歴史 第9回 世界史 応用編

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欧米史

1 〔 ① 〕石器を使用していた約1万数千年前までを〔 ② 〕時代,その後,〔 ③ 〕石器を使用し農耕・牧畜がはじまった時代を〔 ④ 〕時代という。
①打製  ②旧石器  ③磨製  ④新石器
   旧石器時代は世界共通。その後,世界は新石器時代となり農耕開始。日本は縄文時代で農耕はなし。日本の農耕は次の弥生時代から。これを徹底させる。 
   
2 古代エジプト文明では,測量術が発達し,ナイル川の氾濫を予測するために〔 ① 〕暦を使用した。一方,メソポタミア文明では〔 ② 〕暦が使用され,バビロニア王国の〔 ③ 〕王が刑法中心の法典を残している。
①太陽  ②太陰  ③ハムラビ(ハンムラビ)
   エジプトの太陽暦に対し,メソポタミアの太陰暦。メソポタミアでは世界最古の法律がつくられる。中でもハムラビ法典は「目には目を」(同害復讐法)の刑法で有名。当然,くさび形文字で刻まれている。
 これら古代文明がおこったのはすべて日本の縄文時代であったことに注意。【時代区分】 
   
3 古代ギリシャには,〔 ① 〕とよばれる都市国家が誕生し,中でも民主政治をおこなった〔 ② 〕が栄えた。〔 ① 〕は4年に一度〔 ③ 〕競技大会を開催し,同じギリシャ人としての同胞意識を強めた。
①ポリス  ②アテネ  ③オリンピア(オリンピック)
   古代地中海の文明では紀元前4世紀まで統一した国家が成立しなかった。人々は都市単位で活動し,主に海上貿易に携わりました。これは地中海沿岸の土壌が,石灰岩質で大量の穀物栽培に適していなかったため,大きな人口を支えることができなかったからです。
 紀元前8世紀ごろからギリシャ地方ではポリスとよばれる都市国家がたくさん形成されますが,中でもアテネとスパルタが強国として知られていました。アテネは民主政治を取り入れた国家として,スパルタは軍国主義の国家として知られています。しかし同じギリシャ語を話し,同じ神々を信仰することから,ポリス同士の同朋意識は強かった。
 4年に1度のオリンピックは紀元前8世紀からすでに始められており,陸上競技やレスリングがおこなわれた。たとえそれまで交戦していても,オリンピック開催中は休戦するという暗黙の了解もありました。オリンピックの優勝者の鍛え抜かれた肉体は,ギリシャ人の賞賛の的となり,均整の取れたその姿は理想の人間像として彫刻に残されます。神々の姿すら人間の理想像として彫刻化されたのです。
 14世紀にはじまるルネサンスが追求した人間らしさの手本となったのが,このギリシャ文化だったのです。 
   
4 イタリア半島中部の都市国家であった〔   〕は,紀元前3世紀にイタリア半島を統一し,共和政を実施した。紀元前1世紀には帝国となり, その領土は2世紀ごろに最大となった。
ローマ
   ギリシャでポリスが形成されたころ,イタリア半島でもさまざまな民族が都市国家を形成しました。その中で有力な都市国家がローマです。建国者「ロムルス」の名前から名づけられました。しばらくは王政をしいてしましたが,少数の貴族が政治を担当する共和政に移行します。現在の大統領職にあたる執政官も任期つきの2名,彼らは元老院とよばれる議会から選出され,徹底して独裁を排除するシステムで成りたっていました。これを王による専制政治に対して共和政といいます。現在も世界中にある君主の存在しない共和国のはじまりです。
 ギリシャを含め他の都市国家と異なっていた点は,領土拡大を実行したことです。もともと領土的野心があったわけではなく,周辺諸国から度々侵略を受けたため,防衛的手段として逆に多民族を征服した。
 ローマのえらいところは,「法」を整備したことです。ローマ法に従うことを前提に,住民の政治・文化・信仰の自由を許可した。こうして法治国家を最初にはじめたのがローマでした。
 紀元前3世紀にはイタリア半島を統一し,前2世紀には地中海の制海権を掌握。 前1世紀には,ヨーロッパ北部(主にフランス)など内陸部にも遠征します。
 領土が拡大されるにつれ,今度は統治が難しくなってきます。今と違って交通手段も通信手段も限られていますから,辺境で何か問題があってもすぐに対応できない。しかも中央ローマの意思決定は元老院の話し合いによるもので,時間がかかる。
 そこでローマは帝政の道を模索します。政権を皇帝が一手に握る。そしてすべての意思決定を皇帝にゆだね,政治的・軍事的行動を速やかに実行に移すのです。帝政への移行には少し問題もおこりましたが,紀元前1世紀末,ローマは「ローマ帝国」となりました。そして2世紀ごろ,優秀な皇帝が次々とあらわれ,全盛期を迎えました。
 さて2世紀というと,中国ではの時代です。ローマ帝国と漢が2世紀に同時に存在していたこと。そしてこの2国を結ぶ交易路がシルクロードであったことをおさえておきましょう。【時期・位置】
   
5 1世紀,パレスチナ地方で〔 ① 〕教を改革した〔 ② 〕がキリスト教を開いた。〔 ② 〕の死後,キリスト教は〔 ③ 〕帝国に広まり,〔 ④ 〕世紀のはじめに〔 ③ 〕帝国で公認され,〔 ④ 〕世紀末には国教となった。
①ユダヤ  ②イエス  ③ローマ  ④4
   イエスの誕生年を紀元(1年)として西暦は設定されていますので,当然キリスト教の誕生は1世紀です。【時期】キリスト教は一神教ですので,世界の最高位に存在するのは「神」です。この考え方は別にキリスト教側が皇帝の存在を認めている間は,ローマ帝国にとっても邪魔な存在ではありませんでした。実際,ローマは多神教の国で,これまでいろんな民族の宗教を受け入れてきた寛容な国でした。キリスト教の神1つ増えたところで何ら問題はありません。しかしキリスト教徒の信仰が深ければ深いほどローマ帝国と対立していきます。帝国も弾圧姿勢をみせるしかなかった。
 ローマ帝国は2世紀の全盛期をすぎると,3世紀から内部崩壊をはじめます。広大になりずきた領土を支配できずにいたこと。そして北方のゲルマン民族の動きが活発になってきたことなどが原因です。領内各地では軍人が自ら皇帝を名乗るものも現れ,混乱の度合いが深まります。そんな中で,死後の救済を説くキリスト教が信者を増やし,大きな勢力となってきたのです。
 そしてとうとうローマ皇帝が自らキリスト教徒になり,キリスト教が帝国内で認められるようになりました。この時期が非常に重要です。できれば2段階でおさえておきたい。4世紀はじめ, キリスト教がローマ帝国で公認4世紀末ローマ帝国の国教となる。【時期】「公認」は許されただけです。「国教」となると話は別です。逆にローマ帝国では「キリスト教」以外は認めないということになってしまう。こうしてローマ帝国なきあともヨーロッパはキリスト教一色になってしまったのです。
   
6 〔 ① 〕年からはじまる〔 ② 〕民族の大移動によってローマ帝国は混乱し,東西に分裂した。東ローマ帝国は〔 ③ 〕年に〔 ④ 〕に滅ぼされるまで1000年以上存続したが,西ローマ帝国は5世紀に〔 ⑤ 〕族に滅ぼされ,現在のフランスを中心に〔 ⑤ 〕王国が成立した。 〔 ⑤ 〕王国は9世紀に分裂し,現在の〔 ⑥ 〕・〔 ⑦ 〕・〔 ⑧ 〕のもととなった。
①375  ②ゲルマン  ③1453  ④オスマン=トルコ  ⑤フランク  ⑥フランス  ⑦ドイツ  ⑧イタリア  ※⑦~⑨は順不同
   ローマ帝国から現在のヨーロッパ諸国がおおまかに形成された過程をとらえておきましょう。注意しておきたい点は次の通り
・フランク王国の成立は大和王権全盛期と同時期である。【時期】
・8世紀の世界地図をおさえる。《第10回 史料・地図》【位置】
・フランク王国は現在のフランス・ドイツ・イタリアに分裂した。【位置】
・東ローマ帝国はローマ帝国分裂後,1000年以上も続き,オスマン=トルコによって滅ぼされた。【時期】


 フランク王国が成立したころは5世紀。5世紀は倭の五王とよばれる大王がいて,中国の南朝(宋など)に使者を派遣した時期です。【時期】
 続いて8世紀の世界地図を頭に入れておきたい。この時期は中学生が学ぶ世界の歴史上の重要な国が同時期に存在した。【位置・時期】日本は奈良時代ですね。都は平城京朝鮮半島には新羅。中国は唐(都は長安)。西アジアにはイスラム帝国(都はバグダッド)。東ヨーロッパには東ローマ帝国。西ヨーロッパにはフランク王国が存在します。 
 続く9世紀にフランク王国が分裂します。現在のフランス・ドイツ・イタリアのもとになります。この組み合わせが重要。【位置】ちょうど3つの国境が接する付近に現在のスイスがあり,この境界線が言語境界線となっています。現在でもスイスではフランス語・ドイツ語・イタリア語とロマンシュ語というイタリア語に近い言語の4つが公用語となっている。
 東ローマ帝国を滅ぼしたのはオスマン=トルコというイスラム国家であったということ。滅びた年はおぼえておきたい。これによってイスラム国家がヨーロッパ世界に入り込み,勢力を強めるとヨーロッパの東方貿易がおびやかされ,新しい航路の発見が必要になってきた。という流れになり,大航海時代の1つの要因となりました。1453年は,応仁の乱の1467年に近い出来事でもありますので,歴史の流れを縦横両方につかむ上で基準となる年です。【時期】
 東ローマ帝国は別名ビザンチン帝国とも表現されます。
   
7 ローマ教皇を頂点とする正統派キリスト教を〔 ① 〕といい,一方東ローマ帝国で信仰されたキリスト教は〔 ② 〕とよばれる。
①カトリック  ②正教会
   4世紀,ローマ帝国の国教となったキリスト教は,ローマ帝国分裂後,宗派対立がおこり,西ローマ帝国とのちにその領土を継いだ国々でカトリックが,ローマ帝国で正教会が影響力をもち,11世紀には完全に分裂します。 
   
