1 |
旧石器時代の日本列島は大陸と陸続きであったため,〔 ① 〕や〔 ② 〕などの大型動物が住んでいた。長野県の〔 ③ 〕湖ではこれらの化石が多く出土している。 |
答 |
①ナウマンゾウ ②オオツノジカ ③野尻 ※①・②は順不同 |
|
大陸と陸続きであったのは,当時は氷河期で海水面が今よりずっと低かったから。地球が温暖化し,海水面が上昇,その結果現在の日本列島が形成された。そのころから日本独自の縄文時代がはじまります。
日本で発見された大陸系の大型動物:ナウマンゾウやオオツノジカは縄文時代がはじまるころには絶滅していたと考えられています。したがって「ナウマンゾウ」・「オオツノジカ」といった語句は縄文時代ではなく,旧石器時代であることに注意。【時代区分】 |
|
|
2 |
縄文時代になると縄文土器のほか〔 ① 〕も使用されるようになり,地面を掘り込んでつくった〔 ② 〕で生活していた。〔 ③ 〕とよばれるごみ捨て場からは当時の人々の生活を知ることができる。 |
答 |
①磨製石器 ②竪穴住居 ③貝塚 |
|
本来,旧石器時代の次の段階は新石器時代です。新石器とは磨製石器を意味しますが,新石器時代は,農耕や土器の使用がはじめられた時代でもあります。しかし日本は大陸から切りはなされたため,大陸の農耕は伝わりませんでした。したがって日本では旧石器時代のあとは新石器時代ではなく,縄文時代。
竪穴住居は,縄文時代からはじまりますが,奈良時代までの一般住居であることに注意したい。 |
|
|
3 |
縄文時代の遺跡には,〔 ① 〕貝塚(東京都)や〔 ② 〕遺跡(青森県)などがある。 |
答 |
①大森 ②三内丸山 |
|
縄文時代を代表する2つの遺跡。三内丸山遺跡は《基礎編》で説明済み。大森貝塚は東京都にあり【位置】,明治時代,日本で最初に発掘調査された貝塚として重要です。
|
|
JR京浜東北線沿(大森駅徒歩5分)に建つ大森貝塚の碑 |
|
|
|
4 |
弥生時代の水稲耕作の遺跡としては,静岡県の〔 ① 〕遺跡などがあり,穂首刈をおこなう〔 ② 〕や田げたなどが使用されていた。 |
答 |
①登呂(とろ) ②石包丁 |
|
登呂遺跡は,水田跡を中心に高床倉庫・祭殿など,これぞ弥生時代というものが勢ぞろいしており,日本で最初の総合的発掘調査(考古学・人類学・地質学)された遺跡です。石包丁・田下駄の史料写真は必ずみておきたい。【史料】また登呂遺跡が静岡県であることもおさえておきましょう。【位置】
|
|
田下駄【東京国立博物館】 |
登呂遺跡(静岡県静岡市)
ちなみに弥生時代の「弥生」とは,弥生土器からとられた時代名ですが,そもそもは地名です。東京都文京区弥生二丁目。ここで弥生土器が発掘された。この住所,今何があるか知ってますか。東京大学工学部です。
|
|
弥生土器発掘地(東京大学工学部敷地) |
|
|
|
5 |
弥生文化は九州から〔 〕地方にまで広がった。 |
答 |
東北 |
|
|
6 |
5世紀,大和朝廷の勢力は九州地方から〔 〕地方にまで拡大した。 |
答 |
関東 |
|
各時代の文化・勢力が現在の日本のどの範囲にまで広がったかを比較しておさえておきましょう。【比較】
・縄文文化…沖縄(本島)~北海道(ほぼ現在の日本全土)
・弥生文化…九州~東北(北海道・沖縄を除く日本列島)
・大和朝廷(5世紀)…九州~関東
