1 |
約1万年前から地球温暖化とともに,〔 ① 〕石器が使用され農耕牧畜がはじまった。この時代を〔 ② 〕時代というが,日本列島は海面の上昇とともに大陸から切りはなされ,〔 ① 〕石器や土器は使用したが農耕はおこなわない〔 ③ 〕時代となった。 |
答 |
①磨製石器 ②新石器 ③縄文 |
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・世界…旧石器時代(打製石器)→新石器時代(磨製石器・土器・農耕)→青銅器時代→鉄器時代
・日本…旧石器時代→縄文時代(磨製石器・土器・農耕なし)→弥生時代(農耕・青銅器・鉄器) |
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2 |
大和朝廷は,大王を中心とする部族連合であった。有力な豪族は氏(うじ)とよばれる血族集団を構成し,政治的・社会的地位を表す姓(かばね)が与えられた。このような制度を〔 〕制度という。 |
答 |
氏姓 |
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同じ先祖をもつ同じ血が流れている集団を「氏」,つまり「~氏」といういい方のはじまり。「姓」はいまでは「氏」と同じように「名字(苗字)」の意味で使われているけれど,昔は「職業」を表す言葉だったと思って下さい。 |
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3 |
律令体制で実施された班田収授では〔 ① 〕年ごとに戸籍を作成し,〔 ② 〕歳以上の男女に〔 ③ 〕が支給された。 |
答 |
①6 ②6 ③口分田 |
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「6年・6歳」という数字も大切ですが,口分田は男女とも与えられたという点がもっと大事。「男子に」と書かれている文は誤文です。【落とし穴】 |
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4 |
男子には,租庸調の税のほか,庸調を自ら都まで運んだり,国司のもとで働く〔 ① 〕や防人などの兵役の義務があった。庸調の荷札などには〔 ② 〕が使用された。 |
答 |
①雑徭(ぞうよう) ②木簡 |
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租庸調のうち,庸と調は男子に課せられた税でした。ここは「男子」です。【落とし穴・比較】そして庸調とも,税は都まで農民の手で運ばなければならなかった。一方,租は「男女とも,国司のもとに」納めます。正誤問題では要注意。これらの荷札には紙は使用されず,木札=「木簡」が使用されました。木簡には文字が書かれた部分を削ることで再利用できるという利点があります。写真【史料】がよく出される。
雑徭は「国司のもとで働く」労役。防人は「北九州の警備」です。これも正誤問題でよく出される。 |
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708年,わが国最初の流通貨幣:〔 ① 〕が鋳造された。これより前に鋳造された貨幣としては天武天皇のころに鋳造された〔 ② 〕があるが,流通していたかどうかは定かではない。 |
答 |
①和同開珎 ②富本銭 |
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少しややこしいですが,最初に造られたのが富本銭,最初に使われたのが和同開珎です。【比較】和同開珎のときは,「奈良時代」や「708年」というヒントも隠されています。【時期】
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富本銭と和同開珎(レプリカ) |
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743年に出された墾田永年私財法によって荘園が成立すると,律令制度の根幹である〔 〕の原則が崩れはじめた。 |
答 |
公地公民 |
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墾田永年私財法で崩れたのは班田収授ではなく,公地公民。【落とし穴】 |
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7 |
貴族や寺社の荘園では租税が免除される〔 ① 〕の権や役人の立ち入りを拒否する〔 ② 〕の権が認められていた。院政期には延暦寺などの大寺院は院の保護を受けて荘園を増やし,その防衛のため〔 ③ 〕を組織した。 |
答 |
①不輸 ②不入 ③僧兵 |
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都の貴族は政治的な権力を握っています。だから自分の土地(荘園)の税を免除(不輸の権)するように政治的に圧力をかけることができた。一方, 地方の人が開発した土地(荘園)ではそのような権利はなかったので,地方官僚である国司は,私利私欲のために必要以上に税を取り立てるものも現れました。
そこで地方の開発領主たちは,形だけその土地の名義を自分から都の貴族のものとするんです。これを難しくは「寄進」といいます。「寄付」とは少し違う。貴族は名義料だけいただき,土地の管理・経営は開発領主に実質的な権限がある。そうすると,貴族のもつ特権がその土地にも有効になります。
