歴史 第7回 テーマ史② 発展編

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社会・経済史

1 縄文時代,ドングリやトチなどの〔 ① 〕を採集したり,キノコやシダ類の栽培が始まっていた。青森県の〔 ② 〕遺跡のような大規模集落も残っており,定住生活が定着していたと考えられる。
①木の実  ②三内丸山
   旧石器時代は大型動物を追って移動する移住生活でした。弥生時代は稲作がはじまり定住生活です。その間の縄文時代は移住生活から次第に定住生活にかわっていった時期です。
 まずは地球の温暖化です。海水面の上昇とともに日本列島が形成されます。次に植生が変化します。針葉樹林が北に後退し,落葉広葉樹の森が広がるようになり,ドングリトチの実は縄文人の主食となりました。ドングリやトチの実は保存が利きますが,そのままでは食べられません。アク抜きが必要です。その煮炊きのために縄文土器が発達しました。
 植生の変化は大型動物を駆逐し,かわって中・小動物を狩るようになります。狩りの道具としては弓矢が発達します。こうして季節ごとに大移動していた生活がやがて水辺の台地に小規模な集落をつくり定住生活をするようになります。 キノコやシダ類の簡単な栽培農業もはじまります。
 ただし縄文時代の人々は必要なものを必要なだけ採取し,余剰生産物は生じませんでした。したがって社会は平等な社会です。
   
2 限られた場所で産出する〔   〕の分布から縄文時代にも地域間で交易がおこなわれていたことがわかる。
黒曜石
   黒曜石・サヌカイト・ヒスイといった鉱石は特定の場所でしか採掘できません。それが各地で発見されているということは,縄文時代には交易のネットワークがあったと考えられています。例えば黒曜石は長野県,サヌカイトは香川県大阪府・奈良県,ヒスイは新潟県が産地です。
 これらの鉱石は当然重量がありますから,遠い道のりを担いで運んだとは考えられません。移動の手段には太い木をくりぬいてつくった丸木舟が使用されたと考えられています。
   
 3 弥生時代には,吉野ヶ里遺跡のような〔 ① 〕集落や水稲耕作に不便な台地や山の斜面に形成された〔 ② 〕集落もある。 
①環濠  ②高地性 
   いずれも軍事・防衛面からつくられた集落であり,弥生時代にはムラ同士の対立があったことがうかがえます。 日本の統一が進み古墳時代になると,環濠集落や高地性集落は姿を消していきました。環濠集落・高地性集落は弥生時代用語であるとおさえておきましょう。【時代区分】
   
4 班田収授の制度は唐の〔 ① 〕にならっておこなわれ,男子に〔 ② 〕,女子にはその〔 ③ 〕の口分田が与えられた。
①均田制  ②2反(たん)  ③3分の2
   班田収授の制度は,の制度から学び,唐ではこれを均田制といいました。唐の均田制は南北朝時代の北朝の北魏という国ではじめられたものを踏襲しました。これは難問です。
 6年ごとに戸籍をつくり,6歳以上の男女口分田を支給。口分田はその人が死ぬと返還しなければならなかった。口分田とは返還しなければならない土地です。唐の均田制では永業田といって世襲できる土地ももらえました。
 6歳以上の男女に口分田が支給されるので戸籍も6年ごとに作成されました。戸籍が作られたときに5歳だった子どもは次の戸籍が作られる6年後の11歳のときに支給されるということです。逆に戸籍が作られた翌年に亡くなった人の口分田は次の戸籍作成年に回収される。
 与えられる口分田の面積は男子が2段(反 たん),女子がその3分の2であることをおぼえておきましょう。もう少し正確にいうと女子は1段120歩です。(1段=360歩=30歩×12歩です。1歩=1.8mですから,1段は1166.4㎡になります。)
 口分田はを納めさせるための田です。このような田を輸租田といいます。「輸」は運ぶという意味がありますから,「輸租」で「米を運ぶ」。つまり「税を納める」ということになります。逆に税を納めないことを「不輸」といい,「不輸の権」といえば「税を納めなくてもよい特権」という意味になり,輸租田に対して「不輸租田」というのもありました。寺院用・神社用・天皇や高官クラスの田です。つまりこれらの田にはもともと不輸の権があったのです。
 租は口分田1段につき「二束二把(にそくにわ)」と設定されていました。ということは租は口分田の面積に比例して支払った税だということです。また「二束二把」とは収穫高の3%であったとおぼえておいて下さい。明治時代の地租も最初は3%だった。あわせておぼえておきましょう。
   
5 租庸調の税制では,〔 ① 〕とよばれる稲の貸付制度,庸・調を都まで運ぶ〔 ② 〕の制度などが課せられた。班田収授のための台帳を〔 ③ 〕といい,庸調を徴収するための台帳を〔 ④ 〕という。また庸・調は〔 ⑤ 〕に課せられる税であった。
①出挙(すいこ)  ②運脚  ③戸籍  ④計帳  ⑤男子
   租庸調の税制は,租と庸・調をきっちりと区別することが大切です。租は田にかかる税でから地代です。そして納める先は国司です。つまり地方財源となったわけです。また田をもらったからといって自然に米ができるわけではありません。稲を植えるための種籾が必要です。これを貧しい農民は豊かなものから借りなければならなかった。やがてこれは強制的になって「出挙(すいこ)」という制度になりました。利息は5割から10割です。しかも豊凶に関係なくとられましたから,凶作のときの貧農にはたまらなかった。やがて口分田を捨てて逃げ出すものが出てきても不思議ではなかった。
 一方,庸と調は男子のみに課せられた税です。都までの運搬も義務の1つです。この負担は運脚といいました。つまり庸と調は中央財源となった人頭税(人に課せられる税)です。もう少しいうと,人に課せられるので死者には課せられません。だから班田収授の基本台帳である戸籍は6年ごとにつくられましたが,庸・調の基本台帳は計帳といい,これは毎年作られました。このあたりが租との違いです。【比較】
 この他,国司のもとで60日労役にあたる雑徭があったことはすでに学びました。 
   
6 兵役には3年間北九州の防備にあたる防人のほか,1年間都の警備にあたった〔   〕などがあった。
衛士(えじ)
   律令制のもとでの軍制は「軍団制」とよばれていました。諸国に軍団が設けもうけられて成年男子の3人に1人が兵役につきました。食料や武器は自前です。この中から起用されて都の警備にあたたったものを衛士(えじ)北九州の防衛にあたったものを防人といいます。衛士の任期は1年,防人は3年です。防人ははじめ東国から起用されました。『万葉集』の「防人の歌」に東国言葉が多く使われているのはそのためです。【史料】 
   
7 人民は貴族や一般農民などの〔 ① 〕とその下位に置かれた〔 ② 〕に大別され,〔 ② 〕うち〔 ③ 〕は財産として相続・売買・譲渡された。 
①良民  ②賤民(せんみん)  ③奴婢(ぬひ) 
   律令制下での身分制度は大別して良民賤民の2つです。良民のうち貴族とよばれた人は五位以上の位階の人です。この位階に応じて官職が与えられます。例えば一位に相当するのが太政大臣,二位に相当するのが左大臣・右大臣です。また租庸調・雑徭の義務を負ったのは良民の農民です。賤民には義務はなかった。【落とし穴】
 賤民のうち,いわば奴隷階級に近い人々は奴婢(ぬひ)とよばれました。「奴」が男性,「婢」が女性です。 奴婢にも口分田が与えられたことに注意したい。与えられた大きさは男女ともそれぞれ良民の3分の1でした。
   
8 〔 ① 〕年,〔 ② 〕国で銅が産出されたことを記念して,元号を「和銅」と改元するとともに和同開珎が鋳造され,畿内を中心に流通した。以降10世紀中ごろまで鋳造された官銭を〔 ③ 〕という。 
  ①708  ②武蔵  ③皇朝十二銭 
   武蔵(むさし)国とは東京・埼玉・神奈川あたりを指しますが,銅が発見されたのは埼玉県(秩父市)です。これをきっかけに和同開珎が鋳造された。和同開珎の絵を描きなさいという問題がお茶の水で出題されたこともあります。一応文字の並びをおぼえておきましょう。最初の文字を上に置き,そこから右回りで一文字ずつ右・下・左の順に四文字を置いていく。このデザインは開元通宝(これは難問)というのをまねたものですが,中国の貨幣の文字は上・下・右・左と文字を置きます。 
 以降平安時代の10世紀中ごろまで官銭は鋳造され,これらは12種類あったので皇朝十二銭といいます。最後が乾元(けんげん)大宝というのは難問か?
   
