歴史 第4回 各時代の特色③ 応用編

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江戸時代~明治中期

1~13…江戸時代    14~24…明治時代

1 豊臣秀吉の死後,徳川家康らと〔 ① 〕らが対立し,〔 ② 〕年に関ヶ原の戦いがおこった。これに勝利した徳川家康は江戸幕府を開いたのち豊臣氏を挑発して,1615年の〔 ③ 〕で豊臣氏を滅ぼした。
①石田三成  ②1600  ③大阪夏の陣
   関ヶ原の戦いは,豊臣氏と徳川氏の戦いではありません。豊臣氏の家臣同士の戦いです。したがって戦後,江戸幕府が成立しても豊臣氏は滅んだわけではなく,存続します。関ヶ原は岐阜県であることも注意。【位置】
 家康は一度は豊臣家の家臣となったわけですから,豊臣家の中では家康がのちに豊臣家に将軍職を譲るのではないかと楽観的に考えていました。しかし1605年,早々に家康は子の秀忠に将軍職を譲ります。これで内外に幕府は徳川家が支配していくことを示したのです。ちなみに2代将軍:秀忠の「秀」は秀吉から賜った字です。
 その豊臣氏を存続させておいては,のちに禍根を残すと考えた家康は自分が生きているうちに,これを滅ぼそうとします。これが大阪の陣とよばれた戦いで,大阪城が戦の舞台となりました。1615年の大阪夏の陣で,秀吉の子:秀頼は死に豊臣家は滅ぼされました
 豊臣氏滅亡は,江戸幕府成立後であるとおぼえておきましょう。【時期】 
   
2 江戸幕府の組織は,臨時職の〔 ① 〕を別にすれば,〔 ② 〕が政務を総括した。地方機関として朝廷や西国大名を監察する〔 ③ 〕などがあった。
①大老  ②老中  ③京都所司代
   江戸幕府の組織の中でももっとも重要な3つです。江戸幕府の組織名は,これまでの鎌倉・室町幕府とちがう感じですね。鎌倉・室町では多少の役割の違いはあれども,名称は共通するものが多かった。ところが江戸幕府では新たな名前がどっさりでてきます。これは徳川家が三河(愛知県)の戦国大名だったころの名残です。(他の戦国大名も同じような名称を使用していた。)それらを江戸幕府の組織にもってきたためです。老中・京都所司代は,他の幕府と比較しながらおぼえましょう。 【比較】
 大老は老中の上位に位置しますが,これは臨時職ですので,常時政務をおこなうのは老中です。しかも大老の名前が出てくるのは,高校入試ではただ1人,幕末の井伊直弼のみです。
   
3 将軍から1万石以上の領地を与えられたものを〔 ① 〕といい,徳川氏の一族である〔 ② 〕,古くからの徳川氏の家臣である〔 ③ 〕,その他の〔 ④ 〕があった。
①大名  ②親藩  ③譜代  ④外様
   親藩は徳川家一門です。「親戚の藩」で「親藩」と考えて結構。特に紀伊藩・水戸藩・尾張藩は御三家とよばれ,「徳川」の姓を名乗りました。これは将軍家に後継ぎがいなくなった場合,御三家から将軍を出すという家康の考えからつくられた一種の徳川の世を守る「策」です。事実7代将軍:家継が幼くして亡くなったあと,8代将軍:吉宗は紀伊藩から迎えられています。御三家は紀伊・水戸・尾張で「き・みと・おわり(君と終わり)」とおぼえましょう。
  譜代は家康が三河(愛知県)の小大名であったころから家臣として従ったものが大名となったもの。徳川家の信頼の厚い大名です。したがって江戸幕府では老中など重要な職を任されます。また江戸や徳川家(幕府)の直轄地を守るように,その周囲に配置されました。ただしそれだけに大きな勢力となっては困りますので,領国の石高は少なかった。
 それ以外の大名は外様です。徳川家にとっては気を許せない大名です。反乱の可能性が一番高い。そのため江戸から離れた遠隔地に配置されます。【説明(目的)】参勤交代で江戸に向かうには多額の費用が必要になります。ただし譜代より石高の高い地を治めることを許されます。
 ここでは藩の配置の特徴を問われる問題がよく出ます。大名の種類とともに理解しておきましょう。
   