8 11世紀,イスラム教国:〔 ① 〕が勢力を伸ばすと,東ローマ皇帝はローマ教皇に救援を要請し,ローマ教皇は聖地:〔 ② 〕の奪回をよびかけて,〔 ③ 〕が結成された。〔 ③ 〕は以後200年にわたって7回派遣されたが,失敗に終わっている。
①セルジュク=トルコ  ②エルサレム  ③十字軍
   東ローマ帝国は西アジアと国境を接しますから,常に東方の異教徒の脅威にさらされていた。7世紀,イスラム教が成立すると,早々にキリスト教の聖地:エルサレムはイスラム教の支配下に置かれることになりました。実はエルサレムはキリスト教だけでなく,イスラム教徒にとっても大切な場所(聖地の1つ)とされていたのです。
 11世紀,セルジュク=トルコというイスラム国家が勢力を伸ばし,東ローマ帝国領土を次々と征服していきます。この勢いに対抗しきれなくなった東ローマ帝国は,仕方なしに西のローマ教皇に援助を求めます。ローマ教皇はこれに答え,西側世界のカトリック教徒に遠征軍の派遣を呼びかけます。目的は聖地:エルサレムの奪回。「神がそれを望んでおられる」と。十字軍です。
 これにはローマ教皇としては,純粋な信仰心から異教徒を撃退するという目的もあったでしょうが,これを機会にカトリックと分裂した正教会の東側世界に勢力を伸ばしたいという意図もあったでしょう。第四回十字軍では,もはや聖地奪回が目的ではなく,東ローマ帝国そのものが十字軍の標的となりました。
 結局,約200年にわたって派遣された十字軍は聖地奪回の目的もあやふやになったまま失敗に終わります。原因の1つは,イスラム教側の軍事力の強さです。イスラム世界では現在君たちが学んでいる理科や数学の分野が非常に発達していました。つまり科学技術が発達していたのです。例えば世界中が普段から使用している数字はアラビア数字とよばれ,イスラム(アラブ)が発祥の地ですし,数学や医学・化学の用語にはアラビア語がもとになったものが多い。
 逆にキリスト教側(カトリック)は聖書に基づいた古い伝統を重んじる人々です。科学は魔法ぐらいにしかとらえていないし,魔法を使うものは悪魔や魔女なのです。軍隊の編成も信仰心だけで募った素人兵士が多かった。さらに教会は十字軍に参加すれば,「天国行き」まちがいなしのお墨付きを与えたのです。
 指揮官の技量も問題でした。確かに個々の技量は優れていたものもいましたが,各国各地から集まった王や諸侯クラスの人がわんさかいるのです。だれがどこでどのような仕事を受け持つかの連携や指揮系統がはっきりとしていなかった。後世の天才軍事家であり英雄とされるフランスのナポレオンは,「非凡な二将は,凡なる一将に劣る」といっています。優秀な指揮官が二人いるよりは、凡庸であっても指揮官は一人の方が良いということです。(このような例はどこの世界の歴史でもいくどとなく繰り返されています。) 
   
9 十字軍の敗戦が続くと,ヨーロッパでは教皇権が衰退に向かい,王権が伸張してきた。1215年,イギリスでは強大化した王権に制限を加えるため,貴族や国民は〔   〕を王に認めさせ,国民の権利を主張した。
マグナ=カルタ
   十字軍の遠征の結果,ヨーロッパ世界はどのように変化したのでしょうか?1つは遠隔地交易が活発になったということです。ヨーロッパ各地から遠征部隊が移動するのですから,食料・宿泊・装備などいろいろなものが必要になります。それらは交通の要地に集まりますから,そこでは商業がさかんになります。特に地中海諸都市は十字軍に参加する人々が集まって海路で輸送されますから,大いに賑わった。 北イタリアにはそれまで海上貿易で栄えた都市がありましたから,みんなそこに集まります。さらに北イタリアの商人は兵士を送り届けたあと,イスラム商人とも交易して,大儲けするわけです。
 このように遠隔地交易が活発化したことで,商業がさかんになり,商業都市が成長した。そして当然貨幣経済が発達したのです。この貨幣経済の発達は農村でもおこりました。このころ農業技術が発達し,農作物の大量生産が可能になった。余った農作物は台頭してきた都市の商人を介して取引されるようになった。
 一方,農地を支配していた領主(貴族・騎士)はというと,この人たちには十字軍に参加した兵士が多かった。敗北が続いたわけですから,帰ってこられなかった人が多かった。帰ってきたとしても土地からの農作物に頼っていた生活が,お金がものをいう世の中にどんどん変革していっている。その流れについてこられない領主はどんどん没落していきました。
 さらに十字軍を提唱したローマ教皇の魅力も失われていきます。遠征は失敗続きですので当然です。さてこれらの結果,一番得した人はだれでしょう?国王です。国王は没落した貴族や騎士の領地やそれにともなう特権を吸収していきます。そして新興の商人と結びついて王権を強化していきました。さらにそれまでいいなりだったローマ教皇にも面と向かって対立します。
 十字軍前,ローマ教皇に逆らうと皇帝・国王ですら社会から追放されたのが,十字軍末期には国王がローマ教皇を監禁するようになります。特にイギリス・フランス・スペインといった地域でその傾向が強くなりました。

 13世紀,イギリスでジョンという王が即位します。「John The Lackland」,彼には「失地王」というあだ名がつけられています。ジョンの前はお兄さんのリチャード。彼のあだ名は「Richard The Lionheart」,「獅子心王」。非常に勇猛で優秀な王でした。ジョンはあだ名通り,戦争では敗戦が続き,ローマ教皇とも対立して領土を大幅に失った王でした。それでも国内を強圧的な態度で支配しようとしたため,貴族らの反感を買い,内戦が勃発。しかたなしに「マグナ=カルタ(大憲章)」を制定して,貴族らと和解します。
 マグナ=カルタでは,貴族や聖職者の権利を認め,王の権限が制限されました。王といえども法の支配を受けるという近代の法治主義の原型のようなものとして歴史的に重要です。【歴史的意義】イギリスという国は,現在でも憲法をもたない特殊な国ですが,マグナ=カルタは法の上に立つものとして,現在の政治にも活かされています。
 さてここまで流れを詳しく説明しましたが,要点は次の通り。十字軍の遠征によってローマ教皇権が衰退し,王権が伸張した。特にスペイン・イギリス・フランスでは,その後絶対王政へと進化する。【流れ】
 マグナ=カルタは人権思想の発達という意味で「権利の章典(イギリス)」・「独立宣言(アメリカ)」・「人権宣言(フランス)」に先んじて最初に登場する文書である。【時期】が問われた場合,一番最初と判断するか十字軍遠征期であると判断する。
   
10 十字軍遠征の拠点となった北〔 ① 〕の諸都市では,〔 ② 〕世紀ごろから領主や大商人の保護のもと,自由で人間らしさを追求する文化運動がおこった。これをルネサンスという。
①イタリア  ②14
   十字軍の遠征でもっとも栄えた都市は北イタリア諸都市でした。十字軍は1096年から200年間ですから,次におこるルネサンス14世紀と考える。【時期】
 フランク王国が3分裂したのち,イタリアはしばらくすると統一国家はなくなって,小国の分裂状態になります。その中には共和政をしく国もあり,封建的な土地の支配より,商業が国の基盤となる国が栄えました。金融・貿易で富を築いた領主・貴族・商人は,財産を芸術や文化を保護して,自らの権威を示し,またそれらを楽しみました。
 芸術の模範となったのは,古代ギリシャやローマの寛容で人間味あふれた文化。ルネサンスとはフランス語ですが,イタリア語で「rinascita」=「復活」の意味です。キリスト教が生まれる前のヨーロッパの復活をめざしたのです。
 また一方で,当時のキリスト教批判もおこないました。カトリック教会がいかに本来の精神から離れているか。ローマ教皇を中心とする聖職者がいかに世俗的になっているか。批判の精神は,物事を新たな視点からみる精神を育みます。それが科学的精神です。古代を見直す精神と科学的精神の発達がルネサンスであり,近代の開幕だったのです。 
   
11 ルネサンスは,まず〔 ① 〕が『神曲』を著し,当時の生活語のイタリア語を使用することではじまった。その後フィレンツェを中心に〔 ② 〕(『モナ・リザ』)や〔 ③ 〕(『ダビデ像』)が活躍した。
①ダンテ  ②レオナルド=ダ=ビンチ  ③ミケランジェロ
   最初に栄えたのはフィレンツェという都市です。この都市を支配するメディチ家はもともと薬の商人(メディチとはmedicin=薬の意味)でしたが,銀行を立ち上げて成功,やがてフィレンツェを中心とする一帯を支配するまでになります。
 フィレンツェ出身,あるいはメディチ家の保護を受けた芸術家には,レオナルド=ダ=ビンチミケランジェロの他,ボッティチェリダンテといった人物がいます。
 レオナルド=ダ=ビンチは万能の天才とよばれた人物です。芸術だけでなく,建築,武器,医学などさまざまな分野で才能を発揮した人物でした。しかし彼本人は絵画を極めたいという一心で他の分野を追求していったようです。彼の手記の中には「画家は万能でなければならない。」と書かれています。(『レオナルド=ダ=ビンチの手記』)絵を描く中で,追求したのが遠近法や解剖学,物理学だったのです。彼の代表作『モナ=リザ』は彼は晩年まで手放さなかった絵てあるとか。
 同時期の天才の1人がミケランジェロ。『ダビデ像』などの彫刻で有名です。彼にとって彫刻とはもうすでに石の中に作品があって,余分な部分を削って取り除くだけだそうです。
 絵画では【史料】に出される程度ですが,ボッティチェリも有名です。彼の名前が問われることはまずありません。美術の時間で習う程度です。『ビーナスの誕生』とか,『春(プリマベーラ)』が有名です。
 前後逆になりましたが,ダンテという人物がルネサンスの先駆けとよばれます。『神曲』という長編詩を表します。まずこの『神曲』,トスカナ語で書かれています。トスカナ語とはフィレンツェ一帯の地方名で,イタリア語の方言です。これまでキリスト教世界では,カトリックはラテン語を,正教会ではギリシャ語で本を著すのが慣例でした。これは同時に宗教言語でもあります。ところがこれらの言語は難解で,実際に生活で使用されていませんでした。当然,各地域・国でそれぞれの言語があって,一般人はそれらを話していたのです。
 これを生活語であるその地の言語で著したことに大きな意味があった。宗教語(カトリック)からの離脱です。そしてその内容は聖職者の批判に満ちていました。主人公はダンテ自身。死んでいるはずの古代の詩人に案内されて地獄・煉獄(れんごく)・天国を訪れます。そこには古代から現在までの有名人がいて,聖職者はたいてい地獄に落とされているか,煉獄にいるのを目撃します。こんなことを書いたら中世ヨーロッパでは完全にアウトです。それをやってのけた。
 EUで使用されているユーロ硬貨はその国独自のデザインでつくることができます。イタリアの1ユーロコインのデザインにはダ=ビンチの「人体図」,2ユーロコインにはダンテの肖像が描かれています。
   
