歴史 第4回 各時代の特色③ 発展編

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江戸時代~明治時代中期

1 〔 ① 〕年に征夷大将軍となった徳川家康は,1605年に将軍職を子の〔 ② 〕に譲り,将軍職を徳川家の世襲とした。その後,家康は豊臣氏を挑発して1614年,〔 ③ 〕と翌年の大阪夏の陣で豊臣氏を滅ぼした。
①1603  ②徳川秀忠  ③大阪冬の陣
   1603年,征夷大将軍に任ぜられた徳川家康は2年後,あっさりと子の秀忠に将軍職をゆずり,自分は「大御所」として駿府(静岡)に引き下がります。これは将軍職が徳川家の世襲であることを内外に知らしめるためでした。内外の「外」とは豊臣家です。秀吉の子:秀頼とその母:淀君は大阪城で豊臣家の復権を願っていた。それを家康はあっさりと打ち砕きます。
 さらに家康は豊臣家を追い詰める。方広寺鐘銘事件です。方広寺は以前秀吉が,「ここのお寺に大仏をつくるからその材料として武器を差し出せ」と刀狩の口実としたお寺です。この豊臣家ゆかりの寺の鐘にこんな言葉が刻まれていた。「国家安康 君臣豊楽」。よくみると「家康」という文字が切りはなされ,「豊臣」という文字はつながっている。こういういいがかりをもとにして家康は豊臣家を滅ぼしてしまいます。
方広寺の鐘(京都市)

鐘名 白いところが問題の部分
 この戦いを大阪の陣といい,前半(1614年)を冬の陣,後半(1615年)を夏の陣といいます。
   
2 幕府領は全国総石高の約〔 ① 〕を占め,将軍から1万石以上の領地を与えられたものを大名,1万石未満で将軍直属の家臣を〔 ② 〕といい,将軍に謁見できる〔 ③ 〕と謁見できない〔 ④ 〕があった。〔 ⑤ 〕が大名を監察し,〔 ⑥ 〕が〔 ③ 〕・〔 ④ 〕を監察した。
①4分の1  ②直参(じきさん)  ③旗本  ④御家人  ⑤大目付  ⑥目付
   室町幕府を思い出してみましょう。幕府は守護に大きな権限を与えたため,領主化した守護大名が軍事力・経済力を強めていきました。その結果,幕府は経済力が弱く,日本をまとめていく力もない。争いが絶えない時代となりました。
 一方,江戸幕府は室町幕府と同じく200年以上も続いた幕府ですが,江戸時代は概ね平和な時代となりました。この平和な時代を支えた背景には江戸幕府の強大な経済力がありました。
 まず江戸時代(中期),幕府直轄地(天領)の石高は旗本の土地を含めて全国総石高(約3000万石)の約4分の1を占めていた。ざっと700万石です。残り2300万石が各藩の石高です。(公家や寺社も含めて)しかし全国には約300の藩があったといいます。単純に計算すると1藩(大名)あたり,7万石ちょいになります。ということは幕府は藩平均の約100倍の経済力があったことになります。圧倒的な差ですね。
 大名とは1万石以上の領地を治めることを幕府から許されたものをいい,1万石未満旗本・御家人と区別されます。旗本・御家人は将軍に「御目見得」(謁見)できるものとできないものという身分の差です。鎌倉時代の御家人とは意味が違うので注意しましょう。
 彼らの監察役が大目付(大名)・目付(旗本・御家人)で,大目付の親分は老中ですが,目付の親分は若年寄です。大目付ではありません。【落とし穴】 
   
3 江戸幕府の組織は,老中が政務を総括し,〔 ① 〕がそれを補佐した。老中のもとには〔 ② 〕(財政)・〔 ③ 〕(江戸の行政・司法),大目付などが置かれた。また寺社のとりしまりには〔 ④ 〕が置かれた。
①若年寄  ②勘定奉行  ③町奉行  ④寺社奉行
   老中は一人ではなく,常に複数名いました。その中のリーダー格を「首座」といい,のちに幕政の改革をおこなった人物はこれです。
 勘定奉行・町奉行・寺社奉行を合わせて三奉行といいます。このうち最も各上なのが寺社奉行です。町奉行は江戸の市政を担当します。大阪町奉行など江戸以外の町奉行は遠国奉行に入りますので注意。【落とし穴】
   
4 幕府は京都所司代をおいて,朝廷を監察するとともに〔 ① 〕を制定して天皇・公家の活動を制限した。遠隔地の幕府直轄地には〔 ② 〕をおいて支配した。
①禁中並公家諸法度  ②遠国(おんごく)奉行
   「禁中」とは天皇を意味する言葉です。「禁中並公家諸法度」で皇族や公家対象の法令だということです。朝廷の監視には京都所司代が置かれました。
 幕府の重要な拠点には,城代遠国奉行が置かれます。城代は将軍に代わって城を預かる役職。大阪城代や二条城代(京都)など4城代がありました。遠国奉行の代表は長崎奉行大阪町奉行佐渡奉行などです。
   