4 5代将軍:徳川綱吉は,〔   〕を出して犬・鳥獣の保護を命じた。また財政難を克服しようと質を落とした貨幣を鋳造したため,物価上昇をまねいた。
生類憐れみの令
   綱吉の政治では「生類憐れみの令」が有名ですが,金銀貨幣の質を落としたことも説明文ではよく出る。財政難を切り抜けるためです。貨幣の質を落とすことで今までより多くの貨幣をつくりだします。しかし貨幣の価値が低下するので,物価が上昇します。物価が上がると庶民の生活は苦しくなる。
   
5 6代・7代将軍に仕えた儒学者の〔   〕は,貨幣の質をもとに戻し,長崎貿易の制限をおこなうなど財政政策に力を入れた。
新井白石
   新井白石は特に高い地位にあった人ではありません。旗本といって幕臣でしたが,儒学者(朱子学者)としておぼえておきましょう。
 新井白石の政治は,綱吉の逆をおこなったと考えれば,難しくありません。まず生類憐れみの令を廃止する。そして財政では,貨幣の質をもとに戻します。そかしそれでは財政難は克服できません。そこで白石は「お金がないなら,節約すればよい」と考えました。どこで節約するかというと長崎貿易です。国外への金銀流出をおさえたのです。 
   
6 8代将軍:徳川吉宗享保の改革で実学を重視し,キリスト教に関係のない洋書の輸入を認め,さつまいもの栽培を奨励した。また大名に一定割合の米を納めさせるかわりに参勤交代の江戸滞在期間を短くする〔 ① 〕を実施したり,〔 ② 〕開発を奨励し,年貢率を四公六民から五公五民に引き上げた。
①上米  ②新田
   徳川吉宗享保の改革の内容です。語句として出題されるのは,「公事方御定書」・「目安箱」の2つでしょう。しかしこれだけでは応用レベルの問題には対応できません。語句としてあらわれない部分をしっかりとつかんでおく必要があります。
・漢訳洋書輸入の禁を緩和
 「漢訳」とは中国語に訳されているという意味。「洋書」は西洋(ヨーロッパ)の書物。「輸入の禁」は輸入を禁止していたということ。あわせて「中国語に訳されている西洋の書物なら輸入を許可する」ということです。ただし「キリスト教に関係がない」ことが大前提です。
 ではキリスト教に関係のない洋書とは,どういったものでしょう。具体的には医学や科学です。また鎖国中,唯一のヨーロッパの貿易相手国はオランダでしたから,この後オランダからも直接,このような学問が日本に入ってきます。これが蘭学の始まりです。したがって蘭学という学問が発展したのは,少なくとも吉宗以降だと考えて下さい。【時期】
・上米の制
 これも享保の改革の説明文でよく出される内容です。選択肢の文中に語句がそのまま出ている場合もあれば,内容だけ書かれている場合もあります。上の問題文中にあるように「大名に一定割合の米を納めさせるかわりに,参勤交代の江戸滞在期間を短縮する」という制度。財政収入を各藩に頼るほど幕府の財政が逼迫していた。
・新田開発
 江戸幕府は,人口の80%以上を占める農民(百姓)と彼らが生産する米の上に成り立っていた。農業生産を上げるのは幕府の使命でもありました。幕府はその初期から新しい耕地をどんどん開発していきます。このような新しく開発された耕地(田)を文字通り「新田」といいます。この語句は江戸時代で使われる語句です。【時代区分】吉宗のころ(18世紀初)には,江戸時代初期(17世紀初)に比べて耕地面積は約2倍に伸びました。これまで1000年以上かけて広げてきた耕地と同じぐらいの耕地がこの100年で増えたのです。

