1 |
アメリカの動物学者:〔 〕が1877年に東京の大森貝塚を発掘して,日本の考古学は第一歩を踏み出した。 |
答 |
モース |
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モースはアメリカ人。明治時代の人であることに注意。【時期】いわゆる「お雇い外国人」です。動物学の教授として東大に勤務していたところ,大森貝塚を発見。 |
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2 |
縄文時代,死者の埋葬には〔 ① 〕が用いられたが,弥生以降は〔 ② 〕が増加した。 |
答 |
①屈葬 ②伸展葬 |
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手足を折り曲げて胎児のような格好で埋葬する方法が屈葬です。いろいろな説がありますが,人間には霊魂があり,人は死ぬと霊魂が逃げ出して災いをもたらすと考えられていたのではないかとされます。
弥生時代になり,階級社会が進むと高い位の人は伸展葬,つまり手足を伸ばした状態で埋葬する方法がとられます。【比較】このように移行した理由ははっきりとわかっていません。大陸からもたらされた文化の影響ではないかとも考えられています。 |
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3 |
水稲耕作の遺跡としては福岡県の〔 ① 〕遺跡や静岡県の登呂遺跡が,環濠集落跡としては奈良県の〔 ② 〕遺跡や佐賀県の吉野ヶ里遺跡が有名である。 |
答 |
①板付(いたづけ) ②唐古・鍵 |
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注意したいのは,板付遺跡は縄文晩期から弥生時代の遺跡で,時代の移行期の遺跡です。縄文時代としても出題されます。【落とし穴】
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唐古・鍵遺跡の復元楼閣(奈良県田原本町) |
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4 |
青銅器の中には,柄を差し込んで使用する槍状の〔 ① 〕や柄に直角に装着する鎌状の〔 ② 〕などの武具があるが,実用的なものではなく,北九州中心に分布する。また瀬戸内を中心に〔 ③ 〕,近畿を中心に〔 ④ 〕が分布している。しかし〔 ⑤ 〕県の荒神谷遺跡では〔 ① 〕・〔 ③ 〕・〔 ④ 〕がまとまって発見されており,青銅器の地域的な分布が問題視されるようになった。 |
答 |
①銅矛(どうほこ) ②銅戈(どうか) ③銅剣 ④銅鐸 |
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まずは銅鐸が近畿中心であったことをしっかりとおさえておきたい。 青銅器は祭器,鉄器は利器(実用的)というのも重要。【比較】青銅器は武器の形をしていたけれども,もろく実用としては適さなかった。一方鉄器は実用品として農具や武器に利用された。 |
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5 |
5世紀,日本に漢字と儒教をもたらしたのは百済の〔 〕だとされる。 |
答 |
王仁(わに) |
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6 |
後期の古墳の代表的なものとして,蘇我馬子の墓といわれる〔 ① 〕古墳や石室の壁画に女性や四神が描かれた〔 ② 〕古墳がある。後期の石室は前期の〔 ③ 〕式に対して〔 ④ 〕式が用いられた。 |
答 |
①石舞台 ②高松塚 ③竪穴 ④横穴 |
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古墳時代,前期から中期にかけては前方後円墳が代表的です。石室は竪穴式。仁徳天皇陵である大仙古墳やその周辺の百舌鳥(もず)古墳群(大阪府堺市)が有名です。巨大な前方後円墳は近畿地方に限られています。
後期古墳の代表は石舞台古墳・高松塚古墳,いずれも奈良県明日香村にあり,古墳時代ではなく飛鳥時代のものです。高松塚古墳は文化的には白鳳文化(時代)のもの。【時期】形状は小型の円墳が多くなり,その石室は横穴式になります。このころになると農民も古墳をつくるようになったからです。
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石舞台古墳(奈良県明日香村) |
高松塚古墳(奈良県明日香村) |
かわった形状の古墳としては,四隅突出型古墳というのが出題されたことがある。方墳の一種で,山陰から北陸に多くみられる形状です。 |
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7 |
古墳時代の土器には,朝鮮半島伝来の新技術による硬質で祭祀として用いられた須恵器のほか,弥生時代の製法が受け継がれ日用具として用いられた〔 〕がある。 |
答 |
土師器(はじき) |
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土師器は弥生土器の系統が進化したもの。製法は素焼き(野焼き)です。低い温度で焼かれており,色は弥生土器と同じで赤褐色。埴輪も素焼きですので土師器の一種です。
須恵器は渡来人がもたらした大陸の技術が使われています。「ろくろ」と「焼窯」です。高温で焼くため硬質で,色は灰色から黒っぽい色をしています。
土師器と須恵器はその色から一見して見分けがつきます。【比較】 |
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8 |
聖徳太子は,難波(大阪府)に〔 ① 〕寺,斑鳩(奈良県)に法隆寺を建立し,蘇我氏は〔 ② 〕寺を建立した。法隆寺には,〔 ③ 〕による「釈迦三尊像(金堂)」や〔 ④ 〕とよばれる仏教工芸品が残されている。中宮寺や広隆寺などの弥勒菩薩(みろくぼさつ)半伽思惟(はんかしい)像は,朝鮮(新羅)に同様のものが残されており,中国の南朝の様式が反映されている。 |
答 |
①四天王 ②飛鳥 ③鞍作鳥(くらつくりのとり または止利仏師) ④玉虫厨子(たまむしのずし) |
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聖徳太子は法隆寺の他に,大阪の四天王寺。【位置】聖徳太子の他には蘇我馬子の飛鳥寺ぐらいをおぼえておけばよいでしょう。法隆寺のある場所は奈良県の「斑鳩(町)」。読みは「いかるが」です。
飛鳥寺は「日本最初の寺院」ともいわれ,蘇我氏の氏寺です。藤原氏の興福寺とまちがえないように。
法隆寺は国宝のメッカで,「法隆寺展」といえば「国宝展」といってよいぐらいです。東京国立博物館には「法隆寺宝物館」が別館としてあるぐらい。『釈迦三尊像』と『玉虫厨子』は必須。必ず【史料】写真をみておくように。
『釈迦三尊像』とは釈迦像とその両脇に二体の菩薩像を加えた仏像です。また作者の鞍作鳥(止利仏師)もおぼえておきたい。『玉虫厨子』は仏具工芸品で,「厨子」とは屋根のついた置物。装飾に玉虫の羽が使われていたことからこうよびます。
京都の広隆寺にある『弥勒菩薩半伽思惟像』は,これとそっくりのものが朝鮮にあり,当時の渡来人の交流がうかがえます。「半伽思惟(はんかしい)」とは片足を一方の膝に乗せ,手を頬にあてて物思いにふけっている感じの態度のわるーい姿勢です。その女性的な微笑みから中国の南朝様式の影響を受けていると考えられています。これも【史料】で出題される典型的な飛鳥時代の仏像です。仏像の姿勢からすぐに判断できます。
また飛鳥時代から奈良時代の寺院の伽藍(がらん)配置が出題されることもたまにあります。伽藍配置とは寺院の主要な建物の並びです。大切なのは塔(仏塔)の位置です。塔の位置が中心であるほど古いとだけおぼえておいて下さい。もっとも古い飛鳥寺では塔は寺院の中心です。 |
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9 |
大化の改新から平城京遷都までの文化を特に〔 ① 〕文化といい,〔 ② 〕初期の文化の影響を受けている。その遺構・遺物は主に〔 ③ 〕寺に残されており,建築では〔 ④ 〕が,彫刻では金堂の〔 ⑤ 〕が有名である。絵画では〔 ⑥ 〕の壁画に類似した法隆寺金堂壁画があったが,1949年に焼失した。 |
答 |
①白鳳 ②唐 ③薬師 ④東塔 ⑤薬師三尊像 ⑥インド |
