歴史 第3回 各時代の特色② 発展編

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鎌倉時代~安土桃山時代

1 1180年,後白河法皇の子:以仁王(もちひとおう)は平氏打倒をよびかけ,〔   〕に流されていた源頼朝ら源氏が相次いで挙兵した。
伊豆
   平家討伐の中心人物は,もちろん源頼朝。父は平治の乱で敗れた源義朝です。平治の乱後,頼朝はどこへ流されたか?伊豆(静岡県)です。したがって兵を挙げたのも伊豆です。 流刑中,監視役を務めたのが北条氏(時政)です。このときに政子とも結婚しました。北条氏は平家の傍流です。
 もう1人名前が出てくることもあります。木曽で兵を挙げた源義仲。通称:木曽義仲ともいいます。頼朝とは従兄弟の関係にあります。伊豆と木曽,位置からして木曽義仲が前半戦で活躍します。倶利伽羅峠の戦いで,平家にダメージを与えると義仲は入京します。これに押し出されるようにして,平氏は自ら都と称した,摂津国福原(兵庫)に落ちます。
 京都に入ったところで義仲と頼朝が仲違い。頼朝は義経を送って,義仲を京都から追い出します。ここから平氏追討は義経がおこなうことになりました。
   
2 源義経は〔 ① 〕(兵庫県),〔 ② 〕(香川県)と平氏を追いつめ,1185年,壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。その後,兄の源頼朝は義経追討を理由に全国に守護・地頭の設置を朝廷に認めさせ,武士による全国支配を確立した。1189年,義経は奥州藤原氏第四代:〔 ③ 〕によって衣川(ころもがわ)の戦いで滅ぼされ,泰衡は頼朝によって滅ぼされた。
①一ノ谷  ②屋島  ③藤原泰衡
   まずは平氏滅亡までの流れ,すべて位置(現在の県)を把握しておきましょう。【位置】最初の一の谷は平氏が拠点とした福原の防衛ラインの1つです。
一ノ谷(兵庫)→屋島(香川)→壇ノ浦(山口)
 1180年の以仁王の令旨(命令)から壇ノ浦の戦いまでの源平の戦いを治承・寿永の乱ともいいますが,これはかなり難易度が高い。
 次に壇ノ浦の戦い(1185)から頼朝が征夷大将軍就任(1192年)までの流れです。これは発展編ならではの問題です。
 壇ノ浦の戦いのあと,今度は義経と頼朝の対立がはじまります。原因は義経が後白河法皇と仲がよかったことです。(法皇とは出家した上皇)武家政権を関東に樹立させようとする頼朝にとって後白河法皇は目の上のこぶです。義経は後白河法皇にかわいがられており,頼朝に相談なく任官を受けます。これは源氏の棟梁にとっては面子をつぶされた形になるわけです。加えて平氏を倒した立役者としての義経の人気が周囲で高まっていた。
 後白河法皇はまず義経に頼朝追討を命じます。これに対して頼朝は北条時政を京都にやって法皇に迫り圧力をかけ,逆に全国に守護・地頭の設置を認めさせ義経追討の許可を得ます。結果的に,鎌倉の手の者が全国に配置されましたので,この段階で実質的に鎌倉幕府がスタートしたと現在では考えられています。【歴史的意義】
 平氏打倒の英雄が一転して謀反人とされてしまった義経の逃亡生活がはじまりました。全国どこにいっても頼朝の息がかかったものが待ち受けていました。しかしただ1つ頼朝の力が及ばない場所がありました。北の王:藤原秀衡が治める奥州です。義経は挙兵するまでの少年時代,秀衡のもとで平氏からかくまわれ,育ったのです。それを頼った。
 しかし秀衡は死の床にありました。死後,奥州は子の泰衡に託されましたが,泰衡には秀衡ほどの裁量はなかった。頼朝の圧力に屈した泰衡の軍によって,義経は家臣:武蔵坊弁慶とともに衣川の戦いで滅ぼされました。
 頼朝の方としては,一挙両得でした。義経は殺され,奥州を討つ絶好の口実ができたのです。頼朝は自ら奥州討伐の軍を率いて,平泉を攻略。泰衡は討たれて,奥州藤原氏は4代で滅びます。
 奥州藤原4代は清衡・基衡・秀衡・泰衡です。頭文字をとって「き・も・ひ・やす=肝冷やす」とおぼえましょう。
 また平氏滅亡から奥州藤原氏滅亡までこの間頼朝は鎌倉で武家政権の機構を整備していた。奥州藤原氏を滅ぼしたのは頼朝でしたが,義経を倒した(衣川の戦い)は頼朝ではなく藤原泰衡であったことをまちがえないように。【落とし穴】
   