土地を寄進する先はできるだけ有力な貴族であるほうが安泰です。だから藤原氏のもとにたくさんの荘園が集中した。不入の権も同様です。立ち入りを禁止した役人とは国司やその手先です。
寺院も同様,皇族や貴族の権力を背景に特権を与えるかわりに荘園の寄進を受けます。しかし地方政治が乱れると中央の貴族が特権をもっているからといって,その土地が安全かというとそうでもなくなってきた。盗賊など武装勢力に襲撃されたらひとたまりもない。そこで土地の防衛のため武装する武士(団)が登場するわけです。寺院ではそれが僧兵という形であらわれました。
さらに時代が経つと,武士や僧兵は中央にも対抗する勢力に成長します。絶大な権力を握った白河上皇も思い通りにならないものが3つあると嘆いていました。「鴨川の水 双六のさい 山法師」です。「鴨川の水」とは川の流れのこと。しかも氾濫すると手に負えないという意味。「双六(すごろく)のさい」とは,サイコロの目。これは運任せ。そして「山法師」とは「延暦寺の僧兵」のことです。 |
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8 |
鎌倉時代には,財産は〔 〕相続が原則で,女性も相続の対象となっていた。 |
答 |
分割 |
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これは案外よく出る問題です。しかも勉強の盲点となっている。【落とし穴】まず鎌倉時代の武家社会では,分割相続が基本でした。財産は子ども全員にわけて相続させる。すると功績があって新しい土地を手に入れない限り,代々継がれる土地は,減っていくばかりです。鎌倉時代末期になると御家人の土地はこれによって細分化され,生活が苦しくなりました。
元寇のあと,幕府から恩賞がもらえず生活苦になったというのは,みなさんよくおぼえていることですが,その背景には分割相続という慣わしがあったためです。ここも頭に入れておきたい。
そこでよく問われる徳政令。ここでは特に鎌倉幕府が発した1297年の永仁の徳政令のことですが,この徳政令はそんな貧窮していた御家人を救済するために発したわけですが,その内容を単に借金の帳消しとおぼえておくだけでは不十分な場合があります。もう少し詳しく「御家人が質入れ・売却した土地を無償で取り戻させた」と理解しておきましょう。【説明(内容)】この法令が効果なかったことはいうまでもありません。
そういうわけで,鎌倉末期から室町にかけて武家の相続は長子相続,つまり長男(嫡男)がすべての財産を相続するという形に変化していったのです。【比較】
また鎌倉時代の武家社会では女性の地位が高かったこともおさえておきましょう。相続権があったばかりでなく,地頭も女性が就くことができた。(地頭は守護と違って,職というより利権といったものだったので,財産相続という意味ではその利権も財産の中に入っていたため。) |
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9 |
鎌倉時代,近畿地方を中心に米と麦をつくる〔 ① 〕や〔 ② 〕がはじまり,室町時代に全国へと広まった。室町時代になると商品作物の栽培もさかんになり三河地方(愛知県)では〔 ③ 〕が栽培された。 |
答 |
①二毛作 ②牛馬耕 ③木綿 |
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これはよく出る問題ですね。特に室町時代との比較が重要。【比較・時期】鎌倉時代は二毛作がはじまった(近畿に広まった)。室町時代は全国に広まった(普及した)。 (牛馬耕も同様)
また室町時代の商品作物として木綿は重要です。木綿(綿花)栽培は室町時代から。そしてこの木綿は朝鮮(朝鮮国)との貿易で日本にもたらされたものです。また少し発展的なことですが,木綿栽培がはじまったのは,愛知県(三河地方)から。三河木綿とよばれました。愛知県や中京工業地帯で繊維工業がさかんな背景には古くからの木綿(綿花)の栽培地であったことがあります。 |
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鎌倉時代,交通の要地や寺社の前では月に3回の定期市が開かれるようになり,室町時代には月6回に増加した。商工業者は〔 〕とよばれる同業組合を結成し,公家や寺社の保護を受けて製造・販売の独占権が認められた。 |
答 |
座 |
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これも鎌倉・室町を【比較】しておぼえたい。定期市,鎌倉時代は月3回,室町時代は月6回。使われていた貨幣は鎌倉は宋銭,室町は明銭でした。座は鎌倉・室町両方の時代に共通する語句です。
座と株仲間の【比較】も重要です。座は公家や寺社の保護を受け,織田信長などの楽市楽座で廃止。株仲間は幕府の保護を受け,水野忠邦の天保の改革で廃止。 |
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鎌倉時代,港湾では年貢の輸送・保管にあたった運送・倉庫業者〔 〕が発生した。 |
答 |
問丸 |
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「問丸」は「問」とも表現されます。主に港湾での輸送業者です。室町時代には「問屋」とよばれるようになります。
鎌倉・室町の経済用語は必ず【比較】しておぼえること!