5 3代:家光の死後,1651年に由比正雪の乱がおこると,4代:徳川家綱は〔 ① 〕政治から〔 ② 〕政治への転換をはかった。5代将軍:徳川綱吉は,江戸の〔 ③ 〕に孔子をまつる聖堂を建立するなど文教政策に力を入れた。
①武断  ②文治  ③湯島
   江戸幕府の諸制度は3代:家光のころまでに整います。整いましたが,違反者もかなり出た。そんなとき幕府は圧倒的な武力を背景に厳罰を処します。これを難しく武断政治といいます。武力を用いるのも辞さない。例えば転封という領地替え,減封は領地削減,そして改易。改易はお家取り潰しです。すると主を失った家臣は路頭に迷います。このような家臣たちを「牢人」といいます。今でも使います。「浪人」と書きますね。
 改易が増えると牢人が増える。牢人が増えると治安も悪くなる。あるとき由比正雪(ゆいしょうせつ)という人物が牢人たちを集めて幕府転覆計画を企てた。未然に防がれたわけですが,ここで幕府は方針転換。武力による脅しの武断政治から儒教による徳の政治を目指した。これを文治政治といいます。
 文治政治の象徴として徳川綱吉が建てたのが孔子を祭る聖堂です。湯島というところに建てられたので現在は湯島聖堂とよばれています。さらにここに徳川家に仕えた儒学者(朱子学)家の私塾を移し,聖堂学問所としました。
 一方,綱吉は仏教オタクでもありました。寺院建築にお金を湯水のように使います。護国寺というお寺を建立したり,徳川家菩提寺(先祖代々のお寺)である増上寺寛永寺の改築をおこなっています。これが幕府の財政難の一因となります。
   
6 6代:家宣・7代:家継に仕えた朱子学者新井白石は,〔 ① 〕の待遇簡素化や長崎での貿易を制限する〔 ② 〕を出すなど財政政策に力を入れたほか,イタリア人宣教師シドッチの尋問で得た西洋の知識を『〔 ③ 〕』に記録して蘭学の先駆者となった。新井白石の政治を〔 ④ 〕という。
①朝鮮通信使  ②長崎新令  ③西洋紀聞  ④正徳の治
   お金を使っては質の悪い金貨をつくるというのを繰り返した綱吉に対し,新井白石は学者だけあって,倹約を実行します。朝鮮通信使の待遇簡素化長崎新令による取引額の制限です。そして通貨の信用を高めるために貨幣の質をもとに戻し,正徳金銀を鋳造する。質としては家康のころと同質のものにした。
 また新井白石は屋久島に潜入したイタリア人宣教師シドッチを尋問し,西洋の諸事情を聞き出してまとめた『西洋紀聞』という本も書いています。 
   
7 〔 ① 〕藩主から迎えられた8代:徳川吉宗は,〔 ② 〕の制を定めて人材登用をはかり,年貢率の算定を従来の検見法から〔 ③ 〕法に改めた。享保の大飢饉がおこると,〔 ④ 〕に命じてさつまいもの栽培を研究させ,各地で栽培を奨励した。
①紀伊  ②足高  ③定免  ④青木昆陽
  享保の改革
・目安箱(基礎編)
・公事方御定書(基礎編)
・新田開発(応用編)
・上米の制(応用編)
・漢訳洋書輸入の禁を緩和(応用編)
・青木昆陽のさつまいもの栽培(応用・発展編)
・足高の制(発展編)
・定免法(発展編)

 足高の制は人材登用制度です。有能なものを要職につける。ただし要職は給料も高いのが世の常。そこで下位のものが上位の役職につくとき,その在任中だけ給料をあげてやることにした。加増分が世襲されることはありません。
 この足高の制によって吉宗に登用され,その右腕となったのが大岡忠相(ただすけ)です。吉宗(暴れん坊将軍)も忠相(大岡越前)もテレビの時代劇ファンにはたまらない人物ですが,テレビの話は両人とも事実ではありません。ここで大切な事実は,目安箱・公事方御定書などが大岡忠相によって実施されたこと。そして目安箱に寄せられた意見によって小石川養生所(療養施設)町火消(消防団)が設置されたなど享保の改革を支えたということです。
 大岡忠相は,その後三奉行筆頭格である寺社奉行にまで昇進します。その地位の高さからして寺社奉行は原則として譜代大名が就くことになっていた。忠相は旗本です。
 その年の豊凶に応じて税をとる方法を検見法(けみほう)といいます。享保の改革ではこれを定免法(じょうめんほう)に改めます。「免」は江戸時代,年貢率を表す言葉でした。つまり年貢率を一定にすることです。ではどう違うのか。
 五公五民の年貢率だとします。これは50%を年貢として納め,50%は農民の手元に残るという意味です。検見法の場合,米が100俵とれた年は,50俵が年貢です。50俵は農民のもの。ある年は豊作で150俵とれたとしたら,75俵は年貢で,75俵は手元に残る。もし凶作で60俵しかとれなかったら,30俵が年貢,30俵が残る。
 これを定免法にすると。まず何年間の平均収穫高を求ます。それが100俵であるなら,年貢は50俵です。豊作の年,150俵とれても年貢は50俵です。このとき農民の手元には100俵残ることになります。逆に凶作で60俵しかとれなかっても年貢は50俵です。手元には10俵しか残らない。
 こうすることによって幕府や大名は収入が安定します。農民の方もたくさんつくれば,たくさん手元に残ることになるから生産意欲が高まります。
 ところが1732年,西日本を中心に享保の大飢饉がおこります。これによって米価が高騰,打ちこわしが頻発するようになります。すると吉宗の享保の改革は頓挫。米将軍とよばれた吉宗は,今度は青木昆陽に命じて飢饉に強い甘藷(さつまいも)の栽培を研究させます。(青木昆陽も大岡忠相経由)
   
