1 |
〔 ① 〕石器を使用していた約1万数千年前までを〔 ② 〕時代,その後,〔 ③ 〕石器を使用し農耕・牧畜がはじまった時代を〔 ④ 〕時代という。 |
答 |
①打製 ②旧石器 ③磨製 ④新石器 |
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旧石器時代は世界共通。その後,世界は新石器時代となり農耕開始。日本は縄文時代で農耕はなし。日本の農耕は次の弥生時代から。これを徹底させる。 |
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2 |
古代エジプト文明では,測量術が発達し,ナイル川の氾濫を予測するために〔 ① 〕暦を使用した。一方,メソポタミア文明では〔 ② 〕暦が使用され,バビロニア王国の〔 ③ 〕王が刑法中心の法典を残している。 |
答 |
①太陽 ②太陰 ③ハムラビ(ハンムラビ) |
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エジプトの太陽暦に対し,メソポタミアの太陰暦。メソポタミアでは世界最古の法律がつくられる。中でもハムラビ法典は「目には目を」(同害復讐法)の刑法で有名。当然,くさび形文字で刻まれている。
これら古代文明がおこったのはすべて日本の縄文時代であったことに注意。【時代区分】 |
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3 |
古代ギリシャには,〔 ① 〕とよばれる都市国家が誕生し,中でも民主政治をおこなった〔 ② 〕が栄えた。〔 ① 〕は4年に一度〔 ③ 〕競技大会を開催し,同じギリシャ人としての同胞意識を強めた。
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答 |
①ポリス ②アテネ ③オリンピア(オリンピック) |
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古代地中海の文明では紀元前4世紀まで統一した国家が成立しなかった。人々は都市単位で活動し,主に海上貿易に携わりました。これは地中海沿岸の土壌が,石灰岩質で大量の穀物栽培に適していなかったため,大きな人口を支えることができなかったからです。
紀元前8世紀ごろからギリシャ地方ではポリスとよばれる都市国家がたくさん形成されますが,中でもアテネとスパルタが強国として知られていました。アテネは民主政治を取り入れた国家として,スパルタは軍国主義の国家として知られています。しかし同じギリシャ語を話し,同じ神々を信仰することから,ポリス同士の同朋意識は強かった。
4年に1度のオリンピックは紀元前8世紀からすでに始められており,陸上競技やレスリングがおこなわれた。たとえそれまで交戦していても,オリンピック開催中は休戦するという暗黙の了解もありました。オリンピックの優勝者の鍛え抜かれた肉体は,ギリシャ人の賞賛の的となり,均整の取れたその姿は理想の人間像として彫刻に残されます。神々の姿すら人間の理想像として彫刻化されたのです。
14世紀にはじまるルネサンスが追求した人間らしさの手本となったのが,このギリシャ文化だったのです。 |
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4 |
イタリア半島中部の都市国家であった〔 〕は,紀元前3世紀にイタリア半島を統一し,共和政を実施した。紀元前1世紀には帝国となり, その領土は2世紀ごろに最大となった。
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答 |
ローマ |
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ギリシャでポリスが形成されたころ,イタリア半島でもさまざまな民族が都市国家を形成しました。その中で有力な都市国家がローマです。建国者「ロムルス」の名前から名づけられました。しばらくは王政をしいてしましたが,少数の貴族が政治を担当する共和政に移行します。現在の大統領職にあたる執政官も任期つきの2名,彼らは元老院とよばれる議会から選出され,徹底して独裁を排除するシステムで成りたっていました。これを王による専制政治に対して共和政といいます。現在も世界中にある君主の存在しない共和国のはじまりです。
ギリシャを含め他の都市国家と異なっていた点は,領土拡大を実行したことです。もともと領土的野心があったわけではなく,周辺諸国から度々侵略を受けたため,防衛的手段として逆に多民族を征服した。
ローマのえらいところは,「法」を整備したことです。ローマ法に従うことを前提に,住民の政治・文化・信仰の自由を許可した。こうして法治国家を最初にはじめたのがローマでした。
紀元前3世紀にはイタリア半島を統一し,前2世紀には地中海の制海権を掌握。 前1世紀には,ヨーロッパ北部(主にフランス)など内陸部にも遠征します。
領土が拡大されるにつれ,今度は統治が難しくなってきます。今と違って交通手段も通信手段も限られていますから,辺境で何か問題があってもすぐに対応できない。しかも中央ローマの意思決定は元老院の話し合いによるもので,時間がかかる。
そこでローマは帝政の道を模索します。政権を皇帝が一手に握る。そしてすべての意思決定を皇帝にゆだね,政治的・軍事的行動を速やかに実行に移すのです。帝政への移行には少し問題もおこりましたが,紀元前1世紀末,ローマは「ローマ帝国」となりました。そして2世紀ごろ,優秀な皇帝が次々とあらわれ,全盛期を迎えました。
さて2世紀というと,中国では漢の時代です。ローマ帝国と漢が2世紀に同時に存在していたこと。そしてこの2国を結ぶ交易路がシルクロードであったことをおさえておきましょう。【時期・位置】 |
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1世紀,パレスチナ地方で〔 ① 〕教を改革した〔 ② 〕がキリスト教を開いた。〔 ② 〕の死後,キリスト教は〔 ③ 〕帝国に広まり,〔 ④ 〕世紀のはじめに〔 ③ 〕帝国で公認され,〔 ④ 〕世紀末には国教となった。 |
答 |
①ユダヤ ②イエス ③ローマ ④4 |
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イエスの誕生年を紀元(1年)として西暦は設定されていますので,当然キリスト教の誕生は1世紀です。【時期】キリスト教は一神教ですので,世界の最高位に存在するのは「神」です。この考え方は別にキリスト教側が皇帝の存在を認めている間は,ローマ帝国にとっても邪魔な存在ではありませんでした。実際,ローマは多神教の国で,これまでいろんな民族の宗教を受け入れてきた寛容な国でした。キリスト教の神1つ増えたところで何ら問題はありません。しかしキリスト教徒の信仰が深ければ深いほどローマ帝国と対立していきます。帝国も弾圧姿勢をみせるしかなかった。
ローマ帝国は2世紀の全盛期をすぎると,3世紀から内部崩壊をはじめます。広大になりずきた領土を支配できずにいたこと。そして北方のゲルマン民族の動きが活発になってきたことなどが原因です。領内各地では軍人が自ら皇帝を名乗るものも現れ,混乱の度合いが深まります。そんな中で,死後の救済を説くキリスト教が信者を増やし,大きな勢力となってきたのです。
そしてとうとうローマ皇帝が自らキリスト教徒になり,キリスト教が帝国内で認められるようになりました。この時期が非常に重要です。できれば2段階でおさえておきたい。4世紀はじめ, キリスト教がローマ帝国で公認。4世紀末,ローマ帝国の国教となる。【時期】「公認」は許されただけです。「国教」となると話は別です。逆にローマ帝国では「キリスト教」以外は認めないということになってしまう。こうしてローマ帝国なきあともヨーロッパはキリスト教一色になってしまったのです。 |
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6 |
〔 ① 〕年からはじまる〔 ② 〕民族の大移動によってローマ帝国は混乱し,東西に分裂した。東ローマ帝国は〔 ③ 〕年に〔 ④ 〕に滅ぼされるまで1000年以上存続したが,西ローマ帝国は5世紀に〔 ⑤ 〕族に滅ぼされ,現在のフランスを中心に〔 ⑤ 〕王国が成立した。 〔 ⑤ 〕王国は9世紀に分裂し,現在の〔 ⑥ 〕・〔 ⑦ 〕・〔 ⑧ 〕のもととなった。 |
答 |
①375 ②ゲルマン ③1453 ④オスマン=トルコ ⑤フランク ⑥フランス ⑦ドイツ ⑧イタリア ※⑦~⑨は順不同 |
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ローマ帝国から現在のヨーロッパ諸国がおおまかに形成された過程をとらえておきましょう。注意しておきたい点は次の通り
・フランク王国の成立は大和王権全盛期と同時期である。【時期】
・8世紀の世界地図をおさえる。《第10回 史料・地図》【位置】
・フランク王国は現在のフランス・ドイツ・イタリアに分裂した。【位置】
・東ローマ帝国はローマ帝国分裂後,1000年以上も続き,オスマン=トルコによって滅ぼされた。【時期】
フランク王国が成立したころは5世紀。5世紀は倭の五王とよばれる大王がいて,中国の南朝(宋など)に使者を派遣した時期です。【時期】
続いて8世紀の世界地図を頭に入れておきたい。この時期は中学生が学ぶ世界の歴史上の重要な国が同時期に存在した。【位置・時期】日本は奈良時代ですね。都は平城京。朝鮮半島には新羅。中国は唐(都は長安)。西アジアにはイスラム帝国(都はバグダッド)。東ヨーロッパには東ローマ帝国。西ヨーロッパにはフランク王国が存在します。