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飛鳥時代の後半,奈良時代までの文化を特に白鳳文化として区別します。【時代区分・時期】飛鳥文化との決定的な違いは,このころ中国は隋ではなく,唐になっていたということ。
飛鳥文化が主に法隆寺にあらわれたように,白鳳文化といえば主に薬師寺(奈良市)だと思って下さい。仏像も法隆寺の釈迦三尊像に対して,薬師寺の薬師三尊像と区別しておく。見た感じの違いは,仏像の後ろの輪です。釈迦三尊像は中央の釈迦の後ろの輪(光背)が三体を覆うように大きくなっていますが,薬師三尊像は,三体それぞれに独立した輪で覆われています。
絵画では法隆寺金堂にあったとされる壁画。インドのアジャンタ石窟のものや中国初唐の敦煌の壁画に類似していたといわれます。アジャンタは難問。その他,高松塚古墳の壁画も白鳳文化のものです。【史料】写真をみておきましょう。
また万葉歌人:柿本人麻呂も白鳳文化です。【落とし穴】 |
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正倉院は聖武天皇の遺品が収められている東大寺の宝物庫で,〔 〕造の構造である。 |
答 |
校倉(あぜくら) |
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正倉とは寺院の倉庫をいいます。東大寺の正倉院は断面が三角形の木材を積み重ねた造りで,これを校倉造(あぜくらづくり)といいます。「校」は「木」が「交」と書きますね。文字通りです。
木の特性をいかして倉庫内の湿度を調節したと考えられていますが,実際に計測したところそのような事実は観測されなかったとのこと。しかし正倉院の中の宝物は極めて良好な状態で保存されていたことも事実です。
螺鈿紫檀(らでんしたん)五弦琵琶,漆胡瓶(しっこへい),瑠璃杯など,インドやペルシャ(イラン)からシルクロードを伝わってもたらされた品々の【史料】写真をみておきましょう。 |
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奈良時代の仏教は国家の平安を祈る〔 ① 〕の宗教であった。盲目になりながらも来日した鑑真は,〔 ② 〕を建立し,律宗を日本に伝えた。 |
答 |
①鎮護国家 ②唐招提寺 |
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聖武天皇の仏教政策からみられるように,奈良時代の仏教は国家(個人ではなく)との結びつきが強かった。このような観点から奈良時代の仏教は国家仏教,または鎮護国家の仏教と表現されます。仏教は国家規模で広められ,私的レベルの布教は禁止されます。あの行基ですら民間布教をおこなったため罰せられています。
鑑真が伝えたとされる律宗(りっしゅう)は難。僧侶の戒律を研究する宗派です。奈良時代の渡来僧には他に大仏開眼供養をおこなった菩提僊那(ぼだいぜんな)がいます。これもまた難。彼はインド人であったこともまた難。 |
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万葉集の中には山上憶良の「〔 ① 〕」があり,農民の労苦を歌い上げた。また万葉集では漢字の音訓によって日本語を表記した〔 ② 〕が使用された。 |
答 |
①貧窮問答歌 ②万葉仮名 |
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真言宗や天台宗など加持祈祷によって現世利益をはかる仏教を〔 ① 〕という。また〔 ① 〕や神道などの影響を受け,山野で修行をおこなう呪術的な信仰を〔 ② 〕という。 |
答 |
①密教 ②修験道(しゅげんどう) |
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奈良時代の仏教は国家のためのものでした。平安時代に国家権力と仏教が切り離されると,仏教は個人のものへと変化し,貴族や民衆に広まっていきました。個人が救われると,結果として国家が救われる。奈良時代とは逆の発想です。
救われるとは仏の恩恵を受けることです。恩恵を受けるためには祈る。この祈りを加持祈祷といいます。ただし加持祈祷が実際の恩恵につながるようにするには厳しい修行が必要です。その修行は山でおこなわれました。山奥で修行をするのは秘密の教えを学ぶためです。この秘密の教えを密教というのです。したがって当時の貴族や民衆が密教を支持したのは,その結果(恩恵)の部分です。信仰の実践ではありません。信仰の実践が広まるのは平安時代の中期,浄土信仰を待たなくてはなりません。
一方で仏教が民衆に広がるとともに神道と仏教の融合が加速します。神仏習合といいます。いまでも寺院の中に神社があったり,神社の中にお寺があったりすることがありますが,このような寺院・神社を神宮寺といいます。
また密教と古くからある山岳信仰や神道が結びついて修験道(しゅげんどう)が生まれます。 |
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10世紀以降,極楽浄土への往生を願う浄土教(信仰)が広まった。このころの僧には都で布教した〔 ① 〕や『往生要集』を著した〔 ② 〕がいる。11世紀に入ると社会不安から〔 ③ 〕がおこった。 |
答 |
①空也(くうや) ②源信 ③末法思想 |
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地方政治が乱れ,治安が悪化,末法思想が次第に広まると民衆は現世利益よりも来世に極楽浄土にいきたいと願います。これが浄土信仰(浄土教)です。
末法思想とは釈迦の死後,2000年経つと国家も仏法も滅んでしまうという終末思想です。末法1年といわれたのが1052年。ちょうど前九年の役が1051年,平等院鳳凰堂が建てられたのが1053年ですから,そのころですね。【時期】
初期の浄土教の僧侶として空也,源信がいます。空也は都を中心に布教します。(ただしよく【史料】で出される『空也像』は鎌倉時代の作品です。)源信は『往生要集』という著書と一緒に出てきます。「往生(おうじょう)」とは極楽浄土に往く(生まれ変わる)ことをいいます。だから極楽浄土の主である阿弥陀仏にすがるんだ。言葉にすると「南無阿弥陀仏」となる。
院政期になると浄土教は地方にも伝播します。その例として平泉の中尊寺金色堂は必須。難問として,大分の富貴寺が出されることもある。 |
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摂関期,日本的風物を主題にした〔 ① 〕が描かれ,日本画の源流となった。院政期には絵巻物が発達し,『〔 ② 〕』や鳥羽僧正の作(?)とされる『〔 ③ 〕』などの作品がある。 |
答 |
①大和絵 ②源氏物語絵巻 ③鳥獣戯画 |
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摂関期,国風文化が栄えます。文字ではかな文字,文学では和歌や物語文学が栄えました。そして絵画では大和絵です。
かな文字には漢字を崩した平がなと,漢字の一部をとったカタかながあることは知っていますね。(笑)では次のことが注意点。「公文書は漢字」を使用したということ。【落とし穴】『土佐日記』が最初のかな文字の日記であったこと。【歴史的意義】
次に文学では女流文学が栄えます。なぜ女流か?藤原氏と関係をもちたいと考える中流貴族が,自分の娘を藤原氏の娘の女房(侍女)にしようと教養をつけさせたためです。
さて大和絵とは日本風の風物を題材にとった絵をいいます(これに対し中国の故事・人物・風景などを題材にとった絵を「唐絵(からえ)」とよんだ)。国風文化の発展の1つです。技法としては輪郭線を残したり,色の濃い部分から徐々に薄くしていくなど。
平安末期の院政期には,絵巻物という形で発達します。『源氏物語絵巻』はいうまでもなく源氏物語を題材にとったもの。2000円札の裏面も描かれています。(第三十八帖「鈴虫」のシーン)『鳥獣戯画』は動物を擬人化した日本最古の漫画(戯画)です。 |
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鎌倉時代には東大寺南大門のような大仏様とよばれるものや,鎌倉の〔 ① 〕寺舎利殿のような〔 ② 〕様による寺院建築がみられた。絵巻物では竹崎季長(すえなが)が描かせた『〔 ③ 〕』などがある。また〔 ④ 〕とよばれる肖像画が描かれた。 |
答 |
①円覚(えんかく) ②禅宗 ③蒙古襲来絵詞(えことば) ④似絵(にせえ) |