・年貢率の引き上げ
 幕府領ではこれまで「四公六民」という年貢率でした。この年貢率の読み取り方を理解しておいて下さい。数字は年貢率=割合を示しています。「公」が幕府,「民」が農民です。つまり40%(4割)を年貢として納め,6割(60%)は農民の手元に残るという意味です。これを吉宗は「五公五民」に引き上げます。つまり半分年貢として納めなさいとした。
 その他,青木昆陽という人物に命じて,さつまいもの栽培研究させ,ききんに備えてその栽培を奨励しましす。こうしてみると吉宗は農業,特に米についての政策が多い。これが特徴だと思って下さい。「吉宗は米将軍」とおぼえておくこと。 
   
7 10代将軍の時代,老中田沼意次株仲間の奨励,長崎貿易の振興,干拓事業,蝦夷地の開発などを試みた。しかし賄賂(わいろ)が横行し,〔   〕の大飢饉によって失脚した。
天明
   吉宗の農業政策に対し,田沼意次は商業政策に力を入れた人物です。【比較】田沼政治の象徴といってもよいのが,株仲間の奨励(積極的に認めた)です。株仲間は幕府の公認を受けた商工業者の同業組合です。幕府の保護を受けたというのが,室町時代の「座」との違いです。座は貴族や寺社の保護を受けた。【比較】
 ※株仲間はすでに吉宗のころ,幕府の承認を受けるようになっていましたが,田沼時代には結成の「奨励」という形で表現されます。
 株仲間は幕府の保護を受けるかわりに営業税(公認税)のようなものを幕府に支払いますが,中には「大変お世話になりました」と必要以上に謝礼金を支払うこともあった。当然これは「これからも御ひいきに」という意味で,いわゆる賄賂(わいろ)の意味があった。田沼意次はこの点で不評を買ったのです。
 印旛沼・手賀沼などの干拓事業蝦夷地の開発なども商業資本を利用してのものでした。「~沼」ときたら,田沼の「沼」と合わせておさえておきましょう。
 また中国(清)向けに中国料理の高級食材(あわびやフカひれなど)の輸出を積極的におこなって,貿易振興をはかります。
 以上のように田沼政治は「商業政策」と大きくおさえておきましょう。またこのころ,吉宗のころからはじまった蘭学もさかんになり,『解体新書』が書かれたのは,この田沼時代であることも知っておきましょう。
 もう1つ。 田沼意次は天明の大飢饉がきっかけとなって失脚します。これは吉宗の享保の改革が享保の大飢饉によって失敗に終わったことと,これも比較しておぼえておくとよい。
   
8 11代将軍を補佐した老中松平定信は1787年から寛政の改革をおこなった。旗本や御家人の借金を破棄させ,農民に対しては出稼ぎを禁止し,大名には飢饉に備えて米を蓄えさせる〔 ① 〕を実施した。また幕府の学問所では〔 ② 〕以外の講義を禁止し,思想の統制をおこなうなど,その内容は厳しいものであった。
①囲米  ②朱子学
   松平定信は,田沼政治のすぐあと,つまり天明の大飢饉を受けての当番となった人です。したがって寛政の改革の一番の目的は,農村の復興にありました。
・旧里帰農令
 都市に出稼ぎに来ている農民をもとの農村に帰そう
とします。これは強制ではありませんあくまでも奨励です。農村の荒廃は,幕府や藩の財政にかかわります。
 さてここで重要なことに気がつきます。幕府や藩は当時の社会を支配する側です。彼らの財源はあくまでも年貢(米)です。しかし農民はそもそもなぜ都市に出稼ぎにきているかというと,お金が必要だからです。つまり農民社会では米より生活に貨幣が重要なのです。江戸時代もこのころになると農村に貨幣経済が浸透していたということです。
・囲米(かこいまい)の制
  飢饉に備えて,大名に米を蓄えさせた。これは吉宗の「上米」と比較させておぼえておきましょう。【比較】「上米」の「上(あげ)」は「上(かみ)」,「上」とは「幕府」のことです。大名に米を差し出させる政策。一方「囲米」は大名に米を蓄えさせる政策。「囲」は「蓄える」ことです。
・棄捐令
 これもこの語句自体が問われることはありません。選択肢の文中にその内容が書かれている。財政難に苦しむ幕府の家臣(旗本・御家人)を救済するため,借金の帳消しをおこないました。「棄捐」とはそのまま「借金の帳消し」です。前によく似たものをやりましたね。「徳政令」です。「徳政」とは,「心優しい政治」です。困っている人を助けてあげる。その政策の1つとして借金の帳消しがある。徳政令によって帳消しにしてあげるのは,どんな階層の人でもよい。棄捐令は幕臣に対してです。
・思想統制
 もう1つ,寛政の改革といえばというのが,寛政異学の禁というものです。幕府の学問所では朱子学以外の講義を禁止します。それだけではなく,ためにならない娯楽はぜいたくだと思想・言論・出版を統制します。
 寛政の改革も一時的な効果あれども結果は失敗に終わります。その原因は飢饉が発生したわけではなく,厳しすぎたためとおぼえておいて下さい。「白河の 清きに魚のすみかねて もとの濁りの 田沼恋しき」【史料】という狂歌があります。白河とは掛詞で,白河藩主であった松平定信のことと,「澄んだ川」というのを掛けている。あまりにも清い(厳しい)政治についていけない庶民が,田沼(これも田沼意次と濁った沼を掛けている)の時代が恋しいというのです。
   