12 ルネサンスでは科学技術も発達し,〔 ① 〕・〔 ② 〕・〔 ③ 〕の三大発明が生まれた。
①火薬  ②羅針盤  ③活版印刷
   ルネサンスで開花した科学の精神に加えて,実際に科学技術がイスラム世界から流入します。中でもルネサンスの三大発明とよばれるのが,火薬・羅針盤・活版印刷術です。正式には発明は中国の宋です。これがイスラム経由で,ヨーロッパに入り,ルネサンス時期に改良され実用化された。
 火薬は元の時代にすでに実用化されていましたね。ヨーロッパで実戦投入されるは14世紀に入ってから。まずは大砲という形で投入されます。火薬兵器の登場によって騎士の存在意義が失われました。騎士,日本で武士にあたる人ですが,要するに刀や槍,弓矢を扱う専門的な肉体の技術は必要なくなった。これによって大砲を購入・製造できる王の力がますます強大化します。
 羅針盤はコンパス(方位磁石)です。コンパスを揺れる船の上でも使用できるように改良したのが羅針盤。これによって大航海が後押しされます。
 活版印刷は,文字を彫った四角柱のハンコのようなものを板の上に並べて,インクをつけて印刷すること。中国や日本では文字数が多くて逆に面倒くさいですが,ヨーロッパではアルファベット26文字だけです。それまで書物・文書は職人による手書き(写本)でしたから,出版物には限りがあった。それが印刷術の発明によって一気に大量生産されるようになった。
金属活字(ベルギー アントワープ)
印刷機(ベルギー アントワープ)

 発明ではありませんが,科学における重要な進歩に天文学があります。特に「地動説」・「地球球体説」は,羅針盤と結びついて大航海時代へとつながっていきます。
 
   
13 〔 ① 〕年,〔 ② 〕の援助を受けたコロンブスは大西洋を横断し,〔 ③ 〕諸島に到達した。その後〔 ② 〕はメキシコアステカペルーの〔 ④ 〕帝国を滅ぼし,アメリカ大陸のほとんどは〔 ② 〕の植民地となった。一方ポルトガルは〔 ⑤ 〕がインド航路を開拓するなどアジア交易を手中に収めた。アメリカ大陸では〔 ⑥ 〕だけがポルトガルの植民地となった。
①1492  ②スペイン  ③西インド  ④インカ  ⑤バスコ=ダ=ガマ  ⑥ブラジル
   「16世紀はスペインとポルトガルの世紀」とおぼえておきましょう。【時期】日本は室町時代です。16世紀の問題では必ずスペイン・ポルトガルを【セット】で思い出すこと。
 大航海の主役となったのはスペインとポルトガルでした。これまでヨーロッパの中心的な交易の場は地中海でした。しかしこの交易の主導権が徐々にイスラム教徒の手に移ってきた。元来,陸軍国家であったイスラム教国の海軍力がオスマン=トルコのもとで強化されてきたのです。1453年東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン=トルコは陸海ともにヨーロッパ世界へ勢力を広げてきたのです。
 ヨーロッパでは香辛料,特にこしょうは手に入りません。肉の防腐剤としてのスパイスはヨーロッパ人にとって必需品でした。何とかしてオスマン=トルコを介せずに香辛料貿易ができないか?これが最大のきっかけでした。
 また十字軍遠征以降,カトリック教会の権威が衰退します。なんとかこの権威を復活させたい。そのためには新たな信者の獲得と富が必要です。それらをヨーロッパ以外の地に求めようとした。そんな中,地球球体説羅針盤が現れたのです。
 地中海以外に交易ルートを開拓するには大西洋に出るしかありません。大西洋に出るには地中海出口に位置するスペイン・ポルトガルは優位でした。 ちょうど15世紀末,ローマ教皇がスペインから選出されたというのも後押しになりました。
 コロンブススペインの援助を受けたイタリア人であること。そして最初の到達地は西インド諸島。コロンブスはインドを目指していましたから,着いた場所をインドと思った。そこで現地の人はスペイン語でインド人を表す「インディオ」とよばれたのです。だから「インド」という言葉が使われているからといってインドではありません。
 スペインはその後,主にアメリカ大陸に進出します。アジアではフィリピンです。スペインが進出した場所はすべて現在でもカトリックであることを理解しておきましょう。またスペインがアメリカ大陸で征服した文明は,メキシコのアステカペルーのインカです。これらも【位置】とともに名称もおぼえておきたい。
古代メキシコのピラミッド(テオティワカン)

 一方,ポルトガルバスコ=ダ=ガマ(ポルトガル)インド航路を発見して以来,アジア貿易が中心です。アメリカ大陸ではブラジルです。これは超重要でしたね。絶対に落とさないこと。
   
14 16世紀はじめ,〔 ① 〕でルターが,スイスで〔 ② 〕が宗教改革をおこない,プロテスタントとよばれる新教が成立した。 一方ローマ教皇を中心とするカトリックはスペイン・ポルトガルの海外進出と結びついて,布教のための〔 ③ 〕を結成した。
①ドイツ  ②カルバン  ③イエズス会
   カトリック教会の権威の失墜は,16世紀に極まります。自らの礼拝堂があるサン=ピエトロ(セント=ピーター) 寺院の修復費を稼ぐため,「免罪符」というのを販売します。「免罪符」とは「罪を免れるお札」。天国への片道切符です。ついに天国行きもお金で解決しようとしたのです。これに猛反発したのが,ドイツの宗教学者ルターでした。彼は免罪符販売などカトリック教会への批判を「95ヶ条の意見書」としてまとめて提出します。こうして旧来のカトリックに抗議(プロテスト)した人々を「プロテスタント」とよぶようになりました。
 宗教改革は代表的な2人の人物の出身国と活動国が重要です。ドイツ人ルターはドイツで,フランス人カルバンはスイスで宗教改革です。国の組み合わせが正誤問題ではポイントとなります。【落とし穴】
 一方,ますます勢力を失ったカトリックはスペイン・ポルトガルの大航海に乗じてアジア・アメリカへの布教を拡大します。その中心の組織となったのがイエズス会。日本に来たザビエルスペイン出身のイエズス会士です。
   
15 1588年に〔 ① 〕がスペインの無敵艦隊を破ると,国王のエリザベス1世は1600年に〔 ② 〕を設立するなどスペインにかわって海外に進出して王権を強化し,絶対王政を確立した。
①イギリス  ②東インド会社 
   いち早く海外に進出したスペインは,「太陽の沈まない国」とよばれ,世界の海を(後世に)無敵艦隊とよばれる海軍で制しました。1588年,これを迎え撃ったのがイギリスの艦隊でした。これが歴史の転換点となりました。無敵艦隊はその名に恥じず巨砲を備えた巨艦ぞろいでしたが,対するイギリスは海賊をも含めた小艦ぞろい。実はこれが功を奏した。イギリスは小回りの利く艦船でスペイン艦隊の間を縫うように接近戦を持ちかけます。対するスペインの戦艦はそれぞれの距離が縮まりすぎて自慢の大砲を撃てず,敗北します。
 この出来事をきっかけに世界の海を制するのはスペインからイギリスになります。そしてここからイギリスが世界をリードしていくことになりました。
 1588年は日本で秀吉刀狩をおこなった年であるということ。時のイギリス国王がエリザベス1世であり,イギリス絶対王政の全盛期であったこと。エリザベスが海外貿易の中心的組織として東インド会社を設立したのは,関ヶ原の戦いと同年の1600年であること。したがってエリザベスは秀吉・家康と同時期の人物であること。そして「17世紀はイギリスの世紀」となったということをおさえておきましょう。【時期】
   
16 1642年,イギリスで〔 ① 〕革命が勃発し,指導者の〔 ② 〕は国王を処刑し,共和政を開始した。しかし〔 ② 〕が独裁政治をおこなったため,その死後再び王政が復活した。国民は再び市民革命をおこし,王を追放してオランダから新しい国王を迎え,〔 ③ 〕年,この王に「権利の章典」を認めさせた。この革命を名誉革命という。 イギリスの思想家:〔 ④ 〕は,この革命を正当化し,人民の革命権を説いた。
①清教徒(ピューリタン)  ②クロムウェル  ③1688  ④ロック
   ここから市民革命です。市民革命は市民(国民)が中心となって絶対王政を倒し,民主的な政権を打ち立てることをいいました。最初にイギリス革命です。17世紀に清教徒革命名誉革命の2段階でおこります。まずは清教徒革命。 
 清教徒とはイギリスのカルバン派(プロテスタント)を指す言葉です。英語に直すと「ピューリタン」といい,ピューリタン革命ともいいます。「pure(清い)な人々」という意味です。ここで少しわかりにくいのは,イギリスはそもそもプロテスタントの国だったということです。イギリスはプロテスタントの中でもイギリス国教会という他にはない特殊な新教国でした。教義はほとんどカトリックとかわりませんが,カトリックから分離独立します。宗教的指導者は国王自身が兼ねます。イギリス国教会の首長である国王が絶対王政をおこなっており,これを倒すために同じプロテスタントの清教徒が革命をおこした。これが清教徒革命です。かなりの長期間の内戦を経て,国王は処刑され,クロムウェルを長とする共和政がはじまりました。「国王を処刑」とあれば清教徒革命です。