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鎌倉時代の建築物ではまず東大寺南大門が重要。大仏様(だいぶつよう)とよばれ,当時の中国(宋)建築の様式を用いたものです。文字通り大きな建物をつくる様式です。建築責任者は重源(ちょうげん)という人物。これは難。
もう1つの代表が円覚寺舎利殿(鎌倉)。当時の禅宗寺院建築の流行である禅宗様という様式。大仏様とは逆に,細かな細工を施した整然とした美しさが特徴です。
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円覚寺舎利殿(神奈川県鎌倉市) |
絵画では絵巻物と似絵。絵巻物では『蒙古襲来絵詞』と『一遍上人絵伝』は必須。『蒙古襲来絵詞』の右側に描かれている馬に乗った武者が竹崎季長(すえなが)です。竹崎季長は肥後(熊本)の御家人。文永の役・弘安の役,両方の出陣の様子が描かれています。(有名な絵は文永の役のもの)
『一遍上人絵伝』はすでに説明済み。あとは『男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)』というのもありますが,題名はおぼえてもあまり意味がない。関東武士の生活を描いていて,笠懸のシーンを描いたものとして貴重な作品です。
似絵は文字通り,肖像画。 |
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鎌倉時代の文学には,〔 ① 〕年,〔 ② 〕の命により編纂された勅撰和歌集の『新古今和歌集』,3代将軍:源実朝の『〔 ③ 〕』,〔 ④ 〕によって語られた軍記物:『平家物語』などがある。 また北条実時は私設図書館として〔 ⑤ 〕を開設した。 |
答 |
①1205 ②後鳥羽上皇 ③金槐和歌集 ④琵琶法師 ⑤金沢文庫(かねさわ) |
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平安時代の古今和歌集は905年,鎌倉時代の新古今和歌集は1205年でちょうど300年後の作品。年代はおぼえておくと便利。【時期】歌集では源実朝の『金槐和歌集』。「金槐」の「金」は「鎌倉」の「金へん」,「槐」には「高官(大臣)」の意味があります。鎌倉の右大臣=源実朝の歌集の意味。その他には西行(法師)の『山家集』ぐらいしっておけば十分でしょう。
教育機関として北条実時(執権ではない)の金沢文庫は場所が重要。石川県の金沢ではありません。神奈川県です。(鎌倉の近く)【位置】あとで出てくる足利学校とまちがわないように。
金沢文庫(神奈川県横浜市)
鎌倉幕府の公式記録の『吾妻鏡(あづまかがみ)』は承久の乱の【史料】などで使われます。 |
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栄西が開いた〔 ① 〕宗は,北条氏の帰依を受け上級武士を中心に発展した。一方,〔 ② 〕宗を開いた道元は権力を嫌い,永平寺(現在の〔 ③ 〕県)で厳しい修行を説いた。 また栄西は『〔 ④ 〕』を記して,飲茶の習慣を日本に広めた。 |
答 |
①臨済 ②曹洞 ③福井 ④喫茶養生記(きっさようじょうき) |
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浄土教の違いと特徴は応用編で説明済みですが,親鸞の「悪人正機説」は発展編ではおぼえておきたい用語です。難問ですが,悪人正機説を端的に物語っている有名な一節「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」は親鸞の書物ではなく,弟子の唯円の『歎異抄(たんにしょう)』に出てきます。【史料】
もう1つ日蓮宗(法華宗)について,「題目」が特徴であることはすでに説明しました。「念仏」と「題目」の違いは唱える文字が異なることは当然ですが,その目的が違う。念仏は「往生」が目的です。極楽浄土への生まれかわりです。「題目」は「成仏」が目的です。「仏(ほとけ)」になる。悟りを開くことによって,この世の苦しみから抜け出すことを「解脱(げだつ)」といいます。解脱したものを「仏」というのです。だからこの世に未練(欲)が残っている人は,成仏できずに幽霊になったりする(笑)。
日蓮が5代執権:北条時頼に献上した『立正(りっしょう)安国論』というのがあります。地震・飢餓・疫病などの災害が続いた当時,その原因が宗教の乱れにあるとし,特に浄土教を邪教だとして非難・攻撃します。法華経こそ国を守る経典だと主張し,このままでは外国から攻撃を受けて侵略されるとまでいいます。このような国家の危機を「国難」とよび,元寇を予言したといわれています。
では禅宗の特徴です。「禅」には「心を静かにして動揺しない」という意味があります。そして「座(坐)して」瞑想する様を「座禅(坐禅)」といい,座禅によって悟りを開くのが禅宗です。
栄西の臨済宗は座禅に加え,問答を重視しました。問答のお題を「公案」といいます。アニメの「一休さん」が毎回お題を出されて座禅して答えを考えるあのようなシーンでイメージするとよい。また臨済宗は時の権力に接近したことをしっかりとおさえておきたい。鎌倉時代なら北条氏,室町時代なら足利氏や守護大名・戦国大名など上級武士です。有名なお寺(名刹という)も京都や鎌倉に多い。また栄西は飲茶の効用について『喫茶養生記』という本を書いて,その習慣を日本に広めたということも重要です。
牧之原公園の栄西像(静岡県牧之原市)
一方道元は座禅そのものを重視しました。ただただ座禅を組むこと。それ自身が悟りだといいます。「只管打坐(しかんたざ)」といって,「只管」とは「ひたすら」という意味。ひたすら座禅を組みなさい。言葉など不必要。権力や名声を嫌い,お寺も福井県の永平寺に建てます。永平寺は【位置】とともにおぼえておきたい。 |
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19 |
足利義満は,中国の制度にならい京都と鎌倉の重要な〔 〕宗の寺院をそれぞれ五山として幕府の統制下においた。 |
答 |
禅 |
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禅宗といっても実際は臨済宗の寺院です。臨済宗は鎌倉時代でもそうであったように,室町時代でも幕府権力との結びつきが強かった。義満はこの臨済宗を国家の統制化におき,組織化して寺院に序列をつけました。京都五山・鎌倉五山というのが,その頂点にたつ寺院ですが,名前までは必要ありません。 |
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将軍や大名の近くで芸能や雑務に従事した人々を〔 ① 〕といい,足利義満に仕えた能楽師である観阿弥・世阿弥父子や,足利義政に仕えた作庭師:〔 ② 〕などがいる。 |
答 |
①同朋衆 ②善阿弥 |
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観阿弥・世阿弥父子や善阿弥のように「阿弥」の名前(阿弥号)をもち,権力者に仕え,芸能に従事した人を同朋衆とよびました。「阿弥号」はもともと時宗の僧侶につけられた名前です。 |
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〔 ① 〕は室町時代の禅宗寺院の作庭様式の1つで,水を用いずに砂と石で自然を表現するのが特徴である。戦国時代初期の竜安寺石庭や大徳寺大仙院庭園などが有名である。また建築様式では足利義政の山荘である慈照寺の銀閣や〔 ② 〕は書院造として知られる。 |
答 |
①枯山水 ②東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい) |
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枯山水の庭園として選択肢に登場するのが,竜安寺(りょうあんじ)石庭と大仙院庭園です。(いずれも難問)どちらも京都です。禅宗の世界観を示しており,石をただ並べただけでなく,哲学的な思想を表しています。
例えば竜安寺の石庭には大小15個の石が並べてあります。15という数字は7・5・3を足した数で完全な世界を示す数とされます。古来から中国では奇数は縁起のよい数字とされ,日本でも子ども「七五三」のお祝いをする。 しかしこの石庭はどの位置から眺めても15の石のすべてをみることができないのです。これは人間の世界が不完全な世界であることを意味しているといわれます。
金閣・銀閣もまた禅宗の影響を受けています。金閣は鹿苑寺という寺の境内にあり,銀閣は慈照寺というお寺の境内にある。金閣は3階建て。1階が寝殿造,2階は武家造,3階が禅宗様。銀閣は2階建て。1階が書院造で,2階が禅宗様。どちらも最上階が禅宗様です。
