歴史 第5回 各時代の特色④ 応用編

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日清・日露戦争から昭和時代

1 1894年,朝鮮で〔   〕がおこると,日清両国が鎮圧のため出兵し,日清戦争に発展した。
甲午農民戦争
   これから戦争の発端となった事件・出来事を,それぞれおぼえておきましょう。(日露戦争以外)【比較】
・日清戦争…甲午農民戦争(東学党の乱とも)
・第一次世界大戦…サラエボ事件
・満州事変…柳条湖事件
・日中戦争…盧溝橋事件
・第二次世界大戦…ドイツのポーランド侵攻
・太平洋戦争…真珠湾攻撃
 
   
2 日清戦争後の下関条約では,清国は朝鮮の独立を認め,日本に〔 ① 〕・〔 ② 〕などを割譲し,賠償金2億両を支払うことになった。
①台湾  ②遼東(リャオトン)半島  ※順不同
   
3 満州進出をねらう〔 ① 〕はドイツ・フランスとともに遼東半島の返還を日本に迫った。これを〔 ② 〕といい,これに対し日本は〔 ③ 〕年,〔 ④ 〕と同盟を結んで〔 ① 〕の南下に備えた。
①ロシア  ②三国干渉  ③1902  ④イギリス
   日英同盟の目的はロシア(の南下)に対抗するため【歴史的意義・説明(目的)】 
   
4 日露戦争に対して国内では,女流歌人の〔 ① 〕,キリスト教徒の〔 ② 〕,社会主義者の〔 ③ 〕らが戦争反対を訴えた。
①与謝野晶子  ②内村鑑三  ③幸徳秋水(こうとくしゅうすい)
   与謝野晶子はみなさんよくおぼえていますね。戦争に従軍していた弟にあてた「君死にたまふことなかれ」の詩ですね。しかしあとの2人となると,なかなか出てこないね。このあたりが差がつくところなんでしょう。 
   
5 1905年,〔 ① 〕の仲介で結ばれたポーツマス条約では,ロシアは日本の韓国における優越権を認め,〔 ② 〕・〔 ③ 〕を日本に割譲することになった。しかし賠償金を得られなかったことに対して民衆が暴動をおこった。これを〔 ④ 〕という。
①アメリカ  ②南樺太  ③南満州鉄道  ④日比谷焼打ち事件  ※②・③は順不同
   日本はロシアとの戦争に日清戦争の8倍以上もの戦費をかけて,借金までして戦ったのに賠償金が得られませんでした。国民や世論の中には戦争継続を訴えるものもいて,ついには暴徒化した。これが日比谷焼打ち事件です。【歴史的意義】東京日比谷公園は現在皇居の南側にあり,官邸・新聞社・外交官が集まる場所でもありました。あの鹿鳴館も日比谷にありました。
 賠償金に関して,下関条約とポーツマス条約を【比較】させておきましょう。
・下関条約→多額の賠償金→軍備拡張費・八幡製鉄所
・ポーツマス条約→賠償金なし→日比谷焼打ち事件
 
   
6 ポーツマス条約後,日本は韓国に〔 ① 〕を置き,〔 ② 〕を初代統監とした。〔 ② 〕が韓国人に暗殺されると,〔 ③ 〕年,〔 ④ 〕条約を結び,〔 ⑤ 〕を置いて直接統治した。,
①韓国統監府  ②伊藤博文  ③1910  ④日韓併合  ⑤朝鮮総督府
   朝鮮の植民地化の過程をみていきましょう。
・下関条約…清は朝鮮の独立を認める。
 ここでは表立って日本が朝鮮に何かするというわけではありません。清とのこれまでの従属関係を断ち切ったというのが重要。朝鮮はこのあと,国号(国名)を韓国(大韓帝国)と改称しています。
・ポーツマス条約…日本の韓国における優越権を認める。韓国統監府の設置(軍事・外交権掌握)
 統監府というのは,軍事権を掌握する機関です。軍事と外交は密接な関係にありますからこれによって日本は韓国の外交権を奪ったのです。またポーツマス条約における朝鮮半島の国は朝鮮国ではなく,韓国にいることに注意。
・日韓併合条約…朝鮮総督府の設置(内政権掌握)
 外交権を奪った日本は,引き続き内政権を奪います。決定的な事件,伊藤博文暗殺事件がおこり,これをきっかけに日本は韓国を併合。朝鮮半島は日本の植民地となりました。(併合後は「朝鮮」)朝鮮総督府とは,文字通り,朝鮮の「すべてを監督する」機関です。
 気をつけたいのは「韓国統監府」と「朝鮮総督府」のタイミングと名前です。すこしややこしいですが,「韓国」という名前を使うのは,日露戦争(日清戦争後)から日韓併合までとおぼえておいて下さい。【時期】 
   