9 〔 ① 〕年,開墾した土地の三代の私有を認める〔 ② 〕が出され,〔 ③ 〕年に墾田永年私財法が出された。
①723  ②三世一身の法  ③743
   両法令とも年代をおさえること。743年聖武天皇大仏建立の詔と同年であることも重要。【時期】 
   
10 平安中期まで結婚の形態は,夫婦別居で男性が女性の家に通う〔   〕が一般的であった。 
妻問婚(つまどいこん) 
   妻問婚の場合,子ども養育は妻の一族でおこなわれます。例えば藤原氏の妻をもつ天皇の子は藤原氏のもとで育てられる。当然,藤原氏色の強い子に育つわけですから,藤原の一族は次期天皇を操作しやすくなるのです。摂関政治の背景にはこの慣習があったのです。
   
11 荘園内では,領主から耕作を請け負う有力な農民があらわれ,やがて自分の耕作権を示すため田地に自分の名前をつける〔   〕が出現した。
名主(みょうしゅ)
   班田収授が形骸化し,荘園が形成されると新たな徴税単位として「名(みょう)」が誕生しました。租が口分田から徴収されるように,「名」(名田といってもよい)から税が徴収されるようになった。この名に領主から経営権を任された有力農民があらわれます。やがて彼らは自分が管轄する名に自分の名前をつけて(「○○名」といった感じ),経営権だけでなく徴税権も獲得します。「名」の「主」だから「名主(みょうしゅ)」とよばれるようになりました。
 彼等は「大名田堵(たと)」とか,「開発領主」といういい方もします。のちに登場する「大名」とは「大名田堵」が語源。要は「大きな土地の主」という意味。 
   
12 平安時代中期には,開発領主は国司などの圧迫を排除するため,名目上その土地を中央の貴族や寺院に〔 ① 〕するようになった。〔 ① 〕を受けた領主を〔 ② 〕といい,さらに〔 ① 〕を受けた上位の領主は〔 ③ 〕とよばれた。荘園を〔 ① 〕した開発領主は〔 ④ 〕となり,現地で荘園の管理をおこない,不輸・不入の権を獲得した。
①寄進  ②領家  ③本家  ④荘官
   開発領主(名主)が請負,開発した土地(名田)=荘園には当然,税がかかります。そもそも名主は徴税請負人なんだから。 いうことをきかないと国家権力(国司など)の介入もあります。
 そこで開発領主は自分の土地を守るため,身分が上の貴族や寺社にその土地の所有権を名義上寄進するのです。墾田によって開発された土地は「輸租田」といって税がかかりましたが,貴族や寺社には官職の高さによって与えられた田があり,これは「不輸租田」といって税がかかりませんでした。名目上,開発した土地を彼の所有するすることで,不輸・不入の権が獲得できたのです。
 名目上というのは,寄進された貴族や寺社は全国に散らばった荘園を直接管理することができないので,事実上の管理権は開発領主に残ることになるからです。このように寄進によって各地の荘園の管理を任された開発領主を荘官といいます。
 一方,寄進を受けた貴族や寺社は文字通り「荘園領主」です。荘園領主には最初に寄進を受けた領主を「領家」といい,領家はさらに各上のものに寄進します。こうして最終的に広大な荘園を所有することになった都の貴族やその周辺の寺社を「本家」といいます。
 荘官は荘園で得た利益の一部を上納することで,本家・領家から土地の保護を受けるのです。
   
13 地方の政治が乱れると,豪族や名主の中には自衛のため武力をもつようになり,一族を〔 ① 〕,従者を〔 ② 〕として武士団を組織した。さらにこれらの武士団を統率するものを〔 ③ 〕といい,名門には〔 ④ 〕と〔 ⑤ 〕があった。
①家子(いえのこ)  ②郎党  ③棟梁  ④桓武平氏  ⑤清和源氏  ※④・⑤は順不同
   家子は一族,郎党は従者です。区別をしっかりと。武士団の中でも名門,そしてリーダー格を棟梁といいます。その代表が桓武平氏清和源氏。いずれも先祖が天皇です。逆で書かれている文はまちがいです。迷ったら平氏の「平」は「平安京」からとったもので,つまり桓武天皇だと思い出して下さい。 
   
14 武士の中には中央権力に反発するものも出現した。935年平将門が下総国〔 ① 〕を本拠とした反乱と,939年,藤原純友が伊予国日振島を本拠として海賊行為をはたらいた一連の反乱は〔 ② 〕の乱とよばれている。
①猿島(さしま)  ②承平天慶(じょうへいてんぎょう)
   10世紀のこの連続した事件をあわせて承平天慶の乱といいます。いずれも本拠地が大切。【位置】平将門下総国(しもうさのくに)の猿島(さしま)というところを拠点としますが,下総国がやっかい。この国は現在の千葉県と茨城県にまたがる。猿島は茨城県です。また将門は自ら「親皇」を名乗ったことも重要です。
 一方,藤原純友伊予国日振島(ひぶりじま)を本拠とし,伊予国は愛媛県です。
 いずれも朝廷が鎮圧に乗り出しますが,実際に平定したのは地元の地方武士でした。承平天慶の乱の【歴史的意義】は,「地方武士の実力を中央に認識させる契機となった」ことです。
 さてここで軽く頭の中に残しておいてほしいことがあります。平将門は平氏です。将門は関東地方で反乱をおこしました。またこの乱を鎮定した地方武士の一人は平貞盛という人物です。(この人はおぼえる必要はない)一方,藤原純友の乱を鎮定した地方武士の一人は源経基という人物です。何がいいたいかというと,平氏はもともと関東を地盤にしており,源氏は西日本を地盤にしていたということです。ちょっと頭の片隅にでも置いておいて下さい。 
   
15 1051年に始まった〔 ① 〕は,陸奥の豪族の反乱を源氏が平定し,1083年に始まった〔 ② 〕は陸奥守(むつのかみ)となった〔 ③ 〕が,豪族清原氏の相続争いに介入した争いであった。 その結果,清原清衡(きよひら)は〔 ④ 〕氏を名乗り,平泉を中心に清衡・基衡・〔 ⑤ 〕の三代にわたって繁栄した。
①前九年の役  ②後三年の役  ③源義家  ④奥州藤原氏  ⑤秀衡
   11世紀の地方事件が前九年の役後三年の役です。これは少しややこしい。まず「役」という言葉を使うときは,一続きの戦乱を部分的な戦闘で区別するときに使用することが多い。元寇や朝鮮出兵のときにもこの「役」を使って区別しています。したがって前九年の役と後三年の役は一続きの事件であったということ。それは東北地方の豪族の反乱です。【位置】
 次に年代ですが,あまり細かく気にする必要はないでしょう。年代暗記に自信がある人だけおぼえてください。そもそもこの「九年」・「三年」という年が,正確にどこからきているのかはっきりしません。まず11世紀であること。そしてそれぞれある有名な人物と【時期】を重ねておぼえておけばよい。前九年の役は藤原頼通です。頼通はこの前九年の役などの地方情勢の不安から,現在の平等院鳳凰堂を建立しました。後三年の役は白河上皇のころです。そしてこの一連の事件の立役者は源義家です。
 まず前九年の役から。当時,東北地方には中央政府の命令をきかない豪族がいました。安倍氏という一族です。東北は蝦夷といって,昔から反朝廷勢力であったわけですが,このころになると少しずつ帰順するものも増えてきていた。
 安倍氏も蝦夷の血を引くものでした。この安倍氏鎮圧のため派遣されたのが,源頼義・義家父子でした。(頼義は必要ない。義家だけでも結構。)頼義・義家父子は現地の豪族清原氏を味方につけ,安倍氏を討伐します。このとき父子は京都の石清水八幡宮を勧請(霊をわける)して鎌倉鶴岡(つるがおか)八幡宮を建立します。石清水八幡宮は源氏の祖先:清和天皇が建立した源氏と縁の深い神社です。ここに源氏の東国進出の基盤が生まれました。
 前九年の役安倍氏VS源氏(義家)清原氏
 しばらくして,前九年の役で源氏に合力した清原氏に内紛が生じます。これに源義家が介入し,清原氏を滅ぼした。これが後三年の役です。このとき義家に協力したのが藤原清衡でした。藤原清衡は安倍氏・清原氏の支配地を継承し,平泉を本拠地として奥州藤原氏を開くことになります。
 奥州藤原氏は清衡・基衡・秀衡・泰衡とつづきます。順に頭文字をとって「き・も・ひ・やす=肝冷やす」とおぼえましょう。
 さてこの源義家の活躍に対して,朝廷はその功績を認めようとはしませんでした。朝廷とはだれか?白河上皇です。そこで義家は私財を投げ出して,自分に従った東国武士に恩賞を与えた。このことが東国における源氏の地位・名声を高めることになったのです。
 したがって前九年・後三年の役の【歴史的意義】はこういえます。「源氏の東国における地位確立を決定づけた。
   