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鎌倉時代後期から室町時代(南北朝時代)にかけて,畿内やその周辺では〔 〕とよばれ,荘園を侵して幕府や荘園領主に反抗するものが現れた。 |
答 |
悪党 |
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「悪党」とはどの時代にもいる反政権・社会集団ですが,歴史の問題で出題される時期は鎌倉末期から室町初期に限られます。【時期】を問う問題では必須。 |
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室町時代,交通の要地には〔 ① 〕が設けられ,幕府や公家・寺社らによって通行税が徴収された。街道沿いには〔 ② 〕とよばれる運送業者が発達した。 |
答 |
①関所 ②馬借 |
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室町時代の関所の主な目的は,税をとるためです。特に室町幕府という政権は,貧乏な政権でした。鎌倉幕府では地頭が年貢を集めてきてくれましたが,室町幕府ではその地頭は守護の支配下に置かれたのです。取れるところから取らなければ財政がもちませんでした。最悪50~60mに1ヶ所関所があり,その度に通行税が取られた。
これでは道を歩く人が少なくなってしまいます。次第に室町時代は閉鎖的な社会になってしまいました。その点,座という組織も開かれた組織ではありません。室町時代という時代は閉鎖的な時代だった。だから守護大名や戦国大名といった地方勢力が力をもったのです。
そしてこの状況を打開しようとしたのが,足利義満の勘合貿易であり,織田信長の関所・座の廃止だったことも理解しておきましょう。
一方,江戸時代の関所は軍事・防衛目的であった。「入り鉄砲と出女(でおんな)」という言葉があります。江戸を防衛するために鉄砲が江戸に持ち込まれないように。そして参勤交代で人質となっている大名の妻が江戸から出ないように。これが最大の目的。【比較】
また運送業者では,海上の問(問丸・問屋),陸上の馬借とこれも【比較】しておぼえましょう。 |
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1485年,〔 ① 〕国(京都府)の国人が守護大名を退陣させた一揆を〔 ② 〕という。この後,約8年間,国人や農民による自治がおこなわれた。 |
答 |
①山城 ②山城国一揆 |
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15世紀の代表的な3つの一揆のうち,山城国一揆と加賀一向一揆は応仁の乱以降であるというぐらいはおさえておいた方がよいでしょう。少し細かい【時期】を問う並べ換え問題が出されることがあります。 また場所(旧国名・現府県)【位置】,どのような人々がおこしたかの他,山城国一揆では「8年間の自治」,加賀一向一揆では「100年の自治」というのが,ヒントとなる言葉。【比較】
つまり,山城国一揆と加賀一向一揆は,正長の土一揆と違って明らかに「下剋上」の表れと理解して下さい。だから応仁の乱のあとなんだと。 |
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1488年,〔 ① 〕国(石川県)で〔 ② 〕の信者が一向一揆をおこすと,〔 ① 〕国では織田信長に平定されるまで約100年間,信者による自治が続いた。 |
答 |
①加賀 ②一向宗(浄土真宗) |
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戦国時代には戦国大名による鉱山開発が進められ,島根県の〔 〕銀山は世界的規模の銀山であったとして世界遺産に登録されている。 |
答 |
石見 |
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室町時代,農村や都市では自治組織が形成された。農村の自治組織は惣とよばれ,〔 ① 〕を開いて村の掟(おきて)を定めた。〔 ② 〕・〔 ③ 〕・〔 ④ 〕は自治都市として知られ,〔 ④ 〕の〔 ⑤ 〕は応仁の乱で途絶えた祇園(ぎおん)祭を自らの手で復活させた。 |
答 |
①寄合 ②堺 ③博多 ④京都 ⑤町衆 ※②・③は順不同 |
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これもよく出る問題ですね。自治組織の問題。まず自治組織という言葉は室町時代でみられる語句。そして農村では「惣」,都市では「町衆(京都)」という語句が使われます。【時代区分】 |
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豊臣秀吉がおこなった太閤検地では度量衡が統一され,耕作者・土地の等級・面積・石高を〔 〕に記入した。これによって一地一作人の原則が定まり,荘園が消滅した。 |
答 |
検地帳 |