7 明治末期から大正初期にかけて,桂太郎(山口県出身)内閣が三たび内閣を組織し,閥族(藩閥)政治をすすめたため〔 ① 〕などが中心となって〔 ② 〕を展開した。 
①犬養毅(尾崎行雄)  ②護憲運動
   ここから大正時代です。大正時代は1912~1926年です。できればおぼえておきたいですね。明治が1912年までであったこと。そして昭和が1926年からだということが同時にわかります。【時代区分】
 明治時代,自由民権運動によって批判された藩閥政治は,大正と時代がかわっても首相の座につくのは,長州・薩摩に公家出身者ばかりで,相変わらず続いたままでした。
 そこで再び藩閥政治打倒をかかげた運動が始まります。これが護憲運動です。「護憲」とは「憲政擁護」という難しい言葉の略です。大正時代には二度の護憲運動が展開されましたが,応用編では2つの区別は特に必要ありません。
 「憲政」とはこれもまた略語で「立憲政治」のこと。そして「憲」とは,「憲法」です。「憲法」は政治家が守らなければならない法です。藩閥政治とは,薩摩や長州出身者が自分たちの,自分たちによる,自分たちの政治をおこなうことでした。自分たちの都合にルールを合わせていくのです。それでは「憲法」や「法律」は何のためにあるのかわかりません。「憲政擁護」とは簡単にいうと「政治家よ,ルールを守れ!」
 では「藩閥政治を打破」するための「憲政擁護(護憲)」とは具体的にどういうことをめざしていくのか?答えは簡単,「民主主義」です。もうちょっと具体的にいうと「政党政治」・「普通選挙」
 例えば,現在の日本では国民が国会議員という代表者を選ぶ。国会の中で与党となった政党の党首から国会議員の投票によって総理大臣を選びます。代表者の中の代表者が首相です。国民の信任を得てるからこそ,首相は政治を進めていけるわけです。明治時代から大正時代の藩閥政治では,そこに国民(政党)が入る余地がありませんでした。
 さらに政党が力を発揮するには,選挙しかありません。しかもできるだけ多くの国民が選挙に参加してこそ「民主主義」。「普通選挙」による「政党政治」=「民主主義」による「立憲政治」。これをめざすのが「護憲運動でした。
 中心人物は尾崎行雄犬養毅ですが,犬養毅をおぼえておいた方がよいでしょう。理由は犬養毅はもう一度,高校入試の歴史では登場します。明治時代の自由民権運動,大正時代の護憲運動,【比較】しておぼえましょう。
  
   
8 1914年,ヨーロッパで第一次世界大戦がおこると,日本は〔 ① 〕に基づいて連合国側に参戦し,ドイツの根拠地がある〔 ② 〕半島の青島(チンタオ)などを攻撃した。 
①日英同盟  ②山東
   下関条約で得た遼東半島の場所をおぼえたら,対面の山東半島を確認しておきましょう。どちらかを答えさせるとき,必ず両方に選択肢が設置されています。【位置】 
   
