歴史 第2回 各時代の特色① 発展編

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平安時代まで

1 邪馬台国の位置については,九州説と〔   〕説などがある。
畿内
   邪馬台国の位置について,九州説と畿内(近畿)説の2つの説が有力ですが,どちらも決定的な物的証拠がみつかっていないため論争の決着はついていません。これは『魏志』倭人伝の邪馬台国への道のりを示した記述の読み取り方が2通りあるからです。 
   
2 熊本県の〔 ① 〕古墳と埼玉県の〔 ② 〕古墳でそれぞれ発見された鉄剣にはともに「ワカタケル大王」の銘が刻まれており,5世紀の〔 ③ 〕天皇と考えられるこの大王のときに大和朝廷の支配が九州から関東に及んでいたことがわかる。 
①江田船山  ②稲荷山  ③雄略 
   離れた場所に築かれた5世紀末の古墳から同じ大王の名前が刻まれた太刀が発見された。大王の名前は「ワカタケル」。これは中国で「」とよばれた雄略天皇であることがわかっています。太刀を送られた人物はいずれも雄略天皇に仕えたとされる人物です。【史料】
 このことから大和朝廷が九州から関東地方を支配下に入れた統一国家であったことがわかります。 
   
3 中央豪族に与えられた(かばね)には〔 ① 〕・〔 ② 〕などがあり,代表的な(うじ)である蘇我氏には〔 ③ 〕,物部氏には〔 ④ 〕の姓が与えられ政権の中枢を担った。
①臣(おみ)  ②連(むらじ)  ③大臣(おおおみ)  ④大連(おおむらじ)
   (うじ)は血族集団を表し,(かばね)とは地位や身分の序列職業を表すものです。氏によって身分や職業が割りあてられたので氏姓制度といいます。
 (おみ)は大王の支族が多く,それ故高位に就き,政治に深く関わりました(財政担当とも)。大和(奈良県)の地名を冠する一族が多く,蘇我氏大臣という中でも高い地位に就き,奈良県中部の橿原(かしはら)市あたりに勢力をもっていました。初代天皇とされる神武天皇稜がある周辺です。そのため古代の政治の中心はこのあたり(飛鳥地方=現:明日香村)に置かれることが多かった。
 臣と同等の高い地位にあったのが(むらじ)。物部氏中臣氏が代表的です。やはり政治に深く関係し(軍事担当とも),物部氏は蘇我氏に対抗する大連の地位につきます。
 蘇我氏と物部氏の姓を迷ったら,蘇我氏の方を「おみそ(臣・蘇)」とでもおぼえておきましょう。【比較】
   
4 大和朝廷の地方官のうち,地方の有力者が任命され,のちの郡程度の地域を支配したものを〔   〕という。
国造(くにのみやつこ)
   国造は読み方が難しいね。「くにのみやつこ」と読む。大和朝廷の地方官で,地方の豪族が任命された。ということはのちの郡司ぐらいの地位と考えてよい。
 もう少し小さい規模を治める地方官は県主とよばれ,これも読み方が難しい。「あがたぬし」と読む。 
   
5 527年,筑紫の国造である〔 ① 〕新羅と結び,朝廷に反乱を起した。大和朝廷はこれを抑えて西日本の支配を完成した。一方,朝鮮半島では新羅の勢力が強まり,562年に〔 ② 〕が新羅に滅ぼされた。
①磐井(いわい)  ②加羅
   応用編までは空白となっている6世紀の日本です。発展編ならではの範囲です。
 まず磐井の乱がおこります。九州の豪族であり,大和朝廷下では筑紫(つくし)の国造でした。筑紫は現在の福岡県です。【位置】この磐井という人物が朝鮮の新羅と手を結び,朝鮮半島南部への朝廷軍の進軍を阻むという反乱をおこします。朝廷は物部氏を派遣してこれを鎮圧。これによって大和朝廷の西日本支配が完成しました。【歴史的意義】
 ではなぜ日本が朝鮮南部の加羅地方を拠点として朝鮮進出を進めていこうとしたのでしょうか?理由は大陸の先進技術や鉄資源を獲得するためです。【歴史的意義】
 しかし一方,朝鮮半島では磐井が手を組んだ新羅の勢力が力を増してきています。加羅をめぐっては百済と争奪戦をくり返し,562年に加羅は新羅によって併合されました。
   
