歴史 第6回 テーマ史① 応用編

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外交史

1~3…弥生時代    4~5…古墳時代    6~8…飛鳥時代    7…奈良時代
9…平安時代    10~13…室町時代    13~15…安土桃山時代    16~24…江戸時代
25~30…明治時代    31…大正時代    32~33…昭和時代(戦後)

1 紀元前1世紀には〔 ① 〕(当時の日本)は百余りの国にわかれ,定期的に中国の王朝に使者を派遣していたことが『〔 ② 〕』に書かれている。
①倭  ②漢書地理志
   国名をきちんと整理しておく必要があります。
…中国(王朝名)。
…中国からみた当時の日本全体。
…日本にあった国の1つ。(1世紀)
邪馬台国…日本にあった国の1つ(3世紀)。 
   
2 1世紀,倭の〔 ① 〕国王が,(後漢)の皇帝から金印を授かったことが『〔 ② 〕』に書かれており,その金印は〔 ③ 〕(福岡県)から発見された。
①奴  ②後漢書東夷伝  ③志賀島(しかのしま)
   およそ中国で漢・魏(三国時代)があったころ,日本では弥生時代です。【時代区分】漢は時期によって,前半を前漢,後半を後漢ということがあり,前漢の時代の歴史書を『漢書』,後漢の時代の歴史書を『後漢書』といいますが,歴史書の名称はそれだけのことで,あまり深刻に考える必要はありません。【史料】
 金印が発見された場所から奴国福岡県にあったと考えられています。【位置・時期】 
   
3 3世紀邪馬台国が30余りの国を従えていたことが『〔   〕』に書かれている。女王:卑弥呼の皇帝より「親魏倭王」の称号を与えられた。
魏志倭人伝
   は漢が滅んだのち,黄河流域の中国北部に建国された国(王朝)です。当時,他の地域に(南部)や(内陸部)があったことから三国時代ともよばれます。
 邪馬台国が弥生時代末期であることが重要。4世紀大和朝廷が成立するので,その前までが弥生時代とすると末期は3世紀です。【時代区分】
 また邪馬台国は,北九州にあった説と近畿地方にあったという説の2通りあり,どちらかはまだはっきりしていないということ。【位置】親魏倭王」とは卑弥呼のことであるということをおさえておきましょう。
   
4 4世紀末,大和朝廷は朝鮮半島に進出し,〔   〕と戦ったことが好太王碑文に記されている。
高句麗
   大和朝廷は統一国家ですが,4世紀には成立していたと考えられます。【時代区分】しかし統一過程を示す文献史料が残っていないので推測するしかありません。次に倭(日本)のことがわかる史料が「好太王碑文」です。
 まず頭に入れておかなくてはならないのが,4世紀の朝鮮半島の様子です。大きく4つ国や地域にまとまっていた。北から高句麗・百済・新羅・加羅(地方)です。
 4世紀,日本をほぼ統一した大和朝廷は海を渡って朝鮮に進出します。進出の主な目的は「鉄資源を獲得するため」です。【説明(目的)】 日本から朝鮮半島に渡ると最初に上陸するのは,朝鮮南部,つまり加羅地方ということになります。大和朝廷はこの加羅地方を朝鮮半島進出の拠点にした。そして4世紀末には,好太王率いる高句麗と交戦した。好太王の碑文はこのときの好太王の功績を称えている碑文です。
   
5 5世紀,倭の五王が中国の南朝に使者を派遣し,中国との友好関係を深めようとしていたことが『〔 ① 〕書』倭国伝に書かれている。五王のうち,最後の〔 ② 〕は雄略天皇であるとされている。
①宋  ②武
   ここでも当時の中国情勢を理解しておく必要があります。 中国は3世紀の三国時代(魏・蜀・呉)のあと,一時統一王朝(晋)ができますが,すぐに北方の異民族が万里の長城を越えて,中国に侵入します。そして隋が統一する6世紀末まで,中国北部に数々の王朝が成立します。これをまとめて北朝とよんでいます。
 一方,漢民族の方は,長江流域に逃れて,ここを中心に漢民族の王朝を築きます。この王朝も1つではなく,たくさんの王朝が盛衰します。これをまとめて南朝といいました。北朝と南朝をあわせて4世紀から6世紀末の中国の分裂時代を南北朝時代といいます。中国にも南北朝時代があった。そして大和朝廷は南朝側に友好関係を求めていきます。
 5世紀,大和朝廷全盛期の大王,これを倭の五王とよんでいましたが,その1人にとよばれた大王がいました。天皇名にすると雄略天皇だとされます。彼は南朝のという国に使者を派遣しています。
 さて「宋」というと,平安末期,平清盛が貿易をした,唐のあとの「宋」をすぐに思い出しますが,もう1つあった。これが南朝の宋です。正誤問題でこの時期に「宋」とあっても誤文ではないので注意して下さい。【落とし穴】
 では何のために大王たちは南朝に使者を派遣したのでしょうか?「中国の皇帝の権威を利用して,朝鮮進出を有利にしようとした」ためです。【説明(理由)】もう少し簡単にいいますと,朝鮮進出を中国の皇帝に認めてもらおうとしたためです。【史料】
 ここでも少し理解しておくことがあります。中国という国はその字のごとく,自分たちの国は世界の中心であると考えています。これを中華思想といいます。そして周辺地域は文明化されていない野蛮な民族で,自分たちより劣っていると考えていたのです。北には「北狄(ほくてき)」,西には「西戎(せいじゅう)」,南には「南蛮」,東には「東夷」という民族が住んでいるとし,「狄」,「戎」,「蛮」,「夷」はいずれも日本読みで「えびす」,「野蛮だ」という意味です。漢字の中には,「獣へん」や「虫」が隠れているてしょ。かろうじて「夷」には「人」が隠れていますが。
 周辺民族からみても,中国は早くから文明化が進んでおり,その文化や財産は魅力的なものでした。だからときどき,中国に侵入してはそれらを奪おうとする。逆に中国はそれを野蛮な行為とみるわけです。そこで中国はこれらの困った周辺民族を抑えるために,文明・文化をわけてやるかわりに,おとなしくしていろというのです。具体的には,その地域は本当は中国のものだけれども,お前たちに支配する権利を認めてやるということです。東アジア諸国やその周辺国というのは,中国の皇帝からその支配を認められるという伝統があったのです。国名も伝統的に中国が漢字1字で,その他の国は漢字2字(以上)を使用する。
 そして周辺国は定期的に中国にお礼にいく。「あなたのおかげでうまく国を治めさせていただいてます」と。もちろん人だけではありません。お礼の品々(貢物)も必要です。さてここからがおもしろいところ。貢物をもらった皇帝は,そのお返しをします。それがもらったものの何倍もの価値のあるものをもたせて帰らせるのです。皇帝は世界の中心の王ですから,気前のよい太っ腹なところをみせなければならない。だから周辺国にとってもこのような関係は,プライドさえ捨てれば,大きな利益となるのです。
 こういう周辺国の行為を朝貢といい,関係を朝貢関係,貿易なら朝貢貿易といいます。大和朝廷の大王はこうして朝貢することで,よりよい関係を中国の皇帝と築き,朝鮮進出を図った。過去の奴国,邪馬台国も中国の皇帝に使者を派遣したのは,中国という強い後ろ盾を得て,国を統治しようとしたからです。
   