9 大戦中の〔 ① 〕年,ロシアで革命がおこり社会主義政府が成立すると,日本はこれに干渉するためシベリア出兵を開始した。これに対し国内で米の買占めがおこると,〔 ③ 〕県の漁村から米騒動が全国的に広がった。この責任をとって寺内内閣が辞職し,〔 ④ 〕の原敬が最初の本格的政党内閣を組織した。
①1917  ②富山  ③立憲政友会
   米騒動のはじまりは富山県【位置】漁村(農村ではない)の主婦から全国に広がりました。新聞には「越中女房一揆」と掲載されました。今風にいえば「富山県おばちゃん暴動」。
 原敬の所属する政党:立憲政友会は差が出るところですね。内閣は陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外はすべてこの政党で構成されました。そこで「初の本格的政党内閣」とよばれるのです。【歴史的意義】岩手県出身で平民籍であったことから「平民宰相」とよばれていました。 
   
10 〔 ① 〕年,〔 ② 〕内閣は普通選挙法を制定し,選挙権に納税上の制限はなくなった。その一方で政府は治安維持法を制定して社会主義者の取り締まりを強化した。
①1925  ②加藤高明
   護憲運動のもう1つの目標が達成された年,1925年は超重要です。さてこのとき,選挙権をもつ人は全人口比でどれぐらいになったか?「約20%」です。これがバチッとできれば,かっこいいですね。
 普通選挙法治安維持法【セット】は基礎編でもお話しましたが,必須中の必須です。
 
 上り表をみてみましょう。日本の選挙権の歴史です。現在は18歳以上の男女にさらに変更されていますが,上の表のように推移しています。おぼえておくべきところは赤い部分です。内閣は大正時代の加藤高明ぐらいでよいでしょう。「25年の25歳以上」と「25」をキーワードにおぼえる。実施年は最初の1890年,そして戦後すぐの選挙とをおぼえておけばよい。
 直接国税は最初の15円以上のみ。性別は戦後から男女になったとしておけばよい。年齢も同様に戦後から20歳以上になった。
 では差がつくのは選挙権をもつ人がどれだけいたかを示す全人口比です。最初は1.1%。これは小数点以下までおぼえておくこと。そして次から順に「2」→「5」→「20」→「50」と2と5を繰り返しますので「ニコ(2・5)・ニコ(2・5)」とおぼえておきましょう。この表はそのまま出題されることもあります。
   
11 〔 ① 〕年,奉天郊外の〔 ② 〕で南満州鉄道爆破事件がおき,満州事変がはじまった。
①1931  ②柳条湖(りゅうじょうこ)
   1931年はこれからの昭和史の基準となる年です。柳条湖事件とは,南満州鉄道が爆破された地名。決して「柳条湖」を書きなさいという問題はでません。問題中に「柳条湖」とあれば,満州事変がはじまった場所だと頭の中で変換できればよい。
 少し難易度は高いですが,柳条湖は「奉天郊外」であるともおぼえておきたい。正誤問題では「奉天」が別の地名(例えば北京)になっていると,それは誤文です。 
   