6 仏教の受容をめぐって崇仏論争がおこり,崇仏派の〔 ① 〕氏と排仏派の〔 ② 〕氏が対立し,〔 ① 〕氏が勝利した。
①蘇我  ②物部
   6世紀中ごろ,仏教が百済から伝わるとその受容をめぐって豪族同士が対立します。仏教の受け入れを主張したのが大臣の蘇我氏反対したのが大連の物部氏や中臣氏。結局,蘇我氏が勝ったからこそ日本に仏教が根づいた。
 そして日本で最古の本格的な寺院である飛鳥寺蘇我氏によって建てられています。逆に敗れた物部氏は衰退,以後物部氏の名前が出てくることはありません。中臣氏は朝廷の神事を司る連の1つでしたので仏教の受け入れには反対した。このとき蘇我氏に敗れたことがのちの大化の改新につながっていく。
飛鳥寺 蘇我入鹿の首塚(飛鳥寺横)

 ではここで蘇我氏と物部氏の個人名もおぼえておきましょう。蘇我氏は蘇我馬子。蘇我氏はこの馬子のときに全盛となり,ときの天皇(崇峻天皇)の暗殺まで実行しています。そんな中で推古天皇が即位します。聖徳太子は推古天皇の摂政となりますが,馬子は聖徳太子の大叔父にあたります。太子は立場上馬子と協力して政治をおこなわざるを得なかったのが実情でしょう。この蘇我馬子と戦って敗死したのが物部守屋(もりや)です。  
 
7 聖徳太子の死後,〔 ① 〕・〔 ② 〕父子が専制政治をおこない,聖徳太子の子:〔 ③ 〕を滅ぼした。
①蘇我蝦夷(えみし)  ②蘇我入鹿(いるか)  ③山城大兄王(やましろのおおえのおう)
   大化の改新で滅ぼされたのは,蘇我蝦夷・入鹿父子。馬子ではありません。馬子・蝦夷・入鹿の三代,順に頭文字をとって,「う・え・(に)いるか?」「上に居るか? 」とおぼえましょう。
 蘇我氏が滅ぼされた事件自体は「乙巳(いっし)の変」という場合もあります。
   
8 中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子となり,都を飛鳥から〔   〕に移して大化の改新をすすめた。
難波宮(なにわのみや) 
   飛鳥時代は奈良県の飛鳥地方(明日香村)を中心とした時代をいいますが,常に飛鳥に都があったわけではありません。そこで飛鳥以外に宮都が置かれた場所か重要となってきます。【位置】
飛鳥→難波宮→飛鳥→大津宮→飛鳥(浄御原宮)→藤原京
 まず単に飛鳥と書かいていますが,天武天皇の浄御原宮(きよみはらのみや)のように同じ飛鳥でも王宮(政庁)のある場所は違いました。しかし飛鳥地方であるという意味では同じなのでそこまで詳しくおぼえる必要はありません。ただ天武帝の飛鳥浄御原宮だけは問題文の中で登場することはあります。(答えを問われることはまずないでしょう)
 ちなみに「宮」は王宮・政庁を意味し,「京」と表現されるのは,そこには王宮(政庁)だけでなく,都市や人までも含めたものです。「京」の遷都のときには,都市に住む人々までが引越しをした。
 飛鳥以外の宮都は1つおきに現れます。まず難波宮(なにわのみや)は「なにわ」=「大阪」です。蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子らはここで大化の改新を進めました。大化の改新がおこなわれたのは飛鳥ではない。逆にそれまでの天皇は飛鳥と考えてよい。
 難波宮のあと,再び飛鳥に戻ります。これは難波宮に移す前(飛鳥宮)の天皇が再び,天皇の地位に就いたためです。天皇が引退したあと再び天皇の地位に就くことを重祚(ちょうそ)といって,昔はちょくちょくあった。
 その後,大津宮に移したのが天智天皇です。中大兄皇子が天皇として即位したのは白村江の戦い(663)ののちのことです。これらは必須です。【時期】
 大津は近江,近江は現在の滋賀県ですね。天智天皇はここで近江令を出し,庚午年籍を作成させたとされます。そしてその死後,壬申の乱がおこる。勝利したのは天武天皇,天武帝は再び飛鳥に戻るのはわかりますね。ここまで中大兄皇子(天智天皇)に大きく関わるときに飛鳥(奈良)から離れていると考えます。
 次に天武帝の皇后であった持統天皇が即位すると藤原京に遷都。藤原京は奈良盆地南部に位置し,日本初の本格的な条坊制を用いた都でした。条坊制は方形町割りの都市整備です。東西の道を「条」,南北の道を「坊」とよびました(条里制は農地整備)。建設は天武天皇のころからはじまっており,そもそも天武天皇のプロジェクトでした。そこには天皇の権威・権力を内外に示そうとした天武帝の思惑がありました。
 694年から都として使われた藤原京は,その後文武(もんむ)帝・元明帝と三代にわたる都となります。
藤原京跡 平城京跡