 その後,クロムウェルは清教徒の教義(禁欲)を国民におしつける独裁的な政治をおこなったため,その死後,混乱の中から再び王家が復活し,絶対王政をおこないます。当然これに対し,再び革命がおこるのですが,これが名誉革命です。このときは国王を追放し,同じプロテスタント国(カルバン派)であるオランダから新たな国王を迎えた。「国王を追放」とあれば,名誉革命です。血が流れなかったから「名誉」なのです。
 ただし国王がいる以上,専制政治がおこなわれる可能性がありますから,それを抑える必要があります。そのために新たな王に認めさせたのが「権利の章典」でした。そしてこの中で議会の権利や市民の自由が承認されたのです。
 こののち事実上,国王は政治権力を行使できない状態になります。かわって首相が行政権を行使して,王ではなく議会に対して責任を負う制度が成立しました。これが議院内閣制(責任内閣制)のはじまりです。この制度は現在の日本の政治にも取り入れられています。
 清教徒革命は日本では鎖国の完成の時期にあたり,名誉革命は徳川綱吉の元禄時代にあたります。同時期のことであるとおさえておきたい。【時期】
 名誉革命と権利の章典は必ず【セット】にしておくこと。年代は名誉革命が1688年,権利の章典は1689年と1年のずれがありますが,権利の章典の年をおぼえておくほうがおぼえやすい。フランス革命(1789年)のちょうど100年前です。さらに名誉革命は啓蒙思想家:ロックとあわせておきたい。【セット】ロックは名誉革命を正当化し,著書『市民政府二論』で,人民の革命権を説きました。
 ここで少し啓蒙思想についてお話します。「啓蒙」とは「光をあてる」という意味です。「啓」は「開く」,「蒙」は「盲」,つまり「暗い」という意味です。「盲を開く」で「光をあてる」という意味。英語など西洋の言葉でも「光をあてる」という意味の「enlighten」という言葉を使います。
 例えば,暗い場所でボールに光をあてると光があたっている部分は見えますが,光が当たっていない場所(裏面)はみえません。人間が理解している部分は世界の本当の姿の一部分に過ぎないということです。そこへ見えない部分に光をあてて考えてみようというのが「啓蒙思想」です。これまで知らなかった部分がみえるでしょ。これまで一般の人々は苦しみの中で生きてきた。本当は人には生まれながらに自由や平等という権利が備わっていてそれが無視されてきただけなんだ。自由や平等を主張してもいいんだ。でもただ自由や平等を叫んでも世の中はよくならない。どうすればよい社会がつくれるか,そこにも光をあててみようというのです。その光のあて方は思想家ごとにそれぞれ違いますが,多くの人の目を見開かさせたという意味で,このころの啓蒙思想というのが注目されるのです。
   
17 アメリカでは17世紀からイギリスからの入植者が東海岸に〔 ① 〕の植民地を形成し,18世紀には独立運動がはじまった。1775年に独立戦争が勃発,〔 ② 〕年に独立宣言が発表された。1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法にはフランスの思想家:〔 ③ 〕の三権分立の影響がみられる。
①13  ②1776  ③モンテスキュー 
   イギリス人のアメリカ入植はエリザベス女王のころにはすでに始まっていましたが,17世紀になってさらに加速します。イギリスで清教徒が弾圧されると,清教徒たちの中には信仰の自由を求めて新天地へ旅立つものが現れました。彼らが大西洋を越えたアメリカ北東部沿岸につくった植民地はニューイングランドとよばれます。 さらに東海岸にそって北から南まで13の植民地が形成され,これらが独立革命によってイギリスから独立しました。アメリカ国旗の赤と白の横シマはこれら独立当時の13州を表しています。
 独立宣言の【史料】は入試では必須の史料です。「生命・自由および幸福追求の権利」この文句がアメリカ独立宣言を象徴する部分です。日本国憲法第13条にもこの文句が使用されています。またこの宣言の最後には国民の人権を無視するような政府があれば,国民はこれを廃して新しい政府をつくることができるとあります。ここにはロック革命権の影響を受けていることがわかります。
 アメリカは独立後,合衆国憲法を制定して,大統領制と三権分立を打ち出します。ここにはフランスの思想家:モンテスキューの影響がうかがえることもおさえておきましょう。
   
18 17世紀からフランスでも絶対王政がはじまり,ルイ14世はパリ郊外に〔 ① 〕宮殿を建設した。その後相次ぐ外征の失敗やアメリカ独立戦争でのアメリカへの援助などから財政難となり,〔 ② 〕年,バスチーユ牢獄の襲撃事件をきっかけにフランス革命が勃発した。発表された人権宣言では人民主権を唱えるフランスの思想家:〔 ③ 〕の影響がみられる。
①ベルサイユ  ②1789  ③ルソー 
   ルイ14世のころ,絶頂を迎えたフランスの絶対王政は相次ぐ戦争の敗北(主に対イギリス)でその財政基盤がゆるぎます。 フランス革命以前のフランスでは平民(庶民=国民の大部分)が国王・聖職者(僧)・貴族の生活を支えるための重税に苦しんでいました。(【史料】絵が出題されます)ルイ16世が即位するころには,国の財政は最悪の状態となり,ついにルイ16世は特権身分であった貴族や聖職者身分にまで課税しようとします。しかしルイ16世は貴族や聖職者に丸め込まれて,この案件はうやむやになります。これに怒った平民代表の議員は議会を離脱し,国民の権利を訴えます。
 これに呼応して1789年7月14日,パリ市民が暴動をおこしました。「バスチーユへ」と。パリ市の東の一画にあるバスチーユには,当時政治犯が収容されていましたが,囚人の数はそれほど多くなかった。市民の目的は政治犯の釈放というより,バスチーユの保管されている武器が目的でした。武器がなければ国王軍には勝てない。「武器をとれ!」と。
 この結果,平民代表が結成した国民議会は「人権宣言」を発表。この中にはルソーが説いた人民主権(国民主権)の考えや国民の財産権の保障がもりこまれました。
   
19 フランス革命では〔 ① 〕が処刑され,警戒を強めた周辺諸国が同盟を結び,革命に対する干渉戦争をおこなった。これに対抗し,軍人であった〔 ② 〕は皇帝の地位についてヨーロッパのほぼ全域を征服したが,〔 ③ 〕遠征に失敗して失脚した。 
①ルイ16  ②ナポレオン  ③ロシア 
   革命勃発時,ルイ16世は国民の要求を受け入れ寛大な態度を示していました。このとき国民の方も王政を廃止しようとは考えいませんでした。しかし国王は国民を裏切り国外逃亡を計画します。ここで国民の方も王を見限った。逃亡途中で捕らえられたルイ16世は妻のマリー=アントワネットとともにギロチンにかけられ処刑されます。
 これに衝撃を受けた周辺の王国はフランスの革命が自分の国にも波及するのをおそれて,フランス革命に対する干渉戦争を開始します。革命を失敗させるためです。革命に対する干渉戦争の目的を問われたら,フランス革命だけなく,ロシア革命でも同じように答えて下さい。目的は同じです。【説明(目的)】
 一方周辺諸国から敵視されたフランスでは,これを撃退する英雄があらわれました。ナポレオン=ボナパルトです。彼は天才的な軍事行動によって頭角を現し,ついにはイギリス・ロシアを除くほとんどの国を逆に制覇してしまいます。そして自ら皇帝となってフランスに栄光をもたらしました。ドイツの作曲家ベートーベンの交響曲第五番『英雄』は彼のために書かれた曲です。
 しかし最終的にはロシア遠征に失敗。退却したナポレオンは遠征してきたイギリス軍に破れ,捕らえられて島流しとなりました。 
   
20 〔 ① 〕世紀,イギリスの産業革命は〔 ② 〕が改良した蒸気機関にはじまり,〔 ③ 〕工業の分野で発達した。 産業革命の発達は資本主義を産み出し,イギリスの〔 ④ 〕は『国富論』の中でこの考えを理論化した。一方,資本主義がもたらす労働問題の解決として〔 ⑤ 〕主義を19世紀のドイツの〔 ⑥ 〕が理論化した。
①18  ②ワット  ③綿工業  ④アダム=スミス  ⑤社会  ⑥マルクス 
   「産業革命は18世紀,イギリスで,綿工業からはじまり,動力には蒸気機関が使用された。」と丸暗記です。綿工業の原料となる綿花はインドやアメリカから,動力となる蒸気機関の燃料(石炭)は自国で調達しました。
 産業革命は単に手工業から機械工業へと転換したことだけをいうのではありません。それにともなう社会の変化を含めていいます。社会の変化とは農業社会から工業社会となり資本主義が生まれたことです。産業革命がおこってまもなく,アダム=スミス(イギリス)は,各個人の利益の追求は,結果として「見えざる手」によって社会全体の利益の増進となると説きました。
 しかし資本主義が発達するとさまざま社会問題がおこります。経済格差はその1つです。これを解決するためにマルクス(ドイツ)は,労働者が団結し,労働者による革命によって労働者が権力を握る必要があると説きます。 これが社会主義です。社会主義は共産主義といういい方もします。社会主義は「生産手段の共有」を前提とし,富の平等な分配経済的な平等を説く思想だからです。したがって共産党という政党は社会主義の政党だと考えて下さい。
   
21 1861年,アメリカでは〔 ① 〕貿易や奴隷制反対を唱える北部と〔 ② 〕貿易や奴隷制維持を唱える南部が対立し,南北戦争に発展した。北部の大統領リンカーンは1863年に〔 ③ 〕を発表し,工業化の進んだ北部が勝利した。 
①保護  ②自由  ③奴隷解放宣言 
   南北戦争の原因は,黒人奴隷の問題が大きく取り上げられますが,南北の対立はそれだけではありませんでした。北部では1830年代から産業革命がはじまり工業化が進みました。すると自国の工業製品を保護するためイギリスから輸入する工業製品に関税をかける保護貿易政策を主張します。
 一方,綿花栽培のさかんな南部は,自国の綿花を関税をなくして安くイギリスに売りたい自由貿易政策を主張します。ここに黒人奴隷も絡んでくる。工業化が進んだ北部では労働力としての奴隷は必要なくなってきます。しかし南部では綿花栽培に黒人奴隷が必要だった。
 このような対立の中で,ストウ夫人が『アンクルトムの小屋』という本を出版し,爆発的に売れました。この本を通して黒人奴隷の悲惨な実情をしった北部の人々の南部批判は大いに高まります。そして奴隷制反対を訴えたリンカーンが大統領に就任すると,南部はアメリカ合衆国を離脱し独自の大統領を立てました。こうして内戦が勃発したのです。
 戦争中の1863年,リンカーンは奴隷解放宣言を発し,戦後法的には奴隷制は廃止されました。またこの年,激戦地ゲティスバーグで有名な演説をします。「人民の,人民による,人民のための政治」です。(ただしリンカーン自身の言葉ではありません)これはよく【史料】に出る文句です。 
   