12 1932年,海軍青年将校がおこした五・一五事件で〔   〕首相が暗殺されると,政党政治は終わりをつげた。また1936年の陸軍青年将校による二・二六事件以降は,軍部を中心とした内閣が組織されるようになった。
犬養毅
   五・一五事件は「海軍」がおこし,首相が殺された二・二六事件は「陸軍」がおこし首相は死ななかった。(命は助かりました)【比較】
 次に歴史の流れとしても重要です。五・一五事件には2つの背景があります。まずは満州事変。満州事変によって軍部は政府の意向とは関係なく,満州国を建国します。政府の当時の首相は犬養毅でしたが,彼はこの軍部の動きに反対でした。そこで犬養が狙われた。
 もう1つ,なぜ海軍がこのような動きに出たかというと,1930年ロンドン会議とそこで結ばれたロンドン海軍軍縮条約でした。海軍は当然この軍縮条約には反対です。しかも当時,軍のボスは政府ではなく,天皇でした。血の気の多い若いもの(青年将校)の中には,政府の軍縮条約締結は越権行為に映ったのです。このような背景から五・一五事件はおこったのです。このあたりの【流れ】は以下のことをまとめておぼえること。
 満州事変(1931)→満州国建国→五・一五事件→国際連盟脱退
 次に五・一五事件の意義です。五・一五事件のあと,首相の地位についたのは陸軍の人間でした。これはこれまで続いてきた政党政治が終わったということを意味します。【歴史的意義】
 五・一五事件ののち陸軍や海軍出身の内閣が成立し,日本は満州を基点に戦争拡大への道をとり始めます。陸軍の役割は,敵兵の殲滅と敵国領土の制圧です。海軍の役割は,補給路の確保と陸軍の後方支援です。どちらも車の両輪としてなくてはならない存在ですが,相手国領土と直接対峙するという点で主導権は陸軍にありました。
 その陸軍内部では2つの派閥が対立していたのです。1つは天皇を前面に押し立てて,天皇制を否定しようとするソビエト連邦(共産主義・社会主義)こそ倒すべき真の敵だと考える派閥。つまりこの派閥は中国のとの戦争に消極的です。それに対して軍が政府を統制し,イギリスやフランスのようなブロック形成と拡大こそ今の日本の制優先事項だとする派閥。この派閥の目的は,ドイツ・イタリアのようなファシズム体制を日本に確立させて,中国へ進出することです。そこで先に動いたのが前者の派閥。これが二・二六事件です。
 事件を起こした陸軍青年将校は,首都:東京を占拠し,政府要人を暗殺します。そして天皇を祭りあげようとしますが,天皇本人がそれには乗らない。結局,彼らの目的は達することなく,鎮圧されます。
 その後,当然後者の派閥が力をもつことになり,軍政一致の政権が強化されることになりました。まあ心置きなく中国との戦争に突入できるわけです。ちなみにこの派閥のリーダーが日米開戦時の東条英機です。
 要点はこうです。二・二六事件の結果,軍事政権が確立され,日中戦争へと突入した。よって二・二六事件は日中戦争と関係があるのだ。五・一五事件と満州事変二・二六事件と日中戦争【比較】し,【セット】で。
 二・二六事件(1936)→日中戦争(1937)→国家総動員法(1938)【流れ】 
   
13 〔 ① 〕年,北京郊外の〔 ② 〕で日中両軍が衝突すると日中戦争がはじまった。同年日本軍は中国国民政府の首都:〔 ③ 〕を占領したが,中国側は重慶に首都を移して抗戦を続けたため,戦争が長期化した。
①1937  ②盧溝橋(ろこうきょう)  ③南京
   盧溝橋事件も柳条湖事件と同じく,めったに書きなさいという問題はでません。(少ないという意味です。 )選択肢中に「盧溝橋」とあれば,日中戦争と変換できるようにだけはなっておいて下さい。それと盧溝橋は北京郊外です。これも満州事変(奉天郊外)と【比較】させておぼえておきましょう。
 国民政府とは,話すと少しややこしいので,中華民国政府のことだと思って下さい。当時の首都は南京です。それを蔣介石が内陸部の重慶という場所に移したところから戦争は長期化の様相をみせます。重慶は少し難しいので発展レベルです。この長期化に対して日本では国家総動員法が制定された。
二・二六事件→日中戦争→国家総動員法
と日中戦争を基準にして他の2つの出来事を関連づけて流れでおさえることが大切です。
 五・一五事件と二・二六事件は教科書などの説明では同じ場所に書かれており,1つの小単元としてあつかわれていることがあります。軍部の発言力が大きくなったという点では共通していますが,歴史的流れとしてまとめると2つは別のところにあり,テスト問題でもこの流れを問う問題が非常に多い。したがっておぼえるときは,五・一五事件と満州事変,二・二六事件と日中戦争を関連づけて【流れ】の中でおぼえることが大切です。
   