   
9 中大兄皇子は〔 ① 〕年の白村江の戦いでの敗戦後,唐・新羅の侵攻に備え,大宰府の防衛のため北方の川をせき止めて〔 ② 〕を設けた。また朝鮮の技術の影響を受けて〔 ③ 〕も築いた。大野城がその1つである。その後,近江国の〔 ④ 〕で天智天皇として即位し,日本で最初の戸籍である〔 ⑤ 〕を作成したとされる。
①663  ②水城(みずき)  ③山城(やまじろ)  ④大津宮(おおつのみや)  ⑤庚午年籍(こうごねんじゃく)
   中大兄皇子の活躍は,大化の改新にはじまり,白村江の戦いまでが,一応皇子としての時期です。その後,大津宮で即位して天智天皇となった。【時期】
 660年,親日国:百済が滅亡します。滅ぼしたのは新羅と組んだ唐です。新羅が滅ぼしたのではありません。唐が滅ぼしますが,領土は新羅に併合されました。当時,百済の太子:豊璋が日本に滞在していました。そして彼を中心に百済復興運動がおこります。朝廷は豊璋を支援し,中大兄皇子は九州に滞在して救援軍を送ります。663年,指揮官に阿倍比羅夫(あべのひらふ)らを送った白村江の戦い唐・新羅連合軍に大敗すると,これ以上の半島情勢の介入には消極的になります。【歴史的意義】
 逆に大陸からの侵略をおそれた中大兄皇子は,本土防衛のため,全長1kmに及ぶ堀と堤を大宰府の北に築きました。堀には水が引かれたことからこれを水城(みずき)といいます。また百済から亡命してきた将軍の指揮のもと,北九州から瀬戸内,そして畿内にいたる各所に山城を築きます。これを朝鮮式山城といいます。水城とともに大宰府北方に築かれた大野城のみ名前をおぼえておきましょう。
大宰府政庁と大野城が築かれた山(福岡県太宰府市)

水城跡(福岡県太宰府市)

 また天智天皇として即位後,庚午年籍という戸籍を作成しますが,これは天智天皇の必須事項。大津宮セットでおさえること。【セット】日本最初の戸籍であったという点と,目的は公地公民の土台づくりと徴兵制のためです。【歴史的意義】
   
10 壬申の乱ののち,〔 ① 〕皇子は飛鳥浄御原(きよみはら)宮で即位して天武天皇となった。 万葉歌人の〔 ② 〕が「大君は 神にしませば・・・」とよみ,天武天皇のころから,「天皇」の称号や天皇を神の化身とする考えが定着したと考えられている。
①大海人(おおあま)  ②柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
   天武天皇は天智天皇の弟です。大海人皇子といいました。「だいかいじん」と読むと気持ち悪いので「おおあま」と読みましょう。天智天皇の子:大友皇子と争った壬申の乱(672)に勝利して天皇として即位します。古代の皇位継承をめぐる最大の事件でした。【歴史的意義】
 三たび飛鳥に都を戻して,皇族を要職につけ,天皇の権威高揚に努めた天皇です。「天皇」という言葉も天武帝のころから使用されたようです。天皇はこの世に遣わされた神の化身=現人神(あらひとがみ)であるという思想もこのころに高まりました。
 『万葉集』の中には「大君は 神にしませば」という二句からはじまる歌がいくつかあります。「天皇は神でいらっしゃるから・・・」という意味です。例えば柿本人麻呂は「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも(天雲の雷の上にお住まいになっている)」(巻三)と詠んでいます。ちなみに柿本人麻呂は奈良時代ではなく,飛鳥時代(白鳳文化)のころの人物です。
 またこれまでの姓を再編し,「八色(やくさ)の姓」というのを制定しています。これは難しいですね。出ても選択肢問題。
 もう1つ,富本銭が鋳造されたのも天武帝の時代であったと考えられています。【時期】
   