16 鎌倉時代,地頭が荘園に進出すると荘園領主は年貢納入を地頭に請け負わせる〔 ① 〕という方法を採用した。しかし契約を守らない地頭が多くなったため荘園領主は土地を二分し,一方の支配権を維持して一方の土地での地頭の支配権を認めた。これを〔 ② 〕という。地頭の横暴については〔 ③ 〕国阿弖川荘百姓訴状にその様子が記録されている。
①地頭請(うけ)  ②下地中分  ③紀伊
   鎌倉時代,幕府によって守護・地頭が全国に派遣されます。これまで国には都(朝廷)から国司という行政権をもった役人が派遣されましたが,新たに幕府から軍事権をもつ守護が配置されます。また荘園領主が所有していた各地の荘園では,荘官が監督・年貢の徴収をおこなっていましたが,ここにも幕府によって地頭が配置されます。地頭の役割も土地の管理・年貢の徴収です。
 このように鎌倉幕府成立当初はまだ全国は朝廷と幕府の力が拮抗していて,民は2つの勢力の二重支配を受けていた時代でした。そして次第に武家の力が強くなっていく。
 荘園ではますます地頭が大きな顔をするようになります。すると荘官と地頭との間でトラブルがおこる。そこでこのトラブルを解決するために,荘園領主は年貢の徴収権を地頭に譲ることにしました。これを地頭請(じとううけ)といいます。地頭と荘園領主が契約をかわして,地頭が徴収した年貢の一定割合を領主に納めさせるというものです。この状態ではまだ地頭は幕府に派遣されたものの,荘園領主とも契約した役人です。土地の支配者ではありません。
 次にこの契約を守らない地頭が増えてきた。すると領主は契約解除です。といってもまたもとの状態に戻ればトラブルは続きます。それならということで,領主は思い切って荘園を半分に分割します。分割した半分の土地はもう地頭の好きにしてもらう。残りの半分はこれまで通り領主の支配権を維持する。このトラブル解決策を下地中分といいます。上分に対して下地。上分とは土地からの収益です。それに対して下地とは土地そのものをいう。だから年貢を折半したのではありません土地を折半したので注意すること。こうなると地頭は土地の半分とはいえ,領地の所有者といってもよい。
 このように地頭はどんどん荘園に進出していってその土地の領主化を進めていきました。「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺は,理屈をいっても通用しないものには従うしかないということ。この地頭の横暴についての【史料】として「紀伊国阿弖川荘(あてがわしょう)百姓訴状」がよく使われます。
 鎌倉時代は地頭の権限が強かった時代室町時代は守護の権限が強かった時代【比較】しておさえましょう。
 また承久の乱後,没収した土地に新たに配された地頭を新補地頭,それまでの地頭を本補地頭として区別することもあります。(これは難)
   
17 鎌倉時代には遠隔地への送金に〔 ① 〕が利用されるようになり,〔 ② 〕とよばれる高利貸も出現した。また『一遍上人絵伝』には,備前国福岡(現在の〔 ③ 〕県)の定期市の様子が描かれている。 
①為替(かわし)  ②借上(かしあげ)  ②岡山
   鎌倉時代の産業・経済は室町時代との【比較】がすべてです。為替(かわし)は鎌倉時代にはじまり室町時代に普及。高利貸しは鎌倉時代が借上(かしあげ)室町時代では土倉・酒屋
 定期市は鎌倉時代は三斎市(月3回)室町時代は六斎市(月6回)。鎌倉時代の定期市の様子を描いた『一遍上人絵伝』は必須の【史料】。ここで問題になるのは描かれた市の備前国福岡の場所です。福岡に惑わされてはいけません。備前国ですから岡山県です。【位置】現在の福岡市(県)の「福岡」は戦国時代の黒田氏ゆかりの地であるこの備前福岡から,のちに現在の福岡に封ぜられた黒田如水(官兵衛)・長政親子が名づけた名前です。 
   
18 鎌倉末期から武家の財産相続は分割相続から惣領の嫡子への〔   〕相続に変わっていった。 
単独 
   当初,武家の相続方法は分割相続が原則でした。元寇のころから単独相続にかわっていった。女性の地位も高く,女性の地頭もいたことはすでに学びました。では「女性の御家人がいた」は○・×?地頭は御家人が任命されるのですから,○です。
 分割相続は均分相続を意味するものではありません。【落とし穴】財産のうち,もっとも主要な部分を相続するのはその家の跡取りです。(正室から生まれた長男である場合が多かった)財産を与える親を惣領といい,跡取りを嫡子(ちゃくし)といいます。跡取り以外の子は庶子といいます。単独相続になると惣領から嫡子に財産とともに家の名字や一族の決定権すべて(家督)を継ぐことになります。
   
19 室町時代,農業では〔 ① 〕・〔 ② 〕が肥料として用いられた。また商品作物の栽培がさかんになり,三河地方では〔 ③ 〕が栽培された。
①刈敷(かりじき)  ②草木灰  ③木綿  ※①・②は順不同
   刈敷・草木灰は鎌倉時代から使われていたことに注意。木綿栽培は三河地方(愛知県)戦国時代からはじまった。それまでは朝鮮から100%輸入です。 
   
20 室町時代には明から輸入した〔 ① 〕が用いられた。金融業者に土倉・酒屋などがあり,それらは〔 ② 〕に集中していた。鎌倉時代の問丸は卸売業も兼ねた〔 ③ 〕に発展し,尾張の〔 ④ 〕(陶磁器)や京都の〔 ⑤ 〕(絹織物)などの手工業も各地で発展した。
①永楽通宝  ②京都  ③問屋  ④瀬戸焼  ⑤西陣織
   室町時代を通して日本で流通していたのは明銭,具体的には永楽通宝です。金融業者は土倉・酒屋とおぼえますが,寺院も高利貸しを営んでいたことに注意。【落とし穴】またこれらは京都を中心に近畿地方に集中していた。【落とし穴】
永楽通宝

 正長の土一揆では興福寺が徳政に応じましたが,幕府は徳政令を出していません。徳政を勝ち取った農民側の資料として「柳生(やぎゅう)徳政碑文」があります。「柳生」とは現在の奈良県であること。【位置】巨大な花崗岩に地蔵が彫られており,同じ岩に徳政碑文も彫られています。
 鎌倉時代の末期になると年貢が銅銭によって金納されるようになりました。この銅銭は中国から輸入したものですが,元のフビライは銅銭の使用を禁止し,紙幣を発行したのです。そこで中国で使用されなくなった銅銭が大量に日本に流入します。すると日本では銅銭の流通が加速し,年貢も貨幣に換算して支払われるようになりました。
徳政碑文が刻まれた岩
(碑文は右下)
奈良県奈良市柳生町
徳政碑文拡大
「正長元年ヨリサキ者カンへ四カンカウニヲ井メアルヘカラス」と刻まれている。

 中国で銅銭が作られなくなったということは,以後銅銭の補充ができないということでもあります。一旦は大量流入した銅銭は,今度は手に入らなくなってしまいました。銅銭の価値が上がったということでもあります。これが室町時代初期です。この状態を解決しようとしたのが,足利義満日明貿易です。日明貿易は朝貢形式でしたから,日本は銅銭をタダで手に入れることができたのです。
   
21 戦国期から江戸期にかけて,〔 ① 〕氏が開いた石見大森銀山や但馬(兵庫県北部)の〔 ② 〕銀山が栄えた。 
①大内  ②生野(いくの) 
   守護大名:大内氏博多商人と結びついて,日明貿易を独占したことはすでに学びました。大内氏は広島・島根・山口・福岡一帯を支配した大名です。大内氏衰退ののち,この勢力範囲は戦国大名:毛利氏の支配下に入ります。 
 銀山では石見銀山のほかに但馬(兵庫県北部)生野銀山まで答えられるかが大事なところ。
   