3 1180年,源頼朝は鎌倉に御家人統率のための侍所を設置し,1184年には〔 ① 〕(のちの政所)・問注所を設けて武家政権の機構を整備した。また〔 ② 〕を鎌倉武士の守護神として整備した。
①公文所(くもんじょ)  ②鶴岡(つるがおか)八幡宮
   1180年,頼朝は挙兵するとまず関東平定を目指します。地盤造りですね。そして鎌倉を自らの拠点とします。鎌倉を選んだ理由は,三方を山で囲まれており,南が海のため要害の地となっていたためです。【説明】そして源氏とゆかりがあり,源氏が武神として信仰していた京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請(かんじょう 神の分霊を他の神社に移すこと)し,鶴岡八幡宮を現在の地に再建します。参道として都の朱雀大路をまねて若宮大路を整備し,幕府の中枢機関をその周辺に配置しました。
鶴岡八幡宮(鎌倉市)

 幕府の中枢機関とは,侍所・政所・問注所です。政所は最初は公文所といいました。「公文」とはもともと律令制下で公文書を扱う機関で,特に財政帳の管理は重要な仕事とされていました。そこから一般財政・政治をおこなうところという意味です。問題で政所ではなく公文所と書かれていてもまちがいはないので注意しましょう。ただし1192年,頼朝が征夷大将軍に任じられるまでには政所と改称されていました。
 これらの中枢機関は守護・地頭の設置前には設置されていた。だから1185年,守護・地頭が設置された時点で鎌倉幕府は機能しはじめていたといわれるのです。
 守護は一国一人です。地頭は荘園ごとに配置されます。守護の仕事は謀反人や殺害人の逮捕など警察の仕事です。御成敗式目では京都・鎌倉の警護の指揮監督が明文化されました。地頭の主な仕事は土地の管理と治安維持,年貢の徴収です。地頭にも治安を守る警察的な仕事があった。武士ですから当然のことだと考えて下さい。【落とし穴】こうして鎌倉幕府は軍事政権として確立していくのです。
   
4 1192年,源頼朝が征夷大将軍に任じられ,鎌倉幕府が名実ともに成立した。頼朝の死後,〔 ① 〕とよばれた妻の北条政子やその父:〔 ② 〕が初代執権となって幕府の実権を握り,その後,〔 ② 〕の子〔 ③ 〕が侍所と政所の長官を兼ねて執権政治が本格的に確立した。
①尼将軍  ②北条時政  ③北条義時
   1192年,ついに頼朝は最高司令官の地位に就きます。征夷大将軍です。実質,鎌倉軍事政権を確立させていた頼朝ですが,征夷大将軍にはなかなかなれませんでした。それはあの後白河法皇がいたからです。そのかわり後白河法皇は頼朝にもっと高い地位を用意しますが,頼朝はそれを受けません。受けてしまうと都勤務となってしまうからです。そういう意味で,武士の棟梁として軍事政権確立を目指す頼朝にとって軍の最高司令官を意味する征夷大将軍は魅力だった。
 そして1192年後白河法皇が亡くなります。その結果,頼朝は征夷大将軍に任官されたのです。では任官した天皇はだれか?皮肉にものちに幕府を倒そうと兵を挙げることになる後鳥羽天皇(のちの上皇)だったのです。
 源氏将軍は頼朝・頼家・実朝と続きますが,これで滅びます。一方,北条氏(時政)は他氏排斥によって有力御家人たちを幕府から排除していき,力をつけていきます。よく考えてみましょう。北条時政は源氏と外戚関係にあったことに気がつきましたか?そう娘の北条政子は頼朝の妻,そして生まれた頼家・実朝兄弟は,北条氏の血も引いているのです。他氏排斥・外戚といえば政権を握る常套手段なんですね。蘇我氏・藤原氏・平氏,そして北条氏。
 北条時政は政所の長官(別当という)に就きます。政所の長官は幕府政治にもっとも深く関わる役職ですので,将軍に一番近いところにいます。将軍を補佐するので,これを執権(権力を執る)といいます。さらにその子:義時はこの政所長官と侍所長官をも兼ねるようになりました。侍所は幕府の軍事力を担いますから,この2つが合わされば無敵です。こうして源氏将軍が絶えたあと,北条氏は無敵の存在となったのです。 
   