6 聖徳太子は607年に〔   〕を遣隋使として派遣し,隋と対等な関係を結ぼうとした。
小野妹子
   ここで5を思い出して下さい。日本と中国はこれまで朝貢関係(日本が中国に従う)を築いてきたのです。しかし聖徳太子は,遣隋使を派遣して「隋と対等な関係」を結ぼうとしています。ここが聖徳太子のポイントです。正誤問題で「朝貢関係」とあれば誤文です。国書を読んだ隋の皇帝は激怒したとか・・・。【史料】 
   
7 〔 ① 〕年,第1回遣唐使が派遣されると,9世紀まで続けられ,〔 ② 〕年に〔 ③ 〕の提案によって停止された。
①630  ②894  ③菅原道真
   は短命な王朝ですので聖徳太子のときだけ,隋と答えてよかった。聖徳太子よりのちは,唐です。遣唐使菅原道真の提案によって894年に停止ということになります。「菅原」の漢字はまちがいやすい漢字ですね。「894年」は「ハ・ク・シ」で「白紙に戻す遣唐使」とおぼえましょう。聖徳太子以降の飛鳥時代・奈良時代・平安時代初期までです。
 平安中期,摂関政治が栄えるころにはもう派遣していませんでした。摂関政治のころ栄えた国風文化とは,遣唐使の停止によって生まれた日本独自の文化です。 
   
8 663年,中大兄皇子(天智天皇)百済救援のために朝鮮に出兵したが,〔 ① 〕の戦いで〔 ② 〕・〔 ③ 〕連合軍に大敗し,以後朝鮮半島から手を引くことになった。
①白村江(はくすきのえ)  ②唐  ③新羅
   大和朝廷のころにはじまった朝鮮進出から手を引くことになった事件です。朝鮮といっても日本は百済とは友好関係にありました。漢字・儒教・仏教などは百済を経由して日本に伝わった。その百済が新羅に滅ぼされます。百済は国を再興しようとして日本を頼り,中大兄皇子がこれに応えます。ここからが大事。
 日本は唐・新羅連合軍に大敗を喫します。このときの国の組み合わせが重要。【セット】新羅とセットなのは唐です。正誤問題ではこの組み合わせを疑うこと。 
   
9 平清盛日宋貿易のために〔 ① 〕(現在の神戸港の一部)を修築した。日本から宋へは金(砂金)や硫黄などが輸出され,宋からは〔 ② 〕などが輸入された。
①大輪田泊(おおわだのとまり)  ②宋銭
   唐との関係がなくなり,しばらくすると,唐が滅んで宋が成立します。この宋と国交を結び,貿易を国家事業をとしておこなったのが平清盛です。日宋貿易は頻出問題。
 では応用編のポイントは,まず貿易港の名前。大輪田泊(おおわだのとまり)といいます。神戸でも結構ですが,「大輪田泊」と書かれている場合もありますので注意して下さい。これを正確に書きなさいという問題は少ない。大輪田泊は奈良時代に行基が開いた港で,平清盛がこれを修築しました。
 次に貿易品です。まずは何といっても輸入品の宋銭です。銅でつくられた銅銭です。「宋銭」と書かれているときもあるし,単に「銅銭」と書かれているときもあります。この宋銭は平安末期から鎌倉時代にかけて日本で流通した貨幣となったことに注意です。

 銅は日本でもよく取れました。青銅器が日本でつくられたことや富本銭・和同開珎などがつくられたことでもわかります。和同開珎以降も朝廷がつぎつぎと銅貨を鋳造しますが,やがて古い銅山は枯渇し,今度は銅不足となりました。銅は非常に貴重なものとなり,朝廷も貨幣の鋳造をストップします。結局日本では平安時代末期になっても貨幣経済が浸透せず,未だに絹を価値の基準とした物々交換が主流でした。この交換の比率は,もちろん朝廷が設定し,租税・支出も物納が原則です。
 一方,宋では貨幣経済が発達し,銅銭(宋銭)が流通していました。そこに最初に目をつけたのが宋との私貿易をしていた博多の商人でした。当時,日本では浄土信仰が流行し,仏像・仏具には銅が多く使用されていた。宋銭を輸入して,それを原料として仏具として利用するというわけです。
 さらにこれを政治利用できないかと考えたのが平清盛でした。当時の流通の基準であった絹は,ちょっとしたものを買うにはとても不便でした。ところが宋銭はいわば小銭です。ちょっとのものを買うにも便利です。ということは庶民,つまりだれでも物を売買しやすい。すると取引が活発になり,貨幣経済が浸透する。
 ではなぜ清盛は宋銭によって貨幣経済を広めようとしたのか?理由は簡単です。朝廷から財政権を奪いたかったからです。当時,ものの価値を決定するのは朝廷でしたね。経済を左右する権力こそ,政治を左右する権力につながるのです。こうして清盛は貿易で宋銭を大量に輸入したことで,地位だけでなく真の権力を手に入れたのです。歴史上,偉大な人物が何人も登場しますが,いずれの人物にも共通しているのは,武芸の達人だとか戦術が優れているとか立派な思想の持ち主だとか,そういうことではなく,経済的センスがスバ抜けていた。

 輸出品では(「砂金」と書かれていることもある)と硫黄です。当時,宋は中国北部を異民族の国(金など←これは国名)に支配されていました。そこに金鉱があったのですが,それを異民族におさえられてしまった。金を別のルートで確保する必要があった。日本では奥州(東北地方)で砂金がとれました。奥州藤原氏はこの金を背景に栄えた一族だったのです。
 もう1つ硫黄。理科で習う物質ですね。これは火山や温泉など地下の活動が活発な場所でとれます。日本は火山国でしたから,これが豊富にとれる。硫黄島という島もあるくらいです。ではなぜ宋が硫黄をほしがったかというと,硫黄は他の物質と混ぜ合わせると火薬ができるのです。宋は実は火薬を発明した国でもあるのです。
 ここまでおぼえておけば完璧です。
   
