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〔 ① 〕年,倭の奴国王は後漢の〔 ② 〕から金印を授かった。この金印は江戸時代,〔 ③ 〕湾の志賀島で発見された。 |
答 |
①57 ②光武帝 ③博多 |
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57年は日本の歴史で最初に登場する年代。『漢書』地理志と『後漢書』東夷伝はともに【史料】問題に注意。志賀島が博多湾であることも。 |
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2 |
〔 ① 〕年,邪馬台国の卑弥呼は魏の皇帝から「〔 ② 〕」の称号を賜った。 |
答 |
①239 ②親魏倭王 |
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『魏志』倭人伝の【史料】から,卑弥呼が使者を派遣したのが239年であることがわかっている。 |
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3 |
中国にある〔 〕碑文には391年,「倭が百済・新羅を破った」とあり,4世紀末から5世紀初めの大和朝廷の朝鮮出兵の様子を知ることができる。 |
答 |
好太王 |
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好太王は「広開土王」と表記されることもあります。好太王碑文は現在の中国と北朝鮮の国境,鴨緑江という河川の中国側にあります。 |
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4 |
630年,〔 ① 〕は第一回遣唐使として入唐した。奈良時代の〔 ② 〕は留学生として唐に渡ったが,帰国できず長安で死去した。また日本は8世紀から10世紀にかけて中国北東部の〔 ③ 〕とも交流があった。 |
答 |
①犬上御田鍬(いぬがみのみたすき) ②阿倍仲麻呂 ③渤海 |
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隋が滅び,唐が建国されたのが618年。これ以降の中国派遣は遣唐使となります。唐は907年に滅亡しますから,9世紀までは何とか派遣されていた。最終的には894年,菅原道真の建議によって停止されました。したがって遣唐使は,630年~894年ということで年代まで正確におぼえておきましょう。【時期】
また東アジアには唐・新羅と同時期に渤海(国)という国が存在したことは盲点となります。【落とし穴】渤海は遼東半島から満州,ロシア沿岸地域にかけてを領土とし,日本からは遣渤海使が派遣されていた。 |
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〔 ① 〕年,足利義満は〔 ② 〕貿易の形式で明と貿易を開始した。足利義満のあと貿易は,〔 ③ 〕氏配下の博多,〔 ④ 〕氏配下の堺が中心となった。また朝鮮との貿易では〔 ⑤ 〕や経典が輸入された。 |
答 |
①1404 ②朝貢 ③大内 ④細川 ⑤木綿 |
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日明貿易
日明貿易に入る前に,日元貿易があったことをおさえておきましょう。「えっ,元?」と思う人も多いでしょう。元寇の印象が強いからでしょうが,民間レベルではいわゆる私貿易はおこなわれていた。中でも幕府が公認して派遣された貿易船には,鎌倉時代末期(14代執権:北条高時)の建長寺船,室町時代初期(足利尊氏)の天竜寺船があります。いずれも幕府が建長寺・天竜寺の造営費用を得るのが目的でした。
1368年,朱元璋(洪武帝)が明を建国します。明は久々の漢民族による統一王朝です。ここで理解しておかなければならないのが「冊封(さくほう)体制」です。中国とは文字通り「世界の中心」を意味します。「中華」ともいいます。したがって中国の周辺の国は中国の臣下と考えられました。臣下の王は中国の皇帝に認められてはじめてその地の支配者となりえるのです。朝鮮も日本も西域諸国も北方民族もそうです。これを「冊封」といいます。
周辺諸国は主人である中国皇帝に土地の産物を献上することで「臣下の礼」を示します。これを「朝貢」といいます。皇帝は朝貢に対して太っ腹なところをみせます。貢物以上の金品をもたせて帰らせるのです。これが朝貢貿易で,諸国にとっては大きな利益となります。だから必ずしも心底,中国の皇帝に信頼や敬意をもつ必要はない。要はこの形式を重視すればよいのです。
日本は弥生時代から,この形式でもって中国と関係をもってきました。朝貢関係です。聖徳太子が小野妹子にもたせた国書では日本と中国を対等な関係としていたため,隋の皇帝を怒らせたのです。
中国の方も皇帝は世界の中心であることを自負してその地位を保ってきましたが,唐滅亡後の北方では異民族の侵入が激しく,元にいたっては漢民族が異民族に中国全土を支配されるなどその地位は逆転してしまいます。そこで明が興った。明の皇帝はその権威の回復に努め,冊封体制を強化していこうとしたのです。