8 10代:家治(いえはる)のころ,老中となった田沼意次株仲間を奨励して〔 ① 〕・〔 ② 〕を納めさせ,商人資本と結びついて,〔 ③ 〕沼・〔 ④ 〕沼の干拓を手がけた。〔 ⑤ 〕とよばれる海産物を清に輸出して貿易の振興をはかり,蝦夷地開拓,専売制などをおこなったが,賄賂が横行し,天明の大飢饉や〔 ⑥ 〕の大噴火(1783年)により失脚した。
①運上  ②冥加  ③印旛  ④手賀  ⑤俵物  ⑥浅間山 ※①・② ③・④は順不同
  田沼政治
・株仲間の奨励(基礎編)
・干拓事業(応用編)…印旛沼・手賀沼(発展編)
・長崎貿易の振興(応用編・発展編)
・蝦夷地開拓(発展編)
・専売制(発展編)

 田沼意次は吉宗につき従った紀州藩家臣の出で,旗本から老中に成り上がりました。幕府施政者の中では異色の経歴の持ち主です。そのため将軍家や親藩・譜代の大名とは違ったものの見方ができた。田沼政治の特徴は,農業を中心とした保守的な政策ではなく,商業資本を利用した経済政策であったことを理解しておきましょう。
 ・鉄・真鍮・朝鮮人参などを幕府の専売(直営)とし,特定の商人に専売を許可したり,株仲間を積極的に公認して販売・製造の特権を与えるかわりに,運上・冥加とよばれる営業税を徴収しました。運上は一定の税率が課されたものですが,冥加は税率なしの「謝礼金」のようなものです。しかし実際は運上・冥加の区別なく幕府の中に流れて,不正・賄賂が横行した。2つはセットで一緒におぼえておきましょう。
 長崎貿易では輸出振興策がとられます。特に俵物(たわらもの)とよばれる食用海産物がさかんに輸出され,金銀が流入しました。俵物とは中国で珍味として食された海産物です。3つありますが,3つともおぼえておきましょう。ふかひれ・干しあわび・いりこ(ナマコ)です。これらの主産地が蝦夷地であったため,蝦夷地の開拓も進めました。当時,蝦夷地(北海道)にはたびたびロシアが通称を求めて現れていたため,まだ未開であった蝦夷地の調査が急がれたことも背景にあります。
俵物(上:ふかひれ,左:干しあわび,右:いりこ)
 田沼意次の政治は,天明の大飢饉をきっかけに幕を閉じます。  
   
9 11代:家斉を補佐した老中:松平定信は,天明の大飢饉後,旗本・御家人の救済のため〔 ① 〕への借金を破棄させる〔 ② 〕を出し,農民に対しては〔 ③ 〕,町人に対しては〔 ④ 〕,大名に対して〔 ⑤ 〕の制を実施した。また石川島に〔 ⑥ 〕を設けて無宿者・軽犯罪者に職業技術を授けた。
①札差  ②棄捐令  ③旧里帰農令  ④七分(金)積立  ⑤囲米  ⑥人足寄場
   天明の大飢饉や田沼時代に緩んだ政治(商業政策)を引き締めるため,改革に挑んだのが松平定信です。
寛政の改革
寛政異学の禁(応用編・発展編)
・旧里帰農令(応用編)
・棄捐令(応用編・発展編)
・囲米(応用編)

・七分積立(発展編)
・人足寄場(発展編)

 寛政異学の禁,旧里帰農令,棄捐令,囲い米は応用編で内容については説明しました。発展レベルでは名称もきちんと答えられるようにしておきたい。つけ加える点としては,寛政異学の禁ではそれまでの聖堂学問所が官立の昌平坂学問所となったこと。そして棄捐令は札差《第7回 テーマ史②》に対して出されたという点です。 
 残りの2つはかなり難易度は高いですが,厳しすぎて失敗したといわれる寛政の改革では,よい制度として明治時代まで続きます。
 七分積立(七分金積立)は,まず江戸の町人に倹約を命じて,節約できる額を算出させます。その70%(七分だから7%としてはいけない)を毎年積立させます。そのお金を貧民救済,災害救助,公共事業にあてるのです。人足寄場は,ホームレスや無職の者・軽犯罪者の自立支援施設です。 
   