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枯山水の庭園(大徳寺 京都市) ※大仙院ではない |
同左 |
書院造は寝殿造が発達したものです。銀閣のものより,同じ慈照寺の敷地にある東求堂(とうぐどう)の同仁斎という部屋が【史料】として使われます。(選択肢でも出題される)ここは足利義政の書斎(書院)だったところです。
寺院の書斎ではお坊さんが勉強したりする。暗いと勉強できませんから外の明かりが入るように障子がある。本を並べるための違い棚がある。飾り物を置く床の間がある。床の間には掛け軸が飾ってあってお坊さんは絵をみて気分転換。季節の花だって飾られている。疲れたときにはあの栄西禅師おすすめのお茶を飲む。華道だって,茶道だってここから発達したんだ。茶道の茶室も書院造が原型。
茶道,特に侘び茶は戦国期の村田珠光(じゅこう)→武野紹鷗(じょうおう)→千利休と発展していきます。(村田珠光と武野紹鷗とは直接の師弟関係はありません) |
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22 |
水墨画は室町時代初期,〔 〕(『瓢鮎図』)によって開拓され,周文が発展させ,東山期に雪舟(『秋冬山水図』など)が大成させた。 |
答 |
如拙(じょせつ) |
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水墨画の流れは,明兆(みんちょう)→如拙(じょせつ)→周文→雪舟と連なりますが,絵が出題されるのは如拙の『瓢鮎図』と雪舟の『秋冬山水図』(いずれも国宝)でしょう。(雪舟の『四季山水図』(重要文化財)もある)【史料】
雪舟のものが有名で風景画です。如拙の『瓢鮎図』には「ひょうたん(瓢箪)」をもった男と「鮎(なまず あゆではない)」が描かれています。 これは禅問答(臨済宗の問題テキストの1つ)。「ひょうたんでぬるぬるのなまずをつかまえられるか?」答えは人それぞれです。巧い答えを考えてみましょう。 |
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23 |
15世紀,上杉憲実(のりざね)は,下野国(しもつけ,現在の〔 ① 〕県)に〔 ② 〕を再興し,関東の儒学教育の中心となった。 |
答 |
①栃木 ②足利学校 |
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足利学校は室町時代の関東の最高学府でした。まず問われるのは場所です。下野国足利は栃木県。教えたのは儒教。ちなみに上杉家は代々関東管領の職にありました。鎌倉府のナンバー2です。
足利学校(栃木県足利市) |
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24 |
15世紀後半,浄土真宗(一向宗)の〔 ① 〕は越前(〔 ② 〕県)に吉崎道場を,大阪に〔 ③ 〕を建立し,その勢力を拡大した。 |
答 |
①蓮如(れんにょ) ②福井 ③石山本願寺 |
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室町時代,禅宗におされ気味だった浄土教各宗派でしたが,浄土真宗の復興を果たしたのが蓮如です。一向宗という呼称もありますが,信者以外の人が念仏宗派すべて(ひたすら,つまり一向に念仏をとなえる)を混同した呼び名です。浄土真宗信者や親鸞・蓮如側からすれば,「やめてくれ」というものでした。一向一揆も一揆を起こした側からではなく,周囲がそうよんだにすぎません。
蓮如は加賀の富樫氏(政親)の招きで越前の吉崎に道場を構え,布教活動をおこないます。越前は福井県。曹洞宗の永平寺も福井県ですから一緒におぼえて下さい。吉崎に形成されたのは門前町ではありません。寺内町です。寺の境内に町が形成される浄土真宗独特の宗教都市です。
蓮如の活動で浄土真宗は北陸・東海・近畿地方に広がり,それは同時に一向一揆多発地帯ともなりました。そこで守護大名:富樫正親は信者の勢いに不安を感じ,逆に弾圧に転じます。蓮如は吉崎を追われ,隠居ののち大坂(阪)の石山を住まいとします。これがのちの石山本願寺です。
1488年,北陸の信者が国人(地元武士)と結託し,富樫政親に対し,一揆を決行します。加賀一向一揆です。結果,富樫政親は自刃。以後100年,加賀は本願寺(浄土真宗)が支配するようになりました。
では100年後,本願寺を屈服させ,加賀を支配した人物はだれか?織田信長です。1580年,石山本願寺の降伏後のことです。
石山本願寺の跡地に建てられたのは大坂城ですね。秀吉はのちに浄土真宗門徒のために京都に本願寺を再興させています。これが現在の西本願寺です。関ヶ原の戦いでも西本願寺は豊臣方についています。
家康が天下を取ると家康は,浄土真宗の勢力を削ぐために,本願寺を分裂させ東本願寺を建てさせています。このような背景から,幕末でも西本願寺は朝廷方(豊臣氏は朝臣であった),東本願寺は幕府方につきます。幕府方の新撰組が拠点を西本願寺に置いたのは嫌がらせだったのでしょう。 |
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25 |
南蛮人の往来が活発になると,イエズス会は〔 ① 〕とよばれる教会や教育施設である〔 ② 〕・〔 ③ 〕(大学)を設置した。また活字印刷も伝えられ,『天草版平家物語』など〔 ④ 〕とよばれるローマ字の書物が刊行された。 |
答 |
①南蛮寺 ②セミナリオ ③コレジオ ④キリシタン版 |
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当時の日本におけるキリスト教関連の用語。セミナリオは「セミナー」,コレジオは「カレッジ」です。 |
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26 |
千利休は簡素を基本とする〔 〕を大成した。 |
答 |
侘(わ)び茶 |
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茶道(茶の湯)は戦国期に発展します。上流階級のたしなみとされました。一般庶民の遊びというよりもお金もちの遊びです。ですから競って高価な茶道具を集めてみたり,書院や茶室に飾る絵を購入したり,茶碗も中国からの高価な輸入品を使用したりします。
村田珠光にはじまる「侘び茶」とはこういう豪華さを捨てることにあります。茶室は書院ではなく,狭い質素な草ぶきの別棟。畳は1・2畳敷かれているだけで,入り口も狭い。入り口を狭くしているのは武士が刀をもって入れないようにするためです。そして亭主と客が静かに時間を過ごす。簡素な道具,茶碗も素朴な国産の陶器を使います。形のいびつな茶碗もこれまたよしとされました。茶を差し出すときもお盆で運んだり,台を使ったりしません。そのまま畳に直に出します。
このように豪華な道具や派手な趣向を凝らさない簡素な茶の湯を「侘び茶」といいます。 |
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現存する天守閣のうち,国宝に指定されているものには,〔 ① 〕城ともよばれる姫路城(兵庫県),現存する最古の〔 ② 〕城(愛知県),江戸時代井伊家の居城であった〔 ③ 〕城(滋賀県)などがある。 |
答 |
①白鷺(しらさぎ) ②犬山 ③彦根 |
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姫路城の別名もおぼえておきたい。犬山城・彦根城も場所とともに重要。【位置】国宝では長野県の松本城もありますが,出題例としては少ない。
築城法は山城→平山城→平城へと変化していきます。山城はいうまでもなく,防衛面で有利だからです。ただし物資の輸送に不便です。兵も多く収容できません。城自体は小さくなってしまいます。
戦国時代までは城はやはり防衛面を考えて山城でした。城下町とは文字通り,城の下に広がる町です。
戦国末期から安土桃山時代になり,ある程度領地の統一が進んでいくと家臣団が増え,小さな山城では対応できなくなる。たくさんの兵糧を蓄えることができる大きな城が必要になり,それらを仕入れるための経済・交通の要地に城を建てるようになりました。大きな城は当然山より平地が建てやすい。しかし平地では防御が弱くなる。その防衛面での弱点を補ったのが鉄砲です。一発完結タイプの当時の鉄砲は守りに向いた武器です。次の弾を撃つまで時間がかかるからです。 |