22 ドイツ北部の〔 ① 〕では,首相の〔 ② 〕が「鉄血政策」を唱え,産業革命を進展させた。1871年,〔 ① 〕がドイツを統一してドイツ帝国となると,オーストリア・イタリアと〔 ③ 〕を結ぶび, イギリスに対抗しようとした。 
①プロシア(プロイセン)  ②ビスマルク  ③三国同盟 
   現在ドイツとよばれている地域には,相当長い間統一した国は存在していませんでした。19世紀,この分裂した地域には2つの強国が存在し,ドイツの覇権を争います。1つはオーストリア,そしてもう1つはプロシア(プロイセン)です。このプロシアでビスマルクという人物が首相になると,「現下の大問題は,言論や多数決によって解決できるものではなく,鉄と血によって決せられるのである」と演説します。「鉄」とは武器,「血」とは戦争です。そしてその通り戦争によって統一を進め,1871年,プロシア国王がドイツ皇帝となり,ドイツ帝国が成立しました。
 その後,ビスマルクはイギリス・フランスを仮想敵国として国内産業を充実させ,外交政策を展開し,1882年,オーストリア・イタリアと同盟を結びます。これが三国同盟です。三国同盟は三国協商に比べてずいぶん早い時期に成立していることに注意して下さい。【時期】日本では日清戦争がはじまるずっと前に,第一次世界大戦の兆しがあったということです。 
   
23 19世紀,イギリスを筆頭に資本主義が発達した欧米諸国が武力で植民地を広げようとした動きを帝国主義という。特にイギリスの〔 ① 〕政策(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)とドイツの〔 ② 〕政策(ベルリン・ビザンチウム・バグダッド)は激しく対立し,イギリスはドイツの三国同盟に対抗してロシア・フランスと〔 ③ 〕を結んだ。 
①3C  ②3B  ③三国協商 
   資本主義・帝国主義をとる国として他の国より,一歩も二歩もリードしていたのはイギリスでした。特にその最大の植民地インドを守ることはイギリスにとって最重要課題でした。そのためエジプトのカイロ(Cairo),南アフリカのケープタウン(Capetown),インドのカルカッタ(Calcutta) を軸として進められたイギリスの植民地政策を頭文字をとって3C政策とよびます。
 一方,イギリスに追いつき追い越せと勢力を伸ばしてきたのがドイツです。ドイツ皇帝はビスマルクを解任したあと,積極的な世界戦略を打ちたてました。海軍を増強し,首都ベルリン(Berlin),トルコのイスタンブール(旧名:ビザンチウム Byzantium)とバグダッド(Baghdad)を鉄道で結ぶ3B政策を進めます。中東まで鉄道が完成すると,その先にはインドがあります。
 イギリスの方はというとドイツだけを念頭に置くことはできませんでした。大国ロシアの動向も要注意です。ロシアが南下政策を進めると,これもまたインドにいきつく。対ロシアには日本と同盟を結ぶことで対抗しようとします。日英同盟です。これが功を奏してか,日本はロシアに勝利することができました。
 そこでイギリスは対露政策を転換するのです。「あの小国日本にも勝てないぐらいだから,ロシアはたいしたことはない。今はドイツの方がよっぽど脅威だ。」として,フランス・ロシアと同盟を結んで,ドイツを挟み撃ちしようとします。これが三国協商です。
 したがって三国協商のタイミングは日露戦争(1904-1905)のあとであることをおさえておきましょう。【時期】これで第一次世界大戦突入の準備が整いました。
三国協商は三国同盟を挟み撃ち
   
24 〔 ① 〕半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれ,民族対立の激しい地であった。〔 ② 〕年,ボスニアの〔 ③ 〕でオーストリア皇太子がセルビアの青年に暗殺(〔 ③ 〕事件)されると,第一次世界大戦へと発展した。 
①バルカン  ②1914  ③サラエボ 
   第一次世界大戦の発端はバルカン半島です。ここは多民族・多宗教の地で民族対立が絶えなかった。1つまちがえば,大きな戦争になるという例えで「ヨーロッパの火薬庫」とよびました。
 ボスニアという国の首都:サラエボにオーストリア皇太子が訪れます。そこへセルビアという国の青年がやってきて皇太子を射殺。オーストリアはセルビアに宣戦布告します。サラエボ事件です。
 そのセルビアはロシアと仲のよい国です。したがってロシアがセルビア側につきます。これに対し,オーストリアとドイツは同盟国ですので,オーストリアにはドイツがつきます。ロシアはイギリス・フランスと同盟を結んでおり,日本はイギリスと同盟を結んでいます。日本がイギリス側にたって参戦した理由を問われますから,「日英同盟を結んでいたため。」と答えられるようにしておきましょう。【説明(理由)】
 これらイギリス側の国々は連合国とよばれ,ドイツ・オーストリア側にはトルコ(オスマン=トルコ)とブルガリアがつき,こちらは同盟国とよんでいます。
 さてドイツと三国同盟を結んでいたイタリアというと,なんと連合国側についてドイツを裏切ります。これはイタリアがオーストリア領内に領土的野心をもっていたからです。戦後,その領土をオーストリアから頂くことを条件にイギリス側についたのです。
 主な国をまとめると次のようになります。連合国・同盟国という名前は特に気にする必要はありません。便宜上区別しているだけです。
連合国…イギリス・フランス・ロシア・日本・イタリアなど
同盟国…ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリア
中立国…アメリカ
 
   
25 〔 ① 〕年,ロシアで帝政が倒され,〔 ② 〕主義政府が樹立されるロシア革命がおこると,ロシアは戦争から撤退した。同年,〔 ③ 〕が連合国側に参戦したため,ドイツは降伏した。 
①1917  ②社会  ③アメリカ 
   第一次世界大戦は長期戦となりました。長期戦となった原因の1つは新兵器が投入されたことです。
 まず戦争は塹壕(ざんごう)戦でおこなわれました。塹壕とは,兵士が機関銃や大砲から身を守るために掘られた穴や溝です。ここに隠れている以上,敵の銃弾を受けることはあませんが,逆に敵陣に攻め込むこともできません。武器は消費されますが,双方ともたいした戦果を得ることもなく,にらみ合いの状態が続いたのです。
 そこで新兵器の開発が進められた。毒ガスが使用されます。目や呼吸器に影響を与えるガスは敵を押さえ込むのに有効でした。この戦争に従軍したヒトラーもマスタードガスの餌食になり,一時視力を失っています。
 そして戦車です。戦車は相手の銃弾を跳ね返し,多少の幅の塹壕なら超えて進むことができます。戦車は地上最強の兵器ですが,弱点があります。上からの攻撃に無防備なのです。そこで戦闘機(飛行機)が活躍します。飛行機は1903年,ライト兄弟が人類初飛行に成功したばかりの輸送機ですが,第一次世界大戦で飛躍的に進歩しました。最初は偵察が任務でしたが,上空からの爆撃用,空中戦闘用と発展していきます。
戦死者を弔う墓地
第一次世界大戦の激戦地フランスのベルダン

 さらに潜水艦も開発されます。ドイツが開発した「Uボート」は両大戦で活躍し,対戦国を悩ませます。第二次世界大戦後,イギリスのチャーチル首相は「本当に恐ろしかったのはUボートだけである」といいました。ドイツはこの潜水艦を使ったある作戦を実行します。ドイツ無制限潜水艦作戦といいます。敵国の船ならなんでも攻撃するぞという作戦。1915年,イギリス船籍の客船ルシタニア号がこの被害にあいます。その犠牲者の中にはアメリカ人も含まれていた。これで中立を宣言していたアメリカのドイツに対する印象が悪くなります。ドイツの無制限潜水艦作戦はその後一旦中止されますが,1917年,再び作戦が宣言されるとアメリカは満を持してドイツに宣戦しました。
 このように新兵器が投入された長期戦では,大量に戦死者が出たことは簡単に想像できます。特に寒い国であるロシアの国民・兵士の疲弊はひどかった。そしてロシア革命がおこります。
 ロシア革命は2段階で進みます。まずは帝政ロシアの崩壊。ロシア帝国が滅んで,共和政がしかれます。次に社会主義革命レーニンが指導者となって社会主義政府が成立しました。問題で「帝政の崩壊(ロシア帝国が滅ぶ)」とあってもロシア革命の流れの1つだと判断して下さい。最終的には社会主義政府(ソビエト政府)が成立しますが,それだけをとってロシア革命というのではありません。
 革命政府はただちにドイツとの単独講和を申し入れ,大戦から離脱します。一方ドイツは今まで東西に戦力を二分されていましたが,ここからは西部戦線に力を集中できます。一気に最後の攻勢に出ますが,結果的に物資にも兵力にも余裕のあるアメリカを相手にしたことが,降伏へとつながりました。
   
26 〔 ① 〕年,〔 ② 〕で講和会議が開かれ,アメリカ大統領の〔 ③ 〕は平和14原則を発表し,無賠償・無併合を唱えたが,ドイツに対しては多額の賠償金を含む過酷な〔 ④ 〕条約が結ばれた。 しかし国際連盟の設立は採用され,1920年,スイスの〔 ⑤ 〕に本部を置いて発足した。常任理事国としてイギリス・フランス・イタリア・〔 ⑥ 〕が選ばれたが,〔 ⑦ 〕は本国議会の承認を得られず不参加となった。
①1919  ②パリ  ③ウィルソン  ④ベルサイユ  ⑤ジュネーブ  ⑥日本  ⑦アメリカ 
   第一次世界大戦の講和会議はフランスのパリで開かれます。【位置】このときアメリカ大統領は講和条約に締結に際して,「14ヶ条の平和原則」を提唱します。賠償金はとらない,領土の併合はおこなわないなど今後,戦争の原因となる要素を取り除こうとした。しかし実際には国境を接するフランスはドイツを徹底的にダメにしてやろうという感情が勝り,ドイツを再起不能にしてやろうとベルサイユ条約を締結しました。これによってドイツは海外植民地のすべてとヨーロッパ領土の13%を失います。 莫大な賠償金も請求されました。
 莫大な賠償金返済は事実上不可能で,ドイツは紙幣を乱発するしか手はなかった。そのため貨幣価値が下がり物価が上昇。これをインフレーションといいますが,このころのドイツの場合ハイパーインフレという状態になります。昨日と今日ではパンの値段が倍にまで上昇。1923年には卵一個買うのに3200億マルク,牛乳1ℓで3600億マルク必要になります。紙幣の額面は最高100兆マルク札が用意されました。私の手もとにも1923年発行の500億マルク札がありますが,これでは卵1個も買えない紙くずです。そんな中,ナチスやヒトラーが登場するのです。
500億マルク札(1923年発行)