10 12代:家慶(いえよし)のころ,老中となった水野忠邦は,〔 ① 〕を実施して農民の出稼ぎを禁止した。また江戸・大阪周辺の大名・旗本の領地を幕府の直轄地にしようとする〔 ② 〕を出したため,大名・旗本の反対を受けて失脚した。
①人返し令  ②上地(知)令
  天保の改革
・株仲間の解散(基礎編)
・人返し令(応用編・発展編)
・上地令(応用編・発展編)

 天保の改革の内容も応用編ですでに説明済みです。寛政の改革の旧里帰農令は帰農の奨励ですが,人返し令は強制であることを比較しておぼえておきましょう。【比較】
   
11 〔 ① 〕藩では下級武士の調所広郷(ずしょひろさと)が,砂糖の専売制・琉球貿易で利益を得て藩財政を再建した。〔 ② 〕藩では村田清風を中心に武士・富農・富商を基盤に財政再建をはかった。〔 ③ 〕藩は藩主:鍋島直正がオランダから学んで〔 ④ 〕を築造し,殖産興業につとめた。
①薩摩  ②長州  ③肥前(佐賀)  ④反射炉
   江戸時代中期から天保の改革前後,各藩でも財政難のため藩政の改革が必要になってきました。このとき成功した藩はのちに雄藩として江戸末期に頭角をあらわすことになりますが,失敗したところは落ちぶれていきます。
 では成功と失敗の差はなんだったのでしょうか?答えは幕府の政治にみられます。享保・寛政・天保の三大改革の根底には倹約と農村経済の復興にありました。しかし江戸時代中期には,貨幣経済が発達しており,その時代の流れを読み取ることができなかった幕府の政治はことごとく失敗に終わっています。唯一,貨幣経済に着目したのが田沼意次でした。田沼政治は賄賂と天明の大飢饉が致命的でしたが,飢饉もなく,不正もなければ大きな効果が見込まれたはずです。
 藩政改革成功のキーワードは,商業資本との結びつき専売制,そして西洋技術の導入です。
・薩摩藩
 (黒)砂糖の専売,琉球貿易(琉球を通じて清との密貿易)
・長州藩
 長州和紙,蝋の専売
・肥前藩
 陶磁器の専売,日本初の反射炉

 反射炉とは鉄を精錬するための炉で,燃焼室で発生させた熱を天井や壁に反射して,高温を発生させることができるものです。それまでの技術で精練した鉄は低温なため,もろかった。反射炉で精練した鉄(「鋼」)は硬く強くなりました。これによって大砲を製造する技術がアップしました。
 幕府がもっている大砲は,家康のころの大砲です。当時の西洋の大砲と比べたら破壊力も飛距離も全然違う。

 他には米沢藩(山形県)紅花の殖産。紅花は染料となります。殖産に努めた藩主:上杉鷹山(ようざん)は有名な言葉を残した人物です。「なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり」。
 西国諸藩で専売の対象となった櫨(はぜ)などが重要です。櫨は蝋の原料となります。
   
12 十三代:家定のころ,老中:〔   〕はペリーとの間に日米和親条約を結んだ。 
阿部正弘 
   日米和親条約を結んだときの老中は阿部正弘。井伊直弼ではありません。これは難です。 
   
13 大老:井伊直弼は,安政の大獄で〔 ① 〕や〔 ② 〕を処刑したが,〔 ③ 〕年の桜田門外の変で〔 ④ 〕藩浪士に暗殺された。
①吉田松陰  ②橋本左内  ③1860  ④水戸  ※①・②は順不同
   蛮社の獄で処罰されたのは高野長英・渡辺崋山安政の大獄で処罰されたのは吉田松陰橋下左内。まちがわないこと。吉田松陰は萩(山口)松下村塾の塾長。橋本左内は大阪適塾出身。
   
14 幕府は朝廷との融和をはかる〔 ① 〕の方針をとり,〔 ② 〕天皇の妹:〔 ③ 〕を14代:家茂(いえもち)の夫人に迎えた。
①公武合体  ②孝明(こうめい)  ③和宮(かずのみや)
  1860~1862年:公武合体論
 ここからの流れは非常にめまぐるしい。まず井伊直弼の死後,幕府は朝廷との融和をはかります。これを公武合体(論)といいます。井伊直弼は朝廷の勅許を得ずに不平等条約を結んで,幕府の信頼を失ったからです。
 公武合体のためにとられた方法が和宮降下というものでした。孝明天皇の妹を14代将軍:家茂夫人に迎えたのです。しかしこの方法は尊王攘夷派の怒りを買います。「皇族を格下の身分に嫁がせるとは!許せん」ということでしょうか。一部の過激派はこれを実行した老中:安藤信正を殺しにかかります。(未遂)結果的に井伊直弼がやられた桜田門外の変と同じようなことがおこってしう。(その名も坂下門外の変といいます。やはり水戸藩浪士の仕業でした。)
   