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太閤検地の目的は,年貢を確実に徴収することにありました。【説明(目的)】そのためには,農民を農地にしっかりとしばりつけておく必要がありました。その記録が「検地帳」です。これが誰の土地か,面積がどれだけで,とれ高はどのくらいかを記録しておきます。
一地一作人の原則が成立し,これによって消滅したのは,もちろん公地公民ではなく,荘園制度です。まちがわないように。【歴史的意義・落とし穴】
そして秀吉は刀狩をおこなうとともに兵農分離の社会を打ちたてようとした。こうして下剋上の世は終わり,社会は安定すると考えたのです。【歴史的意義】 |
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農民には検地帳に記載され年貢納入を義務づけられた〔 ① 〕と小作をする水のみ百姓があった。〔 ① 〕の中には〔 ② 〕・組頭・百姓代とよばれる村役人が年貢の徴収や村の運営にあたった。 |
答 |
①本百姓 ②名主(庄屋) |
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太閤検地はそのまま江戸幕府の社会を支える基礎となりました。検地の結果は検地帳という帳簿に記録され,土地をもち年貢を納める義務がある農民を本百姓,それ以外の土地をもたない農民を水のみ百姓と区別します。「百姓」という言葉が農民を表す言葉になったのも江戸時代です。だから「百姓」は江戸時代用語です。【時代区分】
村役人は問われても格上の「名主」,関西では「庄屋」でしょう。「名主」は「なぬし」と読みます。これは珍しく読みが問われる問題です。【落とし穴】 |
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江戸時代には,深耕用の〔 ① 〕,脱穀用の〔 ② 〕,選別用の〔 ③ 〕・〔 ④ 〕が用いられ,肥料には〔 ⑤ 〕・油粕などの金肥が用いられた。 |
答 |
①備中ぐわ ②千歯こき ③千石どおし ④唐箕(とうみ) ⑤干鰯(ほしか) ※③・④は順不同 |
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備中ぐわは深く耕すためのくわ。三又・四又に刃がわかれている。刃が細い分,硬い土や粘土質の土に刺さりやすくおこしやすい。棚田など牛馬を使用しにくい土地でも役立ちます。
千歯こきは脱穀用です。髪の毛をとかす櫛を大きくしたものと考えて下さい。米は稲の穂になる果実の部分です。これを籾(もみ)といいます。お米になる前は籾殻(もみがら)という皮に包まれて,稲穂につきます。稲穂から籾を落とす作業が脱穀です。この仕事は昔,二本の大きな箸のようなもので稲穂を一本ずつ挟んでおこなっていました。それがちょっとした工夫で櫛のようにしてみた。そうするとちょうど髪をとくように稲穂を束であてがい,一気に引くことで脱穀が容易になった。昔はこの仕事,後家(未亡人)に優先的に与えられた仕事だったそうで,千歯こきは「後家殺し」とよばれ,後家の仕事を奪ったといわれています。井原西鶴の『日本永代蔵』には,この道具の発明者が大和国の川端九助という人物だと出ています。
脱穀された籾は籾殻をとって玄米にします。玄米は普段わたしたちが食べる白米の前の段階で,糠(ぬか)という成分がついた状態です。籾殻をとるためには籾を臼のようなところに入れて杵でつきます。すると籾殻=玄米の皮がはがれます。今は籾すり機があるので簡単ですが,昔は相当根気のいる作業でした。
ついた臼の中には籾殻と玄米とついたときに割れてしまった玄米の破片などがごっちゃに入っています。これを千石どおしという道具で選別してやる。千石どおしは滑り台のような形をしています。ただ斜めになった滑る部分が網目になっている。上から米を滑らせてやると籾殻や小さな破片は下に落ちるか網目につかまって最後まで滑っていかない。玄米だけが滑り台を転がっていくんです。
また唐箕という道具も選別用として利用されました。これは「唐」という文字があることから中国から伝わったものだと考えられています。大きな箱の上からついた米を入れてやる。箱の中には手で回す扇風機が内蔵されていて内部に風をおこすことができます。すると軽い籾殻は吹き飛んで重い玄米だけが下に落ちるというしくみ。
以上4つがよく出る江戸時代の農具ですが,ほかに脱穀用の「からさお」・水を引く「踏車(ふみぐるま)」が出題される可能性があります。(出題率は低いです)すべて農具の絵をみておくことが大切。【史料】絵と名前,用途をセットにしておぼえること。
輪中の里(三重県桑名市長島)
江戸時代,百姓の仕事は武家社会を支える米をつくることでした。米は年貢として強制的にとられます。残った分を自分たちで消費する。しかし他の作物の栽培もおこなっていました。これらは売って,そのお金は自分たちの利益とすることができた。このような作物は文字通り「商品作物」といいます。ただし売った利益で贅沢をすることは禁じられていましたので,そのお金は何に使うかというと,次なる商品作物をつくるための肥料にかわったのです。