10 1404年,足利義満倭寇を取りしまりとの間で朝貢貿易を始めた。義満ののちは中断・再開を繰り返したが,やがて貿易は〔 ① 〕・〔 ② 〕の商人が独占した。日本から明へは銅・硫黄・刀剣などが輸出され,明からは〔 ③ 〕・生糸などが輸入された。
①堺  ②博多  ③明銭  ※①・②は順不同
   足利義満の勘合貿易も入試の必須問題。勘合の由来と目的は《基礎編》です。では貿易港は?みなさん日宋貿易の神戸はよくおぼえているんだけども,日明貿易となると見当もつかないという顔をする。堺(大阪)と博多(福岡)です。2つともおぼえておく必要があります。【位置】
 日宋貿易と同様に貿易品も重要です。まずは輸入品。日宋貿易の宋銭に対して,こちらは明銭【史料】もちろん宋銭のときと同じく「銅銭」と書かれている場合もある。日宋貿易で輸入した宋銭は,日本の貨幣経済を発展させました。しかし次の元では,銅銭が発行されず,紙幣が発行されたのです。(これが一応世界初の紙幣)すると日本に銅銭が入ってこず,銅銭不足に陥ります。足利義満は深刻化する銅銭不足の解決と国家権力の象徴でもある通貨発行権を手に入れるために明から銅銭を大量に輸入しようとした。
 そこで足利義満の貿易形式が重要になるのです。足利義満は明に従う形の朝貢貿易をとります。朝貢貿易では,日本と明の上下関係がはっきりします。明が上,日本が下という関係です。そのかわり日本は明から多くの利益を得ることができます。前にお話したように,明の皇帝は臣下に気前のよいところをみせなければならないのです。日明貿易での明銭はほとんどタダ同然で明からいただいたのです。
 輸入品は,日宋貿易での金がに変わっています。明は銅銭の鋳造に銅を欲しています。また日本では金の産出量が減少し,輸出品としてかわりになるものが必要でした。しかし平安時代末期と同じく,日本でも銅は枯渇していた。しかしこのころになると新たな銅鉱(山口や島根など)が開発され,輸出するには十分な量が産出されたのです。「日明貿易は銅を売って,銅銭を買った貿易」と頭に入れておきましょう。
 その他の輸出品ではあいかわらず硫黄が多かった。この理由は日宋貿易で述べた通りです。他には刀剣などもありました。日本の刀剣(日本刀)は丈夫で切れ味のよいことで中国でも有名で,人気があったからです。ただ西洋や中国の刀剣と比べて反りをもつ片刃の日本刀は,扱いに高度な技術が必要で,実戦向きであったかどうかはわかりません。むしろ鑑賞や収集用であったのかもしれません。
   
11 1429年,〔 ① 〕氏が沖縄諸島を統一し,〔 ② 〕城を王府とする〔 ③ 〕が成立した。〔 ④ 〕貿易によって栄えたが,江戸時代になって〔 ⑤ 〕藩に服属した。
①尚  ②首里  ③琉球王国  ④中継  ⑤薩摩
   まず琉球王国が成立したのは,室町時代であることをしっかりとおさえておきたい。(年代は必要ありません)【時代区分】次に支配者の一族が尚氏であること。これは対馬の宗氏【比較】させておぼえたい。正誤問題で重要になります。
 中心地となったのは,首里城。現在の那覇市【位置】で,その正門を守礼門といい,2000円札の表面の絵柄となっています。ちなみに裏面は『源氏物語絵巻』。
 琉球王国は中継貿易という形の貿易で栄えました。当時,明は鎖国政策をとっていました。江戸時代の日本と同じように貿易港を制限し,許可を得た国のみとしか貿易をおこないませんでした。許可とは朝貢関係を結ぶということです。またそれらの国に対しては渡航回数や貿易船の数,貿易品にいたるまで細かく制限されていた。琉球王国は中でも非常に有利な条件をもらいます。それを利用して東南アジアや日本・朝鮮と明との間を中継する貿易で利益を得たのです。
 江戸時代はじめ薩摩藩が琉球王国に対して出兵します。ただし王国が滅んだわけでも,占領されたわけでもありませんから注意して下さい。あくまでも独立国でありながら服属,つまり従っただけです。この出来事だけでなく,沖縄・北海道史は盲点になることが多いので点差がつく。要注意です。【落とし穴】 
   
12 〔 ① 〕年,ポルトガルによる鉄砲伝来,〔 ② 〕年,〔 ③ 〕の宣教師フランシスコ=ザビエルによるキリスト教の伝道以降,〔 ④ 〕・〔 ⑤ 〕(長崎県)などを中心として南蛮貿易がはじまった。日本からは〔 ⑥ 〕などが輸出され,南蛮人からは〔 ⑦ 〕・鉄砲などが輸入された。
①1543  ②1549  ③イエズス会  ④長崎  ⑤平戸  ⑥銀  ⑦生糸  ※④・⑤は順不同
   鉄砲・キリスト教の伝来は必須事項。基礎編でもお話しましたが,それぞれどこの国の人が伝えたが重要です。応用編では年代までおさえるようにしましょう。確認ですが,これらは室町時代(戦国時代)です。
 では南蛮貿易です。まず中心になったのは九州であったこと。貿易港としては平戸・長崎(両港とも長崎県)をおさえておきましょう。これも差がつくところです。
 貿易品もこれまで通り重要です。輸出品は今度はです。日宋貿易では金,日明貿易では銅,南蛮貿易では銀となります。金→銀→銅ならおぼえやすかったんですけど。金→銅→銀です。
 当時,ヨーロッパの通貨は銀でした。そこで16世紀,豊富に銀鉱がとれるアメリカ大陸をおさえていたスペインが世界の富を独占していた。また日本でも戦国時代から石見銀山が開発されます。日本最大の銀山で最盛期には世界の3分の1の銀を産出したといいます。スペイン・ポルトガル人にとっても日本との貿易は魅力的なものでした。
 その銀を対価に日本は鉄砲などの武器や進んだ科学技術を手に入れます。その他に生糸も重要です。この生糸,日本でつくっていてもおかしくないものなんですが,実は生糸の生産が日本でさかんになるのは江戸時代の鎖国中のことです。それまでは輸入に頼っていた。
 輸入した生糸は中国産です。スペイン・ポルトガル人を介して中国産の生糸が日本に入ってきたのです。
 重要事項は次の点です。生糸は鎖国までは輸入品,開国後に輸出品。よく出る問題ですが,注目しておぼえておかないと解けない問題です。【落とし穴】
   