11 701年,〔 ① 〕天皇のとき,刑部親王(おさかべしんのう)や〔 ② 〕らの手で大宝律令が編纂された。
①文武(もんむ)  ②藤原不比等(ふひと)
   天武天皇の死後,皇后であった持統天皇が即位します。この天皇は藤原京遷都ぐらいでよいでしょう。
 次は持統天皇(と天武天皇)の孫にあたる文武(もんむ)天皇です。この天皇のとき,大宝律令が制定されています。制定に携わった人物の中には藤原鎌足(中臣鎌足)の子:不比等(ふひと)がいます。 
   
12 律令制の行政区分は全国を〔 ① 〕〔 ② 〕にわけ,そのもとに国・郡・里がおかれた。 
①五畿  ②七道 
   律令制下では全国は五畿七道に大きく区分されました。国郡里の国が現在の都道府県にあたるなら,これは今でいう「地方」を意味します。
 「五畿」とは畿内=近畿地方のこと。畿内は五つの国で成り立っているので「五畿」。五つの国とは,大和・山城(山背)・河内・摂津・和泉(いずみ)です。大和は奈良県,山城は京都府南部,大阪湾の北部・南部がそれぞれ摂津と和泉,これら4つの国に囲まれた中央部が河内です。
 「七道」の「道」は道の意味ではなく,「地方」という意味です。今でも北海道の「道」にその名残がみられますし,(韓国では地方を表す言葉としてすべての地方で用いられています)他には山陽道・山陰道・東海道・北陸道という地域名も現在でも使用されています。ですからこの4つはおよその位置が理解できます。他には東海道に対して西海道があり,九州地方を指しています。中部地方の内陸部から関東北部・東北地方東山道といいます。注意しておきたいのはもう1つの南海道です。残っている地方を考えると四国があてはまりそうですが,それだけではない。四国に淡路島と和歌山県を加えた地方を南海道といいました。
 そして七道もそれぞれいくつかの国にわけられています。
   
13 平城京の中央北端にあり都の中核的区域を〔 ① 〕といい,都の中央を南北に通じる大通りは〔 ② 〕とよばれた。大通りの東側は〔 ③ 〕,西側は〔 ④ 〕とよばれ,それぞれ官設の〔 ⑤ 〕が設けられた。
①大内裏(だいだいり)  ②朱雀大路(すざくおおじ)  ③左京  ④右京  ⑤市
   平城京に遷都した天皇は元明天皇。この天皇は女帝で,文武天皇のお母さんにあたります。都は南北の通りを坊,東西の通りを条といい,碁盤の目のように通りが直角に交わっています。このような都市計画を条坊制といい,日本は唐の長安からこれを学びました。北から南に向かってみるのがポイントです。

 まず北中央に位置するのが大内裏(だいだいり)。天皇が居住し,政治・儀式が執り行われる場所です。大内裏から南に向かって伸びる中央道路が朱雀大路(すざくおおじ)です。朱雀とは南を守護する神獣の名前です。朱雀大路を境に大内裏から南に向かって右側が右京,左側が左京です。北が上になっている地図をみると左右が逆転しているので注意します。また右京には西市,左京には東市がそれぞれ八条通りに設置され,これらは官設でした。
 平城京には平安京にない外京(げきょう)という部分があります。それゆえ左右対称になっていません。そこにはには藤原不比等の邸宅があったから増設されたのだともいわれています。その証拠に藤原氏の氏寺である興福寺はこの外京内にあります。そこで注意事項。東大寺は平城京内部にはありません。外京のさらに東側に位置しています。
   