意外と徐々に範囲が狭くなっている。弥生文化とはいわば稲作文化です。稲作が可能な範囲が九州~東北だったこと。巨大な前方後円墳がつくられた5世紀,大和朝廷の勢力は九州から関東地方にまで広がったと考えられています。これは「ワカタケル大王」という大王(雄略天皇)の名前が刻まれた鉄刀が熊本県と埼玉県の古墳で発見されているからです。
|
|
「ワカタケル大王」の名が刻まれた鉄剣(埼玉県稲荷山古墳【さきたま史跡の博物館】) |
5世紀に関東地方までであった大和朝廷の勢力範囲も,今後時代を経るごとに東北地方に進出していきます。 |
|
|
7 |
6世紀末,〔 ① 〕天皇の〔 ② 〕となった聖徳太子は〔 ③ 〕と協力して政治をおこなった。 |
答 |
①推古 ②摂政 ③蘇我馬子 |
|
蘇我氏は聖徳太子には協力し,大化の改新で滅ぼされる。以後の時代に「蘇我氏」の名前が出てくることはありません。飛鳥時代限定です。【時代区分】 |
|
|
8 |
〔 ① 〕年,中大兄皇子と〔 ② 〕は天皇中心の中央集権国家をめざし,蘇我氏を滅ぼした。〔 ② 〕はのちに天皇から〔 ③ 〕の姓を授けられた。 |
答 |
①645 ②中臣鎌足 ③藤原 |
|
大化の改新後,蘇我氏にかわって勢力を伸ばしたのが,藤原氏。藤原氏は中臣鎌足の子孫です。豪族・貴族の名前ではのちに菅原道真が藤原氏以外の貴族代表として1人だけ登場します。すべて「草かんむり」であることに注意。特に菅原道真はまちがい易い。 |
|
|
9 |
天智天皇の死後の〔 〕年に,子の大友皇子と弟の大海人皇子との間で壬申の乱がおこった。勝利した大海人皇子は即位して天武天皇となった。 |
答 |
672 |
|
壬申の乱の年代は,天智天皇の死後におこった出来事であると理解しておけば,おぼえる必要はありませんが, 時期を問う問題でよく出題される事件ですので年代を即答できる方が問題を解きやすい。【時期】 |
|
|
10 |
天武天皇の死後,その皇后であった持統天皇が即位し,初の本格的都城である〔 ① 〕を造営し,〔 ② 〕年に遷都した。 |
答 |
①藤原京 ②694 |
|
①の答えを「平城京」と飛びつかないことが大切です。平城京(710)・平安京(794)は,あまりにも基礎レベルです。大切なのは平城京と平安京の「前の都」ができることです。ここが差がつく。【時期・位置】
持統天皇は天武天皇の皇后でもありました。まれに問われる天皇です。
|
|
天武・持統天皇稜(夫婦仲良く) |
|
|
|
11 |
〔 ① 〕年,唐に法制をならって大宝律令が完成した。〔 ② 〕とは刑法,〔 ③ 〕とは行政法を指す。 |
答 |
①701 ②律 ③令(りょう) |
|
律令とは「律」・「令」に区別されます。それぞれの内容をおさえておきましょう。正誤問題で問われます。 |
|
|
12 |
律令体制の中央官制を二官八省といい,二官とは〔 ① 〕と神祇官(じんぎかん)をさす。中でも〔 ② 〕は政治の最高責任者とされた。 |
答 |
①太政官(だいじょうかん) ②太政大臣 |
|
太政官・太政大臣の「太政」は「だいじょう」と読みます。ただし明治時代になって成立し,内閣制度が確立して廃止された「太政官制」では,読み分けて「だじょう」とします。太政大臣・右大臣・左大臣などで構成され,国政を担当する機関です。
太政大臣は,当時もっとも位の高い身分のものが就きました。「正一位・従一位」とよばれる身分です。したがって天皇を除けば,政治の最高責任者となります。(摂政・関白は特別職)ただし常職ではありません。個人名では武士の三人をおぼえます。平清盛・足利義満・豊臣秀吉です。