そこで江戸時代の肥料を「金肥(きんぴ)」といいます。金肥には,干鰯(ほしか)・油粕(あぶらかす)などがありましたが,特に干鰯は綿花栽培に絶大な力を発揮したといいます。金肥は米ではなく,商品作物を栽培するためのもの。江戸時代の農村には貨幣経済が浸透していたことをおさえておきましょう。 |
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江戸時代には,金貨・銀貨・銭貨が鋳造され,交換や貸付をおこなう〔 〕があらわれた。 |
答 |
両替商 |
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諸藩は〔 ① 〕航路(日本海~大阪)・〔 ② 〕航路(日本海~江戸)を通じて,年貢米や特産物を江戸・大阪にある蔵屋敷に送った。大阪から江戸間には〔 ③ 〕や〔 ④ 〕が航行した。 |
答 |
①西廻り航路 ②東廻り航路 ③菱垣廻船 ④樽廻船 ※③・④は順不同 |
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江戸時代,物資の輸送には海路を用いました。起点となるのは日本海に面した現在の山形県酒田です。庄内平野の中心地。ここから西廻りで関門海峡を通過し,瀬戸内海を通って大阪にいたるのが西回り航路。東回りで津軽海峡を通過し,太平洋を南下して江戸にいたるのが東廻り航路です。
日本の白地図を渡して西廻り航路と東廻り航路の道筋を書かせると,東廻り航路はだいたい正解するのですが,西廻り航路をまちがえてしまう人が多いんです。ぐるっと九州を廻って太平洋沿いに大阪にたどり着いてしまうんです。西廻りは瀬戸内海を通る。
そして江戸・大阪間を南海路といいましたが,ここは船の名称が大切です。菱垣廻船・樽廻船です。では何を運んだか?「樽廻船」は「樽」から想像して「お酒」です。菱垣廻船は「お酒」以外と考えておきましょう。主に着物(呉服)は重要です。(のちに樽廻船もお酒以外の荷を扱うようになるんですが。)
江戸時代まで酒(日本酒)といえば,今のように透明のお酒ではありませんでした。これが現在の清酒となったのが江戸時代,現在の兵庫県や大阪府北部の地域でつくられるようになった。また着物は京都が中心地。これら上方の清酒や呉服は「下り物」といって上等品として江戸で取引されました。一方,江戸の品々はこれに比べて品質が劣ることから「下らない物」とされます。「下らない=つまらない」とはここからきています。
海上交通は→が大事です。どこからどこへといくのか。特に菱垣廻船・樽廻船は大阪→江戸を航行した船の名称です。もちろん行った船は帰ってきますが。廻船は定期船という意味。ちなみに菱垣廻船とは船の両側(両舷)の装飾が菱形だったことから名づけられました。 積荷は船倉に置かれましたが,軽い荷物は甲板上にも並べられました。しかし船が傾くと落ちてしまうかもしれない。そこで両舷に竹を菱形に編んだ垣根を設けた。 |
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江戸を中心に〔 ① 〕(~京都),〔 ② 〕(~草津),〔 ③ 〕(~甲府),〔 ④ 〕(~白河),〔 ⑤ 〕(宇都宮~日光)の五街道が整備され,街道沿いには〔 ⑥ 〕町が栄え,〔 ⑦ 〕が書簡などを送り届けた。 |
答 |
①東海道 ②中山道 ③甲州街道 ④奥州街道 ⑤日光街道 ⑥宿場 ⑦飛脚 |
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五街道とは,江戸を起点とした街道です。まず基本は東海道と中山道です。中山道は東海道と草津という宿場で合流しますが,江戸と京都の二大都市を結ぶ重要な交通路です。東海道の「東」は都である京都からみての東です。海沿いを通ると東海道,山道を通ると中山道です。中山道は読みを問う問題もでます。案外読めない人が多いんですよ。「なかせんどう」。
この中山道には別ルートがあって,甲府(山梨県)を経由して中山道に合流するルートを甲州街道(甲州道中)といいます。「甲府」だから「甲州=甲斐=山梨」ですね。甲州,甲斐国は江戸にもっとも近い親藩の1つで,もし江戸に何かあったときの将軍家の避難経路として整備されました。
次は逆方向の東北ルートです。白河とは現在の福島県を指します。この白河に通じる道が奥州街道(奥州道中)。白河にはやはり親藩(または譜代)が設置されました。 寛政の改革の松平定信は当時の白河藩主です。この白河藩より北の地は外様大名が配置されています。よって東北地方をおさえる重要拠点が白河藩であり,有事の際には兵力をスムーズに移動できるように街道が整備されました。
そして途中,宇都宮で分岐して日光へ向かうのが日光街道(日光道中)。日光には何があるかというと日光東照宮です。日光東照宮に祭られているのは徳川家康。幕府の開祖ですね。この街道は参勤交代と将軍・大名の日光参拝専用道路でした。
このように五街道には幕府直轄地だけでなく,親藩・譜代を配置し,主に政治的・軍事的目的で整備されました。基本的に往来できるのは人間です。「人は陸,モノは海」が原則だったのです。
五街道にあてはまる(あてはまらない)街道を選ぶ問題がよくありますので,5つともしっかりとおぼえておきましょう。よくみかけるのは,伊勢街道や木曽街道。木曽街道は中山道の一部区間をいいます。 |