このことを頭に入れた上で日明貿易を詳しくみていきます。まず冊封体制では朝貢は一国の王と認められてはじめておこなうことができるのです。日明貿易をはじめた足利義満は「日本国王源道義」という称号を与えられ日本国王と認められます。「源道義」とはだれか?「足利義満」のことです。(義満は返礼の書面に「日本国王臣源」と署名している。)「源」とは足利将軍家の「本姓」(本来の姓)で,源氏であることを,「道義」は義満が出家したときの名前です。
こうして朝貢形式の日明貿易は1404年,義満のころにはじまりました。1404年はおぼえておいたほうがよい年代です。しかし義満のあと4代将軍となった義持は,貿易を中断します。その理由は「朝貢形式を屈辱と考えた」からです。
ここで「中断」としたのは「再開」したからです。6代将軍:義教(よしのり)のときです。室町幕府は貧乏な幕府でしたから,朝貢貿易が幕府にもたらす利益ははかりしれないものだったからです。交通費も滞在費もタダ,明に貢いだ価値の10倍は明からお返しがくる。
ここで日明貿易についての用語を確認しておきましょう。この貿易で明に派遣された船を遣明船といいます。遣明船はまず寧波(ニンポー)という港で入国審査を受けます。寧波は江戸時代の日本の出島のような場所です。明は鎖国政策(海禁政策)をとっておりましたから,海外の窓口となったのがこの港です。位置も確認しておきましょう。そしてここで「勘合」の登場です。勘合は明から発行される紙です。この紙(木の板ではない)は日本側と明側がもっていてシリアルナンバーがうたれています。紙に書かれたシリアルナンバーの文字が一致いないと正式な貿易船と認められなかった。
日明貿易では銅を輸出して銅銭を輸入する貿易であったことをおさえておきましょう。銅銭の具体的な名前は「永楽通宝」です。ここまでおぼえておく必要があります。その他の輸出品では刀剣・硫黄が重要。硫黄は火薬の原料として利用されました。輸入品では生糸が重要。生糸は鎖国までは輸入品であったことはすでに学んでいます。
さて応仁の乱後,日明貿易は将軍家の手から有力な守護大名の手に移っていきます。しかし守護大名はいかに有力であっても明との朝貢貿易はできないはずです。あくまでも明が冊封した国王との間でおこなわれるのが朝貢貿易なんですから。ではどうして守護大名が明との貿易をおこなえたのか?それは財政難であった幕府が明から与えられた勘合をお金のある守護大名に売り渡したからです。ではその有力なに守護大名とはだれでしょう?よく出る問題ですからしっかりとおぼえてくださいね。大内氏と細川氏です。そして彼らが結んだ商人こそが,博多(大内氏)と堺(細川氏)だった。
やがて博多商人と堺商人は対立し,最終的には博多商人が勝利(寧波の乱),日明貿易は大内氏が独占することになった。
日朝貿易
日明貿易と同時に,日本は朝鮮とも活発に貿易をおこないます。ちょうど義満が南北朝を合一した1392年に朝鮮国(李氏朝鮮)が成立しましたね。義満は李氏朝鮮とも国交を開き,交易を広げようとします。
しかし日明貿易と違って朝貢貿易ではありませんから,はじめから幕府だけでなく守護大名や有力商人たちも朝鮮との貿易に参加します。これに対し朝鮮は対馬の宗氏を介して貿易を制限します。以後宗氏は朝鮮半島と日本の仲介者として栄えます。また朝鮮では日本への窓口として釜山などに倭館が建てられました。
貿易品は特に重要です。輸入品では木綿をしっかりとおさえておきたい。日明貿易の生糸も日朝貿易の木綿も室町時代には高級品として輸入されていたことをおさえておきましょう。応仁の乱後の16世紀はじめ,日朝貿易が衰退すると日本でも国産木綿の栽培が普及します。河内木綿(大阪)や三河木綿(愛知)です。
その他の輸入品としては経典,朝鮮人参ぐらいおぼえておけばよいでしょう。中国の宋の時代に発明されたとされる活版印刷は朝鮮の高麗にも伝わり,仏教の経典も活字としてまとめられました(大蔵経という)。これが商人や大名に人気があった。朝鮮の寺院としても李氏朝鮮時代は儒教が国教となって仏教が廃れていったため,経典を輸出することで収入を得たかった。朝鮮人参は薬として利用されました。
輸出品では日明貿易と同じく銅が多かったのですが,琉球貿易で入手した香料も多かったこともおぼえておきましょう。点差がつくところです。いずれも朝鮮国内では手に入れることができないものでした。 |
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1429年,琉球の中山王:〔 ① 〕が三王国を統一して琉球王国を樹立した。首都を〔 ② 〕に置き,日明両国と朝貢関係を築き,〔 ③ 〕貿易をおこなって栄えた。 |
答 |
①尚巴志(しょうはし) ②首里城 ③中継 |
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琉球は北山・中山・南山の3つにわかれていましたが,中山王:尚巴志(しょうはし)が統一します。15世紀はじめ,日本本土では正長の土一揆がもっとも近い出来事。【時期】王府は首里です。那覇ではありません。2000円札に描かれている「守礼門」は,首里城の正門ですが,のちに建築されたものです。(2000円札が発行されたのは2000年の沖縄サミットを記念してのもの)
