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鎌倉幕府では〔 ① 〕(御家人の統率),〔 ② 〕(政治一般),〔 ③ 〕(裁判)が置かれ,源頼朝の妻:〔 ④ 〕の一族が執権の職に就き,これらを統率した。 |
答 |
①侍所 ②政所 ③問注所 ④北条政子 |
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文字通りだいたいの意味をとらえれば問題はありません。鎌倉幕府の組織図はもっともよく出る組織図ですが,あとの室町幕府の組織図と比べて下図の赤い部分に注目しましょう。【比較】
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〔 ① 〕年,後鳥羽上皇が承久の乱をおこすと,北条政子は〔 ② 〕に一丸となって戦うことを訴えた。これに勝利した幕府の権力は西日本にまで拡大した。 |
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①1221 ②御家人 |
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中世,貴族や武家の女性には夫と死別すると,長い髪を切り落として短くし,仏門に入り,尼(女性の僧侶)となる風習がありました。源頼朝の死後,子の頼家・実朝(さねとも)が順に将軍職を継ぎますが,いずれも暗殺によって亡くなります。頼朝の妻:北条政子は源氏将軍がいなくなったあとも自ら先頭に立って,幕府を守ろうと幕府の御家人をまとめます。そこで政子は「尼将軍」ともよばれました。
承久の乱の際の御家人に対する演説も見事なもので,よく史料問題で出題されます。【史料】承久の乱がおこった年は「1221」年,「12」ときて「21」となる。数字が線対称となっている。比較的おぼえやすい年です。【時期】 |
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〔 ① 〕年,〔 ② 〕は頼朝以来の先例と武家社会の慣習をもとに,最初の武家法である御成敗式目を制定した。 |
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①1232 ②北条泰時
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御成敗式目の年代:「1232」。今度は「123」ときて「2」と戻る。これも比較的おぼえやすいと思います。御成敗式目は最初の武家法として重要です。以後制定される武家法はすべてこの御成敗式目を手本につくられています。【歴史的意義】 |
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〔 ① 〕年,元・〔 ② 〕連合軍が博多湾に上陸した。これを〔 ③ 〕という。このあと幕府は博多湾岸に〔 ④ 〕を築き,元軍の再襲来に備えた。〔 ⑤ 〕年に再び襲来した元は暴風雨にはばまれて退却した。これを〔 ⑥ 〕という。 |
答 |
①1274 ②高麗 ③文永の役 ④石塁 ⑤1281 ⑥弘安の役 |
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元寇とは「元の侵攻」を意味します。元はモンゴル民族が中国で開いた王朝ですから,「蒙古(モンゴル)襲来」といういい方もします。のちの倭寇もそうですが,「寇」とは外から侵入して害をなすもの(賊)を意味します。この字は受験生がまちがう漢字のトップ5には入るでしょう。「げんこう」と声に出して最後の「う」にアクセントを置きながら,練習しましょう。「ウかんむり」です。
ここで注意したいのは,実際に襲来したのは元と高麗の連合軍であったということ。高麗は元に服属した当時の朝鮮の王朝です。「元・高麗」がセットであることは正誤問題を解く上で非常に重要です。【セット・落とし穴】また天智天皇が朝鮮に出兵した白村江(はくすきのえ)の戦いでは,日本は唐・新羅連合軍と戦っている。これと比較しておぼえておきましょう。【比較】これらの組み合わせが正誤問題で問われるのです。
さて元寇は二度ありました。文永の役・弘安の役です。一連の戦いのうち,その一部の戦いを示すとき,「役(えき)」という語を使うことがあります。「文永」・「弘安」は当然,当時の年号です。そしてその年は非常におぼえにくいですね。強引におぼえるしかありませんが,気休めに少しだけコツをいうと2つとも「7」の倍数です。7で割り切れるということと,文永の役に7を足すと弘安の役の年になる。二度の襲来はいずれも偶然の暴風雨によって退けられました。「ラッキー7」です。この「7」を頭に入れておきましょう。
次に日本を苦しめた元軍の戦い方です。まず「てつはう」という火薬兵器を使用したこと。火薬は中国の宋の時代の発明品です。これを実践で武器として用いた。「てつはう」は「鉄砲」の語源ともいいます。さらに集団戦法です。
当時の日本の戦ではまず大将や勇敢なものが名乗りを上げて一騎打ちを申し出ます。自分の名前・出自,これまでの戦績を大声で名乗るのです。これは味方の士気を上げる効果のほかに,のちに恩賞を受ける際,周囲のものを証人とするためです。名乗り終わる前に攻撃するのは卑怯だとされていました。しかし文化の異なる元軍にはそんなことは通用しません。日本の武者が名乗りを上げている間に,大人数で取り囲まれ,やられてしまう。
※集団戦法