9 1837年,〔   〕の大飢饉に苦しむ貧民の救済を訴え,大阪町奉行所の役人:大塩平八郎が決起したが鎮圧された。
天保
   天保の改革の前に天保の大飢饉です。 この飢饉で貧民救済のため立ち上がったのが,大塩平八郎。ただしこの反乱はたった1日で鎮圧されています。しかし大塩は幕府側の人間です。ここが幕府にとってはショックだった。【歴史的意義】また大塩の乱は大阪でおこったこともおさえておきしまょう。【位置】
 ちなみに江戸時代でおぼえておきたい大きな反乱は2つ。島原天草一揆(島原の乱)大塩の乱。島原天草一揆は1637年で,大塩の乱が1837年。ちょうど200年差ですね。下二桁の数字が一致している。そして島原天草一揆のあと,幕府は安定していったのに対し,大塩の乱以降,幕府は衰退していった。【時期・比較】
   
10 1841年,12代将軍のもとで老中水野忠邦天保の改革をおこなった。株仲間の解散を命じて物価上昇をおさえようとした。また農民の出稼ぎを禁止した。さらに江戸・大阪周辺の大名・旗本の領地を幕府の直轄地にしようとする〔   〕を出したが,大名・旗本から反対を受け失敗に終わった。
上地(上知)令
   天保の改革のポイントは3点です。
・株仲間の解散
 株仲間は何度も出てくる名前ですね。この商工業者の同業組合は,幕府に公認してもらうことで商工業を独占しました。すると何がおこるかというと,商売は利益を求めるのだから,彼らは商品を高く売ろうとするはずです。これまで幕府はこういうことを公認していたというわけです。そのため苦しむのは庶民です。水野忠邦は物価を下げようとして株仲間を解散させた。これは理由が問われます。【説明】
・人返し令
 松平定信がおこなった旧里帰農令と同じように,農民の出稼ぎを禁止します。寛政の改革との共通点としておさえておいて下さい。(違いは発展編で)
・上地令
 「上知令」とも書きますが,語句は問われることはありません。詳しいことは発展編でということになりますが,江戸・大阪周辺の大名・旗本の領地を召し上げようというのです。(だから「知」より「地」の方がわかりやすい)当然,大名・旗本の大反対を受け,水野忠邦は失脚します。

 さてここで三大改革を評価しておきましょう。まずいわゆる三大改革ですが,これらの共通点はいずれも「倹約」にあったということ。そして農業に重点が置かれていたということ。さらにすべては一時的には成功しますが,結果的には失敗に終わったということです。
 最後に江戸時代の政治と世界の重要な出来事を横並びにしておぼえましょう。これは同時期の出来事を問う問題でよく出されます。これができるようになると点数が上がってくるよ。みんなあまり意識しておぼえないから。
   