14 1940年になると,既成の政党が解散されて〔 ① 〕が成立した。またドイツ・イタリアとの間で〔 ②  〕が結ばれた。
①大政翼賛会  ②日独伊三国(軍事)同盟
   少しピンとこないかもしれません。こう考えて下さい。ドイツはナチス(ナチ党),イタリアはファシスト党の独裁。では日本は?これが「大政翼賛会」です。 
   
15 1941年,日本は北方(満州)の安全を確保するため〔 ① 〕を結ぶと,12月8日に〔 ② 〕内閣はハワイの〔 ③ 〕を奇襲し,太平洋戦争をはじめた。
①日ソ中立条約  ②東条英機  ③真珠湾
   日本の戦争は,北から南へという方向をまずおさえておくこと。南へ南へと戦線を広げていくと,今度は北の守りが薄くなります。そこで心配なのが,満州国。その北方には日本の宿敵ソ連(旧ロシア)がいる。ソ連はソ連でヨーロッパ側でドイツとの戦争が心配です。両者は互いに戦わないという約束をして,安心して次の戦争に突入することができる。これが日ソ中立条約です。 
   
16 1942年6月,〔 ① 〕海戦で敗れると劣勢となり,戦局は転換した。1944年にはサイパンが占領され米軍の日本爆撃基地となり,1945年3月から米軍は〔 ② 〕に上陸,東京・大阪など大都市も空襲を受けた。8月6日に〔 ③ 〕,8月9日に〔 ④ 〕に原子爆弾が投下され,さらに日ソ中立条約を破ってソ連が対日参戦すると,8月14日,日本はポツダム宣言を受諾し,翌日天皇はラジオ放送で終戦を国民に告げた。
①ミッドウェー  ②沖縄  ③広島  ④長崎 
   真珠湾攻撃は快勝でしたが,あっという間に劣勢に立たされます。そのきっけがミッドウェー海戦。1945年の【流れ】をまとめるとこうなる。
  沖縄戦→広島・長崎に原爆→ソ連の対日参戦→ポツダム宣言受諾→終戦
 終戦の日は8月15日ですが,ポツダム宣言を受け入れたのは14日です。
   
17 日本の占領のため〔 ① 〕(連合国軍総司令部)が置かれ,アメリカの〔 ② 〕が総司令官として赴任した。
①GHQ  ②マッカーサー 
   
18 GHQは日本の民主化のため,治安維持法の廃止,婦人参政権(〔 ① 〕に選挙権),〔 ② 〕三法・〔 ③ 〕法(教育の民主化)の制定,農地改革財閥解体などの改革をおこなった。また政界・軍部の指導者の戦争責任に対して,〔 ④ 〕が開かれた。 
①20歳以上の男女  ②労働  ③教育基本法  ④極東国際軍事裁判 
   中でも重要なのが選挙法の改正です。絶対にまちがえてはいけません。このとき有権者の数は全人口比の約50%となった。これも知っておいた方がよいですね。 
   
19 日本国憲法は〔 ① 〕(年月日)に公布され,〔 ② 〕(年月日)に施行された。
①1946年11月3日  ②1947年5月3日 
   公民でも重要。こんなところで落とさないように確実におぼえましょう。 
   
20 〔 ① 〕年,朝鮮戦争が勃発すると,〔 ② 〕が発足し,のちの自衛隊の前身となった。またアメリカは日本との講和を急ぎ,〔 ③ 〕年,サンフランシスコ平和条約を結んで日本の独立を認めるとともに,同日,日米安全保障条約を結んで米軍の日本駐留を認めさせた。このときの全権は首相の〔 ④ 〕であった。  
①1950  ②警察予備隊  ③1951  ④吉田茂 
   朝鮮戦争とサンフランシスコ平和条約の背景は,基礎編でお話しました。ここでは確実に年代をおぼえておきたい。 
   
21 1955年,〔 ① 〕が発足すると1993年まで与党として政権を握った。これを〔 ② 〕という。 
①自由民主党  ②55年体制 
  1955年の重要事項
・自由民主党の結成(55年体制)
・アジアアフリカ会議…インドネシアのバンドンで。
・第1回原水爆禁止世界大会…広島で
。 
   