14 大化の改新のころ,朝廷は蝦夷に対する最前線として現在の〔 ① 〕県に渟足柵(ぬたりのさく)を築いた。奈良時代になると太平洋側では多賀城,日本海側では〔 ② 〕城などを拠点とし,平安時代には坂上田村麻呂が蝦夷の〔 ③ 〕を降伏させ,〔 ④ 〕県に〔 ⑤ 〕を築いて朝廷の権威を拡大した。
①新潟  ②秋田  ③阿弖流為(アテルイ)  ④岩手  ⑤胆沢城(いさわじょう)
   古墳時代,大和朝廷は関東地方まで支配圏を拡大しました。そして飛鳥時代からは東北へ進出します。まずは大化の改新のころ日本海側からはじまります。渟足柵(ぬたりのさく)磐舟柵(いわふねのさく)が築かれます。これらの拠点となった柵の名前を問われることはないでしょう。この時期,新潟県まで進んだとだけおさえておきましょう。【位置】さらにそのちの阿倍比羅夫という人物が水軍を率いて北上し,北海道まで遠征しています。阿倍比羅夫の水軍は白村江の戦いにも参加していて,稀にこの人物の名前が出てきます。
 そして奈良時代には秋田城が築かれ,日本海側は秋田県まで進みます。太平洋側は応用編で済ませていますので,発展編では日本海側をおさえておくように。【位置】
   
15 聖武天皇〔 ① 〕(729)や疫病による藤原四兄弟の死など,政治的不安の中で740年,都を〔 ② 〕(京都)へ,さらに〔 ③ 〕(滋賀県)に移し,ここで社会不安を鎮めるために〔 ④ 〕年に大仏造立の詔を出した。(開眼式は死後の752年)その後,難波宮を経て,745年に平城京に戻った。
①長屋王の変  ②恭仁京(くにきょう)  ③紫香楽宮(しがらきのみや)  ④743
   元明・元正と女帝が続きます。このころ藤原不比等がなくなると政治の実権は長屋王とよばれる人物に移りました。「王」とあるからには皇族です。おこなった政策には三世一身の法があります。
 この長屋王,藤原不比等の子の四兄弟の陰謀によって自殺に追い込まれます。これを長屋王の変といいます。同じく不比等の娘:光明子を聖武天皇の后にするなど藤原氏は,長屋王亡きあとの政権を握ろうとしましたが,まもなく天然痘という病気で4兄弟とも死んでしまいます。天然痘という病気はウィルスによって発生する病気で,致死率が50%ぐらいですから凶悪な病気です。これが流行すると文明や国が滅ぶといわれています。
 このような政変と疫病の流行が聖武天皇を仏教に駆り立てた。仏教の力で国の社会不安を鎮めようとしたのです。まずは都を移すことで人心の一新を図りました。都を移す?奈良時代はずっと平城京じゃなかったの?そうなんです違うんです。聖武天皇は遷都マニアです。合計4回の遷都を実行しているんです。最後に平城京に戻ったので,あまり注目はされないんですが。
聖武天皇の遷都【位置】
平城京→恭仁京(京都)→紫香楽宮(滋賀)→難波宮(大阪)→平城京
 それぞれ現在の府県をおさえましょう。聖武天皇は恭仁京で国分寺建立の詔・墾田永年私財法を出します。そして近江の紫香楽宮で大仏建立の詔を出します。おぼえておくべき年代は墾田永年私財法と大仏建立の詔の743年だけで結構です。(正確にいうと紫香楽宮には役人だけ連れていったので遷都ではないとされます。)
 最後に難波宮を経て,平城京に還都します。ただし東大寺の大仏が完成し,開眼式がおこなわれたのは,聖武天皇死後の752年です。【時期】
   
16 聖武天皇の死後,僧が政治に深く介入し朝廷を乱した。〔 ① 〕は称徳天皇の信任を得て法王となり,皇位を望んだが失敗する。桓武天皇は仏教勢力を排除し,律令制を立て直すため,〔 ② 〕年,都を〔 ③ 〕に移し,10年後に平安京に遷都した。 
①道鏡  ②784  ③長岡京 
   聖武天皇以降,仏教が大切に扱われると僧が政治に介入するようになりました。中でも道鏡という人物は天皇(このときも女帝)に近づきその寵愛を受け,法王という宗教上の最高位につきました。挙句の果てには皇位すら狙おうとしたのですが,この計略は未然に防がれました。
 その後,仏教勢力の政治からの切りはなしと律令制の再建が急がれ,桓武天皇の遷都にいたるわけです。 桓武天皇は遷都にあたって,都内での寺院(私寺)の建立は禁止しました。平安京のころには都に寺はなかったのです。(官寺はありました)