 無視された14ヶ条の平和原則ですが,1つだけ採用されたことがあります。国際平和組織の設立です。これは国際連盟として発足します。戦勝国であったイギリス・フランス・イタリア・日本は組織の中でも影響力をもつ常任理事国として参加しますが,アメリカは議会の承認を得られず,不参加だったことが重要です。【落とし穴】また敗戦国ドイツや社会主義国ソ連も参加が認められませんでした。特にアメリカが不参加であったことや安全保障のために経済制裁しかできなかったことが,第二次世界大戦を防げなかった要因の1つとなりました。
 本部のジュネーブができるかどうかは差がつくところです。ジュネーブはスイス。スイスは当時から永世中立国であったため,現在でも国際機関の多くが本部を置く国です。
   
27 〔 ① 〕年,ドイツで当時世界で最も民主的な憲法である〔 ② 〕憲法が制定された。〔 ③ 〕年には世界初の社会主義国である〔 ④ 〕が成立し,1928年から〔 ⑤ 〕が〔 ⑥ 〕をはじめて,工業力の強化をはかった。 
①1919  ②ワイマール  ③1922  ④ソビエト社会主義共和国連邦  ⑤スターリン  ⑥(第一次)五ヶ年計画 
   ドイツは戦後,帝政が廃止され,共和国となりました。その法的基礎となったのがワイマール憲法です。ベルサイユ条約と同じ1919年ですからおぼえやすい。
1919年の重要事項【時期】
・ベルサイユ条約
・ワイマール憲法(ドイツ)
・三・一独立運動(朝鮮)
・五・四運動(中国)

 ワイマール憲法は当時世界で最も民主的な憲法とよばれました。理由は労働者の団結権や団体交渉権など世界で最初に社会権を認めた憲法だったからです。(その他女性参政権も認められた)これは重要ですね。「大日本帝国憲法で社会権が認められた」などという文は誤文です。認められたのは1919年,ワイマール憲法です。【時期・落とし穴】
 また1922年,ついにソ連が正式に発足します。【時期】正式名はソビエト社会主義共和国連邦。名実ともに世界初の社会主義国です。あまり書かれていないことですが,このときの最高指導者は引き続きレーニンです。スターリンが登場するのは,次の五ヶ年計画からです。【時期】
 計画経済というのは社会主義国の経済政策の特徴です。必要なものを必要なだけ生産する。こうすれば,その期間の物価が安定する。国民の収入も安定する。その結果,経済的不平等も生じないし,景気の変動もない。大量生産・大量販売・大量消費の資本主義経済に対する政策です。この結果,世界恐慌といった世界的不景気もソ連にはおこらなかった。【説明(理由)】

 上のグラフは世界恐慌がおこった年を100とした各国の鉱工業の様子です。ソ連を除く資本主義国が恐慌の影響を受けて翌年から100(1929年)を下回っているのに対し,ソ連だけは順調に鉱工業生産を伸ばしている。五ヶ年計画によって恐慌の影響を受けなかったからです。
   
28 〔 ① 〕年,アメリカのウォール街で株価の大暴落がおこると,不景気の波は世界中にひろまった。これを〔 ② 〕という。アメリカは〔 ③ 〕川の総合開発などのニューディール政策を,イギリス・フランスブロック経済を実行して,景気回復をはかった。一方,ヒトラー率いるドイツの〔 ④ 〕やムッソリーニ率いるイタリアの〔 ⑤ 〕党は,国家を党の統制下におき,海外侵略をおこなう〔 ⑥ 〕をすすめた。 
①1929  ②世界恐慌  ③テネシー  ④ナチス(ナチ党)  ⑤ファシスト  ⑥ファシズム 
   世界恐慌がおこった1929年は,ベルサイユ条約のちょうど10年後の出来事です。年代を導くのはそれほど難しくないのでしっかりとおぼえておきましょう。また日本は昭和時代に入ってます。【時期】
 世界恐慌に対してアメリカはニューディール政策という一連の対策を打ち出しますが,その代表的な例としてテネシー川の総合開発があります。テネシー川はミシシッピ川の支流ですが,場所までおぼえる必要はありません。選択肢文に出てくる程度でしょう。
 ブロック経済は基礎編で説明済みですが,保護貿易政策の典型例であることはしっかりとおさえておく。
 ファシズムをおこなったイタリア・ドイツは政党名まで党首とともにしっかりおぼえておくこと。イタリアのファシスト党はファシズムの語源です。ファシズムの考えをもつ人を指して「ファシスト」ともいいます。
 ナチスの表記は「ナチ党」と書かれていることもありますが,どちらでも結構です。正式名称を国家社会主義ドイツ労働者党といい,これを略してナチス・ナチ党といいますが,いずれもドイツの敵対国がよんだ蔑称です。ナチスはナチ党の複数形とし,ナチ党の党員を指すという見方もありますが,細かいことを考える必要はありません。ただナチス党といういい方はあまりしないので気をつけた方がよいです。 ファシズムのことをナチスを文字って「ナチズム」といういい方もします。 
   
29 〔 ① 〕年,ドイツが〔 ② 〕に侵攻したことで第二次世界大戦がはじまった。1940年,フランスがドイツに降伏すると,日本はフランス領〔 ③ 〕進出が容易になり,戦争は東南アジア・太平洋地域へも拡大した。 
①1939  ②ポーランド  ③インドシナ 
   1939年は第二次世界大戦がはじまった年。1919年のベルサイユ条約1929年の世界恐慌と続いて,その10年後です。流れとしておぼえやすい。【時期】
 ポーランドを征服したドイツは,反転しデンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクと西側諸国を占領します。 その勢いで宿敵フランスに侵攻,1940年6月にはパリを占領します。
 このとき日本は東南アジア進出を狙っていましたから,フランスの降伏は日本にとって渡りに舟でした。お互いの利害関係が一致した日本・ドイツ・イタリアは同じ年の9月,日独伊三国同盟を締結しています。太平洋戦争がはじまる前です。【時期】
   
30 1945年2月,米英ソの三国がソ連の〔 ① 〕で会談を開き,ドイツの戦後処理,ソ連の対日参戦を取り決めた。5月にドイツが降伏すると,7月にドイツの〔 ② 〕で再び会談が開かれ,戦後日本無条件降伏を取り決めた〔 ② 〕宣言がアメリカ・イギリス・〔 ③ 〕の名で発表された。 
①ヤルタ  ②ポツダム  ③中華民国 
   戦争の終結が見えてきた1945年アメリカ・イギリス・ソ連らは戦後処理について話し合います。おぼえておくべき会議は2つ。ヤルタ会談ポツダム会談です。この会談に集まった国の組み合わせと話し合われた内容が重要になります。【セット】
 ヤルタはソ連の黒海沿岸クリミア半島というところにある保養地でした。ここにアメリカのフランクリン=ルーズベルト,イギリスのチャーチル,ソ連のスターリンが会合します。話し合いの主な内容は次の通り。
ヤルタ会談
・ドイツの戦後処理
・ ソ連の対日参戦

 戦後ドイツを分割統治すること。このときドイツの一部をソ連が受け持ったことから,戦後ドイツは東西に分裂し,冷戦がはじまりました。そのため戦後冷戦の世界を「ヤルタ体制」ともいいます。
 またソ連は日本と中立条約(日ソ中立条約)を結んでいましたが,これを破棄して日本に攻め入るという約束をします。これは日本に決して悟られてはいけない秘密協定でした。
 ドイツは1945年,5月に降伏します。7月,ドイツのベルリン近郊のポツダム宮殿で米・英・ソの3ヶ国が再び会合します。もちろん主な話し合いの内容は,日本の戦後処理についてです。このときアメリカの大統領はルーズベルトからトルーマンにかわっていますが,これは発展レベルです。
 このとき米・英・中(中華民国)の名で日本の無条件降伏を勧告するポツダム宣言が発表されます。この国の組み合わせが要注意。【落とし穴】会談に参加したソ連ではなく中国。中国は日本と長年戦っている国ですので,あらかじめ了承をとっていました。中国もこれはイヤとはいわないので当然です。ではソ連はというと,このときはまだ日ソ中立条約が有効でした。だからソ連が堂々と「日本よ降伏せよ」なんていえないわけです。ソ連がポツダム宣言に関わるのは,日本に宣戦布告した終戦間際のことでした。
 特にポツダム会談参加国とポツダム宣言発表国に注意しましょう。
   
31 第二次世界大戦後の国際秩序はアメリカを中心とする資本主義国とソ連を中心とする社会主義国に二分され,冷戦がはじまった。敗戦国ドイツは東西に分かれて独立し,かつての首都:〔   〕も西ドイツ領である西〔   〕と東ドイツの首都:東〔   〕に分割された。東西〔   〕には壁が築かれ,両ドイツ国民の移動は厳しく制限された。 
ベルリン 
   戦後ドイツと首都ベルリン,そしてベルリンの壁については基礎編ですでに説明済みです。 
   