続く9世紀にフランク王国が分裂します。現在のフランス・ドイツ・イタリアのもとになります。この組み合わせが重要。【位置】ちょうど3つの国境が接する付近に現在のスイスがあり,この境界線が言語境界線となっています。現在でもスイスではフランス語・ドイツ語・イタリア語とロマンシュ語というイタリア語に近い言語の4つが公用語となっている。
東ローマ帝国を滅ぼしたのはオスマン=トルコというイスラム国家であったということ。滅びた年はおぼえておきたい。これによってイスラム国家がヨーロッパ世界に入り込み,勢力を強めるとヨーロッパの東方貿易がおびやかされ,新しい航路の発見が必要になってきた。という流れになり,大航海時代の1つの要因となりました。1453年は,応仁の乱の1467年に近い出来事でもありますので,歴史の流れを縦横両方につかむ上で基準となる年です。【時期】
東ローマ帝国は別名ビザンチン帝国とも表現されます。 |
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7 |
ローマ教皇を頂点とする正統派キリスト教を〔 ① 〕といい,一方東ローマ帝国で信仰されたキリスト教は〔 ② 〕とよばれる。 |
答 |
①カトリック ②正教会 |
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4世紀,ローマ帝国の国教となったキリスト教は,ローマ帝国分裂後,宗派対立がおこり,西ローマ帝国とのちにその領土を継いだ国々でカトリックが,東ローマ帝国で正教会が影響力をもち,11世紀には完全に分裂します。 |
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8 |
11世紀,イスラム教国:〔 ① 〕が勢力を伸ばすと,東ローマ皇帝はローマ教皇に救援を要請し,ローマ教皇は聖地:〔 ② 〕の奪回をよびかけて,〔 ③ 〕が結成された。〔 ③ 〕は以後200年にわたって7回派遣されたが,失敗に終わっている。 |
答 |
①セルジュク=トルコ ②エルサレム ③十字軍 |
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東ローマ帝国は西アジアと国境を接しますから,常に東方の異教徒の脅威にさらされていた。7世紀,イスラム教が成立すると,早々にキリスト教の聖地:エルサレムはイスラム教の支配下に置かれることになりました。実はエルサレムはキリスト教だけでなく,イスラム教徒にとっても大切な場所(聖地の1つ)とされていたのです。
11世紀,セルジュク=トルコというイスラム国家が勢力を伸ばし,東ローマ帝国領土を次々と征服していきます。この勢いに対抗しきれなくなった東ローマ帝国は,仕方なしに西のローマ教皇に援助を求めます。ローマ教皇はこれに答え,西側世界のカトリック教徒に遠征軍の派遣を呼びかけます。目的は聖地:エルサレムの奪回。「神がそれを望んでおられる」と。十字軍です。
これにはローマ教皇としては,純粋な信仰心から異教徒を撃退するという目的もあったでしょうが,これを機会にカトリックと分裂した正教会の東側世界に勢力を伸ばしたいという意図もあったでしょう。第四回十字軍では,もはや聖地奪回が目的ではなく,東ローマ帝国そのものが十字軍の標的となりました。
結局,約200年にわたって派遣された十字軍は聖地奪回の目的もあやふやになったまま失敗に終わります。原因の1つは,イスラム教側の軍事力の強さです。イスラム世界では現在君たちが学んでいる理科や数学の分野が非常に発達していました。つまり科学技術が発達していたのです。例えば世界中が普段から使用している数字はアラビア数字とよばれ,イスラム(アラブ)が発祥の地ですし,数学や医学・化学の用語にはアラビア語がもとになったものが多い。
逆にキリスト教側(カトリック)は聖書に基づいた古い伝統を重んじる人々です。科学は魔法ぐらいにしかとらえていないし,魔法を使うものは悪魔や魔女なのです。軍隊の編成も信仰心だけで募った素人兵士が多かった。さらに教会は十字軍に参加すれば,「天国行き」まちがいなしのお墨付きを与えたのです。
指揮官の技量も問題でした。確かに個々の技量は優れていたものもいましたが,各国各地から集まった王や諸侯クラスの人がわんさかいるのです。だれがどこでどのような仕事を受け持つかの連携や指揮系統がはっきりとしていなかった。後世の天才軍事家であり英雄とされるフランスのナポレオンは,「非凡な二将は,凡なる一将に劣る」といっています。優秀な指揮官が二人いるよりは、凡庸であっても指揮官は一人の方が良いということです。(このような例はどこの世界の歴史でもいくどとなく繰り返されています。) |
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9 |
十字軍の敗戦が続くと,ヨーロッパでは教皇権が衰退に向かい,王権が伸張してきた。1215年,イギリスでは強大化した王権に制限を加えるため,貴族や国民は〔 〕を王に認めさせ,国民の権利を主張した。 |
答 |
マグナ=カルタ |
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十字軍の遠征の結果,ヨーロッパ世界はどのように変化したのでしょうか?1つは遠隔地交易が活発になったということです。ヨーロッパ各地から遠征部隊が移動するのですから,食料・宿泊・装備などいろいろなものが必要になります。それらは交通の要地に集まりますから,そこでは商業がさかんになります。特に地中海諸都市は十字軍に参加する人々が集まって海路で輸送されますから,大いに賑わった。 北イタリアにはそれまで海上貿易で栄えた都市がありましたから,みんなそこに集まります。さらに北イタリアの商人は兵士を送り届けたあと,イスラム商人とも交易して,大儲けするわけです。
このように遠隔地交易が活発化したことで,商業がさかんになり,商業都市が成長した。そして当然貨幣経済が発達したのです。この貨幣経済の発達は農村でもおこりました。このころ農業技術が発達し,農作物の大量生産が可能になった。余った農作物は台頭してきた都市の商人を介して取引されるようになった。
一方,農地を支配していた領主(貴族・騎士)はというと,この人たちには十字軍に参加した兵士が多かった。敗北が続いたわけですから,帰ってこられなかった人が多かった。帰ってきたとしても土地からの農作物に頼っていた生活が,お金がものをいう世の中にどんどん変革していっている。その流れについてこられない領主はどんどん没落していきました。
さらに十字軍を提唱したローマ教皇の魅力も失われていきます。遠征は失敗続きですので当然です。さてこれらの結果,一番得した人はだれでしょう?国王です。国王は没落した貴族や騎士の領地やそれにともなう特権を吸収していきます。そして新興の商人と結びついて王権を強化していきました。さらにそれまでいいなりだったローマ教皇にも面と向かって対立します。
十字軍前,ローマ教皇に逆らうと皇帝・国王ですら社会から追放されたのが,十字軍末期には国王がローマ教皇を監禁するようになります。特にイギリス・フランス・スペインといった地域でその傾向が強くなりました。
13世紀,イギリスでジョンという王が即位します。「John The Lackland」,彼には「失地王」というあだ名がつけられています。ジョンの前はお兄さんのリチャード。彼のあだ名は「Richard The
Lionheart」,「獅子心王」。非常に勇猛で優秀な王でした。ジョンはあだ名通り,戦争では敗戦が続き,ローマ教皇とも対立して領土を大幅に失った王でした。それでも国内を強圧的な態度で支配しようとしたため,貴族らの反感を買い,内戦が勃発。しかたなしに「マグナ=カルタ(大憲章)」を制定して,貴族らと和解します。
マグナ=カルタでは,貴族や聖職者の権利を認め,王の権限が制限されました。王といえども法の支配を受けるという近代の法治主義の原型のようなものとして歴史的に重要です。【歴史的意義】イギリスという国は,現在でも憲法をもたない特殊な国ですが,マグナ=カルタは法の上に立つものとして,現在の政治にも活かされています。
さてここまで流れを詳しく説明しましたが,要点は次の通り。十字軍の遠征によってローマ教皇権が衰退し,王権が伸張した。特にスペイン・イギリス・フランスでは,その後絶対王政へと進化する。【流れ】
マグナ=カルタは人権思想の発達という意味で「権利の章典(イギリス)」・「独立宣言(アメリカ)」・「人権宣言(フランス)」に先んじて最初に登場する文書である。【時期】が問われた場合,一番最初と判断するか十字軍遠征期であると判断する。 |
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10 |
十字軍遠征の拠点となった北〔 ① 〕の諸都市では,〔 ② 〕世紀ごろから領主や大商人の保護のもと,自由で人間らしさを追求する文化運動がおこった。これをルネサンスという。 |
答 |
①イタリア ②14 |
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十字軍の遠征でもっとも栄えた都市は北イタリア諸都市でした。十字軍は1096年から200年間ですから,次におこるルネサンスは14世紀と考える。【時期】
フランク王国が3分裂したのち,イタリアはしばらくすると統一国家はなくなって,小国の分裂状態になります。その中には共和政をしく国もあり,封建的な土地の支配より,商業が国の基盤となる国が栄えました。金融・貿易で富を築いた領主・貴族・商人は,財産を芸術や文化を保護して,自らの権威を示し,またそれらを楽しみました。
芸術の模範となったのは,古代ギリシャやローマの寛容で人間味あふれた文化。ルネサンスとはフランス語ですが,イタリア語で「rinascita」=「復活」の意味です。キリスト教が生まれる前のヨーロッパの復活をめざしたのです。