22 室町時代,京都の町衆のほか,博多では〔 ① 〕,堺では〔 ② 〕が町の自治をおこなった。堺は近江の〔 ③ 〕とともに鉄砲町として発展し,その重要性から〔 ④ 〕によって征服された。 
①年行司(ねんぎょうじ)  ②会合衆(えごうしゅう)  ③国友  ④織田信長
   室町時代から安土桃山時代にかけて,それぞれの町の自治組織の名称。国産鉄砲の生産地としては堺・国友(近江)のほか,紀伊の根来(ねごろ)まで知っておけば十分です。堺や根来(寺)は鉄砲伝来のとき,たまたま居合わせた商人や僧侶が本土に持ち帰った。そして堺では優れた刀鍛冶職人がおり,その鉄の加工技術が鉄砲生産にいかされたのです。(国友も同様)
 堺は文化面では千利休などに代表される茶の湯がさかんであり,この面でも熱心だった織田信長の気を惹きつけました。
 堺の商人は,秀吉の大阪城築城にともない城下町の開発のため強制移住させられます。【落とし穴】こうして自治都市:堺は衰退していきました。
   
23 室町幕府は,税の徴収のため多くの〔 ① 〕を設けたが,戦国大名は領国内の交通を整備してこれを廃止した。また座の特権を廃止した〔 ② 〕を実施して商業の自由化をはかった。 
①関所  ②楽市・楽座 
   
24 中世には,津軽半島の日本海岸にある〔   〕が蝦夷地と日本海を結ぶ港町として繁栄した。 
十三湊(とさみなと) 
   近年,中世史で注目されるようになった港湾都市で,難関校での出題が多くなってきています。【位置】を地図で確認しておきましょう。 この港を管理したのは,津軽の安藤氏(安東氏)です。これはかなり難。
   
25 1457年,アイヌの大首長:〔 ① 〕が和人の進出に対して大規模な蜂起をおこした。1604年,〔 ② 〕藩は徳川家康からアイヌとの交易独占権を得,1669年,〔 ③ 〕の乱を鎮圧してアイヌ支配を強化した。 
①コシャマイン  ②松前  ③シャクシャイン 
   室町時代はコシャマイン,江戸時代はシャクシャイン。よく似ている名前だから注意しておぼえましょう。【比較】松前藩は青森ではありません。北海道南端に設置された藩です。渡島半島の南部の松前半島という名前で残って,渡島半島で大規模な蜂起になったのがコシャマインの乱(戦い)です。これを鎮圧した蠣崎(かきざき)氏が,のちの松前藩(松前氏)の租となります。
 蝦夷地のアイヌとの交易は,江戸時代まで東北地方の各地でおこなわれていました。それを徳川家康は松前藩に交易独占権を与えます。当時の北海道では稲作はできませんから,松前藩は無石高という特殊な藩でした。それをアイヌ交易で補っていた。アイヌからは鮭・ニシン・昆布・干しアワビなどの海産物やラッコ・熊・アザラシの皮などを手に入れ,それらを商人の手で江戸・大阪・京都などの都市で売りさばき,米・味噌・醤油・着物などを仕入れます。仕入れた商品をまたアイヌとの交易で交換する。
 独占権を得た松前藩は次第にアイヌと交換比率を自分たちの有利に設定していきます。アイヌ側の収入は減るばかり。松前藩への不満とアイヌ部族間の抗争が相まって,ついに1669年のシャクシャインの蜂起に発展しました。
 乱後,松前藩は商人に蝦夷地の経営を任せ,運上金(一種の営業税)を受け取るようになります。こうなるとアイヌの人々は,交易相手ではなく,労働者へと変質していったのです。
   
26 豊臣秀吉は佐渡・石見・生野などの鉱山を直轄にし,〔   〕とよばれる貨幣を鋳造した。 
天正大判 
  一応,注意事項ですが,「天正大判」はありますが「天正小判」はありません。 
   
27 徳川家光は1643年に〔 ① 〕を出して,農民が田畑を処分するのを防ぎ,1649年に〔 ② 〕を出して耕作を奨励する一方で,衣食住にいたるまで農民の生活を細かく規定した。また街道に近い村々には宿場に人馬を出す〔 ③ 〕が課された。 
①田畑永代売買禁止令  ②慶安の御触書  ③助郷役 
   田畑(でんぱた)永代(えいたい)売買禁止令は,文字通りです。これが解禁になるのは1872年,翌年の地租改正に向けてのことです。難関校ではよく出る問題です。その他,田畑勝手作禁止令というのもあります。勝手に米以外の商品作物をつくるなという法令。こちらの方は実際は無視され,様々な商品作物が栽培されていた。どちらも年貢(米)を主体とした幕府経済を守るためのものでした。
 慶安の御触書は,近年の研究で幕府が出したものではないことがわかっていますが,農民の日常生活にも干渉した【史料】として出されることがあります。
 街道沿いの村には参勤交代などのとき,人馬を提供する夫役がありました。この役目をおった村を助郷(村)といい,この負担を助郷役といいます。 
   
28 町人には,〔 ① 〕〔 ② 〕とよばれる本町人と〔 ③ 〕〔 ④ 〕とよばれるものがいた。 
①地主  ②家持(いえもち)  ③地借(じがり)  ④店借(たながり)  ※①・②,③・④は順不同 
   文字通り考えて下さい。土地をもっているものが地主で,家をもっているものは家持です。彼らが本町人で町政に関わることができた人たちです。逆に土地を借りる人は地借,家を借りる人は店借です。
 職人の上下関係は親方徒弟,商人は主人-番頭-手代(てだい)-丁稚(でっち)となります。ここまでは難しいか? 
   
29 江戸時代,最下位層の身分として〔 ① 〕・〔 ② 〕が設置された。 被差別民の大規模な一揆には,1857年,備前岡山藩でおこった〔 ③ 〕一揆がある。
①えた  ②ひにん  ③渋染め  ※①・②は順不同 
   武士・百姓・町人以外に最下位層の身分として,えた・ひにんとよばれる身分がありました。最下位層というよりも,江戸時代の社会の外側に置かれた身分として最近ではとらえられています。与えられた仕事には牛馬の死体処理,皮革加工,下級警察的仕事などです。
 えた・ひにんといった被差別民の一揆としては江戸末期に備前岡山藩(【位置】が重要)でおこった渋染め(しぶぞめ)一揆があります。藩政改革の一環として出した倹約令の中で被差別民の渋染・藍染以外の衣類の着用を禁じた条項があり,この撤回を要求したのがきっかけでした。(「渋染」・「藍染」自体が差別的衣服であったからという解釈には問題点があります。)
 また僧・神官・医者・公家も身分外の身分としてあつかわれます。【落とし穴】
   
30 幕府は民衆をいずれかの寺院の檀家として所属させる〔 ① 〕制度を実施し,〔 ② 〕に宗旨を登録させた。
①寺請制度  ②宗旨人別帳 
   寺請制度はキリスト教の禁教を徹底させるためのものです。民衆の宗教宗派を調査することを宗門改(しゅうもんあらため)といい,その台帳を宗門改帳といいました。その一方で夫役(労働課役)のための人口調査(戸籍といってもよい)を人別改といい,その台帳は人別(改)帳といいます。幕府はのちにこの2つをあわせて,人別長に宗旨を記載させ宗旨人別(改)帳としました。 
   
31 江戸時代,農具では備中鍬千歯こきなどのほかに,灌漑用小型揚水車である〔 ① 〕も発明された。肥料では金銭を支払って買い入れる〔 ② 〕が用いられ,干鰯や菜種からとる〔 ③ 〕などがあった。また〔 ④ 〕は『農業全書』を著して,農業の発達に貢献した。 
①踏車(ふみぐるま)  ②金肥  ③油かす  ④宮崎安貞 
   江戸時代の農具では上に登場した踏車ですべてです。合計5種。備中鍬・千歯こき・千石どおし・唐箕と踏車。すべて絵と用途がわかるように。
 金肥とはお金を出して買う肥料。主なものは干鰯油かす。干鰯は九十九里浜で地引網漁でとれた鰯を加工したもの。油かすは菜種などから油を搾り取ったあとのカスです。これらの金肥は米ではなく,商品作物を栽培するために用いられました。そして商品作物は農家が売りに出す。こうして農村に貨幣経済が浸透していたことがわかります。そうすると当然,百姓間での貧富の差もあった。
 灌漑施設の開発も進み,玉川上水・神田上水など飲料用・生活用水の上水が江戸の町には引かれていました。
 元禄時代に書かれた宮崎安貞『農業全書』は日本最古の農書です。農作業や当時日本で栽培されていたほとんどの作物の栽培方法について体系的に記述しています。
   