32 1959年,〔 ① 〕で社会主義革命がおこると,ソ連は〔 ① 〕に核ミサイルの配備をすすめた。これに対し,米大統領:〔 ② 〕は核で応戦しようとしたが,話し合いの上,全面核戦争は回避された。これを〔 ③ 〕という。 〔 ③ 〕ののち,米ソは〔 ④ 〕条約を結び,地下実験を除く核実験の禁止に合意した。また1968年,〔 ⑤ 〕条約を結んで核兵器の拡大を防止しようとした。現在は国連によって〔 ⑥ 〕条約が採択されたが, 核保有国が批准していないため未発効である。 
①キューバ  ②ケネディ  ③キューバ危機  ④部分的核実験停止  ⑤核兵器拡散防止  ⑥包括的核実験停止 
   戦後の冷戦とは武器を使用しない戦争でした。その内容は核兵器の開発競争,情報戦,代理戦争(直接米ソが戦闘に参加しないでどこかの国を援助する)が主でした。それが直接対決の危機を迎えたのがキューバ危機です。直接対決の危機とはすなわち核戦争です。
 核兵器とは使ってしまうと意味がないものです。あまりに威力がありすぎて,使用すると地球や人類の文明を破壊してしまう。そこで核兵器がもっとも威力を発揮するのは威嚇,つまり脅しです。米ソの一方が相手国にむかって核ミサイルを発射するとその報復としてその相手国がミサイルを発射する。それぞれ首都に向けて一発命中すればいいのです。ただしお互いが壊滅状態になり,これでは意味がないのです。だから使えない。使えないからこそ直接対決なんてのもありえない。よって冷戦のはずでした。
 キューバはアメリカのフロリダ半島の南約100㎞に浮かぶ,小さな島国です。アメリカはこの国を事実上支配下においていました。砂糖や果物のプランテーションとして。
 このアメリカ資本主義の横暴に立ち上がった数人の革命家が時の親米政権を倒すべく,ゲリラ活動を開始します。そしてついに1959年,政権が倒され,アメリカ資本や軍を追い払います。キューバ革命です。対アメリカということでソ連がこれを援助し,キューバは社会主義国になりました。ソ連としてはこれは千載一遇のチャンスです。簡単にアメリカを狙い撃ちできます。ソ連はキューバに核ミサイル基地を建設。これを上空から偵察したアメリカはソ連に猛抗議。艦隊を派遣してキューバを海上封鎖する。米ソの緊張が最高潮に達したのが1962年,核戦争の一歩手前まできました。これをキューバ危機といいます。「キューバが危ない!」ではありません。
 結局,アメリカ大統領:ケネディの英断で,ソ連側との話し合いで戦争は回避,ソ連はキューバからミサイル基地を撤退させます。 
 戦争を話し合いで回避できたなら,核開発も話し合いで解決できないか?キューバ危機は核軍縮の可能性をみせるきっかけともなりました。キューバ危機の翌年,米・英・ソは部分的核実験停止条約を結びます。部分的とは,地下実験を除く(大気圏内・外,水中)核実験を禁止したことです。逆に禁止されていないのが「地下実験」だとおさえておきましょう。【落とし穴】
 続いて1968年核兵器拡散防止条約が国連で採択されます。当時,核兵器を保有している国はアメリカ・イギリス・ソ連・中国の5ヶ国のみでした。核の保有はここまで。以後5ヶ国以外の核保有は認めないというものです。
 しかし現在ではこの5ヶ国以外で核をもつ国は3ヶ国あり,合計8ヶ国が核兵器を保有しています。3ヶ国とはインドパキスタン,そして北朝鮮です。これらの国はこの条約を離脱した国です。
 また現在は包括的核実験停止条約という条約で,あらゆる場所での爆発をともなう核実験を禁止しています。(発効はしていない)もちろん北朝鮮などはこれに著名していません。
   
33 1980年代,ソ連の大統領に就任した〔 ① 〕は,〔 ② 〕とよばれる改革政策を実施し,1989年,アメリカとの〔 ③ 〕会談で冷戦の終結を宣言した。その結果ソ連は崩壊した。 
①ゴルバチョフ  ②ペレストロイカ  ③マルタ 
   社会主義は経済的平等が実現され,貧富の差がない理想的な社会を築こうとするものですが,そのためにあらゆることを国に任せなければなりません。計画経済のように経済はもちろんのこと,政治も選挙など多数決で決まるわけでもなく一党独裁です。政治批判も許されませんし,生活も隅々まで統制される人間の自由が制限される社会でした。 またどんなに働いてもお給料がみな平等なら働く気が失せます。生産意欲が減退することも現実の社会主義国家では大問題でした。
 こういった問題はまずソ連の周辺諸国からおこります。東ヨーロッパで自由化を求める運動が次々と勃発。ソ連でも肥沃な土地をもちながら農作物を輸入に頼ったり,情報技術など最先端工業でも欧米諸国に比べて遅れをとっていました。1986年におこったチェルノブイリ原子力発電所爆発事故は,ソ連の科学技術の遅れを象徴する出来事です。
 さてソ連は制度の立て直しを迫られます。そんなときソ連の指導者となったゴルバチョフはロシア語で「改革」を意味する「ペレストロイカ」に着手します。軍事力の削減,情報の公開,経済の自由化,そして欧米諸国との関係改善,つまり冷戦の終結です。
 冷戦終結のための会談は1989年,地中海の小さな島国マルタで開かれました。対するアメリカの大統領はブッシュ(父)。両者が冷戦終結宣言をすると,雪崩をうったように社会主義国の自由化がはじまります。会談前すでにベルリンの壁は崩壊しており,東西ドイツは統一に向かいます。社会主義国であった東ヨーロッパ諸国でも社会主義政権が崩壊。ソ連内部の共和国もソ連からの離脱して,独立を宣言。ソ連自身もロシア連邦に生まれかわりました。
   
34 1991年,〔 ① 〕がクウェートに侵攻すると,アメリカを中心とする多国籍軍が〔 ① 〕を攻撃し,〔 ② 〕戦争がはじまった。 
①イラク  ②湾岸 
   冷戦が終結すると,それまで二大国の強力なリーダーシップによっておさえられていた民族・宗教問題が表に出始めます。中東(西アジア)問題もその1つです。西アジア諸国の国境はもともと第一次世界大戦後,欧米諸国が勝手に決めた国境線でした。その国境線に意義を唱えたイラクは隣国のクウェートに侵攻。これを明確な侵略行為であると認めた国連は,イラク制裁のための武力攻撃を支持します。
 1991年1月,アメリカは多国籍軍を結成し,イラクを爆撃,「砂漠の嵐作戦」が開始されました。これを湾岸戦争といいます。「湾岸」とはペルシャ湾を指します。戦争は多国籍軍の圧勝でしたが,イラクの指導者サダム=フセインはそのまま大統領の地位に留まります。
  日本はこの戦争に対し,多国籍軍に対する資金援助をおこなったのみで,国際的に非難を受けました。その反省から自衛隊が国連を中心とした活動には参加でるよう法案を整備します。PKO(国連平和維持活動)協力法です。以後自衛隊の海外活動が可能になったのです。
   
35 冷戦終結後,アメリカ・ソ連の世界への影響力が衰えると各地で民族紛争が頻発した。中でもイスラム世界では過激派が〔 ① 〕を実行し,〔 ② 〕年9月11日,アメリカ世界貿易センタービルを破壊するなどアメリカ同時多発〔 ① 〕がおこった。これに対し,アメリカ・イギリスなどは即時,テロリストをかくまっている〔 ③ 〕を攻撃した。また2003年,アメリカは中東の安定を目的として〔 ④ 〕戦争も実行に移している。 
①テロ  ②2001  ③アフガニスタン  ④イラク 
   21世紀に入るとイスラム過激派組織によるテロが頻繁におこるようになります。「テロ」とは「テロリズム」の略。そもそも「恐怖」を意味する言葉ですが,暴力・破壊活動を通じて,自らの政治目的を達成しようとする活動です。
 2001年9月11日,イスラム過激派組織「アルカイダ」を名乗るテロリストがアメリカの4機の飛行機を乗っ取り,2機はそのままニューヨークの世界貿易センタービル2棟に突撃しました。同じころ,別の1機の飛行機がアメリカ国防総省本庁(通称:ペンタゴン)にも激突。残り1機はワシントン(DC)に向かうところ途中で墜落。アメリカ本土がはじめて攻撃を受けたこの事件をアメリカ同時多発テロといいます。
ニューヨーク世界貿易センタービル
中央の二棟のビルにテロリストがハイジャックした飛行機が突っ込んだ

 首謀者とされるウサマ=ビン=ラディンがアフガニスタンに潜伏しているという情報をつかんだアメリカとイギリスはビン=ラディンの身柄を引き渡すようアフガニスタンのタリバン政権に迫りますが,タリバンはこれを拒否。即刻,アメリカ・イギリスはアフガニスタンを攻撃します。
 ビン=ラディンは,さらにイラクのサダム=フセインとつながっており,フセインは湾岸戦争後,不保持を義務付けられた大量破壊兵器を製造・保有していると主張したアメリカ・イギリスはイラク攻撃の国連決議をもとめますが,これは証拠不十分で否決されます。しかし主張をゆずらないアメリカは自国を防衛するためだとアフガニスタンに続いて,イラクも攻撃。湾岸戦争で崩壊に導けなかったフセイン政権打倒をめざします。これがイラク戦争です。日本もこれに賛同し,国連決議のない戦争に自衛隊を派遣することになりました。
ここまでの流れをまとめると
湾岸戦争(対イラク)→アメリカ同時多発テロ→アフガニスタン攻撃→イラク戦争
これらはすべてアメリカの中東政策としてつながっていますが,直接関係をもつのは湾岸戦争とイラク戦争,そしてアメリカ同時多発テロとアフガニスタン攻撃です。【セット】湾岸戦争とイラク戦争はあくまでも対イラク(フセイン政権)という国家との戦争です。アフガニスタン攻撃は,テロとの戦いです。【比較】またイラク戦争は国連の支持も国際的に多数の支持も受けていないことに注意したい。【落とし穴】
   

アジア史

1 王朝はその後半,国内で諸侯が台頭し,〔 ① 〕時代とよばれる時代になった。 この時代には諸子百家とよばれる学問がさかんになり,中でも〔 ② 〕の教えである儒学は,中国各地に広まった。
①春秋戦国  ②孔子
   中国の王朝,その最初はでした。その次が。そして次のが統一されるまでの間が春秋戦国時代という分裂時代です。ここまで日本は主に縄文時代であったことをおさえておきましょう。【時代区分】
 また春秋戦国時代には,孔子儒学(儒教)を開いたことも大切。諸子百家とは争いが絶えないこの時代をいかにして治めていくか,さまざまな角度から追求した学問の総称です。法による支配を説いた「法家」,非攻を説く「墨家」,あるがままの自然に任せよといった「道家」などたくさんありましたが,中でも孔子の「儒家」が後世に大きな影響を与えました。
 孔子が理想としたのは周王朝初期の政治で,君主(君子)が徳によって国を治める。 「徳」とは「広い心」とでもいいましょうか,孔子はこれを「仁(愛)」や「礼(儀礼)」といって特に大切にすべき「徳」として挙げています。この孔子の教えを弟子たちがのちにまとめたのが『論語』です。
   