5 源氏が三代で滅ぶと,後鳥羽上皇承久の乱をおこしたが敗れて〔   〕(島根県)に流された。また将軍は形式的に公家や皇族から迎えられた。
隠岐
   源氏の将軍が途絶えたとはいえ,鎌倉幕府は将軍の政権です。将軍がいなくてはその意味をなさない。よく考えてみると,源氏の家系は頼朝だけではなかったはず。源氏将軍にこだわるなら遠い親戚でもよんでくればよかったのですが,それでは実権を握ろうとする北条氏にとっては不都合。というわけで名も出自も文句なしの藤原氏から将軍を迎えることにしました。これを摂家将軍といいます。「摂家」とは藤原氏の中でも地位の高い摂政関白になることができる摂関家とよばれる家系から迎えたためです。
 実朝が死去して摂家将軍を迎えるまで,わずかながら幕府には空白の時間が生まれます。この時期をねらって後鳥羽上皇が挙兵した。上皇軍はさんざんな目にあうわけですが,結果,後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に流されることになった。後鳥羽上皇はそのままここで亡くなることになります。
 このあと将軍は4・5代が摂家将軍,そして6~9代までは皇族(天皇の子)から迎えることになり親王将軍とよばれます。源氏将軍が絶えてから,将軍がいなくなったわけではなかった【落とし穴】
   
6 3代執権:北条泰時は〔 ① 〕ヶ条からなる御成敗式目を制定し,所領のもめごとの裁定,守護・地頭の職務などについてまとめた。また有力御家人の合議機関として〔 ② 〕を設けた。さらに5代執権:〔 ③ 〕は〔 ② 〕の補佐と裁判の公平・迅速をはかるため〔 ④ 〕を設置した。
①51  ②評定衆  ③北条時頼  ④引付衆
   御成敗式目についての知識です。まずは歴史的な意義。「最初の武家法」であったこと。武家法であったということは,逆に貴族や寺社には守る義務はなかったということでもあります。【落とし穴】貴族や寺社はこれまでの律令に従ってもらってかまわない。御成敗式目の制定は律令の失効を意味しないことをおさえておきましょう。【落とし穴】
 ではなぜ武家法の制定が必要だったか?1つは御家人どうしの争いや律令制下の役人と武家政権下の役人の争いを公正に裁くため。「成敗」とは「裁判」を意味します。裁判の公正化が目的だった。
 当時はまだ朝廷と幕府の二重行政にありましたから,両者の役人の争いも絶えなかった。したがって守護や地頭の権限を明確化することも大切な目的の1つでした。
 そして何より,公家法は漢文で書かれており難解でしたから,武家にもわかりやすい文体で法をつくる必要があった。泰時は弟の重時に宛てた手紙に御成敗式目制定の目的を語っています。「世間には,漢字の読み書きができない,かな文字しかしらない者もおおいのですから彼らが裁判に関わったときに困らないようにする」。
 こうして頼朝以来の先例と道理とよばれる武家社会の慣習・道徳を成文法としてまとめたのです。
 何条からなっていたか?51ヶ条です。「51」という数字は「17」の倍数ですね。「17」というと十七条憲法を思い出します。聖徳太子の制定した17条という数字が後世参考にされた例の1つです。
 またこの「51」という数字,関係のないところで度々出現する。国連の原加盟国が「51」,サンフランシスコ平和会議が「1951」この会議に参加した国が「51ヶ国(日本除く)」。いずれも大事な「51」です。【比較】

 こうして北条泰時は法治主義をとりました。幕府というと軍事独裁政権というイメージが強いですが,案外法の秩序を重視した。だから将軍はおろか執権泰時自身も専制的な政治に歯止めをかけるため,評定衆という11人による合議制の機関を設置しています。さらに5代執権:時頼は評定衆の補佐機関として引付衆を設置。裁判の公平と迅速をはかるためです。
   
7 8代執権:北条時宗は,元の襲来に備えて〔 ① 〕を設置した。元寇後,幕府は九州の防備のため博多〔 ② 〕を設置した。
①異国警固番役  ②鎮西探題
   元の襲来に備えての対抗策です。【比較】
文永の役前…異国警固番役の設置
文永・弘安の役の間…
石塁(石築地)の構築
弘安の役後…
鎮西探題の設置
 異国警固番役は文字通り九州の警備役です(文永の役後に正式に制度化)。そして文永の役では元・高麗連合軍は博多湾に上陸します。その後,この博多湾の防備のため築かれた防塁が石塁石築地(いしついじ)ともいいます。
 元寇のあとは鎮西探題博多に設置し,防衛の拠点としますが,同時に九州の統治機関ともなりました。元寇では登場する地名のほとんどが「博多」であるということ。また御家人でない武士も動因されたことに注意。そして鎮西探題の設置によって幕府の支配力が九州にもおよんだということをおさえておきましょう。【歴史的意義】
   