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琉球の古代歌謡を集めたものを『〔 ① 〕』といい,文字を持たなかったアイヌでは口承文学の『〔 ② 〕』が発達した。 |
答 |
①おもろそうし ②ユーカラ |
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江戸時代,琉球王国で『おもろそうし』という,伝説・民話題材にとった歌謡集が編纂されました。主にひらがなで書かれています。
一方アイヌ民族は文字をもたなかったため物語などは口承で伝えられてきました。アイヌ語で叙事詩を『ユーカラ』といいます。成立時期ははっきりとわかっていませんが,江戸時代成立前後だとされています。(異説はあり)また明治時代,北海道出身のアイヌ人女性:知里幸恵(ちりゆきえ)が,ユーカラを文字で残そうと考えた金田一京助に協力して,『アイヌ神謡集』を完成させました。これは難です。 |
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江戸時代初期の文化には,日光東照宮の〔 ① 〕造,桂離宮(京都)の〔 ② 〕造,〔 ③ 〕が描いた『風神雷神図屏風』などがある。 |
答 |
①権現(ごんげん) ②数寄屋(すきや) ③俵屋宗達(たわらやそうたつ) |
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江戸時代初期の文化とは寛永期の文化です。寛永=家光のころの文化だと思って下さい。元禄=綱吉と同じように,知っておいても損ではありません。
権現造(ごんげん)とは新しい神社仏閣の建築様式です。例は1つだけ知っておけばよい。日光東照宮です。日光東照宮に祭られている人は知っていますね。徳川家康でした。徳川家康は死して神となり,その名を東照大権現とよばれた。よって東照宮=権現造です。
一方,京都では茶室建築と書院造が融合した数奇屋造が登場します。数奇屋は「好きな屋」で,「好みに任せた建築」の意味。 代表建築は後陽成(ようぜい)天皇の弟:智仁(としひと)親王の別邸である桂離宮(京都)。
絵画では1つ。俵屋宗達の『風神雷神図屏風』。日光東照宮・桂離宮・『風神雷神図屏風』【史料】,この3つでここは十分。 |
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元禄時代(元禄文化),芸能では江戸の市川団十郎や上方の坂田藤十郎などの〔 ① 〕役者が活躍した。絵画では〔 ② 〕が『燕子花(かきつばた)図屏風』を描いている。 |
答 |
①歌舞伎 ②尾形光琳(おがたこうりん) |
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出雲の阿国がはじめた歌舞伎踊りは元禄時代には男がすべての役を演じるようになりました。ここまでの歌舞伎の変遷は阿国歌舞伎→女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎→元禄歌舞伎。女歌舞伎や若衆歌舞伎は風紀上の理由で幕府が禁じました。若衆とは少年のことです。しかたなしに男ばっかりでやることにしたのが野郎歌舞伎。そして現在の形に大成されたのが元禄時代というわけ。
人気を博した役者が江戸の市川団十郎と上方の坂田藤十郎。2人を区別する問題はあまりみませんが,迷ったら「坂」(坂田)=大坂(阪)=上方と思い出せばよい。また寄席(よせ)での落語も元禄期から親しまれました。
絵画では菱川師宣の『見返り美人』は必須。【史料】浮世絵ですが,版画ではなく肉筆です。そこにプラスして尾形光琳をおぼえておけばよいでしょう。寛永期の俵屋宗達としっかりと区別できるように。
話はそれますが,松尾芭蕉の句「静かさや 岩にしみいる 蝉の声」を詠んだのは山形県の立石寺(りっしゃくじ)であることが何度か出題されています。 |
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元禄期に菱川師宣がはじめた浮世絵は,田沼期に鈴木春信が〔 ① 〕とよばれる多色刷りの浮世絵版画を創始した。寛政期には大首絵が流行し,〔 ② 〕(『ポッペンを吹く女」)や〔 ③ 〕(役者絵)が人気を博した。また化政期の〔 ④ 〕(『東海道五十三次』)や天保期にかけての〔 ⑤ 〕(『富嶽三十六景』)は風景画を描いた。 |
答 |
①錦絵 ②喜多川歌麿 ②東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく) ④歌川広重 ⑤葛飾北斎 |
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浮世絵を多色刷りの版画としたのは鈴木春信。元禄期の菱川師宣が浮世絵版画をはじめた人ですが,彼の場合一色(黒)の版画に筆で着色したものでした。(『見返り美人』は版画ではなく肉筆)また鈴木春信に学び,銅版画をはじめた人物に司馬江漢という人物がいますが,これは難問。
以後の浮世絵には,大首絵(顔が以上に強調されて大きい人物画)と風景画にわけてそれぞれ2人ずつおぼえておけばよい。いずれも絵の【史料】写真をみておくこと。 |
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小説では,元禄期に井原西鶴が浮世草子をはじめ,田沼期には〔 ① 〕の『雨月物語』に代表される読本が登場し,化政期に栄え,滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』を書いた。また化政期には滑稽本もあらわれ十返舎一九のほか〔 ② 〕が『浮世風呂』などを書いた。 |
答 |
①上田秋成 ②式亭三馬 |
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儒学者の〔 ① 〕は徳川家康に登用され,以後林家の朱子学が幕府で学ばれるようになった。明の王陽明によってはじめられた〔 ② 〕学には,近江聖人とよばれた〔 ③ 〕や大阪町奉行所与力であり,のちに反乱を画策する〔 ④ 〕などがいた。また直接,孔子・孟子の教えに学ぼうとする儒学の一派を〔 ⑤ 〕といい,〔 ⑥ 〕は『政談』を書いて将軍吉宗に幕政の改革を説いた。 |
答 |
①林羅山 ②陽明 ③中江藤樹(とうじゅ) ④大塩平八郎 ⑤古学 ⑥荻生徂徠(おぎゅうそらい) |
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朱子学は宋(南宋)で生まれた儒学の一派です。理性や大義名分を重んじた。大義名分とは身分秩序です。(分=身分をわきまえる)そのため江戸幕府に重用され,幕府の学問となりました。林羅山を祖とする林家や新井白石がその代表です。
一方,陽明学は明の時代に朱子学を批判しておこります。朱子学は「知」(理性でも,理屈でも,理論でも,知識でも,学問といってもよい)が「行」(行動)より先行します。だから形式的・保守的になりやすい。あり得べき姿が先にある。そして「理」と「行」は別物と考えます。(二元論)陽明学はこれらをまるっきり否定するのです。
「知」は「理」と切り離すことはできない。(知行合一)知ると知らざるを認識し,純粋な心に照らし合わせて善悪を判断し,正しいことを実行する。進歩的で開明的です。だから幕府から危険視されます。江戸時代初期の中江藤樹は「近江聖人」と称えられ,その平等思想はすべての階層に受け入れられました。天保の大飢饉の際,反乱を画策する大塩平八郎は陽明学者の代表例です。
朱子学にしても陽明学にしても本来の孔子の教えからかけ離れている。その時代が生んだ解釈の仕方である。として本来の儒学に立ち戻ろうと考えたのが古学です。解釈ではなく,本来の孔子・孟子の教えに立ち返るのです。だから「古」学。吉宗の側近:荻生徂徠か有名。古学はやや難。 |
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34 |
水戸藩主:〔 ① 〕は朱子学を基盤として様々な学問を取り入れ,『〔 ② 〕』の編纂に着手した。 |
答 |
①徳川光圀(みつくに) ②大日本史 |
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水戸藩は御三家ですので,徳川家です。よって基本となるのは大義名分(身分秩序)を説く朱子学です。ここに国学・史学・神道などさまざま学問を研究して,日本通史を編纂したのが『大日本史』です。徳川光圀は寛永から元禄期の人物。200年余りかかって,完成したのは明治時代になってからのこと。
しかしこの間,歴史を通じての様々な学問の研究が融合し,「水戸学」とよばれるようになると,幕府と朝廷の上下関係は朝廷の方が上だという結論に達してしまった。「尊王攘夷」という言葉も水戸学から生まれた言葉ですし,桜田門外の変で井伊直弼を暗殺したのも水戸藩浪士でした。水戸学は明治維新の原動力となった。 |