15 長州藩は〔 ① 〕が〔 ② 〕を組織して単独で倒幕をめざしていたが,〔 ③ 〕年,〔 ④ 〕藩の坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で,薩摩藩と同盟を結んだ。
①高杉晋作  ②奇兵隊  ③1866  ④土佐
  1862~1864年:尊王攘夷運動の激化
  坂下門外の変以降,断然尊王攘夷運動が盛り上がっていきます。薩摩藩生麦事件薩英戦争長州藩外国船砲撃事件四国艦隊下関砲撃事件《第6回 テーマ史①》は大規模な攘夷事件でしたが,いずれも敗北します。長州藩にいたっては京都で薩摩藩などによる攻撃を受け(禁門の変),さらには幕府による攻撃も受けます。(第一次長州征伐)
 この結果,薩長はいずれも攘夷の無謀さを知り,開国派が台頭するようになった。さらに攘夷を唱えていた孝明天皇までが,修好通商条約を正式に承認した。これで尊王攘夷は完全に瓦解し,尊王倒幕へとかわっていきました。
1865~1867年:倒幕運動
 尊王攘夷というといつも薩摩と長州は一緒にされますが,実は犬猿の仲といってもよかった。長州は生粋の尊王攘夷派でしたが,薩摩はどちらかというと幕府寄りの姿勢をみせていました。公武合体を支持したのも薩摩ですし,第一次長州征伐にも加わっています。しかしこの姿勢は藩として,つまり島津氏としての姿勢で下級武士の中では尊王攘夷派がいた。その中には西郷隆盛大久保利通らがいました。彼らがやがて藩政に深く関わるようになると,幕府寄りから倒幕へと傾いていきます。
 かといってこれまで犬猿の仲であった二藩が急に仲良くなるはずがありません。そこへ幕府が第二次長州征伐を計画した。長州は高杉晋作率いる奇兵隊を中心に受けてたとうとしますが,武器が不足している。そこに目をつけたのが坂本龍馬でした。長州は武器を欲しがっている。薩摩は薩英戦争以降イギリスと手を組んでいるから,そこから武器を調達できる。薩摩は食料に困っている(米のとれない土地柄であるに加え,武士の比率が高かった)。長州はそれを用意できる。龍馬はお互いが手を組めば,幕府に対抗できると説きます。薩長同盟の成立です。
 結果,第二次長州征伐は幕府軍の完敗。将軍:家茂は途中病死し,15代将軍には一橋家(水戸藩出身)から徳川慶喜が就きました。 
   
16 公武合体派の前土佐藩主:〔 ① 〕は家臣の〔 ② 〕を通じて大政奉還を建議し,15代:慶喜は1867年に朝廷にこれを申し出た。
①山内豊信(とよしげ)  ②後藤象二郎
   薩摩藩と同じく,公武合体派であった前土佐藩主:山内豊信(容堂とも)は,ここが自らの名を歴史に残すときと悟ったのでしょうか,家臣の後藤象二郎が申し出た大政奉還という一手を,将軍:慶喜に建議します。
 この大政奉還,実は坂本龍馬の知恵でした。龍馬は後藤に「船中八策」(船の中で語ったから)という幕府が倒れたのちの新政府構想も語っています。 
   
17 1868年,元号を明治に改元すると,〔   〕の制として天皇一代を一時代とすると同時に元号も変えないこととした。 
 一世一元
   
18 新政府の政治組織は〔 ① 〕制がとられ,太政大臣・右大臣・左大臣と〔 ② 〕などで構成されていた。〔 ② 〕には〔 ③ 〕・西郷隆盛木戸孝允ら維新功労者が就任し,その他中央官庁の要職は薩長に加えて〔 ④ 〕藩・〔 ⑤ 〕藩の4藩出身者が独占したため藩閥政府とよばれた。1873年には〔 ⑥ 〕省が設けられ,初代内務卿に〔 ③ 〕が就き,殖産興業や地方行政・土木などの任にあたり,〔 ⑦ 〕を設けて警察も直接指揮した。 
①太政官  ②参議  ③大久保利通  ④土佐  ⑤肥前(佐賀)  ⑥内務  ⑦警視庁  ※④・⑤は順不同 
   明治政府では律令制下の太政官制が復活します。ただしその中身はコロコロと変わりますのでいちいち詳しくおぼえる必要はありません。

 これまでの「だいしょうかん」と区別し「だじょうかん」と読みます。太政大臣・右大臣・左大臣など最高クラスには皇族や公家が就きましたが,参議以下要職には維新功労者や薩長土肥出身者が就いたため藩閥政府とよばれるようになります。
 中でも権力を握ったのは薩摩藩出身の大久保利通です。利通は1873年に内務省を設置し,初代の内務卿(内務大臣ではない)に就任し,内政を多岐にわたって指揮しました。当時の内務省の仕事としておさえておいてほしいのは,地方行政・殖産興業・警察です。警察は地方では府県知事の管轄でしたが,東京府では内務省が直接統制下に置く警視庁が置かれました。 
   