首里の外港として中継貿易で栄えたのが那覇。琉球の中継貿易は応用編で説明済み。 |
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7 |
キリシタン大名であった肥前の〔 ① 〕氏は〔 ② 〕をイエズス会に寄進した。〔 ③ 〕年,〔 ① 〕・大友・有馬3氏のキリシタン大名は伊東マンショらをローマ教皇のもとに派遣した。これを〔 ④ 〕という。 |
答 |
①大村 ②長崎 ③1582 ④天正遣欧使節 |
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スペイン人・ポルトガル人ら南蛮人が日本に来航するようになると,長崎県の平戸や長崎が貿易港として栄えました。【位置】中でも肥前(長崎)の大村純忠は日本最初のキリシタン大名とよばれ,イエズス会に便宜を図り,長崎を寄進しています。1582年には甥の有馬晴信や豊後(大分)の大友宗麟らとともに,ローマ教皇グレゴリウス13世のもとに少年使節を派遣。天正遣欧使節です。少年使節は4名いましたが,伊東マンショの名前ぐらいは説明文によく出てくるので知っておきましょう。一方,派遣したキリシタン大名は正確に姓名をおぼえる必要はありません。「大村」・「大友」・「有馬」という人名をみたらキリシタン大名だと判断すればよい。
ただし派遣された年と帰国した年はともにおさえておきましょう。1582~1590年です。1582年は本能寺の変がおこり,政権が信長から秀吉にかわっていく年ですね。帰国した1590年は秀吉が天下統一した年。【時期】秀吉が九州を平定した1587年に,九州の宣教師の活動,スペイン・ポルトガルの動きをみてバテレン(宣教師)追放令を出していますから,キリスト教の禁教も進んでいたころだというのも理解しておきましょう。
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1600年,オランダ船:〔 ① 〕号が豊後(大分)に漂着し,徳川家康は乗組員のヤン=ヨーステン(オランダ)と〔 ② 〕(イギリス)を外交顧問とした。 |
答 |
①リーフデ ②ウィリアム=アダムズ |
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1600年といえば関ヶ原の戦いの年です。その少し前,豊後(大分)の臼杵湾(うすき)に太平洋を渡ってきたオランダ船が漂着しました。「リーフデ号」,オランダ語で「愛」を意味します。ここからスペイン・ポルトガル以外のヨーロッパ人との交易がはじまりました。リーフデ号の航海士であったオランダ人のヤン=ヨーステンとイギリス人のウィリアム=アダムズの2人はのちに家康の外交顧問となります。ヤン=ヨーステンは耶揚子(やようす),ウィリアム=アダムズは三浦按針(あんじん)という日本名も名乗ります。また彼らオランダ人はイギリス人も含めて「紅毛人」とよばれ,南蛮人とは区別されました。以後,オランダ・イギリスの商館は長崎の平戸に設置され,対日貿易をすすめることになります。
しかし最終的にイギリスは日本から撤退していくことになります。東南アジアにおけるイギリスとオランダの香料貿易の対立がアンボイナ事件(1623)という形で決着がつき,敗れたイギリスはインド経営に専念することになったのです。ちなみにアンボイナはインドネシア,インドネシアはオランダの植民地です。 |
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朱印船貿易が活発になると,東南アジアに日本町が形成され,〔 ① 〕のように〔 ② 〕王朝(タイ)で重用されるものも現れた。 |
答 |
①山田長政 ②アユタヤ |
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江戸時代初期は日本の方も積極的に海外貿易をおこなっていました。朱印船貿易ですね。朱印船貿易については応用編で説明済み。ここではタイの日本町で活躍し,タイ王室に仕えた山田長政をおぼえておきましょう。またタイは現在のように「タイ」とはよばれず「シャム」とよばれていました。さらに王朝名は当時「アユタヤ(王朝)」といいました。「シャム」・「アユタヤ」と問題に出てきたら現在の「タイ」であることを知っておきましょう。
アユタヤに残る日本人街跡(タイ) |
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1637年,〔 ① 〕を首領とするキリスト教徒が反乱をおこしたが,翌年,老中の松平信綱が〔 ② 〕の援軍を得て鎮圧した。 |
答 |
①天草四郎 ②オランダ |