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松平定信は湯島にあった聖堂学問所を〔 ① 〕として幕府の学問所とした。また朱子学を幕府の官学として幕府の学問所では朱子学以外の教授を禁じた。これを〔 ② 〕という。 |
答 |
①昌平坂学問所 ②寛政異学の禁 |
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寛政異学の禁で禁止された異学とは,正学=朱子学に対して,異学=陽明学や古学のことです。蘭学・国学ではありません。【落とし穴】
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湯島聖堂(東京都文京区) |
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日本古来の古典を研究する国学は天明・寛政期に本居宣長が大成し,化政期には復古神道を唱えた〔 〕がでた。 |
答 |
平田篤胤(あつたね) |
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古学と国学がよくゴチャゴチャになる。古学は儒教の原点回帰です。国学は古学のこの姿勢や方法に影響を受けて,日本文化に応用した。儒学や仏教の影響を受ける前の本当の日本文化とは何か?を日本の古典を研究することでみつけだそうということです。 本居宣長が大成者とされます。
本来の純粋な日本を追求すると避けては通れないのが神道であり,皇室です。国学からこの分野を復活させ発展させようとしたのが「復古神道」です。水戸学とともに幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えることになります。 |
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前蘭学の科学には,『発微算法』を著し和算を大成した〔 ① 〕がいる。徳川吉宗が漢訳洋書輸入の禁を緩和すると享保期より蘭学がはじまった。田沼期,杉田玄白と〔 ② 〕らはオランダの人体解剖書:『ターヘル=アナトミア』を和訳し『解体新書』を著した。同じころ〔 ③ 〕はエレキテルや寒暖計を発明している。 |
答 |
①関孝和(せきたかかず) ②前野良沢 ③平賀源内 |
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『解体新書』の刊行は1774年ですから,アメリカ独立戦争(1775~)に近い。独立戦争時の日本の政治家は田沼意次ですから,『解体新書』は田沼期であることをおさえておく。【時期】
杉田玄白は『ターヘル=アナトミア』の翻訳など蘭学草創期の苦労を『蘭学事始(ことはじめ)』という回想録に書いています。これは難。 |
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ドイツ人医師:シーボルトは長崎に〔 ① 〕を開き,弟子には蛮社の獄で処罰された〔 ② 〕らがいる。また蘭医の〔 ③ 〕は大阪に〔 ④ 〕を開き,その弟子には福沢諭吉らがいる。 |
答 |
①鳴滝塾 ②高野長英 ③緒方洪庵(おがたこうあん) ④適塾 |
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蘭学塾はシーボルトの鳴滝塾と緒方洪庵の適塾をおぼえておけばよいでしょう。ただし著名な弟子を【セット】でおぼえること。
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適塾(大阪市中央区) |
1828年,シーボルトが帰国する際,所持品の中に日本地図(海外持ち出し禁止)がみつかったことから,これを送った役人が処罰。シーボルト自身も国外追放の上,再渡航が禁止されました。この事件をシーボルト事件といいます。(難)このときの日本地図は伊能忠敬がつくった『大日本沿海與地全図』の縮小版です。 |
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享保期に〔 ① 〕は町人道徳である〔 ② 〕を説き,宝暦期(18世紀中ごろ)に八戸の医師:〔 ③ 〕は『自然真営道』を著して万人が農業に従事する理想の世を説いた。 |
答 |
①石田梅岩(ばいがん) ②心学 ③安藤昌益(しょうえき) |
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石田梅岩は少し難ですね。彼の町人道徳を心学といいます。京都の出身です。安藤昌益は発展編では必須。彼の理想は「万人直耕の自然世」で,すべての人が働く農民の平等な世の中です。封建社会を否定し,共産主義を先取りしたような思想です。 |
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40 |
庶民の教育機関には寺子屋,諸藩の藩士の子弟は〔 ① 〕に学んだ。私塾も各地で開かれ,〔 ② 〕郊外にあった吉田松陰の〔 ③ 〕には多くの塾生が集まった。 |
答 |
①藩校 ②萩 ③松下村塾 |
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藩校では水戸藩の弘道館で水戸学が学ばれていたこと。(難)私塾では何といっても松下村塾は忘れてはいけない。 |
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41 |
天保の改革以後,〔 〕とよばれる印刷物が庶民の情報伝達手段として大量に出版された。 |
答 |
瓦版(かわらばん) |
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瓦版とは木版で刷られた当時の新聞。ニュース速報です。「読売」ともよばれた。明治時代になって新聞が現れると姿を消しました。
書籍も木版で刷られて大量生産されました。しかし書籍が庶民にとっては高価であったため,民衆は貸し本屋で書籍を借りて読書しました。 |
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42 |
明治政府は神仏分離令を発して神社を寺院から独立させると,仏教を排斥する〔 〕が全国でおこなわれた。 |
答 |
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく) |
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神道国教化は明治政府が早速とりかかった制度の1つです。古くから続いてきた神仏習合を禁止し,神仏分離令を出した。すると全国で民衆が寺院・仏像・経典の破壊行動に出た。これを廃仏毀釈といいます。「毀釈」は「釈迦を毀(壊)す」という意味で,これは法令ではありません。仏教は神道から分離されたわけで,禁止されたわけでもありません。神仏分離令とセットでおぼえておきましょう。ただし語句を書きなさいという問題は出ません。
一方,五榜の掲示でキリスト教は禁止されました。これは1873年に諸外国の抗議で解禁されます。1873年とは岩倉使節団が帰国した年ですね。(明治6年の政変の年でもある)条約改正の条件の1つとして当然,キリスト教の解禁が出されたからです。 公式に認められたのは大日本帝国憲法で,「信教の自由」(第28条)が規定されてからのことです。 |
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43 |
〔 ① 〕年,明治政府は学制を発布して〔 ② 〕の制度を模範とした学校制度を導入した。1903年,義務教育では文部省著作の〔 ③ 〕が用いられた。 私立大学も創立され,〔 ④ 〕の慶応義塾,〔 ⑤ 〕の同志社英学校,〔 ⑥ 〕の東京専門学校,〔 ⑦ 〕の女子英学塾などが生まれた。 |
答 |
①1872 ②フランス ③国定教科書 ④福沢諭吉 ⑤新島襄 ⑥大隈重信 ⑦津田梅子 |
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1872年の学制は年代とともに必須。フランス式であったことは難。授業料・費用は保護者もちであったことや農村の働き手が奪われることなどから反対一揆がおきました。
大学といえば当時は国立大学で「帝国大学」とよばれていました。私立大学は大正時代に正式に認可されるまでは大学とはされず,「専門学校」として扱われます。大隈重信創立の早稲田大学が当初「東京専門学校」といったのはそのためです。