また一方で,当時のキリスト教批判もおこないました。カトリック教会がいかに本来の精神から離れているか。ローマ教皇を中心とする聖職者がいかに世俗的になっているか。批判の精神は,物事を新たな視点からみる精神を育みます。それが科学的精神です。古代を見直す精神と科学的精神の発達がルネサンスであり,近代の開幕だったのです。 |
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11 |
ルネサンスは,まず〔 ① 〕が『神曲』を著し,当時の生活語のイタリア語を使用することではじまった。その後フィレンツェを中心に〔 ② 〕(『モナ・リザ』)や〔 ③ 〕(『ダビデ像』)が活躍した。 |
答 |
①ダンテ ②レオナルド=ダ=ビンチ ③ミケランジェロ |
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最初に栄えたのはフィレンツェという都市です。この都市を支配するメディチ家はもともと薬の商人(メディチとはmedicin=薬の意味)でしたが,銀行を立ち上げて成功,やがてフィレンツェを中心とする一帯を支配するまでになります。
フィレンツェ出身,あるいはメディチ家の保護を受けた芸術家には,レオナルド=ダ=ビンチ,ミケランジェロの他,ボッティチェリやダンテといった人物がいます。
レオナルド=ダ=ビンチは万能の天才とよばれた人物です。芸術だけでなく,建築,武器,医学などさまざまな分野で才能を発揮した人物でした。しかし彼本人は絵画を極めたいという一心で他の分野を追求していったようです。彼の手記の中には「画家は万能でなければならない。」と書かれています。(『レオナルド=ダ=ビンチの手記』)絵を描く中で,追求したのが遠近法や解剖学,物理学だったのです。彼の代表作『モナ=リザ』は彼は晩年まで手放さなかった絵てあるとか。
同時期の天才の1人がミケランジェロ。『ダビデ像』などの彫刻で有名です。彼にとって彫刻とはもうすでに石の中に作品があって,余分な部分を削って取り除くだけだそうです。
絵画では【史料】に出される程度ですが,ボッティチェリも有名です。彼の名前が問われることはまずありません。美術の時間で習う程度です。『ビーナスの誕生』とか,『春(プリマベーラ)』が有名です。
前後逆になりましたが,ダンテという人物がルネサンスの先駆けとよばれます。『神曲』という長編詩を表します。まずこの『神曲』,トスカナ語で書かれています。トスカナ語とはフィレンツェ一帯の地方名で,イタリア語の方言です。これまでキリスト教世界では,カトリックはラテン語を,正教会ではギリシャ語で本を著すのが慣例でした。これは同時に宗教言語でもあります。ところがこれらの言語は難解で,実際に生活で使用されていませんでした。当然,各地域・国でそれぞれの言語があって,一般人はそれらを話していたのです。
これを生活語であるその地の言語で著したことに大きな意味があった。宗教語(カトリック)からの離脱です。そしてその内容は聖職者の批判に満ちていました。主人公はダンテ自身。死んでいるはずの古代の詩人に案内されて地獄・煉獄(れんごく)・天国を訪れます。そこには古代から現在までの有名人がいて,聖職者はたいてい地獄に落とされているか,煉獄にいるのを目撃します。こんなことを書いたら中世ヨーロッパでは完全にアウトです。それをやってのけた。
EUで使用されているユーロ硬貨はその国独自のデザインでつくることができます。イタリアの1ユーロコインのデザインにはダ=ビンチの「人体図」,2ユーロコインにはダンテの肖像が描かれています。 |
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ルネサンスでは科学技術も発達し,〔 ① 〕・〔 ② 〕・〔 ③ 〕の三大発明が生まれた。 |
答 |
①火薬 ②羅針盤 ③活版印刷 |
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ルネサンスで開花した科学の精神に加えて,実際に科学技術がイスラム世界から流入します。中でもルネサンスの三大発明とよばれるのが,火薬・羅針盤・活版印刷術です。正式には発明は中国の宋です。これがイスラム経由で,ヨーロッパに入り,ルネサンス時期に改良され実用化された。
火薬は元の時代にすでに実用化されていましたね。ヨーロッパで実戦投入されるは14世紀に入ってから。まずは大砲という形で投入されます。火薬兵器の登場によって騎士の存在意義が失われました。騎士,日本で武士にあたる人ですが,要するに刀や槍,弓矢を扱う専門的な肉体の技術は必要なくなった。これによって大砲を購入・製造できる王の力がますます強大化します。
羅針盤はコンパス(方位磁石)です。コンパスを揺れる船の上でも使用できるように改良したのが羅針盤。これによって大航海が後押しされます。
活版印刷は,文字を彫った四角柱のハンコのようなものを板の上に並べて,インクをつけて印刷すること。中国や日本では文字数が多くて逆に面倒くさいですが,ヨーロッパではアルファベット26文字だけです。それまで書物・文書は職人による手書き(写本)でしたから,出版物には限りがあった。それが印刷術の発明によって一気に大量生産されるようになった。
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金属活字(ベルギー アントワープ) |
印刷機(ベルギー アントワープ) |
発明ではありませんが,科学における重要な進歩に天文学があります。特に「地動説」・「地球球体説」は,羅針盤と結びついて大航海時代へとつながっていきます。
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〔 ① 〕年,〔 ② 〕の援助を受けたコロンブスは大西洋を横断し,〔 ③ 〕諸島に到達した。その後〔 ② 〕はメキシコのアステカやペルーの〔 ④ 〕帝国を滅ぼし,アメリカ大陸のほとんどは〔 ② 〕の植民地となった。一方ポルトガルは〔 ⑤ 〕がインド航路を開拓するなどアジア交易を手中に収めた。アメリカ大陸では〔 ⑥ 〕だけがポルトガルの植民地となった。 |
答 |
①1492 ②スペイン ③西インド ④インカ ⑤バスコ=ダ=ガマ ⑥ブラジル |
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「16世紀はスペインとポルトガルの世紀」とおぼえておきましょう。【時期】日本は室町時代です。16世紀の問題では必ずスペイン・ポルトガルを【セット】で思い出すこと。
大航海の主役となったのはスペインとポルトガルでした。これまでヨーロッパの中心的な交易の場は地中海でした。しかしこの交易の主導権が徐々にイスラム教徒の手に移ってきた。元来,陸軍国家であったイスラム教国の海軍力がオスマン=トルコのもとで強化されてきたのです。1453年,東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン=トルコは陸海ともにヨーロッパ世界へ勢力を広げてきたのです。
ヨーロッパでは香辛料,特にこしょうは手に入りません。肉の防腐剤としてのスパイスはヨーロッパ人にとって必需品でした。何とかしてオスマン=トルコを介せずに香辛料貿易ができないか?これが最大のきっかけでした。
また十字軍遠征以降,カトリック教会の権威が衰退します。なんとかこの権威を復活させたい。そのためには新たな信者の獲得と富が必要です。それらをヨーロッパ以外の地に求めようとした。そんな中,地球球体説や羅針盤が現れたのです。
地中海以外に交易ルートを開拓するには大西洋に出るしかありません。大西洋に出るには地中海出口に位置するスペイン・ポルトガルは優位でした。 ちょうど15世紀末,ローマ教皇がスペインから選出されたというのも後押しになりました。
コロンブスはスペインの援助を受けたイタリア人であること。そして最初の到達地は西インド諸島。コロンブスはインドを目指していましたから,着いた場所をインドと思った。そこで現地の人はスペイン語でインド人を表す「インディオ」とよばれたのです。だから「インド」という言葉が使われているからといってインドではありません。
スペインはその後,主にアメリカ大陸に進出します。アジアではフィリピンです。スペインが進出した場所はすべて現在でもカトリックであることを理解しておきましょう。またスペインがアメリカ大陸で征服した文明は,メキシコのアステカ,ペルーのインカです。これらも【位置】とともに名称もおぼえておきたい。
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古代メキシコのピラミッド(テオティワカン) |
一方,ポルトガルはバスコ=ダ=ガマ(ポルトガル)がインド航路を発見して以来,アジア貿易が中心です。アメリカ大陸ではブラジルです。これは超重要でしたね。絶対に落とさないこと。 |
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14 |
16世紀はじめ,〔 ① 〕でルターが,スイスで〔 ② 〕が宗教改革をおこない,プロテスタントとよばれる新教が成立した。 一方ローマ教皇を中心とするカトリックはスペイン・ポルトガルの海外進出と結びついて,布教のための〔 ③ 〕を結成した。
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答 |
①ドイツ ②カルバン ③イエズス会 |