11 1858年,〔 ① 〕の井伊直弼は不平等条約に調印すると,反対派の人々を弾圧した。これを〔 ② 〕という。しかし1860年の〔 ③ 〕で水戸藩浪士らに暗殺された。
①大老  ②安政の大獄  ③桜田門外の変
   「大老」と問われるのは井伊直弼のみ。井伊直弼については,【流れ】をおさえておく。
日米修好通商条約→安政の大獄→桜田門外の変
   
12 1866年,土佐藩の〔 ① 〕らの仲介によって,薩摩藩の〔 ② 〕・〔 ③ 〕は長州藩の〔 ④ 〕と会合し,〔 ⑤ 〕が成立した。
①坂本龍(竜)馬  ②西郷隆盛  ③大久保利通  ④木戸孝允(たかよし)  ⑤薩長同盟  ※②・③順不同
   倒幕運動に関わった人物と藩。坂本龍馬(土佐藩)・西郷隆盛(薩摩藩)は,だれもが答えられると思って下さい。薩摩藩では西郷の盟友:大久保利通,長州藩では木戸孝允あたりができるかどうか。 
   
13 〔 ① 〕年,15代将軍:〔 ② 〕は〔 ③ 〕を朝廷に申し出て江戸幕府は終わりを迎えた。その後朝廷は〔 ④ 〕を出して新政府を発足させた。
①1867  ②徳川慶喜  ③大政奉還  ④王政復古の大号令
   江戸幕府滅亡の年は武家社会が終わる年。1867年は重要。【時期・歴史的意義】大政奉還王政復古の大号令はセットで順におぼえておくこと。【セット】これらは主語が異なり,同じ意味のことをいっているだけです。幕府側からみると,政権を朝廷に返還する。朝廷側からみると,天皇(朝廷)の政治が復活する。 
   
14 旧幕府勢力は新政府に対し京都の〔 ① 〕の戦いで破れ,江戸・会津へと敗走し,〔 ② 〕の五稜郭にたてこもったのち降伏した。この一連の戦いを〔 ③ 〕という。
①鳥羽伏見  ②函館  ③戊辰戦争
   戊辰戦争は最初と最後の戦いの場所に注意したい。鳥羽伏見は京都の地名です。鳥羽は三重にも有名な地名があるので,ひっかからないように。五稜郭は函館【位置】 
   
15 〔 ① 〕年,明治天皇は五箇条の御誓文を神に誓う形で発し,新政府の基本方針を明らかにした。また民衆に対しては,キリスト教の禁止など旧幕府の民衆統制を継承した〔 ② 〕を発した。
①1868  ②五榜の掲示
   「五箇条の御誓文」と「五榜の掲示」は似ているので注意。(出題率は圧倒的に五箇条の御誓文)「新政府の基本方針」とあれば,五箇条の御誓文。「民衆に対して」とあれば「五榜の掲示」。「榜」とは「立て札」の意味で,実際に板に書かれて,掲示されたのでこういいます。キリスト教・一揆などを禁止する,民衆に対しての禁止令です。【史料】 
   
16 〔 ① 〕年,新政府は中央集権体制を確立するため,すべての藩に版籍奉還を願い出させ,1871年に廃藩置県を断行した。府・県には府知事・〔 ② 〕が派遣された。 
①1869  ②県令 
   版籍奉還と廃藩置県も一対のものなので順にセットでおぼえる。【セット】廃藩置県によって置かれた府知事・県令中央から派遣されたことも重要。「旧藩主が任命された」とあれば,まちがいです。かつての国司も中央から派遣された役人でした。【比較】 
   
17 明治政府は〔 ① 〕をスローガンに大名・公家を〔 ② 〕,武士を〔 ③ 〕,農民や商人・職人を平民とした。 
①四民平等  ②華族  ③士族 
   江戸時代の身分制度,武士(支配階級)と百姓・町人(被支配階級)という関係を改めようとします。四民とは儒教の言葉で「士・農・工・商」を意味しますが,ここでは「みんな」という意味ぐらいで結構です。つまり「支配するものも支配されるものもなくなってみんな平等だよ」ってこと。かつては武士だけの特権だった苗字もみんなもつことができるようになったし,かつての身分をこえた結婚もできるようになったし,どんな職業にだって就くことができるようになった。 
   