19 版籍奉還がおこなわれたあとも旧藩主は〔 ① 〕として藩政を継続したが,廃藩置県がおこなわれると府・県には〔 ② 〕・〔 ③ 〕が中央から派遣された。 
①知藩事  ②府知事  ③県令 
 版籍奉還は,薩長土肥の4藩が先導する形でおこなわれ,他藩はこれにならう形となりました。これまでの藩主は「知藩事」と肩書きが変わりますが,藩政を継続します。「版籍奉還によって,旧藩主は藩政から切りはなされた」と書かれている文は×ですから注意して下さい。【落とし穴】
 これでは新政府が目指す中央集権体制が確立しませんから,今度は廃藩置県を断行した。ここではよく「断行」したという言葉が使われるんですが,政府は薩摩・長州・土佐から天皇の護衛をする政府直属の軍団(近衛兵)を募ります。この武力を背景に廃藩置県を一挙に断行した。それだけではありません。政府は藩の負債を肩代わりしてやることにしました。そのため相変わらず財政難に苦しむ旧藩主(知藩事)は,抵抗することなく廃藩置県を受け入れました。
 廃藩置県の結果,3府302県が成立しました。302県はどんどん合併して43県まで減っていきますが,大切なのは3府です。京都と大阪と東京が府でした。そして府には府知事,県には県令中央政府から派遣される。これは律令制下の国司も同じですね。こうして国内の政治的統一が完成しました。
   
20 〔 ① 〕年,征韓論を唱える西郷・板垣らが,国内政治を優先させる〔 ② 〕らに敗れて下野した。これを〔 ③ 〕という。下野したものの中には不平士族を擁して政府に反乱をおこした。江藤新平らの〔 ④ 〕や〔 ⑤ 〕年の西南戦争がその代表である。 
①1873  ②大久保利通  ③明治六年の政変  ④佐賀の乱  ⑤1877 
   1871年岩倉具視を団長とする岩倉使節団が欧米に出発します。この中に大久保利通・木戸孝允はいましたが,西郷隆盛はいなかったことに注意して下さい。留守番役です。彼らが渡航中も維新は進められていくわけですが,居残組のボスである西郷には新しい時代から取り残されていく士族の不満がヒシヒシと感じられる。彼らの不満のはけ口をつくってやらないことには,いつか爆発するのではないかと西郷や板垣退助は征韓論を持ち出しました。
 2年後,岩倉使節団が帰ってきます。進んだ欧米を肌で感じた渡航組は内政の充実を優先させるべきだと征韓論を却下,結局,西郷や板垣らは政府を去ることになりました。これが1873年明治六年の政変といいます。
 この後,士族に対する特権剥奪が加速します。江戸時代,武士は自分が治める土地からの年貢や藩から支給される米によって,必要ならそれをお金に換えて生活していました。このように武士のお給料を俸禄といいます。「俸」も「禄」も「お給料・手当て」の意味です。
 しかし版籍奉還が成ると武士が支配する土地もなくなってしまいましたから,収入がなくなります。そこで政府がかわって支払ってあげることにしました。これを秩禄といいます。ただし江戸時代までと比べて大幅減です。
 一方政府としてはこの秩禄は大きな財政負担です。しかし徴兵令によって士族にだけ給料をあげる根拠もなくなった。かろうじて征韓論によって士族を擁護していた西郷も政府を去ったし,ここらで士族の秩禄をやめてもいいだろう。というわけで秩禄をやめようとします。最初は希望者だけ,のちに強制的にやめます。これを「秩禄処分」といいます。そのかわり数年分の俸禄と同額の公債を与えて,それをすぐにお金に換えようが,利子を得ようが好きにすればよいとします。当然,これも大金ではありません。
 収入がなくなった士族は官吏・教師・警察官になるものが多かった。あるいは屯田兵として採用されたものもいました。恵まれない士族は公債を手放して,わずかばかりのお金を元手になれない商売をはじめるものもいました。しかしそのほとんどが失敗します。「武士の商法」といえば,「下手な商売」の例えです。
 秩禄が全廃されたのと同じ1876年,廃刀令も出されます。これですべての特権が奪われた士族は大激怒,不平士族の乱が次々と勃発したわけです。
不平士族の乱
明治6年の政変(1873)→佐賀の乱(1874)→秩禄処分・廃刀令→神風連の乱(熊本)・秋月の乱(福岡)・萩の乱(山口)→西南戦争1877)
 ・不平士族の乱は佐賀の乱(江藤新平)に始まり,西南戦争(西郷隆盛)に終わる
 ・西南戦争は最大規模であり,最後の国内内戦
 ・西南戦争最大の激戦地:田原坂(たばるざか)は鹿児島ではなく,熊本。(これは難)