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江戸時代中期から原料・機械を貸して賃金を支払う〔 ① 〕がおこり,やがて後期になると工場に賃金労働者を集め,分業と協業によって生産をおこなう〔 ② 〕がおこった。 |
答 |
①問屋制家内工業 ②工場制手工業 |
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江戸時代の工業です。流れとして理解したい。江戸時代を前期(17世紀),中期(18世紀),後期(19世紀)とすると,工業の発展は前期:家内制手工業→中期:問屋制家内工業→後期:工場制手工業となります。前期・中期は農村家内工業ともいいます。つまりモノづくりの中心は農村であるということ。
前期は問われることはないですが,次の段階への理解として必要です。最初,農民は農閑期や農作業の合間に必要なものを自給自足的に手作業で生産していました。これが家内制手工業です。家の中で家のものを手作りする。
18世紀になると都市の町人が農村に出向きます。そして原料・道具・賃金を渡して製品をつくってもらう。ここでは原料から製品まで1人でつくります。これが問屋制家内工業。ただし作っている現場はあくまで農村です。
これが19世紀になると,町人が敷地を用意します。いわゆる工場です。「こうば」といってもいいです。そこに農村から農民を労働力として集めて製品を生産させます。(協業)そしてここからが大事。この生産はもちろん手工業ですが,生産工程ごとわかれている。(分業)織物でいうと,製糸・機織・染色・裁断・裁縫など,工程ごとのグループにわけ,同じ作業をおこなうのです。こうすることで生産効率が上がり,大量生産が可能になりました。工場における「分業」と「協業」による手工業生産。これが工場制手工業のポイントです。【説明(内容)】
この段階までくると,現在の段階まであと一歩です。手工業が機械工業に変わると産業革命とよばれるのです。工場制手工業が工場制機械工業に変化して,大量生産が加速し,社会全体に大きな影響をおよぼしたことを産業革命というんです。
「問屋制家内工業」と「工場制手工業」は問われると,なかなか答えを出すことができない語句の1つです。差がつくところ。語句ととも【時期】も重要です。 |
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幕末から明治にかけて,全国に〔 〕を求める百姓一揆がおこった。また近畿・東海では「ええじゃないか」を連呼する民衆が乱舞し,この混乱の中で倒幕運動が進んだ。 |
答 |
世直し |
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「世直し一揆」,「ええじゃないか」は【時期】を問う問題で登場します。江戸時代最末期,幕末のことだとおさえておきましょう。 |
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〔 ① 〕年,〔 ② 〕駅(東京)と〔 ③ 〕駅の間に日本最初の鉄道が開通した。 |
答 |
①1872 ②新橋 ③横浜 |
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これも【時期】を問う問題でよく出題されます。鉄道史なんて盲点ですね。【落とし穴】日本最初の鉄道は明治初期には開通していた。できれば年代もおさえておきたいところです。
新橋とは現在の東京の山の手線,東京駅から2つ目の駅ですが,単に「東京」でも構いません。 新橋駅前には今でも蒸気機関車が置かれている。 |
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〔 ① 〕戦争前後に軽工業部門で第一次産業革命が,〔 ② 〕戦争前後に重工業部門で第二次産業革命がおこった。〔 ③ 〕年に操業した八幡製鉄所は下関条約によって得た賠償金によって建設された。 |
答 |
①日清 ②日露 ③1901 |
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日本の産業革命は頻出問題です。まず明治期の殖産興業と産業革命をしっかりと区別をつけておく。【比較】これがごちゃごちゃになってる人が多い。まず時期が異なる。殖産興業は明治時代はじめから進められました。それに対して,産業革命は日清・日露戦争ごろと明治後期のことです。【時期】
次に殖産興業の主語は「政府」です。政府は近代化を進めるにあたって,外国の技術を導入した。その後,政府による産業育成が促進され,やがて官営工場が民間に払い下げられたこともあって,民営会社を中心として産業革命がおこります。民営ですから,利益は経営者のものです。経営者は資本家とよばれました。資本主義の誕生です。 |
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28 |
殖産興業や産業革命において,多くの日本の近代企業設立に携わった〔 〕は「近代日本経済の父」とよばれている。 |