よく出されるのは義務教育について。教科書は日露戦争前の1903年,国定教科書制度が成立します。 当時は文部省です。義務教育の年数変遷は4年(1886)→6年(1907)→9年(1947 教育基本法)。1907年時点で就学率は97%。つまり女子もほとんど通学していたということが大切なところ。【落とし穴】
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森有礼(ありのり)らは啓蒙思想や近代学術の発表のため,〔 〕を発行し,文明開化に大きな影響を与えた。 |
答 |
明六雑誌 |
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森有礼らを中心に近代西洋思想や啓蒙思想を広めようとつくった学術団体を「明六社」といいます。明治6年に結成したことから名づけられました。この明六社が発行した学術雑誌を「明六雑誌」といい,福沢諭吉なども参加しています。文明開化の思想面に大きな影響を与えます。(自由民権運動ではない。 【落とし穴】) |
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明治時代,学問・科学の分野で「お雇い外国人」とよばれる外国人教師が多数来日した。札幌農学校教頭の〔 ① 〕(アメリカ),フォッサ=マグナを指摘した〔 ② 〕(ドイツ),動物学者の〔 ③ 〕(アメリカ)などが知られている。また建築では〔 ④ 〕(イギリス)の設計によって鹿鳴館や正教会の教会:ニコライ堂(東京)が建てられた。 |
答 |
①クラーク ②ナウマン ③モース ④コンドル |
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ニコライ堂(東京復活大聖堂) |
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明治時代の科学では,日本の細菌学の父とされる〔 ① 〕は破傷風やペスト菌を発見し,その弟子の〔 ② 〕は赤痢菌を発見した。〔 ③ 〕は日本兵がよくかかる脚気(かっけ)の予防に有効なオリザニン(ビタミンB1)を抽出した。また〔 ④ 〕は原子構造の研究をおこない土星型原子模型の理論を発表した。 |
答 |
①北里(きたさと)柴三郎 ②志賀潔 ③鈴木梅太郎 ④長岡半太郎 |
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細菌学は北里柴三郎(破傷風・ペスト)→志賀潔(赤痢菌)→野口英世(黄熱病)です。野口英世の終生の研究となった黄熱病の研究は大正時代ですので注意。
「脚気」という病気があります。ある栄養素が欠乏するとこの病気にかかります。「かっけ」と読みます。心臓病や神経障害をきたす,死にいたる病です。しかし決して不治の病ではありません。
白米食が広まりはじめた江戸時代,まずは江戸の将軍家や上級武士の間で脚気が広まります。江戸幕府後半の将軍が病気がちで短命であったのはこの脚気が原因だとされます。やがて庶民にも広まります。理由はわかりませんでしたが,経験的に蕎麦(そば)を食べると回復するということがわかっていたため,江戸でそば食が流行しました。現在も関西でうどん,関東でそばが好まれる理由はここにあります。しかし脚気の原因が究明されたわけではありませんでした。
江戸時代の後期から明治時代にかけて,西洋医学の専門家が日本にやってくるわけですが,脚気についてはヨーロッパでほとんど症状がないためこの原因がわかりません。この問題に最初に本格的に取り組んだのが創設されて間もない日本海軍でした。当時海軍では下級士官に脚気が多く,上級士官にはほとんどみられませんでした。軍はこれを食事の違いだと考え,兵食を当時はまだ一般になじみのうすい洋食に切り替えたのです。パンと肉類(タンパク質)を多く摂取する食事です。すると脚気の発生率がぐんと下がった。しかしこのパンが当時の日本人には不人気でした。すぐにパンは麦飯や白米に変わったのですが,日露戦争ごろになると調理が簡単で,肉類と野菜のバランスよい食事としてカレーライスを採用したのです。イギリスを参考にしたといいます。イギリスはインドを植民地にしていましたから,インド伝来のスパイス料理がイギリスを経由して日本でアレンジされたのでしょう。また海軍では長い航海で曜日の感覚を失わないように毎週土曜日の夕食にはカレーが出されたようです。こうして海軍によって脚気防止のため食されたカレーライスが国民の中に浸透していったのです。国民病が国民食を産んだ。
海軍では食事によって脚気の改善はみられたものの日露戦争は壮絶な戦争でした。特に陸軍は悲惨でした。本来ロシアとの戦争は負けていてもおかしくなかった。それを戦術と外交で五分五分にもっていき,そこから半歩前に出た勝ちを日本はおさめたに過ぎなかった。武器・弾薬も最小限で,軍の司令本部は陸軍兵に対して,食の面では白米を送るのが精一杯でした。結果,戦死者とともに脚気による死亡者も大量に出た。脚気の原因究明は急務となりました。その結果,鈴木梅太郎という学者がビタミンB1の欠乏が脚気を引き起こすことを発見。そして玄米の糠にこそそれが含まれていたのです。またパンの原料である麦や蕎麦にはビタミンBが多く含まれている。だから西洋には脚気がなかったのです。
東大教授:長岡半太郎はあまりに研究熱心なため日露戦争があったことを知らなかったという逸話をもつつわものです。 |
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明治時代,日本画の分野ではアメリカ人の〔 ① 〕と〔 ② 〕が,東京美術学校を設立した。西洋美術では『読書』・『湖畔』などを描いた〔 ③ 〕や『老猿』などの作品を残した彫刻家の〔 ④ 〕らがいる。 |
答 |
①フェノロサ ②岡倉天心 ③黒田清輝(せいき) ④高村光雲 |
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フェノロサと岡倉天心は必ず【セット】で。ただし両者ともこれという作品を書いたわけではありません。むしろ研究家。美術作品が出題されるのは西洋画の方です。【史料】 |
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文学では〔 ① 〕が写実主義を主張して文学論:『小説神髄』を著し,〔 ② 〕が言文一致体で『浮雲』を写実的に書いて近代文学の先駆となった。 |
答 |
①小説神髄 ②二葉亭四迷 |
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『小説神髄』は小説とは何かという文学論です。小説ではありません。江戸時代の物語はストーリー重視で,その筋も突拍子もないものや「勧善懲悪」ものが多かった。『小説神髄』でまず矢面に立たされたのが滝沢馬琴です。近代文学はこれと一線を画すべく,人情や風俗をありのままに描写しようと写実主義を提唱します。 ストーリー重視よりで,心理を重視する。
それならどんなのがそうなのか?坪内逍遥は批判されますが,ならばということで自ら例を示します。『当世書生気質』という記念すべき写実主義第一作です。「当世」は「このごろの」,「書生」は「学生」です。どこにでもいそうな学生の生活と会話から,複雑な人間の心理を描こうとした。ところが物語は劇的な運命に翻弄される登場人物たち。あぁ悲しいかな,坪内逍遥は江戸的物語から脱しきれていなかった。物語の内容は君たちには早すぎるかな。うん早すぎる。
坪内逍遥の無念を晴らしたのが二葉亭四迷です。『浮雲』は江戸色を排し,写実主義の描写を実現。さらに言文一致(日常使われている口語体で書くこと)で近代小説の祖といわれます。 |
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ロマン主義文学には,〔 ① 〕の『舞姫』,〔 ② 〕の『たけくらべ』,〔 ③ 〕の詩集:『若菜集』などがある。〔 ③ 〕はのちに小説を手がけ明治期の部落問題を題材とした『破戒』で自然主義作家となった。これに対し,〔 ④ 〕は反自然主義の立場で『坊ちゃん』・『吾輩は猫である』などを発表すると自然主義文学は衰退していった。 |
答 |
①森鷗外 ②樋口一葉 ③島崎藤村 ④夏目漱石 |
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日清戦争ごろになるとロマン主義文学が生まれます。近代化が進んでいく中で,封建道徳からの解放,自我・個性の重視,感情がより強調されます。森鷗外は『舞姫』をはじめドイツを舞台にした作品をロマン主義の立場で書いています。樋口一葉の『たけくらべ』,島崎藤村の『若菜集』(詩集),与謝野晶子の『みだれ髪』(歌集)などが有名です。