これら不平士族の乱のほとんどが西日本,しかも藩閥政府をつくっていた薩・長・肥が中心であったことが大切(明治六年の政変が原因)。【歴史的意義】
 いやしかし土佐は?そう土佐は自由民権運動の中心となったのです。
   
21 1873年,徴兵令が発布されると〔   〕一揆とよばれる徴兵令反対一揆がおこった。 
血税
   徴兵令に先んじて「徴兵告諭」というものが出されました。徴兵令の趣旨を告げようとしたもので,その中に「血税」という言葉があって,本当に生血をとられるという誤解が生じました。このことから徴兵令反対一揆がおこったともいわれます。そこで徴兵令反対一揆は別名:血税一揆ともいうとおぼえておいて下さい。
 徴兵令は国民皆兵を目指し,20歳以上の男子を徴兵するためのものでしたが,実際はすべての男子が徴兵されるわけではなかった。免除の条件としては以下のものがある。
・身長の低いもの
・洋行者
・戸主,家督相続人
・官吏,学生

・高額代人料納付者(直接国税ではない)
というわけで,実際に兵役を負担したのは農村の次男以下でした。徴兵令反対一揆は,「血税」の誤解からおこったものであったにしろ,農村では人手を奪われることが大きな痛手だった。
   
22 〔 ① 〕年,板垣退助民撰議院設立建白書を政府に提出して国会の早期開設を要求し,立志社(高知)を設立した。翌年,〔 ② 〕で〔 ③ 〕を結成するなど自由民権運動が高揚をみせると,政府は〔 ④ 〕を発布して言論弾圧をおこなった。さらに板垣は1880年,〔 ③ 〕を〔 ⑤ 〕と改称し,国会開設の請願書を提出したが,政府は〔 ⑥ 〕を制定して弾圧した。 
①1874  ②大阪  ③愛国社  ④新聞紙条例  ⑤国会期成同盟  ⑥集会条例 
  1874~1881年…自由民権運動の発展と政府の弾圧
 この時期の自由民権運動で活躍するのはほとんど板垣退助だけです。したがって板垣の動きと政府の動きをおっていけばよい。
   
23 〔 ① 〕年,北海道開拓使官有物払下げ事件に対する国民の非難が高まると,政府は〔 ② 〕を発して10年後の国会開設を約束した。 
①1881  ②国会開設の勅諭 
  1881年~1890年…国会開設に向けての準備
 政府の弾圧姿勢が一転して,民権派の要求を聞き入れるきっかけとなったのが北海道開拓使官有物払下げ事件です。これについては応用編で説明済みです。1881年は自由民権運動の転換期になった。
 以降,民権派も政府側も10年後の国会開設に向けての準備をすることになったのがこの期間のポイントです。 
   
24 1881年,板垣退助は主権在民・一院制を主張する〔 ① 〕流の急進的な自由党を結成した。また1882年,大隈重は君民統治・二院制を主張する〔 ② 〕流の穏健な立憲改進党を結成した。このころの自由民権運動家には,自由党の理論的指導者となった中江兆民や〔 ③ 〕,また〔 ④ 〕などの女性運動家もいた。 
①フランス  ②イギリス  ③植木枝盛(えもり)  ④岸田俊子 
   民権派の主流:板垣退助は早速,政党を結成します。国会期成同盟を母体とした自由党です。遅れて大隈重信1882年立憲改進党を結成します。大隈の方が1年遅れというのが,ポイント。【時期】もともと大隈重信も政府側の人間でした。政府内での大隈は自由民権運動に近いものがあった。そこで政府の中心であった伊藤博文と対立します。憲法制定論議においても大隈はイギリス流の議院内閣制を主張し,伊藤はプロシア流君主大権を主張しました。国会開設においても即刻開設を主張する大隈に対し,伊藤は時期尚早でした。
 先手をうったのは大隈だとされます。開拓使払下げをリークしたのが大隈だとみられます。これに対し伊藤は岩倉具視らと結託し,大隈を罷免。大隈は一旦政界を退き,佐賀に下野(げや)します。(明治十四年の政変)
 大隈を追放したことで,政府内では憲法はプロシア憲法を参考にするという意見が優勢になり,1882年,伊藤はこれを学ぶため渡欧します。また大隈が下野したことでもと旧肥前佐賀藩は,板垣の旧土佐藩とともに政界では劣勢となり,薩長の2藩の藩閥が優勢となりました。内閣制度ができると首相はほぼ薩長2藩から輩出されることになります。
 一方大隈は板垣に遅れて1882年,立憲改進党を結成しました。党是は大隈の主張したイギリス流立憲君主制,その特徴は二院制による議院内閣制です。また同年,人材養成のための東京専門学校(現:早稲田大学)を設立しています。 
 対する板垣退助の自由党は,フランス流主権在民を主張します。主権在民はフランス革命の人権宣言に謳われたルソーの思想でしたね。このルソーの『社会契約論』を翻訳した中江兆民が自由民権運動の初期から関わっている。もちろんそれは自由党の中に浸透していた。また福沢諭吉に学び,板垣に立志社から国会開設まで従った植木枝盛という人物も稀に出題されます。
 また盲点でなおかつ難問ですが,自由民権運動には女性運動家もいた。日本でもっとも早い女性解放活動家の一人でしょう。岸田俊子という女性です。
板垣退助・中江兆民・植木枝盛に岸田俊子,これらの人物はみな高知(土佐)出身です。
   
