをはじめとするアフガニスタン攻撃に対して,2003年のイラク戦争は,安保理決議を得られないままの戦争でした。イラクの大量破壊兵器保有のはっきりとした証拠がなかったからです。
当然,日本の立場は微妙です。日本の外交は国連中心主義を掲げているのと同時に日米同盟は日本の安全保障上欠かせない同盟です。
結局日本はアメリカに味方して自衛隊を派遣することになったのですが,あくまでも非戦闘地域に限っての人道支援という形をとりました。イラク特措法です。 |
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21 |
〔 〕人はトルコ,イラン,イラクにまたがる地域に居住している国家をもたない民族である。 |
答 |
クルド |
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クルド人は国家をもたない民族の1つです。中東の国境のほとんどは,第一次世界大戦後,戦勝国が敗戦国トルコを恣意的に分割して引いたものです。このときクルド人の居住地がトルコ・イラン・イラクに分割されてしまった。そのため彼らはいずれの国でも少数派として弾圧されることになってしまった。 |
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22 |
アフリカ中央部の〔 〕では,1990~93年まで部族間同士の内戦となり,政府軍による大量虐殺がおこなわれた。 |
答 |
ルワンダ |
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ルワンダは第一次世界大戦前まではドイツの植民地でしたが戦後,隣国コンゴを支配していたベルギーの植民地の一部となりました。
ルワンダにはツチ族とフツ族というもともとそれほど大きな違いはない部族が暮らしていましたが,ベルギー政府は,これを身体的特徴で区別し,ツチ族を少数派として優遇し,それ以外をフツ族として多数派を形成します。そしてツチ族は人種的(遺伝的)に優れているとしてフツ族に対する差別意識を植えさせ,多数のフツ族を支配させたのです。
1960年代,ルワンダも他のアフリカ諸国の例にもれず独立を果たしますが,70年代にフツ族のクーデターによって,今度は逆にフツ族がツチ族を支配するようになります。するとこれまで政府側であったツチ族が反政府組織を結成。内戦状態になりました。
ツチ・フツの両部族は白人がやってくるまで,争いのない平和で素朴な生活を営んでいたのに,100年後には武器をもって殺し合い。おそらくその目的も意味も本当に理解できていなかったでしょう。1994年にはフツによる大量虐殺がおこわれ,100万人以上ものツチが命を落としたといわれます。 |
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23 |
アフリカ北部の〔 ① 〕で,北部のイスラム教住民と南部の非イスラム教住民との間で内戦がおこり,2011年,長年の対立の末,南部が独立を達成し,南〔 ① 〕となった。〔 ① 〕では,2003年,西部の〔 ② 〕地方でアラブ系住民と非アラブ系住民との間で紛争がおこり,〔 ① 〕政府の非アラブ系黒人への残虐行為が問題となった。 |
答 |
①スーダン ②ダルフール |
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ダルフール紛争は,同じイスラム教徒のアラブ系住民と非アラブ系住民の対立。両者はともにイスラム教である。スーダン内戦は,イスラム教徒と非イスラム教徒(特にキリスト教徒)との対立で宗教対立。
アフリカはこのスーダン・南スーダンを分けるラインで,イスラム教とキリスト教の分布がわかれることをおさえておきたい。 |
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24 |
2010年から2012年にかけて,チュニジアやエジプト,リビアなどで独裁政権が民衆のデモ活動によって倒された。これらのイスラム諸国の民主化運動を「〔 〕」という。 |
答 |
アラブの春 |
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2008年のリーマンショック以降,世界経済全体が低迷をつづけ,クローバ化による貧富の差も拡大,中東など発展途上国では何十年にもわたる長期独裁政権とその周囲の一部のエリート層だけが富を独占していました。
発端は2010年,北アフリカのチュニジア。路上で野菜売りをしていた青年が,警察によって商売を禁止されました。これに抗議するため青年はその場で焼身自殺します。何も自殺までしなくてもと私たちは考えますが,チュニジアでは失業率が高く,青年からすれば,生きていくための精一杯の仕事だった。
この事件がきっかけで,チュニジア全土で反政府デモやストライキが拡大し,ついには20年以上続いた独裁政権が倒れました。これをチュニジアの国花であるジャスミンから名前がつけられ,ジャスミン革命とよばれました。