神祇官は,神事・祭礼をつかさどる職です。太政官とあわせて二官といい,太政官のもとに八つの専門機関が省です。これは今でも「~省」という言葉で残っていますね。
|
|
|
13 |
律令制のもと全国は国・郡・里にわけられ,それぞれ〔 ① 〕(中央から派遣)・〔 ② 〕(地方豪族)・〔 ③ 〕(村の有力者)が治めた。 |
答 |
①国司 ②郡司(ぐんじ) ③里長(さとおさ・りちょう) |
|
国司と郡司の違いをおさえておきましょう。「中央から派遣」されたのが国司。「地方の有力者・豪族」が任命されたのが郡司です。【比較】里長の主な職務は税の取立てです。 |
|
|
14 |
710年,〔 ① 〕天皇は〔 ② 〕の都:〔 ③ 〕をまねて平城京を造営し,遷都した。 |
答 |
①元明(げんめい) ②唐 ③長安 |
|
平城京遷都の天皇:元明天皇はやや難。しかし出題されたとき,答えられると点差をつけることができます。 |
|
|
15 |
奈良時代,朝廷は東北地方に〔 〕(宮城県)を築き,蝦夷経営の拠点とした。 |
答 |
多賀城 |
|
多賀城が宮城県であることが重要。【位置】 |
|
|
16 |
〔 ① 〕年,聖武天皇は〔 ② 〕建立の詔と墾田永年私財法を出した。 |
答 |
①743 ②大仏 |
|
聖武天皇がおこなった重要事項は2つとも743年です。できればおぼえておきたい。「7=4+3」。 |
|
|
17 |
桓武天皇は,784年に〔 ① 〕に,794年には平安京に遷都した。また蝦夷の鎮定のため,〔 ② 〕を征夷大将軍に任命し,胆沢城(岩手県)を築かせた。 |
答 |
①長岡京 ②坂上田村麻呂 |
|
蝦夷(えぞ・えみし)は(大和)朝廷に従わなかった東国(東北地方)の人々です。奈良時代,朝廷の勢力は宮城県(多賀城)まで,平安初期は岩手県(胆沢城)までと比較しておぼえておく。【比較】多賀城・胆沢城(いさわ)という拠点名まで問われることはありません。地図問題・正誤問題では現在の県が重要。【位置】 |
|
|
18 |
摂関政治は〔 ① 〕世紀前半の藤原道長・頼通父子のころ全盛を迎えた。一方地方政治は腐敗し,〔 ② 〕の貪欲ぶりが各地の史料にみられる。 |
答 |
①11 ②国司 |
|
藤原氏が権力をもつようになった要因の1つに「外戚」というのがあります。自分の子どもに娘があれば,その子を天皇の后にする。【説明】するとその間に生まれた子どもは皇子(次期天皇)となり,娘を嫁がせた藤原氏は次期天皇の祖父となるわけです。やがてその皇子が天皇として即位すると,藤原氏は親戚関係を利用して摂政関白の地位に就いて,天皇をうまく操るのです。
藤原道長はなんと4人の天皇の外戚となりました。そこで彼が歌った歌が有名ですね。「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることの なしと思えば」そんな心境になるのは当然です。
その一方で,地方の政治も堕落していきました。地方政治の責任者は国司です。その国司の中には強欲で私腹をこやすものも登場し,10世紀にはその暴政ぶりを現地住民から訴えられるものも出た。「尾張国郡司百姓(ひゃくせい)等(ら)解文(げぶみ)」という史料がよく出される。【史料】
尾張国とは,現在の愛知県。そこの郡司や百姓らによって訴え状(解文)が出された。これによって国司:藤原元命(もとなが)は朝廷によって解任されました。 |
|
|
19 |