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島原・天草一揆(島原の乱)の指導者は天草四郎(益田時貞ともいう)という少年でした。この一揆の鎮圧のため日本に手を貸した国はどこか?考えられる国は当時2ヶ国あります。ポルトガルとオランダです。イギリスはすでに日本から撤退していますし,スペインも1624年に幕府から来航を禁止されています。ではどちらか?答えはオランダですね。ポルトガルはむしろ一揆側を援助する側にある。考えればできますね。【落とし穴】 |
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11 |
鎖国後,国内の貿易港は長崎に限られ,出島にオランダ商館が移され,清とは〔 〕で取引がおこなわれた。 |
答 |
唐人屋敷 |
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ポルトガル船の来航禁止で鎖国が完成したのち,1641年にオランダ商館が平戸から長崎の出島に移されます。オランダ商館長は「甲比丹(カピタン)」(英語のキャプテン)とよばれ,オランダ船が入港するたびに「オランダ風説書」の提出が義務付けられました。風説書の中には海外の情報が書かれており,江戸時代の日本が世界情勢を知る唯一の手段でした。これは和訳されて長崎奉行の手を経て江戸に伝えられます。
もう1つの通商国:中国はというと,少し整理しなければなりません。まず江戸幕府がはじまったころの中国はまだ明です。明は海禁政策(鎖国)をとっており,貿易は朝貢形式しか認めませんでしたから江戸幕府と直接貿易することはありませんでした。そこで両者は日本と中国の領土外で取引するわけです。こういうのを「出会貿易」といいます。では「出会」の場所は?ルソンやコーチ。ルソンはフィリピン,コーチはベトナムです。つまり東南アジアです。日本からは朱印状をもらった朱印船貿易として明と交易したことになります。もちろん輸入品は中国産の生糸。そして支払いには銀を使いました。
1644年からは清が中国を統一します。このときには鎖国が完成していますから,幕府は清との交易窓口をつくりました。やはり長崎ですが,この場合は唐人屋敷といいます。出島ではありません。【落とし穴】
唐人屋敷跡(長崎市) |
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12 |
朝鮮との貿易は,対馬の宗氏を通じて,〔 ① 〕の〔 ② 〕でおこなわれた。また琉球王国は将軍の代替わりごとに〔 ③ 〕や国王の即位に感謝する〔 ④ 〕を江戸に派遣した。 |
答 |
①釜山(プサン) ②倭館 ③慶賀使 ④謝恩使 |
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鎖国後の通商国はオランダと清です。その一方で通信国も存在しました。朝鮮と琉球です。
朝鮮とは秀吉のころは最悪の状態にありましたね。かわって江戸幕府が成立すると,幕府は対馬の宗氏を通じて国交の回復を試みます。そして1607年,慶長・文禄の役後最初の通信使が幕府に派遣されました。さらに1609年,対馬藩と李氏朝鮮との間で己酉(きゆう)条約が結ばれ,国交が回復。対馬藩は幕府から対朝鮮外交の特権や釜山に設置された倭館での朝鮮貿易の独占も認められました。ただし日本におけるオランダ人と同様,日本人は倭館からの外出は認められませんでした。
対馬藩(宗氏)がこのように日本(幕府)と朝鮮の間を積極的にとりもったのには理由がありました。対馬は耕地に恵まれない土地柄だったからです。そのような土地では経済が成り立ちません。対馬が生き残るためには対外交易が必要不可欠だった。
一方琉球は朝鮮と己酉条約が結ばれた同じ1609年,島津氏による武力討伐がおこなわれました。もちろん幕府の許可を得てのものです。その後,幕府には2つの使節がやってくることになります。1つは慶賀使。これは朝鮮通信使と同様,将軍交代ごとにお祝いを述べにくる使節です。もう1つは琉球王が交代したときにその旨を伝えにくる使節。これを謝恩使といいました。
注意する点は琉球は薩摩による出兵後も中国の属国という立場を守ったということです。これを日明(清)両属といいます。頭に入れておきましょう。【落とし穴】 |
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13 |
田沼時代,〔 ① 〕は『赤蝦夷風説考』を著し,蝦夷の現状と開発・対露貿易を論じると,幕府は〔 ② 〕に,またのちに〔 ③ 〕に千島列島を探検させた。また松平時代には〔 ④ 〕が『海国兵談』を著し,海防論を唱えたため幕府の言論統制に触れ,処罰された。 |
答 |
①工藤平助 ②最上徳内 ③近藤重蔵 ④林子平 |
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蝦夷探検とロシア関係史は難関校ではよく出るところです。整理しておぼえたい。