8 後醍醐天皇は二度の倒幕計画に失敗し,〔 ① 〕に流されたが,これを機に悪党や有力御家人の挙兵が相次いだ。1333年,〔 ② 〕は河内国(大阪府)で幕府軍と戦い,〔 ③ 〕は六波羅探題を攻め,〔 ④ 〕が鎌倉を攻略して鎌倉幕府を滅ぼした。
①隠岐  ②楠木正成(くすのきまさしげ)  ③足利尊氏  ④新田義貞
   後醍醐天皇は三度目の正直で鎌倉幕府を倒した。二度目には後鳥羽上皇と同じ隠岐に流刑となっています。しかしこの後醍醐天皇の動きに呼応して,各地の武士が倒幕の挙兵をおこします。三人の武将が活躍した場や役割についておさえておきましょう。
 楠木正成河内(大阪)の豪族,悪党の一人であったといわれます。(御家人説もあり)地元の河内国を中心に幕府軍と戦い,後醍醐天皇を援護します。
 足利尊氏は,源氏の家系でもともと幕府の有力御家人でした。はじめは「高氏」と名乗っていましたが,六波羅探題攻略などの功績から後醍醐天皇の名前である「尊治(たかはる)」から一字をもらい「尊氏」としました。尊氏は京都に向かったこと。そして源氏の家系であったことが,室町幕府の成立につながっていく。【比較】
 尊氏のライバル的な存在であったのが新田義貞。彼は鎌倉を攻略した。実際に幕府を滅ぼしたのは後醍醐天皇でも尊氏でもありませんので注意です。【落とし穴】 
   
9 〔   〕年,後醍醐天皇は京都で建武の新政をはじめたが,公家重視の政治であったため,武士の不満が高まった。新政に対する批判は二乗河原の落書にあらわれている。
1334
   「二乗河原の落書」は史料問題で出されます。【史料】都ではロクでもないものが流行っていたとか。社会の混乱ぶりを伝える史料です。
   
10 足利尊氏〔 ① 〕天皇を立てて,後醍醐天皇を追いやると,後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れた。以後約〔 ② 〕年間にわたる南北朝時代のはじまりである。足利尊氏は〔 ③ 〕年に北朝より征夷大将軍に任命され,京都に幕府を開いた。
①光明(こうみょう)  ②60  ③1338
   実は鎌倉末期から皇室は2つの系統に分裂していた。そこで2つの系統から交互に天皇を即位させることで決着がついていたのです。足利尊氏は後醍醐天皇を京都から追いやると,後醍醐天皇とは異なる系統から天皇を即位させました。これが光明天皇です。ある意味規定路線であったわけですが,これが北朝の初代天皇となります。尊氏はこの光明天皇から征夷大将軍に任ぜられ,京都に幕府を開きます。
 南北朝時代,南朝側の正統性を主張した書物を『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』といいますが,これは少し難易度が高い。 
   
11 室町幕府では将軍の下に〔 ① 〕がおかれ,細川・斯波(しば)・畠山の三氏が交替制でこの地位に就いた。これを三〔 ① 〕という。同様に〔 ② 〕の長官(所司)も山名・赤松・一色・京極の四氏が就任し,四職(ししき)とよばれた。また鎌倉には〔 ③ 〕がおかれ関東を統轄し,九州には〔 ④ 〕,北方には〔 ⑤ 〕が設置された。
①管領  ②侍所  ③鎌倉府  ④九州探題  ⑤奥州探題
   室町幕府の政治体制はほとんど鎌倉幕府を踏襲していますが,違いに注目しておさえましょう。まず将軍の補佐役は「管領」ですね。この管領,執権と違って交替制であったことが注意点です。【落とし穴】三管領といって,有力三家だけが就けたポストです。また侍所の長官も四家に限られていて交替制でした。四職(ししき)といいます。理由は,北条氏の執権政治のように権力の一極集中を防ぐためです。
 地方では鎌倉府が重要。足利氏がその長官に就きます。また鎌倉府長官の補佐をするのは,関東管領といいます。上杉氏がその地位につきました。
 九州には鎌倉時代の鎮西探題がそのまま九州探題となります。東北はこちらも文字通り奥州探題です。 
   