32 商品作物では阿波(徳島)で栽培される〔 ① 〕,出羽(山形)で主に栽培され染料となる〔 ② 〕や三河や河内産の〔 ③ 〕,徳川吉宗が〔 ④ 〕に栽培を研究させた〔 ⑤ 〕などが重要視された。 
①藍  ②紅花  ③木綿  ④青木昆陽  ⑤さつまいも 
   江戸時代の商品作物はよく出る問題です。四木三草とよばれ,四木とは「漆・茶・楮(こうぞ)・桑」,三草とは「麻・紅花・藍」をいいます。漆は漆器の塗料ですね。楮は和紙の材料でした。桑はもちろん養蚕のためです。三草の中には麻がありますが,江戸時代の衣服は麻から木綿が主流になったことが重要。金肥の普及とともに紅花・藍といった綿と相性のよい染料の栽培がさかんになったからです。特に木綿・紅花・藍は特産地が重要です。
   
33 江戸時代,〔 ① 〕金山(新潟),〔 ② 〕銀山(島根)・〔 ③ 〕銀山(兵庫県),〔 ④ 〕銅山(栃木)・〔 ⑤ 〕銅山(愛媛)などの鉱山が栄えた。 
①佐渡  ②石見  ③生野  ④足尾  ⑤別子 
   このうち,別子銅山だけは住友家(のちの財閥)が一貫して経営しました。あとは幕府の直轄地です。 
   
34 江戸時代,〔   〕(兵庫)や摂津(大阪)の酒は最上級とされ,樽廻船によって江戸へ送られた。 
伊丹 
   現在の日本酒といえば無色透明をイメージしますが,この清酒が発明され,効率的に大量生産されたのは江戸時代がはじまる前後のことです。場所は摂津(大阪~神戸)地方。この地域の酒は最上級とされ,樽廻船によって江戸に送られました。京都と呉服とともにこれらの品を「下りもの」(上方から送られてくるもの)といって高級品を意味しました。逆に江戸発のものは「下らない(下級品)」といったのが,「つまらない」ものを「下らない」という語源です。
   
35 江戸時代には金貨・銀貨・〔 ① 〕の三貨が使用され,これらの交換や貸付に両替商があらわれた。両替商を営んだ豪商には江戸の〔 ② 〕家,大阪の〔 ③ 〕家などがある。諸藩は蔵物(年貢米や特産物)を江戸・大阪の蔵屋敷に送り,〔 ④ 〕がこれを管理し,蔵物の売却金の保管は〔 ⑤ 〕がおこなった。旗本や御家人は蔵米を〔 ⑥ 〕を仲介して受け取り,これらいずれの職も有力商人に委託され,彼らの中には巨利を得るものもいた。 また各藩では領内で通用する独自の通貨:〔 ⑦ 〕が用いられた
①銭貨  ②三井  ③鴻池  ④蔵元  ⑤掛屋  ⑥札差  ⑦藩札 
 江戸時代の貨幣は金貨・銀貨・銭貨で,金貨・銀貨・銅貨とはいいません。それぞれ勘定奉行支配下の金座・銀座・銭座が鋳造しました。
 金貨は計数貨幣です。現在われわれが使用している貨幣と同じで,一定の形状をしていてそこに貨幣の価値がいくらか書いてある。金貨1枚(小判)=1両です。よく時代劇に出てくる単位ですね。その下は4進法で「分」・「朱」という単位で金貨がつくられました。1両=4分=16朱です。徳川家康が天下統一の象徴として鋳造させた慶長小判が基準です。このときの金の含有率は84%もあり,信用度の高い金貨でした。しかし元禄期の綱吉のころその質を落としたことはすでに学びました。「宝永」・「正徳」・「享保」期(18世紀初め)以外では金の含有率は下がったとおさえておきましょう。宝永小判では金含有量は高くなっていますが,金貨自体の重量が半減しています。《下図》
 金貨の質が慶長小判のころと同質に戻ったのは正徳小判の新井白石のころ。享保小判は正確には正徳期に改鋳されましたが,主に吉宗のころに鋳造されました。いずれも18世紀初頭のことです。【史料】
 その後は質・量とも下がる一方です。

 銀貨は1つ1つ重さを量る秤量(ひょうりょう)貨幣です。「秤」は「はかり」です。だから形や重さは統一されていない。
 銭貨も金貨同様,計数貨幣です。例として出されるのは寛永通宝ぐらいです。家光のころが寛永ですから,そのころから幕末にかけて鋳造されました。
 大切な点はここからです。「江戸は金遣い,大阪は銀遣い,銭貨は全国共通」ということ。【落とし穴】だから両替商という商売が成り立つ。江戸時代当初は金1両=銀50匁(もんめ)=銭4貫文(かんもん)と幕府が設定しますが,「天下の台所」とよばれた大阪が経済力をもつと,大阪の両替商が交換レートを決めるようになり変動相場へとかわっていった。
 両替商を営んだ豪商として,江戸の三井家(みつい)はよく出ます。越後屋呉服店(のちの三越)が原点。三井家(三井高利)の商法は「現金掛け値なし」といわれ,説明文によく出ます。当時の呉服店では,代金は後日の掛け値(ツケ)払いで,定価はなく一反単位の販売でした。この場合,買い手は最低一反から買うことになり,売り手はツケが支払われないと大損するリスクがある。そこで高利は,その場での現金払いの定価販売。そのかわり必要な分だけ切り売りした。買い手からすると欲しい分だけ,もっているお金に合わせて買うことができるし,売り手はツケの踏み倒しの心配がない。これで大儲けした高利は両替商も経営するようになった。(逸話は井原西鶴の『日本永代蔵』にも書かれています。)
 もう1つ,大阪を代表する両替商が鴻池家です。鴻池は先に出た清酒醸造がもととなっています。

 商品の流通については「蔵元(くらもと)」・「掛屋(かけや)」・「札差(ふださし)」とい語句を区別しておぼえましょう。蔵元と掛屋は大阪蔵屋敷に属しています。【セット】各藩の蔵屋敷に集められた商品(米など)を藩に変わって管理し,販売する商人を蔵元。蔵屋敷の荷物係と考えて下さい。取引相手から得た代金を管理し,各藩への支払いを代行したのが掛屋。蔵屋敷の出納係です。蔵元と掛屋は兼業が多かった。
 一方,札差は江戸だけです。というのも札差の取引相手は旗本・御家人だったからです。旗本・御家人は給料を俸禄米という形で支給されます。しかし米をもらっても生活できませんから,それを現金に換える必要があります。この業務をおこなったのが札差です。
   
36 江戸時代,〔 ① 〕が出羽(山形)の〔 ② 〕を起点に西廻り航路・東廻り航路が整備した。陸路では江戸の〔 ③ 〕を起点に五街道が整備され,治安維持を目的に〔 ④ 〕が設けられた。街道沿いには宿場町が設置され,宿泊所には大名用の〔 ⑤ 〕,庶民用の〔 ⑥ 〕があった。 
①河村瑞賢(ずいけん)  ②酒田  ③日本橋  ④関所  ⑤本陣  ⑥旅籠(はたご) 
   室町時代の関所は経済的目的江戸時代の関所は治安目的であったことを理解しておきましょう。【比較】
現在の日本橋(上は首都高速)
 
箱根の関所
   
37 江戸時代末期,金と銀の交換比率は,外国では〔 ① 〕であったが,日本では〔 ② 〕であった。 
①1:15  ②1:5 
   開国後,日本は生糸を中心に輸出超過となります。生活必需品が品不足となり物価が上昇します。輸出超過ということは大量のお金が日本に入ってくることでもありますが,外国と日本で金と銀の交換比率が異なっており,外国人はレートのよい日本で銀を金に交換したため,大量に金が海外に流出します。今度は金不足に陥ったわけですが,幕府は金の量,および含有率を下げたうえで金貨を大量に発行。貨幣の信用を失ってしまいます。当然のことながらインフレを招く結果となり,物価の上昇はとまりませんでした。《下図》(1867年に輸入超過になっているのは,輸入関税率が大きく下がったため。)