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カトリック教会の権威の失墜は,16世紀に極まります。自らの礼拝堂があるサン=ピエトロ(セント=ピーター) 寺院の修復費を稼ぐため,「免罪符」というのを販売します。「免罪符」とは「罪を免れるお札」。天国への片道切符です。ついに天国行きもお金で解決しようとしたのです。これに猛反発したのが,ドイツの宗教学者ルターでした。彼は免罪符販売などカトリック教会への批判を「95ヶ条の意見書」としてまとめて提出します。こうして旧来のカトリックに抗議(プロテスト)した人々を「プロテスタント」とよぶようになりました。
宗教改革は代表的な2人の人物の出身国と活動国が重要です。ドイツ人ルターはドイツで,フランス人カルバンはスイスで宗教改革です。国の組み合わせが正誤問題ではポイントとなります。【落とし穴】
一方,ますます勢力を失ったカトリックはスペイン・ポルトガルの大航海に乗じてアジア・アメリカへの布教を拡大します。その中心の組織となったのがイエズス会。日本に来たザビエルはスペイン出身のイエズス会士です。 |
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15 |
1588年に〔 ① 〕がスペインの無敵艦隊を破ると,国王のエリザベス1世は1600年に〔 ② 〕を設立するなどスペインにかわって海外に進出して王権を強化し,絶対王政を確立した。 |
答 |
①イギリス ②東インド会社 |
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いち早く海外に進出したスペインは,「太陽の沈まない国」とよばれ,世界の海を(後世に)無敵艦隊とよばれる海軍で制しました。1588年,これを迎え撃ったのがイギリスの艦隊でした。これが歴史の転換点となりました。無敵艦隊はその名に恥じず巨砲を備えた巨艦ぞろいでしたが,対するイギリスは海賊をも含めた小艦ぞろい。実はこれが功を奏した。イギリスは小回りの利く艦船でスペイン艦隊の間を縫うように接近戦を持ちかけます。対するスペインの戦艦はそれぞれの距離が縮まりすぎて自慢の大砲を撃てず,敗北します。
この出来事をきっかけに世界の海を制するのはスペインからイギリスになります。そしてここからイギリスが世界をリードしていくことになりました。
1588年は日本で秀吉が刀狩をおこなった年であるということ。時のイギリス国王がエリザベス1世であり,イギリス絶対王政の全盛期であったこと。エリザベスが海外貿易の中心的組織として東インド会社を設立したのは,関ヶ原の戦いと同年の1600年であること。したがってエリザベスは秀吉・家康と同時期の人物であること。そして「17世紀はイギリスの世紀」となったということをおさえておきましょう。【時期】 |
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16 |
1642年,イギリスで〔 ① 〕革命が勃発し,指導者の〔 ② 〕は国王を処刑し,共和政を開始した。しかし〔 ② 〕が独裁政治をおこなったため,その死後再び王政が復活した。国民は再び市民革命をおこし,王を追放してオランダから新しい国王を迎え,〔 ③ 〕年,この王に「権利の章典」を認めさせた。この革命を名誉革命という。 イギリスの思想家:〔 ④ 〕は,この革命を正当化し,人民の革命権を説いた。 |
答 |
①清教徒(ピューリタン) ②クロムウェル ③1688 ④ロック |
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ここから市民革命です。市民革命は市民(国民)が中心となって絶対王政を倒し,民主的な政権を打ち立てることをいいました。最初にイギリス革命です。17世紀に清教徒革命と名誉革命の2段階でおこります。まずは清教徒革命。
清教徒とはイギリスのカルバン派(プロテスタント)を指す言葉です。英語に直すと「ピューリタン」といい,ピューリタン革命ともいいます。「pure(清い)な人々」という意味です。ここで少しわかりにくいのは,イギリスはそもそもプロテスタントの国だったということです。イギリスはプロテスタントの中でもイギリス国教会という他にはない特殊な新教国でした。教義はほとんどカトリックとかわりませんが,カトリックから分離独立します。宗教的指導者は国王自身が兼ねます。イギリス国教会の首長である国王が絶対王政をおこなっており,これを倒すために同じプロテスタントの清教徒が革命をおこした。これが清教徒革命です。かなりの長期間の内戦を経て,国王は処刑され,クロムウェルを長とする共和政がはじまりました。「国王を処刑」とあれば清教徒革命です。
その後,クロムウェルは清教徒の教義(禁欲)を国民におしつける独裁的な政治をおこなったため,その死後,混乱の中から再び王家が復活し,絶対王政をおこないます。当然これに対し,再び革命がおこるのですが,これが名誉革命です。このときは国王を追放し,同じプロテスタント国(カルバン派)であるオランダから新たな国王を迎えた。「国王を追放」とあれば,名誉革命です。血が流れなかったから「名誉」なのです。
ただし国王がいる以上,専制政治がおこなわれる可能性がありますから,それを抑える必要があります。そのために新たな王に認めさせたのが「権利の章典」でした。そしてこの中で議会の権利や市民の自由が承認されたのです。
こののち事実上,国王は政治権力を行使できない状態になります。かわって首相が行政権を行使して,王ではなく議会に対して責任を負う制度が成立しました。これが議院内閣制(責任内閣制)のはじまりです。この制度は現在の日本の政治にも取り入れられています。
清教徒革命は日本では鎖国の完成の時期にあたり,名誉革命は徳川綱吉の元禄時代にあたります。同時期のことであるとおさえておきたい。【時期】
名誉革命と権利の章典は必ず【セット】にしておくこと。年代は名誉革命が1688年,権利の章典は1689年と1年のずれがありますが,権利の章典の年をおぼえておくほうがおぼえやすい。フランス革命(1789年)のちょうど100年前です。さらに名誉革命は啓蒙思想家:ロックとあわせておきたい。【セット】ロックは名誉革命を正当化し,著書『市民政府二論』で,人民の革命権を説きました。
ここで少し啓蒙思想についてお話します。「啓蒙」とは「光をあてる」という意味です。「啓」は「開く」,「蒙」は「盲」,つまり「暗い」という意味です。「盲を開く」で「光をあてる」という意味。英語など西洋の言葉でも「光をあてる」という意味の「enlighten」という言葉を使います。
例えば,暗い場所でボールに光をあてると光があたっている部分は見えますが,光が当たっていない場所(裏面)はみえません。人間が理解している部分は世界の本当の姿の一部分に過ぎないということです。そこへ見えない部分に光をあてて考えてみようというのが「啓蒙思想」です。これまで知らなかった部分がみえるでしょ。これまで一般の人々は苦しみの中で生きてきた。本当は人には生まれながらに自由や平等という権利が備わっていてそれが無視されてきただけなんだ。自由や平等を主張してもいいんだ。でもただ自由や平等を叫んでも世の中はよくならない。どうすればよい社会がつくれるか,そこにも光をあててみようというのです。その光のあて方は思想家ごとにそれぞれ違いますが,多くの人の目を見開かさせたという意味で,このころの啓蒙思想というのが注目されるのです。 |
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17 |
アメリカでは17世紀からイギリスからの入植者が東海岸に〔 ① 〕の植民地を形成し,18世紀には独立運動がはじまった。1775年に独立戦争が勃発,〔 ② 〕年に独立宣言が発表された。1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法にはフランスの思想家:〔 ③ 〕の三権分立の影響がみられる。 |
答 |
①13 ②1776 ③モンテスキュー |
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イギリス人のアメリカ入植はエリザベス女王のころにはすでに始まっていましたが,17世紀になってさらに加速します。イギリスで清教徒が弾圧されると,清教徒たちの中には信仰の自由を求めて新天地へ旅立つものが現れました。彼らが大西洋を越えたアメリカ北東部沿岸につくった植民地はニューイングランドとよばれます。 さらに東海岸にそって北から南まで13の植民地が形成され,これらが独立革命によってイギリスから独立しました。アメリカ国旗の赤と白の横シマはこれら独立当時の13州を表しています。
独立宣言の【史料】は入試では必須の史料です。「生命・自由および幸福追求の権利」この文句がアメリカ独立宣言を象徴する部分です。日本国憲法第13条にもこの文句が使用されています。またこの宣言の最後には国民の人権を無視するような政府があれば,国民はこれを廃して新しい政府をつくることができるとあります。ここにはロックの革命権の影響を受けていることがわかります。
アメリカは独立後,合衆国憲法を制定して,大統領制と三権分立を打ち出します。ここにはフランスの思想家:モンテスキューの影響がうかがえることもおさえておきましょう。 |
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18 |
17世紀からフランスでも絶対王政がはじまり,ルイ14世はパリ郊外に〔 ① 〕宮殿を建設した。その後相次ぐ外征の失敗やアメリカ独立戦争でのアメリカへの援助などから財政難となり,〔 ② 〕年,バスチーユ牢獄の襲撃事件をきっかけにフランス革命が勃発した。発表された人権宣言では人民主権を唱えるフランスの思想家:〔 ③ 〕の影響がみられる。 |
答 |
①ベルサイユ ②1789 ③ルソー |