大事なのはここからです。このような政権打倒の運動はこれまでも歴史上何度もありました。チェコスロバキアのプラハの春,東欧革命,ソ連の崩壊などなど。今回の民主化革命の特徴はインターネットやソーシャルメディアを通じて瞬く間に,世界中にリアルタイムでしかも詳細に(不都合な部分が隠されることもなく)伝わったということです。しかも不特定多数の世界の人々に。
特にチュニジアと同じ問題を抱えていた北アフリカ・中東の国々では,チュニジアの成功は勇気となりました。すぐにヨルダン・リビア・シリア・エジプトなどでも同様に革命がおこり,これら一連の動きは「アラブの春」とよばれたのです。
ただしすべての国が革命後,安定した政権が発足したとは限りません。リビアはほとんど無政府状態であるし,エジプトでも断続的にテロがおこっています。そして何といってもシリア情勢はますます混沌とするばかりです。 |
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25 |
2016年現在,イラクとシリアで凶悪なテロ活動をおこなっている集団を「〔 〕」という。 |
答 |
イスラム国(IS) |
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アラブの春の余波を受けて,シリアでは政府と反政府組織の内戦がはじまりました。また隣国イラクではアメリカ軍が撤収をはじめます。この隙をついてシリアからイラクにかけて勢力を伸ばしたのが,「イスラム国(IS)」でした。「国」とは宣言していますが,世界のどの国もこの国を承認していません。
※表記については「ISIS(アイシス)」・「ISIL(アイシル)」とさまざまですが,最初の「IS」=イスラム国(イスラミック=ステート)の部分は同じです。 |
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26 |
北〔 〕は,現在イギリス領である。かつてこの地をめぐってカトリック系の〔 〕住民と新教徒のイギリスとの間で紛争が絶えなかった。 |
答 |
アイルランド |
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27 |
ロシア連邦の〔 ① 〕共和国では,ロシア連邦内に留まろうとする勢力と分離独立を求める勢力が武力闘争をくり返した。 またグルジア(現ジョージア)内部の〔 ② 〕でもその帰属が問題となり,ロシア・グルジア間の紛争に発展した。 |
答 |
①チェチェン ②南オセチア |
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ソ連崩壊後,ソ連を構成していた共和国が次々と独立します。またその中核であったロシア連邦内においても自治共和国が独立を求めることになったのですが,チェチェン共和国では独立派武装勢力と残留派との紛争に発展します。当然ロシア(軍)は残留派を支援し,大規模な軍事衝突となりました。これをチェチェン紛争(1994~)といいます。
このときチェチェン鎮圧の指揮をとったのが,何を隠そうあのウラジミール=プーチンでした。プーチンはこれによって国民的人気を得て大統領の地位に駆け上がった。2009年,プーチン大統領はチェチェンの武装勢力は一掃されたと発表します。
グルジアはソ連崩壊後に独立した共和国です。この国の北部に南オセチアという地域があり,グルジアからの独立を要求します。というのも南オセチアの北には北オセチアがあり,北オセチアはロシア連邦を構成する共和国の1つでした。南オセチアとしては同じ民族の北オセチアとともにロシアに帰属したいわけです。
独立してロシアを頼ろうとする南オセチアをグルジアは軍事力で制圧しようとします。これに対してロシアが南オセチアを支援する。南オセチアの独立問題はグルジア・ロシア間の戦争に発展しました。南オセチア紛争です。
結果,グルジア軍は撤退し,南オセチアは事実上独立を達成しましたが,ロシアが承認している以外は国際的に認められていません。
敗れたグルジアはロシアとの国交を断絶。その反露感情からグルジアは日本政府に対しても国名表記をロシア語の「グルジア」から英語の「ジョージア」への変更を要請しました。ちなみに「ジョージア」とは,キリスト教の聖人の名前で,龍(ドラゴン)退治の伝説をもつ「聖ゲオルギオス」の名前をとったものです。 |
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28 |
アセルバイジャンの〔 〕自治州にはアルメニア人が多く居住していたため独立を求めていた。そのためアゼルバイジャンとアルメニアとの間で戦争がおこり,現在は〔 〕共和国として独立している。 |
答 |
ナゴルノ=カラバフ |
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ナゴルノ=カラバフ共和国は,独立国として国際承認は受けていません。 |
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29 |