まず蝦夷地開拓・探検史は田沼時代にはじまります。工藤平助が『赤蝦夷風説考』を書き,最上徳内を蝦夷地の探検に派遣した。蝦夷地の探検は最上徳内→近藤重蔵→間宮林蔵→伊能忠敬です。「最近,まいった(最・近・間・伊った)」とおぼえましょう。最上徳内と近藤重蔵は天明期(田沼期)から寛政期(松平期)にかけて重なる部分があります。そして同時並行して伊能忠敬が日本地図作成のため蝦夷地の測量をおこないますが,『大日本沿海與地図』を完成(死後)させたのは間宮林蔵のあとです。
工藤平助の『赤蝦夷風説考』(「赤蝦夷」はロシアの意味)は田沼意次によって,受け入れられたのに対して,林子平の『海国兵談』は松平定信によって発禁とされたことも両者の政治の【比較】点です。 |
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14 |
1792年にロシア使節:ラクスマンが〔 ① 〕に,1804年に〔 ② 〕が〔 ③ 〕に来航して通商を求めると,1808年,幕府は間宮林蔵に命じて〔 ④ 〕を探査させた。また1808年にはイギリス艦:〔 ⑤ 〕号がオランダ船を追って長崎に侵入する〔 ⑤ 〕号事件や1811年,ロシア海軍の〔 ⑥ 〕が国後島に上陸して幕府に捕らえられた〔 ⑥ 〕事件などもおこった。 |
答 |
①根室 ②レザノフ ③長崎 ④樺太 ⑤フェートン ⑥ゴローニン |
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日本にやってきたロシア人の最初はラクスマンという人物です。1792年は松平定信の寛政の改革がおこなわれていたころです。ラクスマンは大黒屋光太夫ら漂流民を引き渡すとともに日本に通商を求めて根室にやってきます。幕府は長崎にいくように許可証をラクスマンに渡しますが,ラクスマンはそのまま帰国。
この許可証をもって1804年に長崎にやってきたのが,レザノフです。しかし許可証を与えた松平定信は政権の座をおりていたので,幕府のレザノフに対する態度は冷淡なものでした。
日露関係に緊張感が漂いはじめたところで,間宮林蔵の登場です。樺太探検をおこった間宮は樺太が島であることを確認し,以後大陸と樺太との間の海峡は「間宮海峡」とよばれることになったのです。
一方ロシア側も千島列島の測量・探検に積極的に乗り出します。測量艦を指揮していたゴローニンは国後島に上陸したところ,幕府の役人にとらわれ,幽閉されます。これをゴローニン事件といいます。ゴローニンは同時期にロシアに捕らわれた高田屋嘉平と交換で釈放され,この事件は解決します。 |
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15 |
〔 ① 〕年,幕府は外国船打払令を出して清・オランダ以外の外国船の撃退を命じると,〔 ② 〕年,アメリカ商船:〔 ③ 〕号が砲撃された。この事件に関連して〔 ④ 〕が『慎機論』,〔 ⑤ 〕が『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を著して鎖国批判したため処罰された。〔 ⑥ 〕年のこの出来事を〔 ⑦ 〕という。しかし水野忠邦は清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを伝え聞くと,遭難した船のみ薪水を給与することを認めた。 |
答 |
①1825 ②1837 ③モリソン ④渡辺崋山 ⑤高野長英 ⑥1839 ⑦蛮社の獄 |
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19世紀には,ロシア以外にも日本に接近してくる国が現れます。
1808年,イギリス船フェートン号が長崎に侵入します。イギリス船が長崎にやってきた理由はオランダ船を拿捕するためでした。19世紀のはじめのヨーロッパはフランスのナポレオンが席捲した時代です。このときフランスはオランダも支配下におき,その植民地も一時フランス領となりました。イギリスはヨーロッパで唯一フランスの対抗できた国で,ナポレオン戦争がこの極東の地まで広がっていたということです。この事件は日本にとって事無きに終わりましたが,のちに大きな影響を2つ与えました。
1つは1825年,幕府が外国船(異国船)打払令を出したこと。【時期】もう1つは当時,長崎防衛の任に当たっていた佐賀藩(肥前鍋島藩)が経費削減から十分な防衛を怠ったとして幕府から叱責を受けます。この屈辱から佐賀藩は次代になって近代化を進め,明治維新に大きく貢献することになった。【歴史的意義】
さて外国船打払令が施行され,その犠牲になった船にアメリカ船モリソン号がありました。モリソン号事件(1837)です。せっかく日本人漂流民を届けにきてくれたモリソン号をイギリス船と誤って撃沈してしまった。こういう幕府の政策に同じ蘭学者グループの渡辺崋山と高野長英がそろって批判。彼らは逆に幕府に逮捕され投獄されます。蛮社の獄(1839)です。鎖国(1639)200周年のこの年(1839),鎖国批判の蛮社の獄です。【時期】
しかしアヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知り,幕府は政策を180度転換,薪水給与令を出すことにしました。やってくる外国船には砲弾ではなく,薪や水を与えて,速やかに退去していただこうとしたのです。これを出したのはだれか?アヘン戦争(1840)にもっとも近い日本の政治家は天保の改革の水野忠邦でしたね。 |