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ルイ14世のころ,絶頂を迎えたフランスの絶対王政は相次ぐ戦争の敗北(主に対イギリス)でその財政基盤がゆるぎます。 フランス革命以前のフランスでは平民(庶民=国民の大部分)が国王・聖職者(僧)・貴族の生活を支えるための重税に苦しんでいました。(【史料】絵が出題されます)ルイ16世が即位するころには,国の財政は最悪の状態となり,ついにルイ16世は特権身分であった貴族や聖職者身分にまで課税しようとします。しかしルイ16世は貴族や聖職者に丸め込まれて,この案件はうやむやになります。これに怒った平民代表の議員は議会を離脱し,国民の権利を訴えます。
これに呼応して1789年7月14日,パリ市民が暴動をおこしました。「バスチーユへ」と。パリ市の東の一画にあるバスチーユには,当時政治犯が収容されていましたが,囚人の数はそれほど多くなかった。市民の目的は政治犯の釈放というより,バスチーユの保管されている武器が目的でした。武器がなければ国王軍には勝てない。「武器をとれ!」と。
この結果,平民代表が結成した国民議会は「人権宣言」を発表。この中にはルソーが説いた人民主権(国民主権)の考えや国民の財産権の保障がもりこまれました。
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19 |
フランス革命では〔 ① 〕が処刑され,警戒を強めた周辺諸国が同盟を結び,革命に対する干渉戦争をおこなった。これに対抗し,軍人であった〔 ② 〕は皇帝の地位についてヨーロッパのほぼ全域を征服したが,〔 ③ 〕遠征に失敗して失脚した。 |
答 |
①ルイ16 ②ナポレオン ③ロシア |
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革命勃発時,ルイ16世は国民の要求を受け入れ寛大な態度を示していました。このとき国民の方も王政を廃止しようとは考えいませんでした。しかし国王は国民を裏切り国外逃亡を計画します。ここで国民の方も王を見限った。逃亡途中で捕らえられたルイ16世は妻のマリー=アントワネットとともにギロチンにかけられ処刑されます。
これに衝撃を受けた周辺の王国はフランスの革命が自分の国にも波及するのをおそれて,フランス革命に対する干渉戦争を開始します。革命を失敗させるためです。革命に対する干渉戦争の目的を問われたら,フランス革命だけなく,ロシア革命でも同じように答えて下さい。目的は同じです。【説明(目的)】
一方周辺諸国から敵視されたフランスでは,これを撃退する英雄があらわれました。ナポレオン=ボナパルトです。彼は天才的な軍事行動によって頭角を現し,ついにはイギリス・ロシアを除くほとんどの国を逆に制覇してしまいます。そして自ら皇帝となってフランスに栄光をもたらしました。ドイツの作曲家ベートーベンの交響曲第五番『英雄』は彼のために書かれた曲です。
しかし最終的にはロシア遠征に失敗。退却したナポレオンは遠征してきたイギリス軍に破れ,捕らえられて島流しとなりました。 |
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20 |
〔 ① 〕世紀,イギリスの産業革命は〔 ② 〕が改良した蒸気機関にはじまり,〔 ③ 〕工業の分野で発達した。 産業革命の発達は資本主義を産み出し,イギリスの〔 ④ 〕は『国富論』の中でこの考えを理論化した。一方,資本主義がもたらす労働問題の解決として〔 ⑤ 〕主義を19世紀のドイツの〔 ⑥ 〕が理論化した。 |
答 |
①18 ②ワット ③綿工業 ④アダム=スミス ⑤社会 ⑥マルクス |
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「産業革命は18世紀,イギリスで,綿工業からはじまり,動力には蒸気機関が使用された。」と丸暗記です。綿工業の原料となる綿花はインドやアメリカから,動力となる蒸気機関の燃料(石炭)は自国で調達しました。
産業革命は単に手工業から機械工業へと転換したことだけをいうのではありません。それにともなう社会の変化を含めていいます。社会の変化とは農業社会から工業社会となり資本主義が生まれたことです。産業革命がおこってまもなく,アダム=スミス(イギリス)は,各個人の利益の追求は,結果として「見えざる手」によって社会全体の利益の増進となると説きました。
しかし資本主義が発達するとさまざま社会問題がおこります。経済格差はその1つです。これを解決するためにマルクス(ドイツ)は,労働者が団結し,労働者による革命によって労働者が権力を握る必要があると説きます。 これが社会主義です。社会主義は共産主義といういい方もします。社会主義は「生産手段の共有」を前提とし,富の平等な分配,経済的な平等を説く思想だからです。したがって共産党という政党は社会主義の政党だと考えて下さい。 |
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21 |
1861年,アメリカでは〔 ① 〕貿易や奴隷制反対を唱える北部と〔 ② 〕貿易や奴隷制維持を唱える南部が対立し,南北戦争に発展した。北部の大統領リンカーンは1863年に〔 ③ 〕を発表し,工業化の進んだ北部が勝利した。 |
答 |
①保護 ②自由 ③奴隷解放宣言 |
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南北戦争の原因は,黒人奴隷の問題が大きく取り上げられますが,南北の対立はそれだけではありませんでした。北部では1830年代から産業革命がはじまり工業化が進みました。すると自国の工業製品を保護するためイギリスから輸入する工業製品に関税をかける保護貿易政策を主張します。
一方,綿花栽培のさかんな南部は,自国の綿花を関税をなくして安くイギリスに売りたい自由貿易政策を主張します。ここに黒人奴隷も絡んでくる。工業化が進んだ北部では労働力としての奴隷は必要なくなってきます。しかし南部では綿花栽培に黒人奴隷が必要だった。
このような対立の中で,ストウ夫人が『アンクルトムの小屋』という本を出版し,爆発的に売れました。この本を通して黒人奴隷の悲惨な実情をしった北部の人々の南部批判は大いに高まります。そして奴隷制反対を訴えたリンカーンが大統領に就任すると,南部はアメリカ合衆国を離脱し独自の大統領を立てました。こうして内戦が勃発したのです。
戦争中の1863年,リンカーンは奴隷解放宣言を発し,戦後法的には奴隷制は廃止されました。またこの年,激戦地ゲティスバーグで有名な演説をします。「人民の,人民による,人民のための政治」です。(ただしリンカーン自身の言葉ではありません)これはよく【史料】に出る文句です。 |
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ドイツ北部の〔 ① 〕では,首相の〔 ② 〕が「鉄血政策」を唱え,産業革命を進展させた。1871年,〔 ① 〕がドイツを統一してドイツ帝国となると,オーストリア・イタリアと〔 ③ 〕を結ぶび, イギリスに対抗しようとした。 |
答 |
①プロシア(プロイセン) ②ビスマルク ③三国同盟 |
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現在ドイツとよばれている地域には,相当長い間統一した国は存在していませんでした。19世紀,この分裂した地域には2つの強国が存在し,ドイツの覇権を争います。1つはオーストリア,そしてもう1つはプロシア(プロイセン)です。このプロシアでビスマルクという人物が首相になると,「現下の大問題は,言論や多数決によって解決できるものではなく,鉄と血によって決せられるのである」と演説します。「鉄」とは武器,「血」とは戦争です。そしてその通り戦争によって統一を進め,1871年,プロシア国王がドイツ皇帝となり,ドイツ帝国が成立しました。
その後,ビスマルクはイギリス・フランスを仮想敵国として国内産業を充実させ,外交政策を展開し,1882年,オーストリア・イタリアと同盟を結びます。これが三国同盟です。三国同盟は三国協商に比べてずいぶん早い時期に成立していることに注意して下さい。【時期】日本では日清戦争がはじまるずっと前に,第一次世界大戦の兆しがあったということです。 |
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23 |
19世紀,イギリスを筆頭に資本主義が発達した欧米諸国が武力で植民地を広げようとした動きを帝国主義という。特にイギリスの〔 ① 〕政策(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)とドイツの〔 ② 〕政策(ベルリン・ビザンチウム・バグダッド)は激しく対立し,イギリスはドイツの三国同盟に対抗してロシア・フランスと〔 ③ 〕を結んだ。 |
答 |
①3C ②3B ③三国協商 |
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資本主義・帝国主義をとる国として他の国より,一歩も二歩もリードしていたのはイギリスでした。特にその最大の植民地インドを守ることはイギリスにとって最重要課題でした。そのためエジプトのカイロ(Cairo),南アフリカのケープタウン(Capetown),インドのカルカッタ(Calcutta) を軸として進められたイギリスの植民地政策を頭文字をとって3C政策とよびます。
一方,イギリスに追いつき追い越せと勢力を伸ばしてきたのがドイツです。ドイツ皇帝はビスマルクを解任したあと,積極的な世界戦略を打ちたてました。海軍を増強し,首都ベルリン(Berlin),トルコのイスタンブール(旧名:ビザンチウム Byzantium)とバグダッド(Baghdad)を鉄道で結ぶ3B政策を進めます。中東まで鉄道が完成すると,その先にはインドがあります。