12 室町時代になると守護は,荘園・公領の半分の年貢を軍費として徴収し,武士に分与する権限が与えられた。これを〔 ① 〕という。さらに領主から荘園・公領の経営権も与えられ(守護請),地頭の権限を奪い家臣化した。こうして地域的支配権を確立して領主化した守護を〔 ② 〕という。
①半済令(はんぜいれい)  ②守護大名
   半済令は近年,非常によく出題されるようになってきました。守護大名の成立過程ですが,まず前提として室町時代初期には南北朝の争いがあったということ。また朝廷の対立だけでなく,幕府内部でも権力争いがありました。そして荘園の管理・年貢の徴収といった仕事は鎌倉時代まで地頭の仕事であったということを理解しておいて下さい。
 さて足利尊氏は北朝側です。そして幕府内部の権力争いにおいても将軍ですから,正統性を主張できる立場にあります。尊氏はこれらの争いを有利にするため,守護を味方につけようとします。そのため守護に鎌倉時代にはなかった新たな権限を与えることにしました。例えば敵方の稲を一方的に刈り取ってもよいとか,土地の関する争いの判決を幕府にかわって執行させるといったものです。
 さらに激戦地であった近江・美濃・尾張では,軍費や兵糧の調達のため荘園の年貢の半分を取ってもよいとします。これを半済令といいます。ポイントは「半分」というところです。もともと1年という期限付きのものでしたが,恒常化して全国に広がります。さらに地頭の仕事であった荘園の経営権(地頭請)も奪って(守護請),地頭をその配下に置きました。こうして守護は一国の支配権を確立したのです。大名の「名」は「土地」に由来する言葉であり,守護が「大きな土地」を支配するようになって「守護大名」とよばれていった。
   
13 応仁の乱後,守護大名の地位から戦国大名となったものには,駿河の〔 ① 〕氏,甲斐の〔 ② 〕氏,薩摩の〔 ③ 〕氏などがある。その他,中国地方の〔 ④ 〕氏,四国地方の〔 ⑤ 〕氏,関東地方の〔 ⑥ 〕氏,東北地方の〔 ⑦ 〕氏や越後の〔 ⑧ 〕氏,尾張の〔 ⑨ 〕氏,三河の〔 ⑩ 〕(松平)氏などが台頭した。彼らの領国は〔 ⑪ 〕とよばれ,領国統治のための〔 ⑪ 〕法を制定して,家臣を〔 ⑫ 〕に集住させた。
①今川  ②武田  ③島津  ④毛利  ⑤長宗我部(ちょうそかべ)  ⑥北条  ⑦伊達(だて)  ⑧上杉  ⑨織田  ⑩徳川  ⑪分国  ⑫城下町
   応仁の乱(1467年)は将軍:足利義政の後継者争いだけでなく,有力守護大名である山名持豊(宗全)細川勝元の対立,そしてその他の守護大名の家督争いもからんで勃発したことも頭に入れておいて下さい。【落とし穴】
西軍:山名持豊(宗全)が陣を構えた西陣跡。(京都市)
この一帯が西陣織の中心。

 応仁の乱後,守護大名は戦国大名とよばれるようになるのですが,その出自はさまざまでした。守護大名からそのまま戦国大名になったものとして,今川氏武田氏島津氏などがいますが極わずかです。大半は,京都や鎌倉に居住した守護大名のかわりに任国の管理を任されていた守護代とよばれるものや,下剋上によって自らの才覚でのし上ったものです。
 彼らは御館様(おやかたさま)とよばれ,自らの城下に家臣を集住させ,その家族を人質として置きます。家臣が自分の領地に引っ込み,力を蓄えて反乱をおこされては困るからです。知っておきたい城下町には一乗谷(越前朝倉氏 福井県)小田原(北条氏 神奈川県)府中(武田氏 山梨県甲府市)があります。
 また分国法を制定することで家臣を統制しました。具体的には「喧嘩両成敗」や「私婚・私信の禁止」です。特定の家臣が力をつけすぎないようにするためです。
   