22 1961年,岸信介首相は〔 ① 〕条約を結ぶと,国内で〔 ② 〕がおこった。この騒動の収拾を図るため,岸内閣は総辞職し,次の〔 ③ 〕首相は「〔 ④ 〕」をスローガンに国民の目を経済発展に向けさせた。 
①日米新安全保障  ②安保闘争  ③池田勇人(はやと)  ④所得倍増 
   1951年安全保障条約は,当時の日本や世界情勢を考えて仕方のない条約でした。アメリカに日本は守ってもらうしかなかった。朝鮮戦争が休戦となり,日本は経済復興を果たし,高度経済成長期に入った1960年代ともなると政治的にも経済的にも独り立ちをはじめようとします。そこでアメリカが一方的に結ばせた安保条約を対等な関係にしたいと考えた岸内閣は,新しい形の安保条約締結をめざします。そしてより対等な関係の条約として日米安全保障条約を改定しました。(日米新安保条約)
 例えば,旧安保条約では,アメリカは日本防衛の権利はありますが,義務はありません。一方的に日本に駐留し,日本の土地・施設を使用します。新安保ではアメリカにははっきりと日本防衛の義務があり,そのかわりとして日本の土地・施設を使わせてもらう。また何か問題があったら,両国で協議し,軍事行動はアメリカ軍と自衛隊が共同しておこないます。アメリカ軍は駐留軍というより在日米軍となった。
 まぁここまでの話は,一応,日本はアメリカと対等な同盟を結ぼうとしたということで(実質対等であるかどうかは別として),ある程度評価できるんですが,アメリカと日本が「共同で」軍事行動がとれるという点が野党や国民にとってはひっかかった。実際に最前線にたって,戦場に向かうのはアメリカ軍なんですが。
 野党や世論は猛反発,一方,岸内閣はこれに対し強行採決に出ます。また当時,大学生の中で広まっていた共産主義(社会主義)とも結びついて,大規模なデモ・反対運動が展開されました。これを安保闘争といいます。
 岸内閣は条約承認後,総辞職し,池田内閣が誕生します。池田内閣は,新安保反対に盛り上がる国民の目を経済成長に向けさせた。「所得倍増」といえば,こちらが魅力だろうと。その結果,日本の高度経済成長が本格化したのです。 
   
23 高度経済成長期,佐藤栄作首相は韓国との国交正常化(〔 ① 〕条約),公害対策として〔 ② 〕法を制定した。さらに「〔 ③ 〕三原則」を唱え,1968年の小笠原諸島の返還,〔 ④ 〕年の沖縄の返還を実現させると,のちにノーベル平和賞を受賞した。
①日韓基本  ②公害対策基本法  ③非核  ④1972 
  佐藤栄作内閣の重要事項
・日韓基本条約(1965)
・公害対策基本法(1967)
・非核三原則
・小笠原諸島,沖縄返還(1972)

沖縄返還の年,1972年はおぼえておいた方がよい年です。【時期】この年に内閣が交代し,田中(角栄)内閣が成立するのですが,田中内閣が最初におこなったことが,日中国交正常化。日中共同声明を出した年が同じ1972年です。同時期を問う問題でよく出されます。 
   
24 1985年,国連で〔 ① 〕条約が結ばれると,国内でも職場の男女差別をなくすために〔 ③ 〕が制定された。
①婦人(女子)差別撤廃  ②男女雇用機会均等法 
   男女雇用機会均等法は公民でもよく出される法律ですが,その時期もよく問われます。まずこの条約が結ばれた背景には,国連の婦人差別撤廃条約というのがあり,日本もこれを結ぶわけですが,当然結ぶと国内法の整備も必要になってきます。そして成立したのがこの法律。できれば1985年をおぼえておきたいですが,政治史的に1980年代で重要な法律はこれぐらいしかとわれませんので,「1980年代」とでもかまいません。 【時期】

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