イギリスの方はというとドイツだけを念頭に置くことはできませんでした。大国ロシアの動向も要注意です。ロシアが南下政策を進めると,これもまたインドにいきつく。対ロシアには日本と同盟を結ぶことで対抗しようとします。日英同盟です。これが功を奏してか,日本はロシアに勝利することができました。
そこでイギリスは対露政策を転換するのです。「あの小国日本にも勝てないぐらいだから,ロシアはたいしたことはない。今はドイツの方がよっぽど脅威だ。」として,フランス・ロシアと同盟を結んで,ドイツを挟み撃ちしようとします。これが三国協商です。
したがって三国協商のタイミングは日露戦争(1904-1905)のあとであることをおさえておきましょう。【時期】これで第一次世界大戦突入の準備が整いました。
三国協商は三国同盟を挟み撃ち |
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〔 ① 〕半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれ,民族対立の激しい地であった。〔 ② 〕年,ボスニアの〔 ③ 〕でオーストリア皇太子がセルビアの青年に暗殺(〔 ③ 〕事件)されると,第一次世界大戦へと発展した。 |
答 |
①バルカン ②1914 ③サラエボ |
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第一次世界大戦の発端はバルカン半島です。ここは多民族・多宗教の地で民族対立が絶えなかった。1つまちがえば,大きな戦争になるという例えで「ヨーロッパの火薬庫」とよびました。
ボスニアという国の首都:サラエボにオーストリア皇太子が訪れます。そこへセルビアという国の青年がやってきて皇太子を射殺。オーストリアはセルビアに宣戦布告します。サラエボ事件です。
そのセルビアはロシアと仲のよい国です。したがってロシアがセルビア側につきます。これに対し,オーストリアとドイツは同盟国ですので,オーストリアにはドイツがつきます。ロシアはイギリス・フランスと同盟を結んでおり,日本はイギリスと同盟を結んでいます。日本がイギリス側にたって参戦した理由を問われますから,「日英同盟を結んでいたため。」と答えられるようにしておきましょう。【説明(理由)】
これらイギリス側の国々は連合国とよばれ,ドイツ・オーストリア側にはトルコ(オスマン=トルコ)とブルガリアがつき,こちらは同盟国とよんでいます。
さてドイツと三国同盟を結んでいたイタリアはというと,なんと連合国側についてドイツを裏切ります。これはイタリアがオーストリア領内に領土的野心をもっていたからです。戦後,その領土をオーストリアから頂くことを条件にイギリス側についたのです。
主な国をまとめると次のようになります。連合国・同盟国という名前は特に気にする必要はありません。便宜上区別しているだけです。
連合国…イギリス・フランス・ロシア・日本・イタリアなど
同盟国…ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリア
中立国…アメリカ |
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〔 ① 〕年,ロシアで帝政が倒され,〔 ② 〕主義政府が樹立されるロシア革命がおこると,ロシアは戦争から撤退した。同年,〔 ③ 〕が連合国側に参戦したため,ドイツは降伏した。 |
答 |
①1917 ②社会 ③アメリカ |
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第一次世界大戦は長期戦となりました。長期戦となった原因の1つは新兵器が投入されたことです。
まず戦争は塹壕(ざんごう)戦でおこなわれました。塹壕とは,兵士が機関銃や大砲から身を守るために掘られた穴や溝です。ここに隠れている以上,敵の銃弾を受けることはあませんが,逆に敵陣に攻め込むこともできません。武器は消費されますが,双方ともたいした戦果を得ることもなく,にらみ合いの状態が続いたのです。
そこで新兵器の開発が進められた。毒ガスが使用されます。目や呼吸器に影響を与えるガスは敵を押さえ込むのに有効でした。この戦争に従軍したヒトラーもマスタードガスの餌食になり,一時視力を失っています。
そして戦車です。戦車は相手の銃弾を跳ね返し,多少の幅の塹壕なら超えて進むことができます。戦車は地上最強の兵器ですが,弱点があります。上からの攻撃に無防備なのです。そこで戦闘機(飛行機)が活躍します。飛行機は1903年,ライト兄弟が人類初飛行に成功したばかりの輸送機ですが,第一次世界大戦で飛躍的に進歩しました。最初は偵察が任務でしたが,上空からの爆撃用,空中戦闘用と発展していきます。
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戦死者を弔う墓地
第一次世界大戦の激戦地フランスのベルダン |
さらに潜水艦も開発されます。ドイツが開発した「Uボート」は両大戦で活躍し,対戦国を悩ませます。第二次世界大戦後,イギリスのチャーチル首相は「本当に恐ろしかったのはUボートだけである」といいました。ドイツはこの潜水艦を使ったある作戦を実行します。ドイツ無制限潜水艦作戦といいます。敵国の船ならなんでも攻撃するぞという作戦。1915年,イギリス船籍の客船ルシタニア号がこの被害にあいます。その犠牲者の中にはアメリカ人も含まれていた。これで中立を宣言していたアメリカのドイツに対する印象が悪くなります。ドイツの無制限潜水艦作戦はその後一旦中止されますが,1917年,再び作戦が宣言されるとアメリカは満を持してドイツに宣戦しました。
このように新兵器が投入された長期戦では,大量に戦死者が出たことは簡単に想像できます。特に寒い国であるロシアの国民・兵士の疲弊はひどかった。そしてロシア革命がおこります。
ロシア革命は2段階で進みます。まずは帝政ロシアの崩壊。ロシア帝国が滅んで,共和政がしかれます。次に社会主義革命。レーニンが指導者となって社会主義政府が成立しました。問題で「帝政の崩壊(ロシア帝国が滅ぶ)」とあってもロシア革命の流れの1つだと判断して下さい。最終的には社会主義政府(ソビエト政府)が成立しますが,それだけをとってロシア革命というのではありません。
革命政府はただちにドイツとの単独講和を申し入れ,大戦から離脱します。一方ドイツは今まで東西に戦力を二分されていましたが,ここからは西部戦線に力を集中できます。一気に最後の攻勢に出ますが,結果的に物資にも兵力にも余裕のあるアメリカを相手にしたことが,降伏へとつながりました。 |
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〔 ① 〕年,〔 ② 〕で講和会議が開かれ,アメリカ大統領の〔 ③ 〕は平和14原則を発表し,無賠償・無併合を唱えたが,ドイツに対しては多額の賠償金を含む過酷な〔 ④ 〕条約が結ばれた。 しかし国際連盟の設立は採用され,1920年,スイスの〔 ⑤ 〕に本部を置いて発足した。常任理事国としてイギリス・フランス・イタリア・〔 ⑥ 〕が選ばれたが,〔 ⑦ 〕は本国議会の承認を得られず不参加となった。
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答 |
①1919 ②パリ ③ウィルソン ④ベルサイユ ⑤ジュネーブ ⑥日本 ⑦アメリカ |
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第一次世界大戦の講和会議はフランスのパリで開かれます。【位置】このときアメリカ大統領は講和条約に締結に際して,「14ヶ条の平和原則」を提唱します。賠償金はとらない,領土の併合はおこなわないなど今後,戦争の原因となる要素を取り除こうとした。しかし実際には国境を接するフランスはドイツを徹底的にダメにしてやろうという感情が勝り,ドイツを再起不能にしてやろうとベルサイユ条約を締結しました。これによってドイツは海外植民地のすべてとヨーロッパ領土の13%を失います。 莫大な賠償金も請求されました。
莫大な賠償金返済は事実上不可能で,ドイツは紙幣を乱発するしか手はなかった。そのため貨幣価値が下がり物価が上昇。これをインフレーションといいますが,このころのドイツの場合ハイパーインフレという状態になります。昨日と今日ではパンの値段が倍にまで上昇。1923年には卵一個買うのに3200億マルク,牛乳1ℓで3600億マルク必要になります。紙幣の額面は最高100兆マルク札が用意されました。私の手もとにも1923年発行の500億マルク札がありますが,これでは卵1個も買えない紙くずです。そんな中,ナチスやヒトラーが登場するのです。
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500億マルク札(1923年発行) |
無視された14ヶ条の平和原則ですが,1つだけ採用されたことがあります。国際平和組織の設立です。これは国際連盟として発足します。戦勝国であったイギリス・フランス・イタリア・日本は組織の中でも影響力をもつ常任理事国として参加しますが,アメリカは議会の承認を得られず,不参加だったことが重要です。【落とし穴】また敗戦国ドイツや社会主義国ソ連も参加が認められませんでした。特にアメリカが不参加であったことや安全保障のために経済制裁しかできなかったことが,第二次世界大戦を防げなかった要因の1つとなりました。
本部のジュネーブができるかどうかは差がつくところです。ジュネーブはスイス。スイスは当時から永世中立国であったため,現在でも国際機関の多くが本部を置く国です。 |