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16 |
1853年,アメリカのペリーが浦賀に,ロシアの〔 ① 〕が長崎に来航してともに条約締結を要求し,両者はともに翌年来日した。日露和親条約では千島列島は〔 ② 〕島以南を日本領とし,〔 ③ 〕は両国人雑居地とされた。 また日本はイギリス・オランダとも和親条約を結んだ。 |
答 |
①プチャーチン ②択捉 ③樺太 |
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1853年,旗艦サスケハナ以下4隻を率いた東インド艦隊司令官ペリーが,アメリカ大統領フィルモアの国書を携えて浦賀に来航します。アメリカが日本に開国を求めた理由は?「日本をアメリカの捕鯨船の補給基地として利用したかったから」です。ちなみにペリーは太平洋を横断したのではなく,地球を東まわりに遠回りします。アメリカ東海岸を出発して大西洋からインド洋,中国・琉球を経由して浦賀に現れました。当時太平洋を往復するだけの燃料(石炭)を船に積むことができなかった証拠です。
また同じ年,ロシアのプチャーチンが長崎に来航。同じく開国を求めてのことでした。幕府は1年後の返答を約束します。
ではこのときの老中はだれでしょう?阿部正弘です。阿部正弘が黒船の脅威に対してとった政策は?まず台場(品川)に砲台を建設します。次に大船建造の禁を解禁する。大船建造の禁は1635年の家光のころに出された武家諸法度の中で禁じられていた内容でした。もちろん諸藩の反乱を防ぐためでしたが,ここへきてそれを解禁。これによって薩摩・伊予宇和島・佐賀藩での西洋式軍艦の建造がはじまります。
日米和親条約に関してはすでに学びました。ここでは日露和親条約の内容についてしっかりとおさえておきたい。【落とし穴】特に北方領土問題です。千島列島は択捉島と得撫(ウルップ)島間を日露国境とし,樺太は両国人雑居地とする。
来日したロシア人はラクスマン→レザノフ→ゴローニン→プチャーチンの順【流れ】 |
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17 |
1858年,井伊直弼はアメリカ総領事:〔 ① 〕との間で日米修好通商条約を結び,五港を開くとともに不平等な内容を受け入れた。続いて〔 ② 〕・〔 ③ 〕・〔 ④ 〕・〔 ⑤ 〕とも同等の内容の条約を結び,〔 ⑥ 〕の五ヶ国条約とよばれた。この条約の批准交換使節派遣の際,〔 ⑦ 〕を艦長とする咸臨丸が太平洋を横断した。 |
答 |
①ハリス ②オランダ ③イギリス ④フランス ⑤ロシア ⑥安政 ⑦勝海舟 ※②~⑤は順不同 |
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日米修好通商条約は下田に赴任した総領事:ハリスとの間で結ばれましたが,同様の内容の条約をオランダ・イギリス・フランス・ロシア(アオイフロとおぼえる)とも結んだため,安政の五ヶ国条約ともいわれます。この条約の批准書を交換するため日本で最初に太平洋を渡ったのが,咸臨丸。オランダから購入したものでした。艦長は勝海舟。福沢諭吉も乗船していました。
ハリスが滞在し,アメリカ領事館として使用された玉泉寺(静岡県下田市) |
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18 |
1862年,薩摩藩はイギリス人を殺傷する〔 ① 〕をおこし,翌年,〔 ② 〕戦争に発展した。講和後,薩摩とイギリスは接近するようになった。 |
答 |
①生麦事件 ②薩英 |
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1860年代はじめは攘夷の時期です。まず薩摩です。薩摩藩島津氏の一行が江戸からの帰途,横浜近くの生麦村にさしかかったころ,その行列をイギリス人らが乗馬したまま横切ったというわけで,家臣がそのイギリス人無礼討ち。これが生麦事件です。生麦とは地名だったんですね。横浜郊外とおぼえておきましょう。【位置】
これをきっかけに薩摩とイギリスとの間で戦争が勃発。(薩英戦争)薩摩は勝てるはずもなく,両者は和解。両者とも現実的な選択です。薩摩は攘夷よりも倒幕へと方針返還し,イギリスもこれを援助することになった。イギリスが幕府を離れ,薩摩と手を組んだのは,幕府には不倶戴天の敵フランスがついていたからです。 |
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19 |
1863年,長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃したため,翌年英・仏・米・蘭の四国連合艦隊が報復する〔 〕事件がおこった。 |
答 |
下関砲撃事件 |