これまで日本は,元軍(モンゴル軍)の集団戦法に苦戦したと考えられていましたが,最近の研究では,日本側も集団戦法を用いており,元軍に対して善戦していたことが分かってきました。史料で用いられる「蒙古襲来絵詞」は主人公:竹崎季長が単騎,勇敢に三人の元軍兵士に立ち向かうシーンが切り取って紹介されますが,この三人の兵は後に書き加えられたものではないかとされます。もともと描かれていた元軍兵士はこのシーンのさらに左側に残っており,その姿は矢を射られて逃げ惑っています。さらに別の個所では,日本の複数の騎馬武者が集団で弓を射る場面も描かれています。
もう1つ。弘安の役の特徴としておさえておきたいのは,日本側が二度目の襲来に備えて築いた「石塁」です。「石築地(いしついじ)」ともいいます。これを防塁としたのは弘安の役です。文永の役ではない。【比較】
博多湾各地に残る元寇防塁 |
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足利尊氏は,後醍醐天皇を京都から追放したあと,〔 ① 〕年に京都の天皇から征夷大将軍に任ぜられ幕府を開いた。室町幕府では将軍の下に〔 ② 〕が置かれた。また鎌倉を監視し,関東を統轄するため〔 ③ 〕が設置された。 |
答 |
①1338 ②管領 ③鎌倉府 |
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鎌倉幕府では将軍の補佐役は「執権」でした。室町幕府では「管領」です。読みに注意。「かんれい」と読みます。「総管頭領」というのがそもそもの名称。「管」は「まとめる」という意味があります。「みんなをまとめるリーダー」というわけです。
江戸時代では,これにあたるのが「老中」。執権と老中は歴史の勉強をしているとよく出てくるのですが,管領はほとんどここぐらいでしか出てこない。よって出題されたときに,最も正解を出せない語句の1つです。それだけに確実に合わせたい。【落とし穴】
また鎌倉幕府は鎌倉(神奈川)に幕府があったので,朝廷のある京都の監視が必要だった。そのため六波羅探題というのを設置した。室町幕府では,幕府は京都にあったため,武家政権発祥の地である鎌倉とその周囲は要注意でした。そのため鎌倉に設置したのが鎌倉府。同様に,江戸幕府では幕府は江戸(東京)にあったのですから,京都の監視が重要で,京都所司代というのを設置しています。
3つの幕府をそれぞれ比較しておさえておきましょう。【比較】
また鎌倉幕府と比較したとき,守護と地頭の関係が重要です。鎌倉幕府では守護と地頭は同等の地位にあった。一方,室町幕府では守護の下に地頭が置かれている。このように地頭を配下に治めた守護が領主化して守護大名とよばれるようになったのが室町時代の特色。 |
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3代将軍:足利義満は京都の室町に〔 ① 〕を造営し,〔 ② 〕年には南北朝の合一を実現した。さらに〔 ③ 〕に就任し,全国の有力な守護大名を討伐し,幕府の全盛時代を築いた。 |
答 |
①花の御所 ②1392 ③太政大臣 |
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室町幕府の「室町」とは当然京都の地名ですが,尊氏が居を構えたのは別の場所です。3代目の義満が室町という場所に「花の御所」とよばれる邸宅を建てたことから,のちにこの幕府を室町幕府とよぶようになりました。
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花の御所跡(京都市大聖寺) |
南北朝を統一した年である1392は義満の時期を特定するのに重要な年代です。また同じ年,朝鮮半島では高麗が滅び,朝鮮国が成立しています。【時期】
足利義満は太政大臣になったことで武家の最高職(征夷大将軍)だけでなく,朝廷の最高職にまで昇りつめました。さらに仏教界でも最高の地位をめざし,それに近いところまでいきます。こうして3つの世界で最高の地位に就いたことを表したのが,金閣です。金閣は三階建てになっていて,各階は寝殿造・武家造・禅宗様式になっているのです。 |
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応仁の乱ののち,下位の者が上位のものを実力で倒すという〔 〕の風潮が強くなった。 |
答 |
下剋上 |
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有力な戦国大名には,甲斐(山梨)の〔 ① 〕氏,越後(新潟)の〔 ② 〕氏,駿河(静岡)の〔 ③ 〕氏,薩摩(鹿児島)の〔 ④ 〕氏,中国地方の〔 ⑤ 〕氏などがあり,これらは家臣を城下町に集め,〔 ⑥ 〕を制定して富国強兵に励んだ。 |
答 |
①武田 ②上杉 ③今川 ④島津 ⑤毛利 ⑥分国法 |
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甲斐・越後・駿河・薩摩あたりは現在の何県にあたるかをおさえておきましょう。戦国大名は個人名ではなく,一族の名前でかまいません。
各大名は自らが拠点とする場所に立派な城を建てました。戦国期には防衛面から山の上につくられた城が多かった。そして家臣からは御館様(おやかたさま)とよばれます。城(館)のある山の麓に城下町が形成されました。城下の「下」はそこからきています。