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〔 ① 〕年,ドイツで当時世界で最も民主的な憲法である〔 ② 〕憲法が制定された。〔 ③ 〕年には世界初の社会主義国である〔 ④ 〕が成立し,1928年から〔 ⑤ 〕が〔 ⑥ 〕をはじめて,工業力の強化をはかった。 |
答 |
①1919 ②ワイマール ③1922 ④ソビエト社会主義共和国連邦 ⑤スターリン ⑥(第一次)五ヶ年計画 |
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ドイツは戦後,帝政が廃止され,共和国となりました。その法的基礎となったのがワイマール憲法です。ベルサイユ条約と同じ1919年ですからおぼえやすい。
1919年の重要事項【時期】
・ベルサイユ条約
・ワイマール憲法(ドイツ)
・三・一独立運動(朝鮮)
・五・四運動(中国)
ワイマール憲法は当時世界で最も民主的な憲法とよばれました。理由は労働者の団結権や団体交渉権など世界で最初に社会権を認めた憲法だったからです。(その他女性参政権も認められた)これは重要ですね。「大日本帝国憲法で社会権が認められた」などという文は誤文です。認められたのは1919年,ワイマール憲法です。【時期・落とし穴】
また1922年,ついにソ連が正式に発足します。【時期】正式名はソビエト社会主義共和国連邦。名実ともに世界初の社会主義国です。あまり書かれていないことですが,このときの最高指導者は引き続きレーニンです。スターリンが登場するのは,次の五ヶ年計画からです。【時期】
計画経済というのは社会主義国の経済政策の特徴です。必要なものを必要なだけ生産する。こうすれば,その期間の物価が安定する。国民の収入も安定する。その結果,経済的不平等も生じないし,景気の変動もない。大量生産・大量販売・大量消費の資本主義経済に対する政策です。この結果,世界恐慌といった世界的不景気もソ連にはおこらなかった。【説明(理由)】
上のグラフは世界恐慌がおこった年を100とした各国の鉱工業の様子です。ソ連を除く資本主義国が恐慌の影響を受けて翌年から100(1929年)を下回っているのに対し,ソ連だけは順調に鉱工業生産を伸ばしている。五ヶ年計画によって恐慌の影響を受けなかったからです。 |
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〔 ① 〕年,アメリカのウォール街で株価の大暴落がおこると,不景気の波は世界中にひろまった。これを〔 ② 〕という。アメリカは〔 ③ 〕川の総合開発などのニューディール政策を,イギリス・フランスはブロック経済を実行して,景気回復をはかった。一方,ヒトラー率いるドイツの〔 ④ 〕やムッソリーニ率いるイタリアの〔 ⑤ 〕党は,国家を党の統制下におき,海外侵略をおこなう〔 ⑥ 〕をすすめた。 |
答 |
①1929 ②世界恐慌 ③テネシー ④ナチス(ナチ党) ⑤ファシスト ⑥ファシズム |
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世界恐慌がおこった1929年は,ベルサイユ条約のちょうど10年後の出来事です。年代を導くのはそれほど難しくないのでしっかりとおぼえておきましょう。また日本は昭和時代に入ってます。【時期】
世界恐慌に対してアメリカはニューディール政策という一連の対策を打ち出しますが,その代表的な例としてテネシー川の総合開発があります。テネシー川はミシシッピ川の支流ですが,場所までおぼえる必要はありません。選択肢文に出てくる程度でしょう。
ブロック経済は基礎編で説明済みですが,保護貿易政策の典型例であることはしっかりとおさえておく。
ファシズムをおこなったイタリア・ドイツは政党名まで党首とともにしっかりおぼえておくこと。イタリアのファシスト党はファシズムの語源です。ファシズムの考えをもつ人を指して「ファシスト」ともいいます。
ナチスの表記は「ナチ党」と書かれていることもありますが,どちらでも結構です。正式名称を国家社会主義ドイツ労働者党といい,これを略してナチス・ナチ党といいますが,いずれもドイツの敵対国がよんだ蔑称です。ナチスはナチ党の複数形とし,ナチ党の党員を指すという見方もありますが,細かいことを考える必要はありません。ただナチス党といういい方はあまりしないので気をつけた方がよいです。 ファシズムのことをナチスを文字って「ナチズム」といういい方もします。 |
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29 |
〔 ① 〕年,ドイツが〔 ② 〕に侵攻したことで第二次世界大戦がはじまった。1940年,フランスがドイツに降伏すると,日本はフランス領〔 ③ 〕進出が容易になり,戦争は東南アジア・太平洋地域へも拡大した。 |
答 |
①1939 ②ポーランド ③インドシナ |
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1939年は第二次世界大戦がはじまった年。1919年のベルサイユ条約,1929年の世界恐慌と続いて,その10年後です。流れとしておぼえやすい。【時期】
ポーランドを征服したドイツは,反転しデンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクと西側諸国を占領します。 その勢いで宿敵フランスに侵攻,1940年6月にはパリを占領します。
このとき日本は東南アジア進出を狙っていましたから,フランスの降伏は日本にとって渡りに舟でした。お互いの利害関係が一致した日本・ドイツ・イタリアは同じ年の9月,日独伊三国同盟を締結しています。太平洋戦争がはじまる前です。【時期】 |
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30 |
1945年2月,米英ソの三国がソ連の〔 ① 〕で会談を開き,ドイツの戦後処理,ソ連の対日参戦を取り決めた。5月にドイツが降伏すると,7月にドイツの〔 ② 〕で再び会談が開かれ,戦後日本無条件降伏を取り決めた〔 ② 〕宣言がアメリカ・イギリス・〔 ③ 〕の名で発表された。 |
答 |
①ヤルタ ②ポツダム ③中華民国 |
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戦争の終結が見えてきた1945年,アメリカ・イギリス・ソ連らは戦後処理について話し合います。おぼえておくべき会議は2つ。ヤルタ会談とポツダム会談です。この会談に集まった国の組み合わせと話し合われた内容が重要になります。【セット】
ヤルタはソ連の黒海沿岸クリミア半島というところにある保養地でした。ここにアメリカのフランクリン=ルーズベルト,イギリスのチャーチル,ソ連のスターリンが会合します。話し合いの主な内容は次の通り。
ヤルタ会談
・ドイツの戦後処理
・ ソ連の対日参戦
戦後ドイツを分割統治すること。このときドイツの一部をソ連が受け持ったことから,戦後ドイツは東西に分裂し,冷戦がはじまりました。そのため戦後冷戦の世界を「ヤルタ体制」ともいいます。
またソ連は日本と中立条約(日ソ中立条約)を結んでいましたが,これを破棄して日本に攻め入るという約束をします。これは日本に決して悟られてはいけない秘密協定でした。
ドイツは1945年,5月に降伏します。7月,ドイツのベルリン近郊のポツダム宮殿で米・英・ソの3ヶ国が再び会合します。もちろん主な話し合いの内容は,日本の戦後処理についてです。このときアメリカの大統領はルーズベルトからトルーマンにかわっていますが,これは発展レベルです。
このとき米・英・中(中華民国)の名で日本の無条件降伏を勧告するポツダム宣言が発表されます。この国の組み合わせが要注意。【落とし穴】会談に参加したソ連ではなく中国。中国は日本と長年戦っている国ですので,あらかじめ了承をとっていました。中国もこれはイヤとはいわないので当然です。ではソ連はというと,このときはまだ日ソ中立条約が有効でした。だからソ連が堂々と「日本よ降伏せよ」なんていえないわけです。ソ連がポツダム宣言に関わるのは,日本に宣戦布告した終戦間際のことでした。
特にポツダム会談参加国とポツダム宣言発表国に注意しましょう。 |
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31 |
第二次世界大戦後の国際秩序はアメリカを中心とする資本主義国とソ連を中心とする社会主義国に二分され,冷戦がはじまった。敗戦国ドイツは東西に分かれて独立し,かつての首都:〔 〕も西ドイツ領である西〔 〕と東ドイツの首都:東〔 〕に分割された。東西〔 〕には壁が築かれ,両ドイツ国民の移動は厳しく制限された。 |
答 |
ベルリン |
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戦後ドイツと首都ベルリン,そしてベルリンの壁については基礎編ですでに説明済みです。 |
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32 |
1959年,〔 ① 〕で社会主義革命がおこると,ソ連は〔 ① 〕に核ミサイルの配備をすすめた。これに対し,米大統領:〔 ② 〕は核で応戦しようとしたが,話し合いの上,全面核戦争は回避された。これを〔 ③ 〕という。 〔 ③ 〕ののち,米ソは〔 ④ 〕条約を結び,地下実験を除く核実験の禁止に合意した。また1968年,〔 ⑤ 〕条約を結んで核兵器の拡大を防止しようとした。現在は国連によって〔 ⑥ 〕条約が採択されたが, 核保有国が批准していないため未発効である。 |
答 |
①キューバ ②ケネディ ③キューバ危機 ④部分的核実験停止 ⑤核兵器拡散防止 ⑥包括的核実験停止 |