 これとリンクして,百姓一揆の発生件数も増加し,江戸時代を通じて最多となりました。《下図》

 
   
38 1871年,伊藤博文の建議により新貨条例が制定され,〔 ① 〕・〔 ② 〕・〔 ③ 〕の十進法が採用された。1882年には大蔵卿:松方正義の建議によりわが国の中央銀行である〔 ④ 〕が設立された。 
①円  ②銭  ③厘  ④日本銀行 
 明治維新によって日本は円・銭・厘の10進法の貨幣制度が導入しましたが,殖産興業のために通貨供給量を増やしたり,西南戦争の戦費を調達するため不換紙幣を大量に発行したため,インフレーションがおこりました。
 明治十四年の政変(1881)大隈重信が大蔵卿を罷免されると松方正義がその地位に就きます。松方はインフレ対策として緊縮財政政策を打ち出します。(松方デフレ財政)具体的には増税と軍事費以外の歳出削減ですが,これによって紙幣を整理(不換紙幣の処理)や正貨(このときは銀)の蓄積を進め,1882年に日本銀行を設立します。そして銀本位制を打ち立てるまでになり,銀兌換紙幣が発行されました。ちなみに日本が金本位制に以降するのは,日清戦争の賠償金を得てからです。(金本位制・銀本位制・不換紙幣・兌換紙幣は公民で説明)
 しかし松方のデフレ政策は農産物価格の下落を招き,その一方で地租は定額であったため,農民が困窮します。この影響は自由民権運動が激化した秩父事件(困民党)や自作農が土地を手放して小作農に転落する(寄生地主制の形成)という形で現れます。
 また軍需工場と鉄道を除く官営工場の払い下げもおこなったため,富岡製糸場を買い取った三井など財閥が成長するきっかけとなり,日本の資本主義経済が進展していった。【流れ】
   
39 1871年,江戸時代に様々な差別を受けてきた被差別部落を廃止する〔   〕が出された。
解放令 
   江戸時代のえた・ひにんとよばれた被差別部落の人々が平民となりました。しかし現実の社会では差別は根強く残り,当初は解放令反対一揆がおこったこともあったと頭にいれておきましょう。 
   
40 官営模範工場として操業したた富岡製糸場では〔 ① 〕の技師や機械を導入して,工女には主に〔 ② 〕の娘が集められた。 
①フランス  ②士族 
   富岡製糸場に関する盲点です。【落とし穴】 
   
41 1882年,民営の〔   〕会社が設立されると綿生産高が伸び,1890年代に綿の輸出量が輸入量を上回り,日本の産業革命が進展した。 
大阪紡績 
   第一次産業革命です。主体は軽工業です。もっと具体的にいうと紡績業製糸業などの繊維工業です。紡績は綿糸を,製糸は生糸をつくることでしたね。きっちりと区別しましょう。
 まず1882年,日本で最初の民間の機械制の工場が大阪にできます。その名も大阪紡績会社です。このときまだ綿糸は日本の最大の輸入品でした。それが1897年になると最大の輸入品が綿花(綿糸の原料)になり,綿糸輸出高が輸入高を越えました。この1897年は「日本の紡績業が確立した年」といわれます。また下関条約の賠償金をもとに金本位制が確立した年でもあります。

 注意点は次の通り【落とし穴】
 綿花の輸入先は中国・インド・アメリカですが,綿糸の輸出先となったのは中国や韓国です。アメリカ向けではない。日本の綿糸は中国・韓国市場を独占するほどになりました。
 日本の最大の輸出品は当時も生糸で,綿糸ではないことに注意する。日露戦争後は世界最大の生糸の輸出国となり,その輸出先はアメリカです。

 そして生糸の輸出によって養蚕業は栄えましたが,綿花栽培は輸入綿花におされて衰えていったということ。
 さらに綿糸の輸出高が輸入高を越えたということは,日本が貿易黒字になったことを意味しないということ。日本の貿易が黒字になるのは,第一次世界大戦中の大戦景気のころ
   
42 1899年,政府はアイヌの人々の保護を目的として〔   〕を制定した。 
北海道旧土人保護法 
   難関校ではよく出る問題です。北海道旧土人とは「アイヌ民族」のこと。その「保護を目的として」制定されましたが,実際は同化政策が目的。そしてこの法律は1997年,アイヌ文化振興法の制定によって廃止されたといいますから,つい最近の話です。 
   
43 産業革命が進展すると,鉱山や繊維産業労働者の劣悪な作業環境が問題となった。1925年に出版された『〔 ① 〕哀史』には紡績工場での紡績〔 ① 〕の苛酷な労働条件と実情が記述されている。政府は1911年,〔 ② 〕を制定して労働者の保護をはかったが不十分であった。 
①女工  ②工場法 
   女工とは明治時代から昭和の戦中まで工場で働いた女性をいいます。当時工場労働者の大半は繊維産業が占めており,その多くは女性でした。その過酷な労働条件や不衛生な労働環境から肺結核など呼吸器系疾患にかかる人が多かった。一方鉱山労働者には男性が多かった。

 工場法は最初の労働者保護法でしたが,その内容はきわめて不徹底なものでした。この法律は戦後の労働基準法の制定によって廃止されます。
   
44 1900年,政府は労働運動の弾圧のために〔 ① 〕を制定した。〔 ② 〕年,〔 ③ 〕らが中心となって結成した日本初の社会主義政党の〔 ④ 〕は,この法律が適用され,結成の2日後に禁止された。 また1910年,〔 ③ 〕ら社会主義者は天皇暗殺を企てたとして処刑された。これを〔 ⑤ 〕という。  
①治安警察法  ②1901  ②幸徳秋水  ④社会民主党  ⑤大逆事件 
   1901年の重要事項【時期】
・八幡製鉄所操業開始
・足尾銅山鉱毒問題で田中正造が天皇に直訴
・社会民主党結成

 1900年代は第二次産業革命の時期です。きっかけは八幡製鉄所の操業でしょう。それとともに日本の資本主義が確立した時期でもあります。ということは労働問題などの社会運動も活発化した時期ともいえます。
 1900年治安警察法は,労働運動(ストなど)や社会主義運動,そしてそのための政治結社を取りしまる法律です。そのため日本初の社会主義政党である社会民主党は結党即解散となったのです。またのちに治安維持法が制定されても廃止されたわけではありません。治安維持法はもっと限定的に共産主義・社会主義思想自体を取りしまる法律です。
 社会民主党解散後,幸徳秋水平民社をたちあげ『平民新聞』を発行。この中で社会主義の立場から日露戦争に反対します。(平民社・平民新聞は難)
 そして1910年,明治天皇暗殺計画が発覚し,当局は社会主義者を一斉に取り調べ,計画に関わっていなかった幸徳秋水らも逮捕され翌年処刑されます。(政府のデッチあげ)これを大逆事件といいます。大逆とは「大逆罪」,つまり皇族に対する傷害または致死行為です。
   
45 ポーツマス条約において日本がロシアから〔 ① 〕から〔 ② 〕までの鉄道利権を譲渡されると,1906年,〔 ③ 〕が設立され,〔 ④ 〕炭田や〔 ⑤ 〕鉄山などを管理し,日本の満州経営の拠点となった。 
①長春  ②旅順  ③南満州鉄道株式会社  ④フーシュン  ⑤アンシャン 
   租借地で鉄道を敷設し,沿線の鉱山などの支配するのが帝国主義の常套手段です。南満州鉄道株式会社は国営ではなく,半官半民であったこと。【落とし穴】旅順・長春間であること。沿線のアンシャン鉄山・フーシュン炭田【セット】で。そしてこれらを守備するために設置されたのが関東軍です。 
   