 平安京は平城京と基本的なつくり・名称は同じです。平城京より少し広かったこと。外京がなく左右対称であること。東側には鴨川が流れていたこと。私寺の建立が禁じられたことなどをおさえておきましょう。
   
17 桓武天皇は律令政治刷新の一環として,国司監督強化のため〔 ① 〕を,郡司の子弟を兵士として採用する〔 ② 〕の制を設置した。つづく嵯峨天皇のころには機密保持のための〔 ③ 〕や都の治安維持にあたる〔 ④ 〕を設置するなど,令に定められていない〔 ⑤ 〕を新設した。 
①勘解由使(かげゆし)  ②健児(こんでい)  ③蔵人(くろうど)  ④検非違使(けびいし)  ⑤令外官(りょうげのかん) 
   桓武天皇以降,平安初期の天皇は律令政治の刷新をめざしました。そのためにこれまで令(行政法)になかった新しい官職を設けます。これらをまとめて令外(りょうげ)の官といいます。重要なものとして征夷大将軍勘解由使蔵人検非違使,そして関白もそうです。
 征夷大将軍は,奈良時代から太平洋側を北上して蝦夷を征伐する武官をいいました。これが正式に桓武天皇によって朝廷軍の最高司令官という現場の最高責任者となりました。
 勘解由使国司の監査役です。国司が交代・引継ぎをおこなう際,前任者の仕事内容を後任者が証明する解由(げゆ)状というのを書きます。前任者はこの解由状をもって都に帰還するわけですが,それをチェックするのが勘解由使です。
 蔵人は天皇の機密文書をあつかうところで,その長官を蔵人頭(くろうどのとう)といいます。嵯峨天皇の前の天皇(平城天皇)が藤原薬子(くすこ 女性)と組んで平城京還都を計画し,復位をねらおうとしました。嵯峨天皇側はこの計画を事前に察知し,兵を出して勝利します。これを薬子の変といいますが,このとき天皇の機密がもれないように設置された官職です。
 検非違使の「非違」は,「あってはならないこと」の意味。これを検査するというわけで,都の治安維持つまり警察の役割を担いました。
 関白も令外の官です。「関(あずか)り,白(もう)す」の意味。摂政も聖徳太子のころからありましたが,律令には規定はありませんでした。藤原氏が権力を握ってから摂政とともに関白も設置され,正式に令外の官となります。
 桓武天皇は平安京遷都の少し前,軍制の改革もおこなっています。郡司の子弟の中から,武芸に優れたものを有志的に募って兵士とします。これを健児の制といいます。これまで兵役は農民の負担(イヤイヤ)でしたが,これからはやる気のある奴が兵隊となるのです。 
   
18 律令の条文の補足・修正のための法令を〔 ① 〕,律・令・〔 ① 〕の施行細則を定めたものを〔 ② 〕という。 
①格(きゃく)  ②式 
   律令は根本法典であるため,内容の改正・廃止はおこなわれませんでした。そのかわりによって補足・修正をおこない,施行細則によって規定されました。あわせて律令格式といいます。格式が頻繁に編纂されたのは9世紀になってからのことでした。ちなみに墾田永年私財法なんかも格です。律令の中で公地公民が原則であるにも関わらずです。 
   
19 9世紀,〔 ① 〕は清和天皇の〔 ② 〕となって権力を握り,〔 ③ 〕を処理して有力な他氏を排斥し,皇族以外ではじめての〔 ④ 〕となった。またその子(養子)の〔 ④ 〕は最初の関白となった。 
①藤原良房(よしふさ)  ②外戚  ③応天門の変  ④摂政  ⑤藤原基経 
   藤原氏の政権掌握の背景には次ののようなことがあげられます。【歴史的意義】
・外戚
・他氏排斥
・荘園の集中