14 〔 ① 〕年,織田信長桶狭間の戦い今川義元を破ると,〔 ② 〕年,将軍:足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。〔 ③ 〕年の長篠の戦いで鉄砲隊を組織して〔 ④ 〕とともに武田勝頼を討ったが,〔 ⑤ 〕年,本能寺の変で家臣の明智光秀によって討たれた。
①1560  ②1573  ③1575  ④徳川家康  ⑤1582
   1560年,桶狭間の戦いで今川義元を破った信長は,今川配下にあった三河の徳川家康と同盟を結びます。尾張と三河,互いの背後を固めたのち,信長が美濃を攻略し,岐阜(岐阜城)を拠点に「天下布武」をスローガンとして天下統一をめざします。
 難易度は高いですが,信長が近江・越前(浅井・朝倉領)を手に入れた戦いである姉川の戦い(1570年)を加えておきます。このとき浅井・朝倉に味方したのが比叡山延暦寺。信長は延暦寺の焼打ちを決めます。
   
15 本能寺の変後,豊臣秀吉は〔 ① 〕の戦いで明智光秀を破ると,〔 ② 〕の戦いで同じく織田家家臣:柴田勝家を破って,信長の後継者となった。
①山崎  ②賤ヶ岳(しずがたけ)
   秀吉が信長の後継者となるための重要な戦いです。山崎の戦い本能寺の変のわずか10日余りのことです。当時中国地方に遠征し,毛利軍と対峙していた秀吉でしたが,急遽敵と和睦し,その軍勢をとって返しました。そのまま山崎(京都)の天王山で光秀を破り,主君の仇をとります。今でもここぞという時の決戦を「天王山」というのはここからきています。
 続いて,織田家にとっては古くからの重臣であった柴田勝家賤ヶ岳(滋賀)で破り,名実ともに信長の後継者となります。秀吉は「豊臣」姓を名乗る前,「羽柴」と名乗っていましたが,これは織田家重臣:柴田勝家と丹羽長秀からそれぞれ一字を取ったものでした。
 次に信長と長年の盟友であった徳川家康小牧・長久手(愛知)で戦いますが,これは勝敗つかず,2人は互いの実力を認めて和睦します。ただ秀吉軍10万に対し,徳川軍3万ですから,実質家康の勝利でしょう。その後,秀吉はことあるごとに家康に気をつかいます。 
   
16 豊臣秀吉は1585年,〔 ① 〕を平定し,〔 ② 〕に就くと各地の戦国大名に戦闘の停止を命じた。翌年には〔 ③ 〕に就任,秀吉の命令に従わなかった島津氏を討って〔 ④ 〕を平定。さらに関東地方の北条氏〔 ⑤ 〕攻めで破ってこれを滅ぼし,東北地方の〔 ⑥ 〕を服属させて1590年に全国統一を達成した。 
①四国  ②関白  ③太政大臣  ④九州  ⑤小田原(おだわら)  ⑥伊達政宗(だてまさむね) 
   四国(長宗我部氏)を平定した秀吉は,次に朝廷の権威を利用して全国を平定していきました。秀吉はそもそも低い身分の出ですから,将軍職にはつけません。ましてそれ以上の地位にもつけなかったはずです。征夷大将軍は源氏の家系から,関白職は藤原氏でないとなれないのです。そこで秀吉は藤原氏(近衛家)に近づいて,親戚関係を結び,最終的には関白・太政大臣にまでのし上った。征夷大将軍より上の地位で,それ以上の地位は日本にはありません。
 そこで秀吉の全国統一には,2つの方法があった。1つは関白の地位を利用して全国に命令する。「これ以上の戦闘は無意味である。自分に下りなさい。」もう1つは「従わないものは,討伐する。」です。
 この秀吉の権力に従わなかった勢力が九州の島津氏関東の北条氏です。最終的に北条氏小田原を攻めて,これを降伏させ,1590年に全国統一を達成した。奥州は討伐したのではなく,自ら服属してきた。その後,秀吉は関白職を甥にゆずり,「太閤(前の関白の尊称)」とよばれるようになりました。
   
17 豊臣政権の政務は石田三成ら〔 ① 〕によって執られ,その顧問役として〔 ② 〕が置かれた。〔 ② 〕の筆頭は〔 ③ 〕であった。 
①五奉行  ②五大老  ③徳川家康
   
18 豊臣秀吉は〔 ① 〕城(現在の〔 ② 〕県)を拠点として朝鮮出兵をおこなった。 
①名護屋  ②佐賀
   これはよく引っかかるので注意です。「名護屋」は「名古屋」ではありません。【落とし穴】「名古屋」から朝鮮に出兵できません。「名護屋」は現在の佐賀県です。【位置】 
   

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