家臣には城下町に屋敷を構えさせました。家臣たちはそれぞれの領地があり,そこと主の城下町を行ったり来たりするわけですが,彼らの妻子(家族)は常に城下町に住まわせたのです。つまり人質です。こうして反逆・裏切り行為を防いだのです。(江戸時代の参勤交代の原型)またいざ(戦)というときにも早く行動をおこせます。
家臣同士での手紙のやりとりや婚姻も勝手にはできず,「御館様」の許可が必要でした。また家臣同士のけんかは両成敗(喧嘩両成敗)としました。下剋上の世の中では,家臣らの接近も分裂も戦国大名にとっては命取りだったのです。
とこういったことが分国法にまとめられたのです。分国法はいくつか有名なものが【史料】として出されます。 |
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1560年,織田信長は京都にのぼろうとした〔 ① 〕を〔 ② 〕(愛知県)で破ったことをきっかけに,近畿・東海地方を制圧した。1573年には15代将軍:〔 ③ 〕を京都から追放し,室町幕府を滅ぼした。 |
答 |
①今川義元 ②桶狭間 ③足利義昭 |
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桶狭間の戦い・長篠の戦いはいずれも愛知県です。【位置】室町幕府を滅ぼしたのは織田信長であったことも盲点の1つ。【落とし穴】 |
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織田信長は仏教勢力と対立し,比叡山延暦寺を焼き打ち,一向宗の拠点であった〔 〕(大阪府)を屈服させた。 |
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石山本願寺 |
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織田信長の宗教政策は,キリスト教の保護・仏教の弾圧です。キリスト教を保護した理由は,当然信仰心からではありません。西洋の知識,そして何より貿易によってもたらされる利益が目的です。
織田信長には実は師匠がおりました。美濃(岐阜)を治めた戦国大名:斎藤道三です。信長は斎藤道三の娘を正室に迎えています。この人物は一介の油商人から一国の大名にのしあがった下剋上の典型でした。彼は商売を志すも,座という特権的組織があったため,自由に商売ができませんでした。商売を通して当時の古い閉鎖的な体制を実感した斎藤道三は,その才覚をいかして美濃国をのっとります。そして単に国盗りをしただけでなく,古い体質を徹底的に破壊しようとした。座を廃止する楽市・楽座も信長は斎藤道三から学びます。
その道三もやがて下剋上にあうわけですが,娘婿であった織田信長がこの美濃を最終的に支配しました。尾張・美濃(信長が岐阜と名づけた)を治めた信長は,これで本格的に天下統一をめざします。隣の近江(滋賀)を過ぎれば,そこには幕府のある京都が目の前に迫っていました。信長の頭の中にあった天下統一とは,国を武力で制覇することだけではなく,中世という時代そのものをひっくり返して新しい時代をつくることだったのです。そのために利用できるものは利用する。南蛮人や南蛮貿易もその1つでした。
信長がひっくりかえさなくてはならないと考えていた古い体質の1つが仏教でした。当時,信長をはじめ多くの戦国大名が頭を抱えていたのが,一向一揆です。一向宗は浄土真宗,浄土真宗は阿弥陀如来を絶対とする信仰です。領主の命に従わないばかりか,死をも恐れず立ち向かってくる。これを抑えない限り,天下安定は望めない。しかしこれがなかなか抑えるのが難しかった。そしてこの浄土真宗など仏教界全体を統率するのが比叡山(延暦寺)だったのです。
信長は,北に上杉,東に武田,西に毛利を敵にすると同時に,比叡山,そして一向宗の総本山:石山本願寺を攻撃する多方面作戦に出ます。このうち石山本願寺を屈服させるのに11年も擁しています。いかに一向宗が強敵であったか,またこの寺の防御力が硬かったかがわかります。
石山本願寺なきあと,この地の防御力・交通の便に目をつけたのが豊臣秀吉でした。そう大阪城は石山本願寺の跡地に築かれたのです。 |
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1582年,織田信長が本能寺の変で〔 ① 〕に殺されると,豊臣秀吉がその後継者となり,〔 ② 〕・太政大臣まで昇りつめ,〔 ③ 〕年に関東地方の〔 ④ 〕氏を滅ぼして全国統一を完成した。 |
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①明智光秀 ②関白 ③1590 ④北条 |
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1582年は織田信長と豊臣秀吉の分岐点です。これもおぼえておきたい。【時期】秀吉は関白になったことで,全国に天皇の意思(=秀吉の意思)を号令することができます。その意思とは戦闘の停止です。戦わずして勝つ。そのかわり大名には秀吉によって領地が保障される。もちろん場所も広さも大名の望みどおりとは限りませんが。
こうして各地の戦国大名が秀吉に従いましたが,最後まで抵抗したのが,関東地方を治める北条氏でした。ここでの北条氏は鎌倉時代の北条氏とは異なり,関係がありません。この北条氏が降伏したのが1590年。この年が,1467年の応仁の乱から続いた戦国の世が終わった年です。時代の基準年となりますから,おさえておきたい。【時期】 |