 外戚とは娘を天皇の后にすることで,次期天皇に対する発言力を強めることでした。他氏排斥とは他の有力な一族を計略・陰謀などによって排除することです。藤原氏の他氏排斥は,奈良時代の長屋王の変からはじまりました。
 さてここに源信(みなもとのまこと)という人物と伴善男(とものよしお)という人物がいます。いずれも朝廷の要職に就いていた名門貴族です。伴氏はかつての大伴氏です。2人はライバル同士でした。ある日,朝堂院という朝廷の重要な官庁の正門:応天門が放火にあいました。応天門はもともと大伴門といい,ここの警護は大伴氏つまり伴氏の役割でした。伴善男は,放火犯をライバルの源信だと訴えます。
 そこへ藤原良房が源信を弁護して,逆に真犯人は源信を陥れようとした伴善男だとして一族もろとも流刑に処した。その後,源信も急死したため,朝廷では藤原良房の一人勝ち状態になりました。応天門の変とい事件です。
 この事件後,良房は清和天皇の摂政となって実権を握ります。皇族以外ではじめての摂政でした。続いてその子:基経が最初の関白となり,藤原氏全盛の基礎を築きます。【歴史的意義】
   
20 901年,左大臣:藤原時平は策謀を用いて右大臣:〔 ① 〕を大宰府に左遷した。 また969年には左大臣:源高明(たかあきら)を藤原氏が左遷させた。これを〔 ② 〕といい,こののち藤原氏は全盛期を迎える。
①菅原道真  ②安和(あんな)の変 
   続いて10世紀の他氏排斥です。ここで有名な菅原道真が登場します。菅原道真は遣唐使の廃止を建議(意見)した人物ですね。894年です。唐は907年に滅びますから,瀕死の状態です。唐の国力が減退したこと。その唐から学ぶべき制度や文化がなくなるほど日本が発達したこと。何より航海が危険であったこと。
 羅針盤がない当時の航海は,中国のどこの港めざしてではなく,「とりあえず行ってこい!」でした。無事海を渡って着いたところから考えるのです。「上陸できる港はどこかな?」そんなことですから,帰りもよく似たものです。海を渡ってから先のことは考える。
 その菅原道真,藤原基経以後,有力な藤原の一族がいないところで右大臣にまで昇りつめます。もう上には左大臣と太政大臣しかありません。その左大臣に藤原時平がつくと,時平によって無実の罪をかぶせられ大宰府に左遷されることになりました。
 道真は自分の屋敷の梅の木に次の歌を詠んだとされます。「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」(「な~そ」で禁止 春を忘れるな)道真が去ったあと,この梅は遠く大宰府の地まで飛んでゆき,その地に根付いたといわれます。天神様の飛梅伝説です。天神様というのは菅原道真が死後,神格化された呼び名で,学問の神様とされます。各地にある天満宮というのが天神:菅原道真を祭る神社です。
 これと同様の事件が安和(あんな)の変で,左大臣であった源高明が藤原氏の陰謀によって大宰府に左遷されています。 
   
21 藤原氏と外戚関係のない〔 ① 〕天皇が即位すると,天皇は1063年に延久の〔 ② 〕令を出して記録荘園券契所を設置した。藤原頼通はこれに抵抗したが,彼の死後藤原氏は急速に衰えた。  
①後三条  ②荘園整理 
   11世紀,藤原氏の全盛を築いたのが藤原道長でした。4人の娘(紫式部はこのうちの1人の家庭教師だった)を天皇の后として嫁がせ,3人の天皇と外戚関係を結びました。当時,道長が書いた日記は『御堂関白記』です。当時の宮廷生活を知る一級史料として国宝や世界記憶遺産にも指定されています。ただし道長は関白にはなっていないので注意しましょう。実質,関白のような地位にありましたが,正式に就いたのは摂政です。
 また有名な望月の歌は『御堂関白記』にはありません。『小右記』という藤原実資(さねすけ)という人物が書いた当時の記録です。
 とっころが道長の子:頼通の娘は次期天皇となる男の子を生めなかった。つまり外戚関係を結ぶことができなかった。頼通は父:道長が摂政であったころの天皇の関白となりその権力は維持しますが,関係が崩れたあと,即位した後三条天皇とは疎遠な関係にあった。これはチャンスと後三条天皇は藤原氏の力を削ぎにかかります。荘園整理令です。
 当時の日本の経済的基盤は荘園にありました。荘園には不輸・不入の権があります。不輸の権で荘園が免税の特権を行使すると自動的に国家財政か逼迫します。荘園の中には違法に不輸の権を獲得したり,免税の上限を超えた範囲の荘園を所有したりするこものもいました。これらの違法な荘園を検査して朝廷が許可した荘園とそうでない荘園にわけて,そうでない荘園は停止処分にします。またそのための役所(記録荘園券契所)も立ち上げました。
 当時の荘園の多くはたどっていくと藤原氏や大寺院にいきつくため,藤原氏の経済基盤が失われていくことになったのです。頼通のあと,転げ落ちるのは早いものです。
   