答 |
渋沢栄一 |
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渋沢栄一は新一万円札の肖像に選ばれています。 ちなみに新五千円札は津田梅子,新千円札は北里柴三郎です。 |
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産業革命が進展すると,資本主義が発達し,〔 ① 〕とよばれる大資本家が台頭した。それとともにさまざまな社会問題も発生し,社会主義運動や公害問題がおこった。〔 ② 〕銅山鉱毒問題に衆議院議員:〔 ③ 〕が取り組んだのもこのころである。 |
答 |
①財閥 ②足尾 ③田中正造 |
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資本家の中でも特に大きな利益を得た人々は財閥とよばれます。したがって「財閥」という語句も日本の産業革命のころから使用される語句です。【時期】
産業革命も二段階で進展することもおさえておきたい。軽工業は日清戦争ごろ,重工業は日露戦争ごろと戦争にあわせておぼえるのがポイント。重工業は日清戦争の下関条約の賠償金で建てた八幡製鉄所がきっかけです。【時期】
産業革命がおこると,それにともなう問題点もあらわになります。まずは公害です。日本に限らず公害は産業革命以前にはありませんでした。足尾銅山が栃木県であることが重要。【位置】
そして労働問題。この労働問題の解決を訴える思想が社会主義です。しだかって社会主義運動も産業革命がおこったころに盛り上がっていく。明治期の社会主義者といえば,1人だけ思い出せばよい。幸徳秋水です。田中正造は社会主義者ではありません。衆議院議員です。しかし田中正造が天皇に直訴したとき,その直訴状は幸徳秋水が書いたものでした。
1901年の重要事項【時期】
・八幡製鉄所の操業
・足尾銅山鉱毒問題(栃木)で田中正造が直訴【位置】
・幸徳秋水らが日本初の社会主義政党(社会民主党)を結成(難)
八幡製鉄所 東田第一高炉跡(福岡県北九州市) 1901の数字がみえる |
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1911年,平塚雷鳥らは〔 ① 〕を結成して,女性解放運動を推進した。また1922年,農村での小作争議を指導するため〔 ② 〕が,被差別部落解放のための全国水平社が,共産主義(社会主義)運動のための〔 ③ 〕が結成された。 |
答 |
①青鞜社 ②日本農民組合 ③日本共産党 |
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大正デモクラシー(大正時代)を代表する,3つの組織。【時代区分】平塚雷鳥(らいてふ)は人名も重要です。「青鞜」とは「ブルーストッキング」。女性がはくストッキングで,黒ではなく青色がイギリスの教養ある女性のシンボルであったことからです。彼女らが創刊した雑誌の名前でもあります。この雑誌の創刊に彼女が書いた言葉が【史料】としてよく出されます。「原始,女性は実に太陽であった。真性の人であった。今,女性は月である。」「太陽」の部分が( )になっていて,あてはまる語句を入れよという問題が出たんだけども,私の生徒の中に,「美人」と入れた子がいた。(笑)
女性・小作人・労働者・部落,さまざまな立場の人々が声を大きくしていったのが,大正時代であり,大正デモクラシーであったことをおさえておきましょう。
1922年の重要事項【時期】
・全国水平者
・日本共産党
・オスマント=トルコ滅亡
・ソ連の成立
1922年という年は,ソ連が成立したこともあって,社会主義運動の盛り上がり1つの頂点を迎えた年だと理解しておきましょう。【時期】 |
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日中戦争から太平洋戦争時,米や砂糖,衣類など国民生活に必要な品々は〔 〕制となり,配給切符による交換制となった。 |
答 |
配給 |
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配給制という言葉は,国家総動員法と【セット】でおぼえておく必要があります。国家総動員法のもとではじめられた制度です。国家総動員法は日中戦争の際,制定された法律でした。ここから配給制の時期を特定できるようになりましょう。【時期】
配給制とは米などの主要食料で実施されました。国民1人1日に,米がどれだけと決まっていました。これを増やすことはできません。
配給制のほかに切符制というのもありました。これは衣料・砂糖・マッチなどに使います。国民1人あたり年間に買える点数が決まっていて,その点数の範囲ならいくら買っても構わない。例えば100ポイントのクーポン券があったとします。そのすべてを服に使っても構わないし,砂糖に使っても構わない。使ったクーポン(切符)は点数分だけ切り取られます。 |
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太平洋戦争の戦況が悪化すると,学生の在学中の徴兵猶予を停止する〔 ① 〕をおこなった。また大都会の学童は強制的に地方に分散させる〔 ② 〕を実行した。 |