46 第一次世界大戦後の不景気で労働争議がたびたびおこり,〔 ① 〕年5月1日,日本で最初の〔 ② 〕がおこなわれた。農村でも小作料の引き下げを要求する〔 ③ 〕がおこり,1922年日本農民組合が結成された。
①1920  ②メーデー  ③小作争議 
   第一次世界大戦中は大戦景気とよばれる好景気となったことは大丈夫ですね。船成金などの成金が象徴的です。
 1914年,水力発電の猪苗代・東京送電が成功し動力の蒸気から電力への転換が進みました。【時期】化学製品(薬品・肥料など)もイギリスやドイツ(特にドイツ)が世界市場を独占していましたが,両国が交戦中のため,国内の化学工業が発展します。工業生産が農業生産を上回ったのも,貿易赤字が貿易黒字になったのもこの期間です。【時期】


 しかし大戦景気は物価高ももたらしたため労働者の生活が苦しくなります。大戦末期になると大正デモクラシーの風潮ともあいまって一転して労働運動など社会運動が増加します。【時期】

 大戦中は都市を中心に雇用が増大したためめ,特に男子労働者の増加は労働争議・労働組合の結成につながっていきました。1920年5月1日には日本で最初のメーデーが開かれます。メーデーとは「五月(May)の日」の意味で,毎年世界各地で開かれる「労働者の日」です。ここで労働者は権利要求と国際連帯をよびかけます。さらに1921年には日本初の労働組合の全国的組織:日本労働総同盟を結成します。
1922年の重要事項【時期】
・ソ連の成立
・オスマン=トルコの滅亡
・ファシスト政権成立(イタリア)
・日本農民組合
・全国水平社
・日本共産党

 農村においても小作争議が頻発します。小作人は地主に小作料を支払って耕作します。この小作料の減免や条件の改善を求めておこす争議が小作争議です。労働争議と同様に,日本初の全国的な農民組織として日本農民組合が結成されました。
 部落解放のための全国組織:全国水平社は基本編。部落問題を取り上げた小説として島崎藤村の『破戒』(明治)住井すゑの『橋のない川』(昭和戦後)が代表作。
 大正デモクラシーの影響で治安警察法は改正され,労働・農民運動の条項は削除されますが,第二次世界大戦中は治安維持法特高(特別高等警察…思想警察)のためストライキは禁止されるようになります。
 
47 1920年,女性解放を主張した平塚雷鳥青鞜社の解散後,〔   〕らとともに新婦人協会を設立して婦人参政権獲得運動を展開した。  
市川房江 
   平塚雷鳥青鞜社は基礎・応用レベルです。注意点は青鞜社は文芸団体であって政治団体ではないということ。また結成は1911年ですからまだぎりぎり明治時代です。(難)
 新婦人協会の活躍によって治安警察法の女性の政治集会参加禁止条項が削除されました。
   
48 〔 ① 〕年,関東大震災によって不良債権化した手形の処理の問題から銀行・会社の破産・休業が続発し〔 ② 〕がおこった。この結果,中小銀行は大銀行に吸収・合併され,財閥へ資本が集中した。 
①1927  ②金融恐慌 
 日本侵略の背景には第一次世界大戦後の慢性的な不景気の中,世界恐慌の影響で日本の輸出はふるわなくなったということがあります。大戦後からの不景気の流れをみると,
 戦後恐慌→震災恐慌→金融恐慌→世界恐慌→昭和恐慌【流れ】
 第一次世界大戦後の戦後恐慌のあと,1923年関東大震災が発生します。京浜工業地帯は壊滅状態,大量の手形が決済できない状態になりました。手形とは商取引の際,手元に現金がない場合に取引相手に発行するものです。ただしすぐに現金化できず,期日を待たなくてはなりません。多くの中小企業はこの手形によって取引をおこなっていましたから,震災の結果,現金が支払われなくなったのです。
 昭和に入ってこの震災手形が不良債権化して銀行の経営を圧迫します。政府内の失言とあいまって社会の金融不安が表面化し,中小銀行を中心として取り付け騒ぎがおこりました。「取り付け騒ぎ」とは預金者が預金をおろそうと銀行に殺到することです。
 こうして中小銀行は次々と倒産,預金者は安心してお金を預けれらる大銀行にお金を預けるようになり,お金は五大銀行に集まるようになりました。金融恐慌(1927)です。五大銀行とは「三井・三菱・住友・安田・第一」です。そう財閥です。
 そこへ世界恐慌(1929)の波が日本に押し寄せた。アメリカの不景気は,対アメリカ輸出に大きな打撃を与えます。最大の輸出品であった生糸価格が暴落。豊作によって農産物の価格も暴落し,農村は危機的な状況となりました。その一方で東北地方では冷害は起こるは,都市の失業者が帰ってくるわで,その悲惨さは「欠食児童」・「女子の身売り」という言葉からもうかがえます。このうな経済的混乱が1930年から31年にかけておこり,これを昭和恐慌とよんでいます。金融恐慌と昭和恐慌は流れの中でつながっていますが,時期が異なる別物です。
 ようやく対策らしい対策ができたのは1931年です。犬養毅が首相になると大蔵大臣に高橋是清(これきよ)を登用します。高橋蔵相は金本位制から管理通貨制度への以降を決定します。管理通貨制度では国は中央銀行の管理のもと必要に応じて通貨を発行することができます。そこで高橋是清は積極財政を打ち出し,軍事費の増大と赤字国債の発行によってインフレーションをおこそうとしたのです。(中身は違いますが,現在のアベノミクスがこんな感じです)これによって内需拡大を目指した。
 また通貨発行額を増やすと通貨価値が下がります。つまり円安になった。そして円安を利用して貿易拡大もねらった。これによって綿織物の輸出はイギリスを抜いて世界1位となり,輸出の急増によって,1933年には欧米に先駆けて,世界恐慌から抜け出すことができたのです。

 上のグラフは応用編でもみたグラフです。1929年の鉱工業生産を100としています。では日本のグラフを選べるでしょうか?注目するのは1933年です。この年,ソ連以外の国では日本だけが1929年比で100を上回っている。他の国に先駆けて日本が恐慌から脱したことを示しているのです。
 その一方で,軍事費の増大は軍部を利することになり,その発言力を強めていく結果となります。折りしも1931年は前の第二次岩槻内閣のとき満州事変がおこり,高橋を起用した犬養毅は五・一五事件で殺されています。皮肉にも高橋是清自身も二・二六事件で暗殺された人の一人です。
 また円安を利用した輸出の急増はイギリス・アメリカからソーシャル・ダンピングだと非難されました。ソーシャル・ダンピングとは国家的規模(ソーシャル)で,不当な安値で商品を売る(ダンピング)ことです。イギリスは日本に対抗するため植民地との結びつきを強化して,他国の商品を排斥するブロック経済を形成することになったのです。
 そしてドイツ・イタリアも日本にならうことになる。また逆にブロック経済が日本・ドイツ・イタリアを苦しめることになる。第二次世界大戦の背景にはこのような経済的事情があったのです。
   
49 1938年,第一次〔 ① 〕内閣のとき,「国民体位の向上と国民福祉の増進」を目的として〔 ② 〕が設置された。 
①近衛文麿(このえふみまろ)  ②厚生省 
   同年,農村における農民の医療普及をめざし国民健康保険制度も成立しています。日本国民全員が公的医療保険に加入する国民皆保険制度は1961年になってからのことです。
   
50 1942年,政府は銀行券の最高発行額を管理統制する〔   〕制度を日本銀行法で制度化した。 
管理通貨 
   実質,高橋財政によって1930年代に管理通貨制度に移行していましたが,法的に制度化されたのは太平洋戦争中でした。 
   
51 1945年,日本政府が自主的に実行した農地改革が不徹底だとして,翌年GHQは第二次農地改革を指示した。〔 ① 〕の貸与農地全部と〔 ② 〕の1haを越える部分の強制買い上げをおこない,小作人に有償でゆずりわたすと,〔 ③ 〕が大幅に創出された。 
①不在地主  ②在村地主  ③自作農 
   農地改革・財閥解体はなぜ必要だったのでしょうか?それは地主制と財閥が軍国主義の基盤となっていたからです。(難しくは「寄生地主」といういい方をしますが,ここでは簡単に「地主」とします。)
 農地改革は地主制度の解体です。地主は農地を握っています。その農地を小作人に貸して小作料を徴収します。小作料は現物納(米など)が一般的でした。昭和初期で収穫の4割から5割が小作料としてもっていかれます。これでも大正時代の小作争議のおかげで下がった結果です。その他,用水代や肥料も小作人の自前です。地主はあくまでも土地を貸すだけです。
 たいていの小作人は貧しく,生活は苦しい。小作人の長男ならまだその土地での農業に頼ることはできますが,次男以下は生きていくのが困難になります。都市に出稼ぎにいくにも折からの不景気で仕事もない。最終的に食い扶持を求めていきつく先は軍隊です。入隊すれば食うことには困りません。
 一方,小作料の徴収によって利益を得た地主は,財閥や財閥系企業の株主となったり,投資をしたりします。財閥を資金面で支えていたのは地主だというわけです。その財閥は今度は軍部と癒着している。
 財閥は軍部を,軍部は財閥を支え,その財閥は資金面で地主が支える。地主を支えるのは小作人。小作人の地主への従属が軍国主義の基盤となっているという構図です。そのためGHQは地主制と財閥の解体を即刻おこなう必要があった。