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薩摩に遅れて長州も攘夷を決行する。下関海峡を通過する外国船に砲撃を加えた。無謀な作戦です。当然報復を受ける。四ヶ国艦隊下関砲撃事件です。「四ヶ国」にはロシアが入っていないことに注意。【落とし穴】アメリカ・イギリス・フランス・オランダです。
攘夷が不可能であることを悟った薩摩と長州は尊王攘夷から尊王倒幕へ進んでいくことになります。
関門海峡に残る大砲(山口県下関市) |
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20 |
〔 ① 〕年,明治政府は琉球を日本の領土の一部として琉球藩を設置し,〔 ② 〕年には廃藩置県を断行して〔 ③ 〕とした。 |
答 |
①1872 ②1879 ③沖縄県 |
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明治時代初期,沖縄が日本の一部に組み入れられた一連の出来事を琉球処分といいます。1872年と1879年の年代はおぼえておくほうがよいでしょう。【時期】琉球処分・台湾出兵については応用編で。 |
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21 |
外相:〔 ① 〕は鹿鳴館の建設に象徴される〔 ② 〕をとったが,〔 ③ 〕年のノルマントン号事件に対する批判が高まり辞任し,条約改正の交渉は失敗した。また外相:青木周蔵はイギリスとの条約改正に取り組んだが,1891年に〔 ④ 〕がおこったため辞任し,交渉は中止された。 |
答 |
①井上馨(かおる) ②欧化政策 ③1886 ④大津事件 |
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1880年代の外交は鹿鳴館時代とよばれ,外相:井上馨による極端な欧化政策が特徴。1890年代に入って,青木周蔵が外相を務めるとロシアに対抗するためイギリスとの接近を試みます。そんな中,大津事件がおこった。
1891年,ロシア皇太子(のちにロシア革命で退位するニコライ2世)が来日したとき琵琶湖畔で津田三蔵という巡査に襲撃されで負傷するという事件がおこりました。これを大津事件といいますが,この事件の本質はこうです。
この津田三蔵に対して日本政府は死刑を求めました。ロシアとの緊張緩和のためです。しかし時の大審院長(大審院は当時の最高裁判所):児島惟謙(いけん)は,無期懲役としました。これが何を意味するかというと,児島は「司法権の独立」を守ったということです。政府から圧力に屈せず三権分立を,つまり日本が立憲国家であることを証明したのです。【歴史的意義】
大津事件の責任をとって青木は辞任しますが,次の外相:陸奥宗光の右腕として日英通商航海条約締結に尽力します。 |
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〔 ① 〕年,外相:陸奥宗光は治外法権撤廃を主とする〔 ② 〕条約に調印することに成功した。〔 ③ 〕年には外相:小村寿太郎が〔 ④ 〕との間に通商航海条約を締結して関税自主権の回復に成功した。 |
答 |
①1894 ②日英通商航海 ③1911 ④アメリカ |
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条約改正は年代,条約名も正確におぼえておきましょう。 条約改正のための条約は「通商航海条約」。 |
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下関条約の全権は日本側が〔 ① 〕・〔 ② 〕,清国側か〔 ③ 〕であった。 ポーツマス条約は,アメリカ大統領〔 ④ 〕の仲介で,日本側:〔 ⑤ 〕とロシア側:〔 ⑥ 〕の間で調印された。 |
答 |
①伊藤博文 ②陸奥宗光 ③李鴻章(りこうしょう) ④セオドア=ルーズベルト ⑤小村寿太郎 ⑥ウィッテ ※①・②は順不同 |
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下関条約・ポーツマス条約に登場する人物名をおぼえるのが発展編です。また下関条約の結果,台湾には台湾総督府が置かれたこと。【落とし穴】ポーツマス条約の結果,日本に勝利できなかったロシアをイギリスが取り込んで英露協商が結ばれ,これによって三国協商が成立したこと。【時期】そしてアジアの小国がヨーロッパの大国に勝利したことが,トルコ・ベトナムなどアジアの民族運動に大きな影響を与えたということを理解しておきましょう。【歴史的意義】 |
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1920年,国際連盟が設立されると,日本は〔 ① 〕・〔 ② 〕・〔 ③ 〕とともに常任理事国となった。また事務次長の一人として〔 ④ 〕が就任した。 |
答 |
①イギリス ②フランス ③イタリア ④新渡戸稲造(にとべいなぞう) ※①~③は順不同 |