2014年,ウクライナ南部の〔 〕自治共和国がウクライナからの独立を宣言し,ロシアが自国へ編入した。 |
答 |
クリミア |
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ウクライナ領のクリミア自治共和国とは,クリミア半島のことです。19世紀のクリミア戦争のクリミアであり,ヤルタ会談がおこなわれたクリミアです。この半島内のセバストポリには,ソ連時代から黒海艦隊の基地が置かれ,ソ連崩壊後ロシアとウクライナが共に独立してからも,ロシアはウクライナからその租借権を得ていた重要な拠点です。
そのクリミア半島をロシアはクリミア自治共和国との条約に基づき,ロシア連邦の領土に加えてしまった。一応,クリミアでは住民投票(合意)も独立宣言(離婚)も編入決議(入籍)も経て,ロシアに嫁入りしたことになっていますが,一方のウクライナは何も承知していないので,クリミアもロシアも国際法違反としか映りません。国連も日本もアメリカもヨーロッパ諸国もこのことを認めず,ロシアに対して経済制裁をおこなっています。 |
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30 |
1989年,冷戦の終結とともに東ヨーロッパで自由化を求める革命がおこった。旧〔 ① 〕では,クロアチア・スロベニアが独立すると,〔 ② 〕でも独立を求める運動がおこったが,セルビア人勢力が連邦残留を主張し内戦に発展した。またセルビア国内の〔 ③ 〕自治区が独立を求めたところ,セルビアがこれも認めず〔 ③ 〕紛争がおこった。2つの紛争に〔 ④ 〕は軍事介入をおこない,セルビアを空爆している。 |
答 |
①ユーゴスラビア ②ボスニア=ヘルツェゴビナ ③コソボ ④NATO |
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ユーゴスラビアは7つの国と国境を接し,6つの共和国,5つの民族,4つの言語,3つの宗教,2つの文字で1つ国,と巧く表現されました。
・7つの国との国境
イタリア・オーストリア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ギリシャ・アルバニア
・6つの共和国
スロベニア・クロアチア・ボスニア=ヘルツェゴビナ・セルビア・モンテネグロ・マケドニア
・5つの民族
スロベニア人・クロアチア人・セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人
・4つの言語
スロベニア語・クロアチア語・セルビア語・マケドニア語
・3つの宗教
カトリック・正教会・イスラム教
・2つの言語
アルファベットとキリル文字
・1つの国
ユーゴスラビア連邦
・ボスニア内戦
冷戦終結後,ユーゴスラビア連邦内の6つの共和国はそれぞれ独立をめざしていくわけですが,「6つの共和国」と「5つの民族」のところに注目して下さい。ボスニア=ヘルツェゴビナ以外は民族名と共和国名が一致しています。ということは一致している国は独立は容易でした。
1991年,まずスロベニアとクロアチアが連邦との独立戦争を経て独立します。続いてマケドニアが独立。そしてセルビアとモンテネグロが新たに新ユーゴスラビア連邦を結成します。
ボスニア=ヘルツェゴビナでは少し様子が違った。実はこの国こそ民族構成がもっとも複雑な国で,クロアチア人・セルビア人に加え,イスラム教徒(ムスリム)が拮抗し,多数派が存在しなかった。それでもクロアチア人とムスリムは独立派でしたが,セルビア系住民はセルビアとの関係を強めようとしていた。
このボスニア内の対立はセルビアが関与しての内戦となり,内外のセルビア人勢力のムスリムに対する攻撃は「民族浄化」の残虐行為に発展し,国際非難を浴びます。
EUや国連の仲介によって停戦交渉がおこなわれましたが解決せず,最後にはNATOがセルビア人勢力を空爆してやっと停戦にこぎつけました。
・コソボ紛争
セルビア内にあるコソボ自治州は,アルバニア系住民が多く居住し,イスラム教徒でもありました。1990年代,ユーゴスラビアの解体が進んでいく中,コソボもスラブ系でセルビア正教会であるセルビアからの分離独立を求めていきます。1998年,セルビアはついに治安部隊を投入し,アルバニア系住民に残虐行為をおこないました。
紛争が泥沼化すると再びNATOがセルビアを空爆。紛争終結,コソボは国連の管理下に置かれ,2008年に独立を宣言します。アメリカやEU諸国,日本もこれを承認しています。 |
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国際紛争地帯や自然災害の被災地などで,国際的な医療のボランティア活動をしているNGOを〔 〕という。 |
答 |
国境なき医師団(MSF) |
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日本の外交の三原則は,〔 ① 〕の一員としての立場の堅持,〔 ② 〕主義国との協調,〔 ③ 〕中心主義である。 |
答 |
①アジア ②自由 ③国連 |