日露戦争ごろになると,社会的矛盾や客観的描写を特徴とした自然主義文学がおこります。自然主義の「自然」とは「自然科学」の「自然」です。ロマン主義の反発から現実を客観的に描く。(たいていは暗いものになります)
また逆にロマン主義を受け継ぎ,自然主義に立場に反対した文学を反自然主義文学といいます。自然主義文学を否定する文学ひっくるめていいますので,文学の主流としてはこちら側です。夏目漱石がそうだといえばわかりやすい。
注意したい作家は島崎藤村と森鷗外。島崎藤村はロマン主義詩人から小説に転じて自然主義作家となりました。部落差別を題材にした『破戒』は重要。「破壊」ではありません。「戒めを破る」という意味。この「戒め」とは何かがこの小説の肝。そして森鷗外はロマン主義作家ですが,のちに自然主義が誕生するとこれを否定する立場をとったことから反自然主義に分類されることになります。 |
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明治時代,韻文では〔 ① 〕が写生にもとづく俳句・短歌を提唱して俳句雑誌:『ホトトギス』を刊行し,〔 ② 〕は歌集:『みだれ髪』や日露戦争を批判する長詩:『君死にたまふことなかれ』を雑誌:『明星』に発表,〔 ③ 〕は歌集:『一握の砂』を残した。 |
答 |
①正岡子規 ②与謝野晶子 ③石川啄木(※) |
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俳優で自由党の活動家であった川上音二郎は世情を風刺した〔 ① 〕とよばれる流行歌で人気を博した。洋楽では〔 ② 〕が『荒城の月』や『花』などを作曲した。 |
答 |
①オッペケペー ②滝廉太郎 |
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オッペケペーは当時の流行歌で,その曲調はオッペケペー節ともいわれます。明治時代のラップといってもいいでしょう。歌詞の内容は当時の政治批判です。川上音二郎のオッペケペーが人気を博すのは自由民権運動のころですから,これとあわせておぼえておきましょう。【時期】 |
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大正時代,自然主義に反発した反自然主義を継承したのが白樺派・耽美派があった。白樺派には〔 ① 〕(『暗夜行路』・『城の崎にて』)・〔 ② 〕(『友情』)らが,耽美派には〔 ③ 〕(『細雪』)らがいた。大正中期以降,白樺派にかわって〔 ④ 〕(『羅生門』)が属する新思潮派が文壇の主流となった。 |
答 |
①志賀直哉 ②武者小路実篤 ②谷崎潤一郎 ④芥川龍之介 |
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明治時代後期,自然主義文学に対抗して反自然主義文学から様々なジャンルが生まれます。その代表例が白樺派。雑誌『白樺』からきています。自然主義文学が人間の暗い面,社会の矛盾を描くのに対して白樺派は逆に「人間バンザイ」です。理想主義・人道主義(博愛・平等・平和)を謳うのです。ここにも大正デモクラシーの空気が影響しています。中心になったのは武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ・むしゃのこじさねあつ)や志賀直哉,もう1人挙げれば有島武郎(たけお)。すべて学習院(大学)出身です。
耽美派(たんび)は「美に耽(ふけ)る」で,主観的な美を追求する。道徳より美です。芸術といってもよい。この流れは森鷗外(ロマン主義→反自然主義)→永井荷風→谷崎潤一郎という関係です。(永井荷風は難)
もう1つ新思潮派というのもあります。これも雑誌(『新思潮』)からきた名前です。夏目漱石の影響を受け,漱石自身が絶賛した芥川龍之介に代表されます。楽天的で人間バンザイの白樺派,美を重視する耽美派と比べれば現実的・客観的なのが特徴です。 |
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53 |
大正時代の思想家には,マルクス経済学を研究し『貧乏物語』を書いた〔 ① 〕,『善の研究』を著した哲学者:〔 ② 〕,民俗学者の〔 ③ 〕(『遠野物語』)らがいる。 |
答 |
①河上肇(はじめ) ②西田幾多郎(きたろう) ③柳田国男 |
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54 |
大正時代から昭和初期の文化は〔 〕文化とよばれる。 |
答 |
大衆 |
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大正文化は大衆文化。語呂がよい。一般人が文化の担い手となった。1907年に義務教育が6年となり,就学率が97%をこえました。国民のほとんどが文字を読めるようになり,教育が隅々にまでいきとどいたのが原因でしょう。
マス=メディアが発達し,発行部数が100万部をこえる新聞もあらわれます。また1925年にはラジオ放送が始まりました。多くの出版社も設立され,雑誌や円本(1円1冊)も発行されました。
女性の社会進出が増加し,女性の服装の洋装化がすすみます。デパートでお買い物,家では洋食が普及し,カレールーが販売され,カレーライスが国民食となっていきました。
住宅では文化住宅が登場します。当時の文化住宅というのは,洋風生活を取り入れた和洋折衷住宅のことです。電化が進み,一般家庭に電灯が普及します。都市部では水道やガスも供給されるようになりました。関東大震災後は鉄筋コンクリートの建物が増加します。路面電車も各都市で営業されるようになりました。(日本初の路面電車営業運転は1895年の京都市)
また大正時代に無声映画(サイレント)が,昭和初期に有声(発声)映画(トーキー)が上映されます。 |
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1935年,東大教授で貴族院議員であった〔 ① 〕が,〔 ② 〕を唱えたため公職を追放された。 |
答 |
①美濃部達吉(みのべたつきち) ②天皇機関説 |
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天皇機関説とは,天皇を個人としてとらえず,国家を法人(会社)としてとらえ,天皇をその最高機関とする考え方です。したがって天皇は主権者ではない。対する天皇主権説では天皇は国家の統治権をもっています。天皇機関説は統治権は国家という法人がもっているのです。天皇はその決定を行使する最高機関である。天皇は国家の一部であるという考え方。
まぁこれも政党政治が機能していて,議会が重視されていたころはよかったんだけども,軍部が統帥権をかざして発言力をもって天皇を絶対視しはじめると,旗色が悪くなってしまって美濃部は公職を追放されてしまった。昭和天皇自身は天皇機関説を支持していたといわれます。 |
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1941年,従来の小学校が改組され,〔 〕が発足し,国家主義的な教育がおこなわれた。 |
答 |
国民学校 |
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小学校というのがなくなり,新たに国民学校という制度に改組されました。「国民学校」という言葉があれば,太平洋戦争中限定用語。【時期】教育内容は,例えば天皇の祖先が国土を創造したとか,その日本がいかに他民族より優れているとか,戦争での軍人の手柄話とか,領土拡大の歴史とか・・・。 |
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昭和初期,西洋建築の屋根に瓦を敷いた〔 〕様式のビルが流行し,朝鮮や満州にも同様の建築を残した。 |
答 |
帝冠 |
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鉄筋コンクリートの西洋建築の屋根に日本風の瓦を敷いた和洋折衷の様式を帝冠建築といいます。現在も神奈川県庁などいくつかの県庁・市庁として残っています。また日本統治下の朝鮮・満州にも当時の建物が現存しています。
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神奈川県庁 |
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