〔 ① 〕年,〔 ② 〕天皇が譲位して上皇となり院政がはじまると,朝廷と院とが対立し,1156年の〔 ③ 〕に発展した。この争いでは源氏や平氏など武士が重用され,1159年の平治の乱では源義朝と平清盛が争い,勝利した平清盛が政権を握った。 |
答 |
①1086 ②白河 ③保元の乱 |
|
藤原頼通は道長のさまざまな遺産を継ぎますが,自らの遺産を残すことはできませんでした。頼通が天皇の后として嫁がせた娘は,男子(皇子)に恵まれなかったのです。これでは藤原氏と皇族との関係が薄れていきます。そのうち藤原氏と外戚関係のない天皇が即位します。これを機に藤原氏の権力は衰退し,天皇が政権を取り戻そうとします。こうして白河天皇は次の一手をうったのでした。院政です。
白河上皇が院政をはじめた年:1086年は必ずおぼえておきましょう。これをおぼえておくことの利点は,摂関政治の全盛期(藤原道長・頼通父子)が,それよりも前であるということがわかります。つまり11世紀前半。さらにヨーロッパで十字軍(第1回)が派遣された年が1096年ですので,これがもっとも近い世界の出来事として問われる。【時期】
院政というのは,天皇よりも権力をもつ者(上皇)が現れたということです。決して天皇がいなくなったわけではありません。これまで藤原氏が摂政・関白として天皇にかわって政治をおこないましたが,それが今度は上皇というわけです。藤原氏とは違って上皇と天皇にはまちがいなく同じ血が流れていますから,上皇の命に天皇を従わせることは藤原氏以上にたやすいことでした。しかし天皇からすれば,目の上のたんこぶの位置がずれただけのことです。むしろ同じ血が流れているからこそ,感情的にもなり,そのの対立は激しかったのでしょう。
上皇(院)と天皇(朝廷)の対立は,保元の乱となり,皇族だけでなく,貴族,武士,入り混じっての親子・兄弟げんかとなりました。当然,戦(いくさ)ですから,一番活躍したのは武士です。中でも勝者となった天皇側に就いた平清盛・源義朝は,こののち朝廷で重く用いられ,二人のライバル関係は平治の乱へと発展していく。
平治の乱で勝利したのは平清盛率いる平氏でした。「平」治の「平」氏とおぼえておきましょう。平清盛は,最終的に従一位という位にまで昇りつめます。「一位」という地位は太政大臣になれるということです。太政大臣に就いた清盛は,一族の位をできるだけ上げることに努め,貴族を追いやり,一族で朝廷の官職を独占します。そして清盛が次に打った手は,天皇の外戚となることです。藤原氏のやり方ですね。これが見事に成功して「平氏でなければ人でない」とまでいわせました。
一方,平氏でない者からすれば,平氏は「おごる平氏(いやな奴)」です。密かに募らせた平氏への不満は,清盛の死後,ライバル源氏の挙兵となり,まもなく一族は滅ぼされることになります。「盛者必衰の理(ことわり)」です。 |
|
|
20 |
平安末期,東北地方では,〔 ① 〕(岩手県)を中心に〔 ② 〕氏が全盛を迎えた。 |
答 |
①平泉 ②奥州藤原氏 |
|
19のような政権交代劇が繰り広げられているとき,都から遠く離れた東北地方では奥州藤原氏とよばれる一族が勢力の伸ばしていました。都の藤原氏とは別の一族と考えて下さい。また貴族ではなく武士の一族です。平氏が政権を握る中,唯一平氏に対抗できる勢力でありました。のちに平氏を滅ぼす源義経は,青年期,この奥州にかくまわれて,武芸に励みました。
奥州藤原氏については3点,おさえておきましょう。
・平安末期に栄えた一族。【時代区分・時期】
・奥州(東北地方)の平泉(岩手県)を拠点とした。【位置】
・中尊寺金色堂(浄土信仰) |