22  〔 ① 〕年,白河天皇が堀河天皇に譲位して上皇となり,院政を開始した。このころ南都の〔 ② 〕寺や北嶺の〔 ③ 〕寺の僧兵がしばしば朝廷に強訴をおこなったため,上皇は院の警備のため〔 ④ 〕を設置した。
①1086  ②興福  ③延暦  ④北面の武士 
 これまで藤原氏に寄進していた開発領主や領家《第7回 テーマ史②》は今度は院に寄進するようになります。民衆は身代わりが早いものです。強い方につく。こうしてこれまで藤原氏に集中していた荘園は,院に集中していくことになり,院が絶大な権力をもつことになった。
 多くの荘園をもっていたのは,藤原氏やのちの院だけではありません。大寺院もそうです。朝廷や院が荘園整理を進めるとこれに寺院は猛反発します。猛反発できたのは,彼らが何といっても宗教的な権威をもっていたから。「神仏に逆らうのか! バチがあたるぞ!」というわけ。そしてもう1つ貴族になかったのが,軍事力です。僧兵の存在です。大寺院や寺社はこの2つを組み合わせて,朝廷や院に対して強行にでます。これを強訴(ごうそ)といいます。有名なのが,南都(奈良)の興福寺,そして北嶺(ほくれい)よばれた延暦寺の僧兵です。これらの寺は近くの神社とダッグを組み,神社の御神体をかつぎだして「おりゃー」とかかってくるのです。迷信深い当時のことですから,ここまでされると朝廷や院はタジタジです。
 困った白河上皇は僧兵を「天下三大不如意」として鴨川の水・双六のサイとともにあげました。しかしピンとひらめいた。「毒をもって毒を制す」。僧兵退治に武士を利用したのです。白河上皇が院の警備にあたらせた武士を北面の武士といいます。延暦寺の僧兵は北から攻めてくるからです。この北面の武士として頭角を現したのが平氏でした。
   
23 〔 ① 〕年,崇徳上皇後白河天皇の対立に藤原氏や源氏・平氏の内部対立がからみ保元の乱がおこった。 〔 ② 〕年には源氏の棟梁:〔 ③ 〕と平氏の棟梁:平清盛の対立から平治の乱がおこった。これに勝利した平清盛は皇族と外戚関係を結び太政大臣になるなど,その一族が高位高官を独占した。  
①1156  ②1159  ③源義朝 
   藤原氏に続いて院が登場したことで,今度は朝廷(天皇)と院(上皇)の対立が激しくなります。そもそも院と上皇の関係は肉親同士の関係ですから,それだけ感情的になっていったのでしょう。
 保元の乱は皇室内部の対立に,まだいたの?といいたくなるような藤原氏の内部対立がからみ,そこへ実戦部隊として活躍する源氏・平氏の武士が入り乱れておこりました。すべて血のつながりがある者同士の骨肉の争いです。
 おぼえておくべき人は対立した皇室と勝利した天皇側についた源氏・平氏の棟梁だけで結構です。こののち,源平のライバル対決である平治の乱がおこり,平氏政権が誕生する。平清盛は藤原氏と同様,外戚という立場を利用し実権を握っていきます。武士として最初の太政大臣にまで昇りつめますが,藤原氏と違って経済的基盤としたのが,との貿易でした。 

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