13 戦国大名の中には,貿易の利益を求めてキリスト教に改宗するものも現れた,彼らは〔 ① 〕大名とよばれ,九州の大村氏・大友氏らは1582年,ローマ教皇のもとに〔 ② 〕を派遣した。
①キリシタン  ②少年使節
   庶民の中には信仰心からキリスト教に改宗した人もいましたが,大名の改宗理由は貿易を有利におこなうためです。キリスト教に改宗したものをキリシタンといいます。ポルトガル語です。英語の「クリスチャン」ですが,ここではもちろんカトリックのことであると注意しておきましょう。
 南蛮貿易の中心が九州であったことから,九州の大名に多かった。もちろん一般の信者も九州に多かった。問題文に「大友」・「大村」・「有馬」と一族名がでてきたら九州のキリシタン大名で,室町(戦国)末期から安土桃山時代だと思って下さい。時代・時期を答える問題がほとんどで,一族名をを答えさせる問題は少ない。【時代区分・時期】
 彼らがローマ教皇のもとに少年使節を派遣します。代表的な少年の名前に「伊東マンショ」というのがよく使われます。1582年のことですから,本能寺の変の年です。これはもう安土桃山時代の説明です。【時代区分・時期】 
   
14 織田信長は仏教勢力との対立や貿易による利益のためキリスト教を保護したが,豊臣秀吉はのちに〔   〕を追放するなど布教活動を禁止した。
宣教師
   織田信長と豊臣秀吉のキリスト教政策を【比較】しておさえましょう。信長は保護秀吉は最初は信長の政策を引き継いで保護しますが,のちに禁止します。そのため宣教師を追放します。宣教師とはキリスト教(カトリック)の布教活動をおこなう人です。「バテレン」というポルトガル語を用いて「バテレン追放令」といういい方もします。スペイン・ポルトガルの布教活動の背景には領土的野心があるのでは,と秀吉が判断したからです。
 しかし一方で彼らとの貿易は魅力的であったため,貿易の禁止まではいたらなかった。そのため秀吉の禁教は不徹底に終わります。これが徹底されるのは江戸時代の鎖国からです。 
   
15 豊臣秀吉は,の征服を計画し,二度にわたる朝鮮出兵をおこなった。一度目(1592年)を〔 ① 〕,二度目(1597)を〔 ② 〕という。
①文禄の役  ②慶長の役
   二度の元軍の襲来を元寇といい,一度目を文永の役,二度目を弘安の役といいました。今度は日本がしかけた番ですが,二度の朝鮮出兵のうち,一度目と二度目のよび名をおぼえておきましょう。元寇の2つとともに正確におぼえておくこと。特に「文永」と「文禄」はまぎらわしい。正誤問題では入り混じって文がつくられている場合があります。ここは正確な知識が必要です。【比較】 
   
16 江戸初期の幕府は〔 ① 〕を発行して朱印船貿易を積極的におこなった。そのため東南アジア諸国には〔 ② 〕が形成された。
①朱印状  ②日本町
   朱印船貿易とは東南アジアへいく貿易です。ここは目的地が重要。タイ・ベトナム・フィリピンなどの国々です。この方面へ貿易に出かけるためには,日本からは冬に出航するのがよい。北風が吹くからです。そうすると逆に戻ってくるには夏がよい。南風を受けて北上するからです。すると出かけた商人は帰ってくるまでその地に留まる必要があります。そこで東南アジア各地で日本人街が形成されたのです。これが日本町
 これまで貿易港をその度にみてきましたが,この貿易ではさまざまな町の商人や大名がかかわっているので1つ2つどこというわけではありません。これまでの主だった貿易港すべてです。
 また貿易品もさまざまものがあつかわれましたが,中でも輸出入をそれぞれ1つ,しっかりとおぼえておきたい。輸出品は,輸入品は生糸です。銀はこれまでの南蛮貿易と同じく,当時の世界経済の主軸でした。そして日本がどうしても買いたかったのは,何よりも中国産の生糸です。これも南蛮貿易と同じですね。
 朱印船貿易がおこなわれた時期は豊臣秀吉・徳川家康のころです。およそ江戸時代初期(鎖国)までと【時期】も把握しておいて下さい。
   
17 江戸幕府は,1612年に直轄地に禁教令を出し,1624年に〔 ① 〕船の来航を禁止した。1635年に日本人の海外渡航・帰国を禁止し,1639年に〔 ② 〕船の来航を禁止したことで鎖国体制が整った。その後,〔 ③ 〕商館を長崎の出島に移し,商館長には海外事情を記した〔 ④ 〕を提出させた。
①スペイン  ②ポルトガル  ③オランダ  ④風説書 
   鎖国に関してはよく順序の並べかえ問題が出題されます。すべて出題されても上の問題の出来事に島原天草一揆が加えられたものです。【流れ】年表形式にしますと