 さて農地改革は入試では頻出の問題ですが,発展編ではさらに深くみていきます。まずは農地改革はGHQの指示で2段階で実施されたということ。これは1回目が不徹底に終わったからです。次に地主には在村地主不在地主がいたことを頭にいれておきましょう。在村地主とは自分の土地があるところに住んでいる地主です。不在地主は住んでいない地主。
 ではおさらい。農地改革は地主の土地を政府が強制的に買い上げ,小作人に安く売り渡し,自作農を増設することでした。
 第1次農地改革では,
不在地主の小作地はすべて買い上げ
在村地主の小作地は5町歩まで(1町歩≒1ha),それを超える分はは買い上げ
という内容でした。しかしGHQはこれを不徹底だとし,「小作料の金納制」以外は実施されませんでした。そして第二段階,第二次農地改革に移ります。
不在地主の小作地はすべて買い上げ(ここは同じ)
在村地主の小作地は1町歩(※北海道は別)まで,それを超える分は買い上げ

ポイントは次の通り
・一度目の農地改革は不徹底だとして2度目がおこなわれたこと。
不在地主は小作地は2度とも認められなかったこと。
・在村地主に残った小作地では小作料は金納となったこと。
山林の解放はおこなわれなかったこと。
小作地の80%が自作地化され,自作地と小作地の耕地比率は87:13となった。
すべての小作地がなくなったわけではないということ。
   
52 〔 ① 〕年,財閥解体を進めるため〔 ② 〕が制定され,将来の独占の予防措置がとられた。また〔 ② 〕の制定によって過度に経済力が集中している 巨大独占企業を分割した。
①1947  ②独占禁止法  ③過度経済力集中排除法 
   財閥解体については2つの法律を制定しておこないました。1つは過度経済力集中排除法,もう1つは独占禁止法です。
 「財閥」というのは何をしている企業がよくわからないですね。「~銀行」といったら銀行業務,「~自動車」といったら自動車,「~製紙」といった製紙業という風にどんな企業かがわかります。代表的な財閥である三菱は明治時代に海運業から発展しましたし,住友は江戸時代の鉱山経営から,三井も同じく江戸時代の呉服店が原点です。ところが三菱財閥・住友財閥・三井財閥といったとき,この「財閥」の仕事とは何でしょうか?
 その正体は「持株会社」という企業なんです。株式会社の株をもつことそのものが仕事です。株式会社においてその会社の株式の50%(以上)をもつということは,その会社を支配することを意味します。こうして財閥は明治時代以降,特に第一次世界大戦中の大戦景気でさまざまな分野にわたる企業の株式を保有して,その企業を支配してきた。このような市場独占の形態をコンツェルンといいます。
 したがって財閥解体をおこなうには,支配する親会社である持株会社を禁止する。そして支配されている子会社を独立させる。ということになります。
 子会社の独立のためには過度経済力集中排除法が定められ,巨大企業の分割が実施されました。しかし最初は325社が対象となっていましたが,実施されたのはわずか11社にとどまります。この法律は,法律名を答えさせる問題は絶対にでませんから安心して下さい。「巨大企業の分割」というのがポイント。
 そして独占禁止法を制定して,持株会社を禁止します。コンツェルンをはじめ市場独占の形態であるカルテル・トラストも禁じられます。またこの法律によって設置された行政機関が公正取引委員会であることも重要です。

 財閥解体では財閥系銀行の解体は実施されませんでした。これはアメリカの占領政策が「日本の非軍事化・民主化」路線から「対共産主義」路線へ転換していったことが原因です。日本経済の復興に財閥の力が必要となった。したがってこの政策は農地改革ほど実績を上げることはできなかった。また持株会社は禁じられたのでコンツェルン型はなくなりましたが,同じ財閥系の企業同士が株式を持ち合う企業集団(企業グループ)が形成されるようになった。
 ちなみに現在は1997年に独占禁止法が改正され,事業支配力が過渡に集中しない場合を除いて,持株会社が解禁になっていることも頭に入れておきましょう。【落とし穴】
   
53 1945年に〔 ① 〕,1946年に〔 ② 〕,1947年に〔 ③ 〕が制定され,労働三法が整備された。 
①労働組合法  ②労働基準法  ③労働関係調整法 
   労働三法【セット】のうち,もっとも早くにつくられたのは労働組合法であることをおさえておきましょう。理由は労働組合法とは労働三権を具体的に保障した法律だからです。よって労働法の中でもっとも根幹をなす基本法なのです。たいていのテキスト類では公民の分野で「労働基準法・労働組合法・労働関係調整法」の順で並んでいますが,わたしの授業では必ず組合法・基準法・関係調整法の順でおぼえるように言ってます。 
   
54 1955年から〔 ① 〕景気とよばれる好景気となり,高度経済成長がはじまった。その後,〔 ② 〕景気・〔 ③ 〕景気・〔 ④ 〕景気と続いて,1968年には〔 ⑤ 〕(GNP)が資本主義国第2位となった。 〔 ⑥ 〕年には〔 ⑦ 〕で万国博覧会が開かれた。
①神武  ②岩戸  ③オリンピック  ④いざなぎ  ⑤国民総生産  ⑥1970  ⑦大阪 
   高度経済成長期と一言でいいますが,ずっと好景気ばかり長く続くもんではない。景気変動(循環)といって景気は好景気・不景気を繰り返します。この順は難関校ではよく問われますので,しっかりとおぼえておきたい。【流れ】
 神武景気(好)→なべ底不況(不)→岩戸景気(好)→オリンピック景気(好)→40年不況(不)→いざなぎ景気(好)→石油危機(不)
 「神武」・「岩戸」・「いざなぎ」は日本の神話からとった名前です。しかも新しいものから古いものへと逆にさかのぼっている。「神武」は初代天皇神武天皇,「岩戸」はアマテラスの天の岩戸のお話,「いざなぎ」は国産み神話のイザナギノミコトとイザミノミコトのお話からです。
 いずれにしても基準となる年は1964年東京オリンピック1973年石油危機となりますが,大阪万博の1970年もおさえておきたい。【落とし穴・時期】
   
55 1990年代はじめバブルが崩壊すると,長期にわたる経済低迷期を向かえ,「〔   〕」とよばれた。 
失われた10年 
   バブル崩壊後,1990年代の経済の不安定期を指す言葉です。企業の倒産,従業員の解雇(リストラ),金融機関の不良債権の抱え込み,デフレ,学生の就職難(ロストジェネレーション)などが大きな問題となりました。
 2000年,小泉内閣(小泉純一郎)が成立すると,「聖域なき構造改革」を訴えます。小さな政府を念頭に「官から民へ」,「中央から地方へ」などを柱とし,郵政民営化道路公団民営化地方への財源委譲規制緩和(労働者派遣法など)を実行し,ある程度の効果をもたらしました。 
   
56 〔 ① 〕年,アメリカの証券会社:リーマン=ブラザーズが経営破綻したことに端を発して世界的な金融危機がおこった。これを〔 ② 〕とよんでいる。 
①2008  ②リーマンショック 
   小泉内閣のあと,3人の自民党政権が1年ごとに交代。2008年には,アメリカの低所得者向けの住宅ローン:サブプライムローンのこげつき(貸したお金が回収不能)がきっかけで大手証券会社:リーマンブラザーズが経営破綻します。これをきっかけにアメリカで金融市場が混乱し,連鎖的に世界で金融危機が発生しました。これがリーマンショックです。2008年のリーマンショックはさまざまな統計の読み取りに重要になってきますから,年代をしっかりとおさえておきましょう。【時期】
 翌年の2009年には総選挙で自民党が敗れ,民主党政権が誕生しています。 

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