25 大日本帝国憲法が制定される以前,民権派はそれぞれの意見をまとめた憲法草案を発表した。中でも〔   〕憲法(草案)は基本的人権について触れ,国民の権利についてはもっとも現憲法に近いものとされている。 
五日市 
   大日本帝国憲法が制定される前,民権派が独自に検討して発表した憲法を私擬憲法といいます。自由党では植木枝盛が「東洋大日本国国憲按」というのをつくります。天皇大権・人民主権のほか,抵抗権・革命権といった急進的な内容でした。
 もっとも注目しておきたいのは「五日市憲法」というものです。その内容の4分3は基本的人権について述べたもので国民の権利を重視した内容です。
 大切なのは,これらの私擬憲法は大日本帝国憲法に活かされることはなかったという点です。【落とし穴】 
   
26 1887年,第一次〔 ① 〕内閣は,自由民権運動の激化に対して反政府運動を弾圧する〔 ③ 〕を制定した。 
①伊藤博文  ②保安条例 
   政党の結成,私擬憲法の制定など国会開設に向けて運動が展開される一方で,急進派(特に自由党)は生活苦の農民らと結びついて過激な行動をとるようになりました(困民党)。1884年秩父事件がその例としてよく出されるのは,その中で最大の事件だからです。このような事件が続いた結果,自由党は解党。立憲改進党も大隈が脱党し,自由民権運動は下火になります。
 運動が最後の盛り上がりをみせたのは,1887年。政府はこのころ井上馨による極端な欧化政策がおこなわれていました。鹿鳴館などがそうです。自由民権派はこの井上外交を批判し,改めて政府に要求をつきつきけます。言論の自由・地租軽減・外交政策の転換。そして民権諸派の力を結集し,反政府統一運動を展開しました。
 これに対し,政府は保安条例を制定。集会条例と同様,集会・結社を規制するだけでなく,違反者は皇居から3里(約12㎞)以内に3年間入ることは許されませんでした。中江兆民やのちに護憲運動で活躍する尾崎行雄らがこれで東京から追放されています。この条例によって自由民権運動は息の根をとめられた。新聞紙条例・集会条例・保安条例は出されたタイミングが重要です。
 さて,この保安条例のときの内閣総理大臣はだれでしょう。1885年に内閣制度が成立していますね。よってそのときの初代総理大臣は伊藤博文でした。
   
27 大日本帝国憲法は〔 ① 〕で起草され,1889年2月11日,〔 ② 〕内閣のときに制定された。天皇の意志によって制定された〔 ③ 〕憲法であり,天皇は軍隊の指揮統率権である〔 ④ 〕など,さまざまな権能(天皇大権)をもつと定められた。 
①枢密院  ②黒田清隆  ③欽定  ④統帥権(とうすい) 
  大日本帝国憲法の注意点
 大日本帝国憲法は,明治天皇臨席のもと枢密院という機関で秘密裡に作成されたこと。制定されたときの内閣総理大臣は伊藤博文ではなく,黒田清隆(薩摩出身)であったこと。【落とし穴】陸軍・海軍は内閣の下に置かれたのではなく,天皇の直接指揮下に置かれたということ(統帥権)。 
旧枢密院(現皇居警察本部)
   
28 大日本帝国憲法の施行後,〔 ① 〕法がフランスの〔 ② 〕によって起草されたが,より〔 ③ 〕権の強い家族制度に改正されて公布された。 
①民  ②ボアソナード  ③戸主  
   
29 第一次〔   〕内閣のもと教育勅語が発布され,第1回帝国議会が開かれた。議会では予算審議において野党と対立したが,軍拡予算を辛うじて成立させた。 
山県有朋 
  帝国議会の注意点
・第1回帝国議会は,山県有朋内閣のもとで開かれた。(1890年 教育勅語,第1回帝国議会)
・貴族院と衆議院は対等な関係にあった。【落とし穴】
・貴族院議員は華族令によって区分された「公・侯・伯・子・男」の爵位をもつものや多額納税者から選ばれた。(公爵・侯爵は自動的に議員となる)
・衆議院議員の被選挙権は,直接国税15円以上を納める,満30歳以上の男子であった。
・初期の帝国議会では野党=民党(自由民権派政党)が過半数を占めた。
・初期の帝国議会では予算をめぐり政府(軍事拡張)と民党(経費削減)が対立した。
・予算案に関しては否決はできず,修正のみ可能であった。【落とし穴】

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