18 明治政府は富国強兵をめざして学制・地租改正・徴兵令を実施したが,いずれも反対一揆が各地でおこった。そのため1877年,地租の税率は3%から〔   〕%に引き下げられた。 
2.5 
   学制・地租改正・徴兵令については反対一揆がおこったことを頭に入れておきましょう。ただし条約改正についてはおこっていないので注意。【落とし穴】
 学制では子どもが学校に,徴兵令では男子が兵隊にとられていきます。当時農村では彼らは立派な働き手だったのです。地租改正については地価の3%という高額な地租に対して反対一揆がおきます。この結果,政府は地租を地価の2.5%に軽減しました。「3%,のち2.5%」と両方しっておく必要があります。【落とし穴】「竹槍で ドンとつき出す 二分五厘」とは,このときによまれた川柳です。【史料】 
   
19 明治政府は〔 ① 〕のため,富岡製糸場などの〔 ② 〕を各地に設置・経営した。 
①殖産興業  ②官営(模範)工場 
   殖産興業と産業革命を混同しないようにしましょう。明治初期,政府主導で産業を興したのが殖産興業です。したがって設置された工場は官営(国営)の工場。利益は政府,つまり国家の利益となります。
 産業革命は,日清戦争ごろに民間からおこります。利益は資本家のものとなる。【比較】 
   
20 政府内で征韓論が敗れると,板垣退助は〔 ① 〕年に〔 ② 〕を提出し,自由民権運動の口火を切った。さらに郷里(高知県)に帰って〔 ③ 〕を結成し,大阪で愛国党,そして〔 ④ 〕へと拡大させ,国会の早期開設を目指した。 一方政府は,新聞紙条例・集会条例などを制定してこの運動を弾圧した。
①1874  ②民撰議院設立建白書  ③立志社  ④国会期成同盟 
   板垣退助は坂本龍馬と同じく土佐藩出身であったこと。つまり現在の高知県です。
 明治新政府は主に薩長土肥とよばれる江戸時代末期に活躍した4つの藩出身者で構成されていました。薩摩(鹿児島)・長州(山口)・土佐(高知)・肥前(佐賀)です。4つ目の佐賀県が出てくるかどうかが大切なところです。またその代表的な出身者も。薩摩・長州は12で出てきました。土佐藩では坂本龍馬と板垣退助,そして肥前藩(佐賀藩)では大隈重信が代表的人物。
 これら4藩による明治政府を藩閥政府,あるいはその政治を藩閥政治とよんでいました。これはどちらかというと4藩以外の出身者や国民の彼らのやり方に対する批判です。
 また一方で藩閥政府内でも大きく対立していました。それが征韓論です。代表的な人物が西郷隆盛と板垣退助。彼らは特に新しい時代に対応できなくなっている士族の不満のいき場を求めて征韓論を唱えたのです。しかし大久保利通らはまずは国内整備が最優先と,征韓論をつぶします。そこで西郷・板垣は政府を去ることになったのです。
 その後,士族は各地で反乱をおこし,その最大かつ最後になったのが,西郷の西南戦争でした。一方,板垣は別の方法をとります。自由民権運動として言論による政府批判です。
 さてここで板垣が結成した政治団体の流れをおさえておきましょう。
 立志社(高知)→愛国社→国会期成同盟→自由党
国会期成同盟の「期成」は「目標に実現に向って,結成して活動する」という意味があります。ここでは自由民権運動の目標である「国会を開設」するということです。そして次の段階で政府は「国会開設の勅諭」を出して国会開設を約束する。これで国会をつくるという目標は達成できたのです。あとは開設された国会でどのような活動をするかが大切になる。それには同志が数多く議員として当選する必要がある。
 つまり国会開設の勅諭が出るまでは国会開設のための組織:国会期成同盟。国会開設の勅諭以降は選挙のための組織(政党):自由党となるわけです。したがって,国会期成同盟は国会開設の勅諭の前,自由党は国会開設の勅諭のあとと理解しておきましょう。【時期】
愛国社以外は名称もきっちり書けるようにしておきしまょう。 
 また自由民権運動は,この間,政府の弾圧を受けます。
   