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戦後の冷戦とは武器を使用しない戦争でした。その内容は核兵器の開発競争,情報戦,代理戦争(直接米ソが戦闘に参加しないでどこかの国を援助する)が主でした。それが直接対決の危機を迎えたのがキューバ危機です。直接対決の危機とはすなわち核戦争です。
核兵器とは使ってしまうと意味がないものです。あまりに威力がありすぎて,使用すると地球や人類の文明を破壊してしまう。そこで核兵器がもっとも威力を発揮するのは威嚇,つまり脅しです。米ソの一方が相手国にむかって核ミサイルを発射するとその報復としてその相手国がミサイルを発射する。それぞれ首都に向けて一発命中すればいいのです。ただしお互いが壊滅状態になり,これでは意味がないのです。だから使えない。使えないからこそ直接対決なんてのもありえない。よって冷戦のはずでした。
キューバはアメリカのフロリダ半島の南約100㎞に浮かぶ,小さな島国です。アメリカはこの国を事実上支配下においていました。砂糖や果物のプランテーションとして。
このアメリカ資本主義の横暴に立ち上がった数人の革命家が時の親米政権を倒すべく,ゲリラ活動を開始します。そしてついに1959年,政権が倒され,アメリカ資本や軍を追い払います。キューバ革命です。対アメリカということでソ連がこれを援助し,キューバは社会主義国になりました。ソ連としてはこれは千載一遇のチャンスです。簡単にアメリカを狙い撃ちできます。ソ連はキューバに核ミサイル基地を建設。これを上空から偵察したアメリカはソ連に猛抗議。艦隊を派遣してキューバを海上封鎖する。米ソの緊張が最高潮に達したのが1962年,核戦争の一歩手前まできました。これをキューバ危機といいます。「キューバが危ない!」ではありません。
結局,アメリカ大統領:ケネディの英断で,ソ連側との話し合いで戦争は回避,ソ連はキューバからミサイル基地を撤退させます。
戦争を話し合いで回避できたなら,核開発も話し合いで解決できないか?キューバ危機は核軍縮の可能性をみせるきっかけともなりました。キューバ危機の翌年,米・英・ソは部分的核実験停止条約を結びます。部分的とは,地下実験を除く(大気圏内・外,水中)核実験を禁止したことです。逆に禁止されていないのが「地下実験」だとおさえておきましょう。【落とし穴】
続いて1968年,核兵器拡散防止条約が国連で採択されます。当時,核兵器を保有している国はアメリカ・イギリス・ソ連・中国の5ヶ国のみでした。核の保有はここまで。以後5ヶ国以外の核保有は認めないというものです。
しかし現在ではこの5ヶ国以外で核をもつ国は3ヶ国あり,合計8ヶ国が核兵器を保有しています。3ヶ国とはインドとパキスタン,そして北朝鮮です。これらの国はこの条約を離脱した国です。
また現在は包括的核実験停止条約という条約で,あらゆる場所での爆発をともなう核実験を禁止しています。(発効はしていない)もちろん北朝鮮などはこれに著名していません。 |
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1980年代,ソ連の大統領に就任した〔 ① 〕は,〔 ② 〕とよばれる改革政策を実施し,1989年,アメリカとの〔 ③ 〕会談で冷戦の終結を宣言した。その結果ソ連は崩壊した。 |
答 |
①ゴルバチョフ ②ペレストロイカ ③マルタ |
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社会主義は経済的平等が実現され,貧富の差がない理想的な社会を築こうとするものですが,そのためにあらゆることを国に任せなければなりません。計画経済のように経済はもちろんのこと,政治も選挙など多数決で決まるわけでもなく一党独裁です。政治批判も許されませんし,生活も隅々まで統制される人間の自由が制限される社会でした。 またどんなに働いてもお給料がみな平等なら働く気が失せます。生産意欲が減退することも現実の社会主義国家では大問題でした。
こういった問題はまずソ連の周辺諸国からおこります。東ヨーロッパで自由化を求める運動が次々と勃発。ソ連でも肥沃な土地をもちながら農作物を輸入に頼ったり,情報技術など最先端工業でも欧米諸国に比べて遅れをとっていました。1986年におこったチェルノブイリ原子力発電所爆発事故は,ソ連の科学技術の遅れを象徴する出来事です。
さてソ連は制度の立て直しを迫られます。そんなときソ連の指導者となったゴルバチョフはロシア語で「改革」を意味する「ペレストロイカ」に着手します。軍事力の削減,情報の公開,経済の自由化,そして欧米諸国との関係改善,つまり冷戦の終結です。
冷戦終結のための会談は1989年,地中海の小さな島国マルタで開かれました。対するアメリカの大統領はブッシュ(父)。両者が冷戦終結宣言をすると,雪崩をうったように社会主義国の自由化がはじまります。会談前すでにベルリンの壁は崩壊しており,東西ドイツは統一に向かいます。社会主義国であった東ヨーロッパ諸国でも社会主義政権が崩壊。ソ連内部の共和国もソ連からの離脱して,独立を宣言。ソ連自身もロシア連邦に生まれかわりました。 |
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1991年,〔 ① 〕がクウェートに侵攻すると,アメリカを中心とする多国籍軍が〔 ① 〕を攻撃し,〔 ② 〕戦争がはじまった。 |
答 |
①イラク ②湾岸 |
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冷戦が終結すると,それまで二大国の強力なリーダーシップによっておさえられていた民族・宗教問題が表に出始めます。中東(西アジア)問題もその1つです。西アジア諸国の国境はもともと第一次世界大戦後,欧米諸国が勝手に決めた国境線でした。その国境線に意義を唱えたイラクは隣国のクウェートに侵攻。これを明確な侵略行為であると認めた国連は,イラク制裁のための武力攻撃を支持します。
1991年1月,アメリカは多国籍軍を結成し,イラクを爆撃,「砂漠の嵐作戦」が開始されました。これを湾岸戦争といいます。「湾岸」とはペルシャ湾を指します。戦争は多国籍軍の圧勝でしたが,イラクの指導者サダム=フセインはそのまま大統領の地位に留まります。
日本はこの戦争に対し,多国籍軍に対する資金援助をおこなったのみで,国際的に非難を受けました。その反省から自衛隊が国連を中心とした活動には参加でるよう法案を整備します。PKO(国連平和維持活動)協力法です。以後自衛隊の海外活動が可能になったのです。 |
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冷戦終結後,アメリカ・ソ連の世界への影響力が衰えると各地で民族紛争が頻発した。中でもイスラム世界では過激派が〔 ① 〕を実行し,〔 ② 〕年9月11日,アメリカ世界貿易センタービルを破壊するなどアメリカ同時多発〔 ① 〕がおこった。これに対し,アメリカ・イギリスなどは即時,テロリストをかくまっている〔 ③ 〕を攻撃した。また2003年,アメリカは中東の安定を目的として〔 ④ 〕戦争も実行に移している。 |
答 |
①テロ ②2001 ③アフガニスタン ④イラク |
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21世紀に入るとイスラム過激派組織によるテロが頻繁におこるようになります。「テロ」とは「テロリズム」の略。そもそも「恐怖」を意味する言葉ですが,暴力・破壊活動を通じて,自らの政治目的を達成しようとする活動です。
2001年9月11日,イスラム過激派組織「アルカイダ」を名乗るテロリストがアメリカの4機の飛行機を乗っ取り,2機はそのままニューヨークの世界貿易センタービル2棟に突撃しました。同じころ,別の1機の飛行機がアメリカ国防総省本庁(通称:ペンタゴン)にも激突。残り1機はワシントン(DC)に向かうところ途中で墜落。アメリカ本土がはじめて攻撃を受けたこの事件をアメリカ同時多発テロといいます。
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ニューヨーク世界貿易センタービル
中央の二棟のビルにテロリストがハイジャックした飛行機が突っ込んだ |
首謀者とされるウサマ=ビン=ラディンがアフガニスタンに潜伏しているという情報をつかんだアメリカとイギリスはビン=ラディンの身柄を引き渡すようアフガニスタンのタリバン政権に迫りますが,タリバンはこれを拒否。即刻,アメリカ・イギリスはアフガニスタンを攻撃します。
ビン=ラディンは,さらにイラクのサダム=フセインとつながっており,フセインは湾岸戦争後,不保持を義務付けられた大量破壊兵器を製造・保有していると主張したアメリカ・イギリスはイラク攻撃の国連決議をもとめますが,これは証拠不十分で否決されます。しかし主張をゆずらないアメリカは自国を防衛するためだとアフガニスタンに続いて,イラクも攻撃。湾岸戦争で崩壊に導けなかったフセイン政権打倒をめざします。これがイラク戦争です。日本もこれに賛同し,国連決議のない戦争に自衛隊を派遣することになりました。
ここまでの流れをまとめると
湾岸戦争(対イラク)→アメリカ同時多発テロ→アフガニスタン攻撃→イラク戦争
これらはすべてアメリカの中東政策としてつながっていますが,直接関係をもつのは湾岸戦争とイラク戦争,そしてアメリカ同時多発テロとアフガニスタン攻撃です。【セット】湾岸戦争とイラク戦争はあくまでも対イラク(フセイン政権)という国家との戦争です。アフガニスタン攻撃は,テロとの戦いです。【比較】またイラク戦争は国連の支持も国際的に多数の支持も受けていないことに注意したい。【落とし穴】 |
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