 このうち,もっとも重要な出来事は1639年の「ポルトガル船来航禁止」です。この年が,そしてこの内容が鎖国の完成,つまり鎖国の年となるわけです。【時期】そして鎖国に関する重要な法令は,もう1つあります。1635年の「日本人の海外渡航・帰国禁止」。これも鎖国令の1つ。これと「ポルトガル船来航禁止」の2つをあわせて鎖国令とおぼえましょう。そして年代は1600年代ということを頭に入れて,「35年」と「39年」ですから,使われている数字は「3・5・9」。これで「サ(3)・コ(5)・ク(9)」とおぼえる。まずはこれが軸となります。
 次に来航を禁止した国の順が大事になってきます。先に出たように「ポルトガル船来航禁止」が「鎖国の完成」ですから,その前に来航禁止にしたのはスペイン船です。実はスペインとの貿易は,ポルトガルとの貿易ほど重要ではありませんでした。これは発展編でお話しますが,簡単にいうとスペインとポルトガルは勢力範囲が異なっていた。スペインは主に南北アメリカ大陸,例外的にアジアではフィリピンを支配していただけです。それに対してポルトガルはアジア貿易を支配していました。例外的にブラジルだけはアメリカ大陸においてポルトガルの勢力範囲に入っていた。
 また日本とこれらの国以外に日本と友好関係にあった(特に徳川家康との間に)オランダはスペインからの独立をめざしています。オランダは幕府に働きかけ何とかスペインの勢力を削ぎたかった。
 というわけでスペイン排除の方がポルトガル排除よりもずっと簡単だった。
 ではなぜスペインとポルトガルはダメでオランダがOKだったか?これはスペイン・ポルトガルがカトリックであったからです。カトリックの国は貿易と信仰の布教がセットになっている。一方,オランダはプロテスタントの国です。プロテスタントの国では信仰は個人の問題なのです。商売先があるいは相手がどんな信仰であるかは問題ではない。利益が最優先です。したがって貿易と宗教はまったく別物と考えていたのです。 鎖国とは「国を閉ざす」という意味がありますが,完全には閉ざしていない。オランダと中国とは正式に交易をつづけます。本当の目的はキリスト教を禁止し,商教分離する政策だと考えて下さい。そして「貿易による利益は幕府が独占する」のです。【説明(目的)】
 ではポルトガル船来航禁止のきっかけとなったのは何か?島原天草一揆です。このキリシタンの蜂起は幕府にとって一大事だった。ポルトガルはこの一揆の後ろ盾になります。
 キリスト教(カトリック)を何とかしなくてはいけない。しかしポルトガル船来航禁止まで2年あります。これはそれだけポルトガルとの貿易が幕府にとって大きかったからです。それでも最後には,貿易の利益よりも,社会制度の確立を優先したというわけです。
 さてオランダに対しても幕府はウェルカムというわけではなかった。細心の注意を払って,キリスト教が日本国内に侵入しないようにした。それが長崎の出島です。出島は本土と隔離された人工島です。そもそもここはポルトガル人のための施設だった。ポルトガルが出て行くと空になった場所に今度はオランダ人を入れておくことにしたのです。オランダ商館は長崎の平戸にありましたが,それを出島に移させた。
 さて一番最後になりましたが,禁教令は一番最初になります。これは秀吉からの流れで考えればよい。秀吉も宣教師追放令など,貿易は認めるがキリスト教の信仰は認めないという政策をとりました。これがそのまま幕府の政策として引き継がれたのだと考えればもっとも最初の段階であると理解できます。
 また禁教令とスペイン船来航禁止は2代将軍:秀忠のときのことです。そして1635年以降が3代:家光のころ。家光の鎖国関係の政策はすべて奇数年であることも知っておけばおぼえやすいかもしれません。
   
18 鎖国の完成後,貿易相手国は中国とオランダに限られたが,朝鮮とは対馬の〔 ① 〕氏を通じて貿易をおこなった。幕府はキリスト教弾圧のため〔 ② 〕をさせたり,仏教の宗旨を登録させたりした。
①宗  ②絵踏 
   鎖国後のキリスト教対策の1つが絵踏です。踏ませることを絵踏。踏ませたものを踏絵といいます。踏絵は絵と書きますが,絵画ではなく,金属や木の板です。【史料】そこに信仰の対象となるイエスや聖母マリアが彫られている。キリシタンを発見するための方法です。
 また人々はすべて仏教の何宗に属するかを登録しなければなりませんでした。これを寺請制度といいます。寺院がそれを証明し一般人を管理したからです。そしてその証明書を宗旨人別帳(宗門改帳)といいます。 
   
19 〔 ① 〕藩は琉球王国を征服すると〔 ② 〕氏との貿易を独占した。また蝦夷地のアイヌとは〔 ③ 〕藩に交易の独占権が与えられた。1669年には〔 ④ 〕がアイヌを率いて〔 ③ 〕藩に対して蜂起した。
①薩摩  ②尚  ③松前  ④シャクシャイン 
   鎖国は国を閉ざすことでないと17で申し上げました。鎖国後も4つの窓口が幕府にはあったからです。1つは長崎貿易。これは中国とオランダとの通商窓口です。 
 琉球王国との通商は薩摩藩(島津氏)が,朝鮮との通商は対馬藩(宗氏)が,蝦夷地(北海道)との通商は松前藩が独占的に与えられました。幕府は琉球と朝鮮については通信窓口しかもっていません。
 琉球の尚氏対馬の宗氏は名前が似ているので【比較】しておぼえましょう。松前藩は北海道の窓口だからといって現在の青森県ではありません。北海道南端です。【位置】
   
20 1792年,ロシアの〔 ① 〕が根室に,続いてレザノフ長崎に来航して通商を求めると,幕府は〔 ② 〕に樺太を探検させた。 
①ラクスマン  ②間宮林蔵 
   鎖国中もたびたびオランダ人以外のヨーロッパ人が日本にやってきて,通商を求めたりするんですが,最初もっとも積極的だったのはやはり近いということでロシアでした。レザノフはともかくラクスマンはおぼえておきたい。やってきた場所は根室【位置】ところがこんなところにやってきても幕府はとりあってくれない。窓口がないんだから。そのためのちにレザノフ長崎まではるばるやってきたんです。
 さてラクスマンがやってきたとき,日本はだれが政治をおこなっていたでしょうか?これをすぐに答えられる人はいるかな?では考えましょう。
 ラクスマンがやってきたのは1792年です。これを問われることはまずないでしょう。少なくとも年表や文があってそこに「1792年」は書いてある。ここから推理します。この年にもっとも近い重要事項はフランス革命です。フランス革命の年代は必須でしたね。「1789年」。ではフランス革命のころの日本の政治家はだれだった?松平定信(寛政の改革)でしたね。遠回りしましたけど,年代としてしっかりおぼえておかなければならないのは「1789年」だけ。この年を基準にいろいろ考えられるようになれば,解けるようになる問題は多くなる。【時期】 
   
21 相次ぐ外国船の来航に対して幕府は,〔 ① 〕を出した。これを批判した〔 ② 〕・〔 ③ 〕は1839年に処罰された。この事件を〔 ④ 〕という。 
①外国船(異国船)打払令  ②高野長英  ③渡辺崋山  ④蛮社の獄  ※②・③は順不同 
   外国船打払令(異国船打払令)は,時期が重要です。アヘン戦争で清がイギリスに敗れてから,ヨーロッパの軍事力を認識した幕府は,これを廃止しています。よってアヘン戦争より前に出された法令(1825年)。【時期】そしてアヘン戦争のころ実行されていた天保の改革(水野忠邦)によって停止。(アヘン戦争で清がイギリスに敗れたため。)
 実際に幕府は非武装のアメリカ商船をこの法令に基づいて撃沈しています。これに対して批判をおこなった高野長英・渡辺崋山が処罰された。(蛮社の獄
※蛮社とは「蛮学社中」の略。「蛮学」とは「蘭学(南蛮の学)」の意。「社中」とは「会社・集団」を意味します。また「獄」とは「牢屋」の意味で,「逮捕される」・「判決」といった意味にも使用します。のちの「安政の大獄」も同様の意味。
   