答 |
①学徒出陣 ②学童疎開 |
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配給制は,日中戦争から太平洋戦争まで続けられましたか,学徒出陣・集団疎開は,太平洋戦争限定語句です。もうかなりヤバイとなってからのこと。【時期】
それまで大学生などは国に有用な研究をおこなうため,兵役を免除(猶予)されていました。それを兵力不足を補うため,文系の学生を中心に徴兵した。理系は軍事研究の必要から免除です。それ以外は徴兵。
またこれも戦争末期,本土空襲が激しくなると,標的となりそうな都市に住む子どもが親戚を頼るなどして地方に避難しました。これを学童疎開といい,学校単位でおこなわれると集団疎開といったりします。 |
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1954年,日本漁船:第五福竜丸がアメリカの核実験で被爆したことをきっかけに,翌年第1回原水爆禁止世界大会が〔 〕で開催された。 |
答 |
広島 |
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第五福竜丸の被爆と第1回原水爆禁止世界大会は,たいてい1つの文の中にまとめて書かれています。したがって【時期】と場所【位置】が大切になる。
1955年の重要事項【時期】
・第1回原水爆禁止世界大会(広島)【位置】
・55年体制の成立
・高度経済成長のはじまり
・第1回アジアアフリカ会議(インドネシアのバンドン)【位置】 |
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朝鮮戦争がおこると日本国内は〔 〕景気をむかえ,戦前の鉱工業生産を回復した。さらに1955年ごろから高度経済成長が続き,日本GNPは資本主義国第2位となった。 |
答 |
特需 |
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まずは朝鮮戦争のころにおこった関連事項をまとめて頭にいれておきましょう。【時期】
・サンフランシスコ平和条約(日米安全保障条約)
・特需景気
・警察予備隊
「特需」とは「特別な需要」。何が特別かというと,この場合,在日アメリカ軍から日本に発注された物資です。服や食料,鉄・コンクリート,トラックなどなど。この特需のおかげで日本は好景気となった。トヨタ自動車などはこの好景気で倒産を免れて,現在にいたるぐらいです。ただしこれはあくまでも戦前の水準に回復しただけです。【落とし穴】本当の意味での経済成長は,その後に到来する高度経済成長です。
高度経済成長で日本はGNP何位になったか?資本主義国でアメリカに次いで2位です。当時はGNP=国民総生産という指標を使っていました。現在はもっぱらGDP=国内総生産です。2位という数字は「3位」と書かれていたら×。また「中国に次いで」とあっても×です。 |
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〔 ① 〕年,〔 ② 〕が開通し,同年オリンピックが〔 ③ 〕で開催された。 |
答 |
①1964 ②東海道新幹線 ③東京 |
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高度経済成長期,その中心となる年が1964年。これは必ずおぼえること。【時期】東京オリンピックの年であり,それにあわせて東海道新幹線が開通しました。東海道新幹線は東京・大阪間です。京都ではありませんので注意。 |
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高度経済成長期,熊本県の〔 ① 〕病,富山県〔 ② 〕川流域の〔 ③ 〕病,新潟県〔 ④ 〕川流域の〔 ⑤ 〕,三重県の〔 ⑥ 〕ぜんそくが問題となった。 |
答 |
①水俣 ②神通 ③イタイイタイ ④阿賀野 ⑤新潟水俣 ⑥四日市 |
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産業革命が公害をもたらした。それと同様に高度経済成長でも公害が深刻化した。おぼえるのではなく,因果関係を理解しておきましょう。四大公害病は必須問題です。必ず県名と病気名を一致させるように。【位置】またこれらに対し,公害対策基本法が制定されたこともしっかりと理解しておきましょう。【セット】歴史ではやはり【時期】を問う問題が圧倒的に多い問題です。 |
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〔 ① 〕年,〔 ② 〕がおこると,先進国に石油危機がおこり,高度経済成長は終わりをつげた。 |
答 |
①1973 ②第四次中東戦争 |
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これは戦後史では,おなじみというぐらい重要かつ必須の問題です。落とすことなかれ。第四次中東戦争と石油危機。【セット】年代も超一級の重要度です。【時期】 |