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国際連盟の常任理事国は国際連合とともに比較させておぼえること。いずれも戦勝国が常任理事国となったのが共通点ですが,国際連盟ではアメリカが不参加であったこと。そしてイタリアは早々に三国同盟を離脱することで,戦勝国(連合国側)につき,戦後の国際的地位が保障されたということを理解しておきましょう。
またこの時代,国際組織の中で重要なポストについた日本人として新渡戸稲造の名前を知っておきましょう。前の5000円札の肖像になった人物です。また彼は『武士道』という本を英語で出版し,日本人というものを海外に紹介した人物としても世界的に有名です。 |
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1921年のワシントン会議では,日英同盟の廃棄や太平洋問題についての〔 ① 〕条約,中国問題についての〔 ② 〕条約,主力艦保有比率を取り決めた〔 ③ 〕条約が結ばれた。 |
答 |
①四ヶ国 ②九ヶ国 ③海軍軍縮 |
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ワシントン会議では3つの条約が結ばれたことをおぼえておく。四ヶ国・九ヶ国の国名は特にすべて暗記する必要はありません。
・四ヶ国条約…太平洋における各国権益の保障と日英同盟の破棄(これが重要)。
・九ヶ国条約…中国の領土保全と門戸開放。
・海軍軍縮条約…主力艦保有の制限。日本は対英米6割(これは難問)。 |
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1930年のロンドン会議では〔 ① 〕の保有比率を取り決めた海軍軍縮条約が締結された。 これに調印した首相の〔 ② 〕は帰国後,右翼に襲撃され総辞職した。 |
答 |
①補助艦 ②浜口雄幸(おさち) |
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ワシントン海軍軍縮条約に対して,ロンドン海軍軍縮条約では補助艦の保有率が設定されました。【比較】主力艦と補助艦の違いは正誤問題で重要。その比率は日本は対英米7割です(これも難問)。
さてこの比率,日本海軍として容認できるものではなかった。しかし軍部はあるものを持ち出して政府を批判します。作家の司馬遼太郎はこれを「魔法の杖」とよびました。「統帥権」です。憲法では軍を統帥するのは天皇の権限であるとされています。軍は政府に属するものではなく,天皇に属するのです。それを政府が勝手に侵犯した。「統帥権干犯」であるというのです。
軍だけではありません。当時は政党政治が「憲政の常道」とよばれましたから,野党側も与党を攻めるための口実としたのです。これ以降「統帥権」という「魔法の杖」は何にでも効く,万能の道具として軍部が利用していくことになります。
この条約に調印した首相の浜口雄幸は東京駅で右翼に襲撃され,一命をとりとめたものの総理を辞職。犯人に「統帥権干犯」とは何かを問うても答えられなかったといいます。つまりこのようなテロ行為が常道の世が近づいていたのです。 |
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1956年の日ソ共同宣言では北方領土問題に関して,平和条約の締結後に〔 ① 〕・〔 ② 〕の二島を返還すると明記されている。 |
答 |
①歯舞群島 ②色丹島 ※順不同 |
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日ソ共同宣言は平和条約ではありません。未だに日ロ間で大戦の平和条約は結ばれいません。まず国交回復を優先し,北方領土のうち2島を返還することを前提に平和条約を締結すると共同宣言には明記されているのです。2島とは歯舞・色丹です。(小さい方の2島)日本国内でも4島一括返還を前提に交渉すべきだとする意見と,まずは2島からはじめてのちに残り2島返還の交渉をすすめるべきだとする意見にわかれています。
日本は日ソ共同宣言によって国連に加盟したわけですが,日本が1956年まで国連に参加できなかった理由は,サンフランシスコ平和条約にソ連は調印せず,日本の国連加盟にソ連か拒否権を行使したためです。国連加盟には安全保障理事会の承認が必要であることをおさえておきましょう。国際連合憲章第2章第4条「国際連合加盟国となることの承認は,安全保障理事会の勧告に基づいて総会の決定によっておこなわれる。」 |
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1972年,日中共同声明は田中角栄首相と中国の〔 〕との間で調印された。 |
答 |
周恩来 |
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日中共同声明の田中角栄の相手は?難問です。周恩来。周恩来は毛沢東の右腕で,中華人民共和国の首相を務めた人物です。中国のNO1は毛沢東,NO2は周恩来と【セット】でおぼえておきしまょう。
この2人の死後,しばらくして政権を握った鄧小平が「改革開放」路線をとっていくことになります。 |