22 1853年,アメリカのペリーが〔 ① 〕(神奈川県)に来航し開国を要求すると,翌年に日米和親条約を結んで〔 ② 〕(静岡県)・〔 ③ 〕(北海道)の開港を取り決めた。 
①浦賀  ②下田  ③函館 
   浦賀・下田あたりの場所が重要ですね。【位置】しっかりと位置や現在の県をおさえておきましょう。また日米和親条約の年代はおぼえておきたいところです。これをもって開国となるわけです。【時期】
現在の下田港
 和親条約はアメリカ以外にもあと3ヶ国と結んでいます。どこでしょう?考えられる国は,まずオランダですね。ずっとこれまで交易を続けてきた国ですから。ここをはずすわけにはいかない。次にロシア。この国は日本にもっとも近い西洋の国。何度も日本に通商を求めてきた国です。あと1つがイギリスです。頭文字をとって「アオイロ」とおぼえましょう。 
   
23 〔 ① 〕年,大老:〔 ② 〕は朝廷の許可なく日米修好通商条約に調印した。 
①1858  ②井伊直弼 
   「井伊直弼」はみなさんが習う中で唯一の大老です。この条約については様々な点から問われます。
まず年代はともかく,日米和親条約のあとであるということ。できれば年代もおぼえておく方がよいのですが,少なくとも順番は大切です。【時期】
 次に上の文にある「朝廷の許可なく調印した」という部分に注目します。そもそも日本の国を統治する権威・権力は朝廷にあります。これが鎌倉時代以降,武家政権が握ったわけですが,それはあくまでも朝廷から武家政権に委任されているだけです。だから本来は朝廷の許可を得て,政治をおこなわなくてはならない。しかし時代を経るごとにあまりにも朝廷の権威がおとろえていったものだから,これはあくまでも形式的なことになってしまっていました。
 しかしこれまでみてきたように江戸幕府の政治があまりうまくいかなくなると,今度は朝廷をかつぎだして朝廷の正統性を訴える運動が活発になってきます。尊王攘夷運動です。当時の天皇は攘夷思想の持ち主で,外国が日本にやってくることをあまりよく思っていませんでした。和親条約のときも形式的だとはいえ朝廷の許可なく調印したのですが,こちらはあまり日本に不利な内容ではなかったので,朝廷や尊王攘夷派も大きく出ることはなかったのですが,今度の修好通商条約は日本に不利な内容がもりこまれていた。そこで尊王攘夷派は,ここぞとばかり幕府を批判したのです。これが反幕府派を弾圧する安政の大獄につながっていった。
 今度は条約の内容です。不平等な内容であったことはすでに基礎編で説明しました。これは歴史の最重要事項の1つです。ではこのとき開いた港を5つ言えますか?まずは横浜・神戸です。神奈川・兵庫といってもかまいせん。むしろこちらのよび名で書かれていることが多いですが,現在の港名で結構です。3つ目は長崎。これは江戸時代を通じて日本の貿易の窓口だから当然です。4つ目は函館。これは和親条約ですでに開港していますね。アメリカが北太平洋を経て日本に来る場合,この場所は非常に重要であったし,対ロシアの窓口としても近くて便利。ではあと1つが問題です。下田といいたいところですが,下田は逆に閉港します。下田の位置は重要でしたが,下田は少し不便な場所にあります。そこで新たに開港したのが,新潟です。 新潟港は幕府の直轄地であったし,西回り航路の拠点として整備されていた。長崎・函館を結ぶ日本海航路の中継地点として選ばれたのです。特に新潟を忘れやすいので注意して下さい。【落とし穴】
 では修好通商条約を結んだ国はアメリカ以外にどこの国でしょう?和親条約にフランスを足して下さい。頭文字をとって「ア・オ・イ・フ・ロ」とおぼえる。和親条約との違いとして,このフランスが重要になってきます。【比較】
 最後に開国後の貿易についてみていきましょう。まずは最大の貿易港となったのはどこでしょう?「横浜港」です。これは当然,江戸に近いからです。
 次に最大の貿易相手国は?「アメリカ」。違うんです。「イギリス」です。【落とし穴】ではなぜアメリカではないんでしょう?答えはアメリカは日本の開国後しばらくして南北戦争に突入したからです。そのほかの国をみても国内情勢が思わしくないかった。(対外戦争に忙しかった)結果的に対日貿易では,産業革命が進み1つ頭の出ていたイギリスが独占状態になってしまった。(イギリスはアジア貿易の拠点として中国に香港をすでに獲得していた)
 ということは日本の主な輸入品なんでしょう?毛織物・綿織物といった繊維品です。毛織物の方が若干多かったのですが,順位は構わないので2つ【セッ】トでおぼえておきましょう。では輸出品は?一度説明しましたが,生糸です。生糸は鎖国前は輸入品,開国後は輸出品です。そして戦前(昭和初期まで),生糸は日本の輸出品の1位であったことをおぼえておきましょう。これはほんとによく問われるんだけど,受験生があまり注目しないところ。【落とし穴】
   
24 尊王攘夷運動が活発になると,〔 ① 〕藩は生麦事件をきっかけにイギリスと戦争をおこした。(薩英戦争)。また〔 ② 〕藩は下関を通過する外国船を砲撃したため,四ヶ国の連合艦隊の報復を受けた。 
①薩摩  ②長州 
   井伊直弼が暗殺された(桜田門外の変)あと,尊王攘夷運動はますます活発になります。その代表が薩摩と長州になるのですが,薩摩・長州が攘夷(外国を討つ)としておこした事件をそれぞれおさえておきましょう。事件の名前や詳しい内容については結構です。応用レベルでは時期が重要になりますので,井伊直弼のあとだと理解しておいて下さい。そしてそれぞれコテンパンにやられて,攘夷は無理だと悟ります。それなら外国と仲良くして(利用して),幕府を倒そうじゃないか。そして天皇を中心として新しい政府をつくるんだとかわっていきます。だから倒幕運動の前とも理解しておくこと。倒幕運動は具体的には薩長同盟を思い出せばよい。【流れ・時期】
和親条約(開国)→修好通商条約(不平等条約)・井伊直弼→尊王攘夷運動→倒幕運動→大政奉還
(「親好(親・好)深めるいい(井伊) 外(そ・と=尊・倒)の運動,大成(大政)功」)
   