21 1881年,〔   〕事件に対する国民の政府批判が高まると,政府は国会開設の勅諭を発して10年後の国会開設を約束した。 
北海道開拓使官有物払下げ 
   政府の弾圧が一転して,自由民権運動に歩み寄る姿勢をみせた転換期となったのが1881年。まず政府の失態が明るみに出ます。北海道開拓使官有物払下げ事件という事件がおこりますが,なんのこっちゃ。
 この事件名をそのまま答えなさいという問題はまず出ないので,安心して下さい。北海道開拓使というのは,北海道開拓のために政府が設置した官庁です。そこが所有・経営する炭鉱・船舶・農園・工場などがあります。これが官有物です。これらはあまり採算がとれず,赤字になっていた。もうある程度北海道の開拓も軌道にのったことだし,ここらで民間に払い下げしよう。ここまではそれほど問題はありません。問題はここからです。
 まず,払い下げしようとした開拓使長官が薩摩出身の人物で,払い下げ先も薩摩出身の人物でした。これまで他藩出身者が払い下げを願い出ても却下されていたのに,同郷のものに払い下げようとしたのです。さらにこのときの払い下げ金額が不当に安かった。そもそも官有物は国民の税金でまかなわれたものです。これを安価な値段で同郷人に売ろうとする。政府は批判を免れません。
 国民や民権派は激怒,政府はしかたなしに民権派を抑えるために「国会開設の勅諭」を出して,10年後の「国会の開設」を約束します。「勅諭」というのは,「天皇のお言葉」。10年後というのは,1881年から数えて10年後,1890年のことです。 

   
22 国会の開設に向けて板垣退助は〔 ① 〕を,〔 ② 〕は立憲改進党を結成した。〔 ① 〕の中には貧しい農民と結びつき,政府に蜂起するものもあった。1884年の〔 ③ 〕(埼玉県)もその1つである。 
①自由党  ②大隈重信  ③秩父事件 
   国会開設の約束をとりつけた自由民権運動は,今度は2つの政党を中心に盛り上がっていくわけですが,中には過激化することもあった。その中で最大の事件が秩父事件です。秩父が埼玉県であることをおさえておきましょう。【位置】 
   
23 1882年,政府は〔 ① 〕らをヨーロッパに派遣し,君主権の強い〔 ② 〕の憲法を学んで帰国した。帰国後,1885年に内閣制度を創設して〔 ① 〕が初代内閣総理大臣に就任した。 
①伊藤博文  ②ドイツ 
   政府側も10年後に向けて準備を進めていきます。伊藤博文をヨーロッパに派遣し,ヨーロッパの憲法を学ばせます。岩倉具視(使節団)がヨーロッパに渡ったのは,条約改正交渉をおこなうため伊藤博文憲法を学ぶため。目的を比較させておぼえておきましょう。【比較】
 結果,ドイツの憲法を手本としたのは,「君主権が強かったから。」でした。【説明(理由)】 
   
24 〔 ① 〕年,大日本帝国憲法が制定され,国民は天皇の〔 ② 〕とされ,その権利は〔 ③ 〕で制限された。議会は衆議院と貴族院の二院制とされた。衆議院議員の選挙権は制限選挙で,全人口の〔 ④ 〕%に過ぎなかった。〔 ⑤ 〕年に最初の総選挙が実施され,同年第1回〔 ⑥ 〕が 開かれた。
①1889  ②臣民  ③法律  ④1.1  ⑤1890  ⑥帝国議会 
   「臣民」とは「仕える人」の意味です。そしてその権利は「法律の範囲内」で認められていました。この言い回しでおぼえておきましょう。現在の日本国憲法では「国民」の権利は「公共の福祉の反しない限り」となっている。【比較】
 衆議院議員の選挙権をもつ人の割合は人口の約1%ですが,「1.1」とまでおぼえておくのが理想です。 

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