25 明治時代初期,政府は条約改正の予備交渉のため岩倉具視を全権とする使節団を欧米に派遣した。彼らが帰国するまでの間,国内では武力で朝鮮を開国させようとする〔   〕がおこった。
征韓論 
   岩倉使節団の目的は,不平等条約の改正と西洋文明の視察にありました。西洋の進んだ科学技術はもちろんのこと,政治・社会を学んでこようとしたのです。不平等条約の方はすぐには改正できないことはわかっていましたから,正確には予備交渉です。一方政治・社会の方は帰国後すぐに新しい国づくりに活かそうと考えていたのです。
 この使節には岩倉具視のほかに大久保利通や木戸孝允らがいました。ということは維新の立役者西郷は居残りです。大久保の考えでは,まずは国内整備が最優先,国外問題は二の次だった。したがって居残りの西郷にはくれぐれもそのことを頭に入れて置くように念をおして出発します。ところが海外組みに賛同できないものは西郷をかつぎだして,もと支配階級である士族の不満の矛先を朝鮮に向けようと征韓論が立ち上がります。
 大久保らが帰国するとすぐ大久保派と征韓論派(西郷・板垣など)が対立。その結果,西郷らは政府を去ることになりました。これがその後,不平士族の乱自由民権運動へと展開していったのです。 
   
26 1871年,日本は清と対等な立場で〔 ① 〕を結んだ。一方朝鮮とは〔 ② 〕をきっかけに,1876年,朝鮮に不利な〔 ③ 〕を結んだ。 
①日清修好条規  ②江華島事件  ③日朝修好条規 
   これはよく出る問題です。清とは対等な条約朝鮮とは不平等な条約です。【比較】不平等といえば,2つ。そう治外法権を認め関税自主権がないという,日本が西洋諸国にやられたあの内容だと思って下さい。
 そのきっかけとなったのが江華島事件。 江華島事件とは1875年に日本の軍艦が海路測量の名目で朝鮮の領海を犯し,江華島の近くで砲撃を受けた。この賠償として結んだのが日朝修好条規です。「条規」は「条約」と考えて結構です。中国やその周辺でのみつかわれる条約にあたる言葉です。
   
27 1872年,政府は琉球に対して日本領の一部として〔 ① 〕を置いた。1874年,琉球の漁民が台湾の先住民に殺害された事件をきっかけに〔 ② 〕を実行し,1879年には〔 ③ 〕を設置した。また北海道には〔 ④ 〕という開発・経営機関を設置し,ロシアに対する警備のため〔 ⑤ 〕を置いた。 
①琉球藩  ②台湾出兵  ③沖縄県  ④開拓使  ⑤屯田兵 
   明治初期の沖縄に関する問題は,出題されるとみなさん困る問題ですね。全員がしっかりと勉強できていない範囲です。しかもややこしいので難問です。まずは上の問題の出来事が明治初期の話であることを頭に入れておくことが大切です。【時期】その過程を一旦横において,「沖縄県を設置した」というのは廃藩置県です。そこから明治初期であると考える。そして「台湾出兵」,これも沖縄県設置に関係している。「台湾出兵」というだけで,「いつの」「何の」話だと首をかしげてしまう。普通に勉強している人でもこれが明治初期の話だとはなかなか答えられません。これは実は公立のレベルなんです。ただし公立のレベルとしては超難問です。
 まず沖縄は江戸時代まで琉球王国とよばれていましたね。江戸時代初期,薩摩藩に服属します。(問題11)しかし同時に明や清とも朝貢関係があって,中国にも服属していました。だからこそ明治政府ははっきりと琉球は日本の領土であると決めておかなければならなかった。
 1872年,まず琉球王国を琉球藩とします。本土ではすでに1871年,廃藩置県が終わっているのに,まず藩としたのです。廃藩置県を実施するためには,まず藩でなければならないし,いきなり琉球の国王を廃してしまうのもどうかということで一旦「琉球藩」として国王は引き続き,藩の行政をゆだねられます。
 日本は琉球を領土としたからには,ちゃんと領土・国民を守る義務があります。それが台湾出兵につながった。琉球の漁民が台湾の先住民に殺害された。当然,自国民を傷つけたのだから報復にうって出たのです。こういうはっきりした手をうたないと,周辺からその領有を疑問視されてしまいます。
 そして時期をみて,廃藩置県を断行。琉球藩を廃止し,新たに沖縄県となったのです。この一連の出来事を「琉球処分」という厳しいいい方をすることもあります。正式に沖縄が日本の領土だと中国側から認められたのは,日清戦争の下関条約です。現在問題となっている尖閣諸島の日本の領有権は,これが根拠となっています。
沖縄県成立の流れ:琉球王国→琉球藩→台湾出兵→沖縄県
 最低限,沖縄県の設置は本土の廃藩置県より遅れるということをおさえておきましょう。北海道の開拓使屯田兵は応用レベルのみなさんは,割とできるんです。
   
28 1875年,ロシアとの間で〔 ① 〕条約を締結し,〔 ② 〕をロシア領,〔 ③ 〕を日本領とした。 
①樺太・千島交換  ②樺太  ③千島列島 
   この条約では日本領となった島とロシア領となった島をしっかりとおぼえておけばよい。千島列島とは択捉島までをいうんじゃない。北海道(根室半島)からロシアのカムチャツカ半島の間にある島すべてを指すんだ。【位置】
 明治初期の外交の中心は,領土確定だったと理解しておきましょう。 
   
29 1880年代,〔 ① 〕の建設に象徴される欧化政策は,1886年におこった〔 ② 〕による批判から挫折し,本格的な条約改正が急がれた。 
①鹿鳴館  ②ノルマントン号事件 
   明治中期の外交を象徴するのが「鹿鳴館」と「ノルマントン号事件」です。鹿鳴館の「鹿鳴」とは「鹿が鳴くこと」ですが,儒教の書物の中にある「鹿鳴の歌」という漢詩の中で使われた言葉で,詩の内容は「来客をもてなす」というものでした。そこから名づけられた洋館です。東京日比谷の現在の帝国ホテルの隣に建てられましたが,現在では石碑が残っているだけです。
鹿鳴館の碑

 鹿鳴館では,各国外交官が招かれ,連日舞踏会が開かれました。要は日本がヨーロッパに近づいたことを証明したかったのでしょう。これを「欧化政策」といいますが,それが見た目だけだということを痛感させる出来事がおこりました。ノルマントン号事件です。
 紀伊半島南端(和歌山県串本町)沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が遭難。このときイギリス人船長は乗っていた西洋人らを救出しましたが,日本人は見捨てられ全員溺死。イギリス人船長は海難審判で無罪,のちの刑事裁判では日本は殺人罪を主張しましたが,禁固刑3ヶ月の判決を受けただけでした。これらの軽い判決は当然,治外法権(領事裁判権)を認めていたからです。
 この事件を聞いた日本人は当然激怒。「鹿鳴館で踊っている場合か,ちゃんと条約改正に取り組め」となったのです。
 ノルマントン号事件は,史料絵がよく出題されます。必ずみておくこと。【史料】  
   
30 〔 ① 〕年,外務大臣:〔 ② 〕は日清戦争の直前に〔 ③ 〕との間で治外法権の撤廃に成功した。また関税自主権の回復は,日露戦争後に外務大臣:〔 ④ 〕によって実現した。 
①1894  ②陸奥宗光(むつむねみつ)  ③イギリス  ④小村寿太郎(じゅたろう) 
   ノルマントン号事件のあと,政府は正面から条約改正に乗り出すんですが,その相手に選んだのは,事件の張本人イギリスでした。まずイギリスは世界をリードしている国であったこと。イギリスさえ説き伏せれば,他の国もそれに追従してくるに違いないと考えたからです。イギリス側としてもこの話にのらない理由はなかった。1つは日本では大日本帝国憲法をはじめ近代国家としての法整備が進んできたことは認めていた。(だから条約改正の時期は大日本帝国憲法の後だと理解する)そして何より,ロシアが目障りだった。
 ロシアはその広大な領土の各方面で南下政策をおこなっています。ロシアは領土はでかいが,使える港が限られているのです。寒いから凍ってしまうのです。南下政策の大きな目的は不凍港の確保です。
 一方イギリスの植民地政策の基本はインドを守ること。ロシアの南下が激しくなるとインド経営に大きな被害を受ける。まだおとなしいうちに,ロシアの力を削ぎたいと考えていた。
 そこでイギリスは日本に近づこうとしたのです。日本は大陸に領土的野心をもっている。そのときロシアとの対決は避けられない。ここは日本にがんばってもらおう。その結果,日本が多少勢いづいても,日本ぐらいならイギリスの敵ではないと。
 そして1894年,イギリスとの間で治外法権撤廃が成功します。時の外務大臣は陸奥宗光。この人はかつて坂本龍馬のもとで働いていた人物でした。1894年とは,日清戦争の年でしたね。では戦争と撤廃はどちらが先か?これは応用レベルでは非常に重要です。「戦争の直前」とおぼえておいて下さい。【時期】
 その後,日本が戦争に勝利すると,日本の思惑通り,他国との改正にも成功します。日本とイギリスのこのような関係は次の段階の日英同盟につながっていきます。

 今度は関税自主権の回復。1894年の治外法権の撤廃を取り決めた条約(日英通商航海条約)では,関税自主権の回復には至りませんでした。この条約は1899年から有効になるんですが,12年で満期となります。満期になると新しく条約を結びなおさなければなりません。日本はこの満期となる1911年を目標に関税自主権の回復の交渉を各国とつづけていくんです。
 このときもイギリスとの関係から,最初に交渉をもっていくんですが,イギリスより口説きやすい国がありました。それもわりと世界に顔のきく国です。アメリカです。1904年からはじまる日露戦争では,日本は戦争終結に向けて積極的にアメリカに働きかけます。ポーツマス条約を仲介したのもアメリカでした。アメリカは日露戦争を戦った日本の軍事力と外交能力を高く評価します。このときの縁もあって1911年アメリカとの間で関税自主権の回復が成功し,その後他の国とも成功したのです。日露戦争から関税自主権の回復まで,世界が認めた日本外交を支えたのが,外務大臣:小村寿太郎でした。したがって関税自主権の回復は少なくとも日露戦争後と理解しておくようにしましょう。【時期】
治外法権の撤廃…イギリス 日清戦争直前 陸奥宗光
関税自主権の回復…アメリカ 日露戦争後 小村寿太郎
   
31 1921年の〔 ① 〕会議,1930年の〔 ② 〕会議では大幅な海軍軍縮条約が結ばれた。
①ワシントン  ②ロンドン 
   第一次世界大戦後の外交(国際政治)の特徴は,「軍縮」です。その代表的なものがワシントン海軍軍縮条約ロンドン海軍軍縮条約です。違いを【比較】しておぼえましょう。
 1921年にはじまるワシントン会議では,3つの条約が結ばれました。四ヶ国条約九ヶ国条約海軍軍縮条約です。四ヶ国条約では,太平洋問題日英同盟の破棄が決定されました。ここは少し難しいですが,できればおぼえておきたいところです。日英同盟は日露戦争前からワシントン会議まで。九ヶ国条約は中国問題について。そして海軍軍縮条約は主力艦保有率の決定です。
 軍艦には戦艦・巡洋艦・駆逐艦といったものがありますが,戦艦は大型で巨砲を備え,攻撃力・防御力も高い。その一方で機動性に欠けます。巡洋艦・駆逐艦となるほど小型で機動性に優れますが,戦艦ほどの攻撃力・防御力はもちません。ここでいう主力艦とは海戦の中心となる戦艦や大型巡洋艦のことです。日本はイギリス・アメリカに対して,6割と決められました。
 主力艦の保有制限がかけられると今度は補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦など)の製造競争になってしまいます。そこで1930年,ロンドン会議補助艦保有率を決める海軍軍縮条約が結ばれました。どちらとも保有率までおぼえる必要はありませんが,ワシントン会議は「主力艦」ロンドン会議は「補助艦」とおぼえておきましょう。
   
32 1956年日ソ共同宣言に調印して日ソ間の国交を回復すると,日本は〔   〕の加盟が承認された。
国際連合 
   
33  〔 ① 〕年,大韓民国との間で〔 ② 〕条約が結ばれ国交が回復した。また〔 ③ 〕年,中国との間で〔 ④ 〕が結ばれ中国との国交が正常化されると,1978年には〔 ⑤ 〕条約を結んで友好関係を深めた。
①1965  ②日韓基本  ③1972  ④日中共同声明  ⑤日中平和友好条約 
  戦後必ず【セット】でおぼえておかなければならない事項(一方から一方を問う)
・1951年 サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約
・1956年 日ソ共同宣言と日本の国連加盟
・1964年 東京オリンピックと東海道新幹線
・1972年 沖縄返還と日中共同声明
・1973年 第4次中東戦争と石油危機
・日中共同声明と日中平和友好条約の順 

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