2 紀元前3世紀,中国を統一したの王は自らを〔 ① 〕と名乗った。北方民族の侵入を防ぐため〔 ② 〕を修築するなど大規模な土木事業をおこなったため,国が傾き,に滅ぼされた。
①始皇帝  ②万里の長城
   戦国時代を制したのは西の大国:でした。秦王:政は中国史上はじめて皇帝という称号を用いたため始皇帝とよばれます。以後歴代中国王朝の最高位を表す称号として用いられます。
 始皇帝が北方民族の侵入を防ぐために築城したといわれる万里の長城は,戦国時代からすでにつくられていた長城をつなげたため「長城」に「万里」が付くのです。
 中国文明は農耕文明です。中国の北方には遊牧民族が住んでいて,時折農耕社会に侵入しては略奪を繰り返す。これはいつの時代も同じで,中国諸王朝,特に漢民族は彼らに苦しめられました。万里の長城も多くの王朝で傷んでは修復し,それを繰り返します。現在みられる万里の長城は実は明の時代に築かれたものです。【落とし穴】
 こののころ,日本は弥生時代です。【時代区分】秦の圧政から逃れようと海を渡った人々が稲作を伝えたともいわれています。
   
3 漢は第7代の〔 ① 〕のときに全盛を迎える。〔 ① 〕は朝鮮北部に〔 ② 〕を設置するなど領土を拡大した。その後一時期,漢は滅ぶが,〔 ③ 〕が再興させ,3世紀まで続く。この後半の漢を特に〔 ④ 〕とよび,この時代に蔡倫によって〔 ⑤ 〕が発明された。また〔 ⑥ 〕を通じてローマ帝国と交易をおこない,〔 ⑦ 〕教もこの時代に中国に伝わった。
①武帝  ②楽浪郡  ③光武帝  ④後漢  ⑤紙(製紙法)  ⑥シルクロード  ⑦仏教
   秦は短期間で滅び,が成立します。漢は約400年間の国ですが,間一時期消滅した期間があって,前半,後半にわけることがあります。便宜上前漢・後漢とよびますが,細かな事情を知る必要はありません。ただ後漢の歴史書として『後漢書』というのが,問題文に登場することがあります。このとき「ああ,後半のことだなぁ」そして「倭の奴国が使者を送り,金印を授かった」時代(1世紀)だと,気づく必要はあります。【時代区分・時期】
 漢の皇帝の名前は,前漢・後漢ともに1人ずつ問題文に登場することがあります。前漢の武帝後漢の光武帝です。それぞれ全盛期の皇帝としておさえておきましょう。武帝は領土拡大をはかり,漢の最大領土を築きました。その例としてよく出題されるのが,「楽浪郡」です。朝鮮北部に置いた朝鮮支配の中心機関であり,その支配下にある地域を指します。楽浪郡は漢によって設置され,4世紀に高句麗に滅ぼされることをおさえておきましょう。【落とし穴】
 後漢について出題されるのは,1世紀,光武帝が倭の奴国に金印を授けた皇帝であること。当然,漢のころ日本の弥生時代です。【時期】これは必須。紙の発明・仏教の中国伝来も後漢の時代です。【時期】またシルクロードを通じたローマ帝国との交易も,当時の世界地図から出題されます。  
   
4 3世紀,漢が滅亡すると,〔 ① 〕(北部)・〔 ② 〕(南部)・〔 ③ 〕(内陸部)の三国時代となった。その後も北方民族の侵入によって,〔 ④ 〕時代となり中国の分裂期は続いた。5世紀,南朝の〔 ⑤ 〕には大和朝廷が使者を派遣している。
①魏  ②呉  ③蜀(しょく)  ④南北朝  ⑤宋
   漢の滅亡後,隋の統一まで中国は再び分裂時代に入ります。まずは三国時代。3つの国と位置も重要です。【位置】特に魏は卑弥呼とのつながりが重要でした。したがって三国時代は,日本では弥生時代末期です。【時期】
 三国時代は一時統一されますが,すぐに北方民族の侵入によって黄河流域の北部が征服されます。これを北朝といい,漢民族は長江流域の南部に王朝を移しました。南朝です。あわせて南北朝時代といいます。日本は古墳時代に入り,大和朝廷が成立。5世紀には南朝に使者を派遣し,朝鮮半島の軍事的指揮権を認めてもらおうとしています。【時代区分・時期】南朝の中でも「」は重要です。のちの宋とは異なる宋です。これができるかは差がつくところ。 【落とし穴】
   
5 6世紀末,中国を再び統一したは黄河と長江を結ぶ〔 ① 〕の建設をおこなった。しかし〔 ② 〕遠征に失敗すると,7世紀はじめにに滅ぼされた。唐は都を〔 ③ 〕に置いた。
①大運河  ②高句麗  ③長安
   隋は南北朝時代の北朝から出た国で,正確にいうと漢民族ではありません。隋で問われることは次の3点。
・遣隋使
・大運河の建設
・高句麗遠征の失敗

 隋は秦と同じく大規模土木事業と外征の失敗によって短期間で滅びます。続く唐の重要事項は基礎編とそれほど違いはありません。基本的なことをまちがいなくおさえておくこと。
・都の長安は日本の都のモデル
・遣唐使

 遣唐使が派遣されていた時期を正確におぼえておくとよいでしょう。630~894年です。【時期】正確にいうともっと早くから派遣されなくなっていましたが,菅原道真によって正式に廃止が提案されました。当然,これによって国風文化が生まれたことは基本中の基本。【歴史的意義】 
   
6 10世紀はじめ,が滅亡すると,960年に〔 ① 〕が統一するまで,中国は三たび五代十国とよばれる分裂時代に入った。 〔 ① 〕では,儒学者である朱子(朱熹)が〔 ② 〕をはじめ,儒学に新しい解釈を加えた。
①宋  ②朱子学
   唐が滅亡すると,三たび中国は分裂時代に入ります。この分裂時代は短く,特におさえる必要はありません。そこで中国の王朝は2つずつ区切ってセットにしておぼえると流れとして理解し易い。また2つの王朝のあとは分裂・混乱期に入っているのも特徴です。
・殷→周→分裂(春秋戦国時代)
・秦→漢→分裂(三国時代・南北朝時代)
・隋→唐→分裂(五代十国)
・宋→元
・明→清→分裂(中華民国)

 が中国を統一するのは960年,日本では平安時代中期のことですが,実際に問題で登場するのは,平清盛日宋貿易からです。【時期】
 宋は漢と同様,北宋・南宋と前後半にわけて登場することがありますが,このような登場の仕方をしてもびっくりしないようにしましょう。ただし南北朝時代,南朝とはまったく別物ですから,そこは要注意です。
 北宋とは北部に都があったころの時代です。やがて宋は北部をまたもや北方民族によって支配されてしまいます。今度の北方民族は中国の文明に同化せず,自らの文化・政治制度を用いたため,北朝とはよびません。まったく別の民族国家ができました。そのため漢民族の宋は再び南部に逃れて,王朝を存続させます。これを南宋といいます。このときのちに日本でも儒学の主流となる朱子学が誕生しました。【落とし穴】 
   
7 1206年,モンゴル民族を統一した〔 ① 〕は,ユーラシア大陸制覇の大遠征をおこなった。〔 ① 〕の孫である〔 ② 〕は,中国に本拠地を置き,中国風に国名をとした。都を現在の北京にあたる〔 ③ 〕に定め,宋を滅ぼして中国を統一した。〔 ② 〕に仕えたイタリア商人の〔 ④ 〕は,『東方見聞録』を著し,日本を「黄金の国ジパング」と紹介した。
①チンギス=ハン  ②フビライ=ハン  ③大都  ④マルコ=ポーロ
   「13世紀はモンゴルの世紀」とおさえておきましょう。逆に13世紀以外でモンゴルに関する問題はほとんどでません。【時期】
 モンゴル民族は遊牧民です。遊牧民は家畜とともに移動生活を営みます。だから1つの土地には執着しません。彼らの財産は家畜であり,家畜を養うための草原です。草のあるところならどこへどてもいく。それが領有を主張する他人の土地であってもです。彼らには関係ありません。気にしない。だから遊牧民族は土地を大切にする農耕文化(特に中国)から嫌われたのです。
 なおかつ,遊牧民の戦闘能力も高かった。遊牧民の兵士は全員騎兵なのです。歩兵はほとんどいなかったでしょう。普段から馬上生活する彼らにとってはあたりまえの編成でした。だから機動力(スピード)が全然違う。
 そんなわけで,中国はたびたび北方の遊牧民族の侵入を受けては,頭を抱える。侵入した遊牧民の中には中国の文明(農耕社会)に溶け込んでしまうものいた。中国の水稲文化は生産性が高く,多くの人口を養えるからです。南北朝時代の北朝や隋・唐は中国の農耕社会に溶け込んだ北方遊牧民族の代表例です。
 13世紀,今度も同じようなことがおこった。まずチンギス=ハンがあらわれます。「ハン」または「カン」は,漢字では「汗」とあてますが,遊牧民の「王」を表す称号です。チンギス=ハンはモンゴル高原の遊牧民のうちモンゴル部(クラブではない)という部族を率いる長でした。遊牧民は同じ民族でも部族同士,あまり仲がよくなく,家畜の草場や略奪,古い怨恨をめぐって常に対立していました。チンギス=ハンのころもそうです。 彼は敵対する諸部族を倒し,手を結べるところとは同盟を結び,モンゴル高原の有力者となっていきます。そして1206年には諸部族が集まった会議で「ハン」の称号を与えられ,モンゴルの統治者となりました。このころ日本は鎌倉時代。承久の乱(1221)がもっとも近い出来事でしょう。【時期】(1205年の『新古今和歌集』も)
 軍制を整えたチンギス=ハンは,周辺諸国への遠征を実行します。中国へも万里の長城を易々と越えて侵入し,西は中央アジア,カスピ海沿岸までの大帝国=モンゴル帝国を築きました。
 チンギス=ハンの死後,2代皇帝の時代は,モンゴル帝国のさらなる領土拡大の時代です。東は中国北部の金(国名です)を滅ぼし,高麗を服属させます。高麗は服属で,滅んではいませんので注意。
西アジアにも侵攻し,イスラム帝国を滅ぼしています。さらに南ロシアを征服し,ヨーロッパにも侵入し,東ヨーロッパのポーランドあたりまで進出しました。ドイツ・ポーランド連合軍にも勝利しています。
 第5代皇帝の地位についたフビライ=ハンは,中国に本拠を置き,国名も中国風にと改めました。首都を大都に定めます。これが現在の北京となりました。【位置】中国南部の宋(南宋)を攻めながら,日本や東南アジアへも服属を求めます。元寇は元・高麗の連合軍であったことが大事でした。【セット】
 モンゴル帝国や元は広大な領土を支配しましたから,東西文化の交流がさかんになります。これまでのシルクロードのほかに遊牧民の草原の道や海上交易ルートも栄えます。そんな中で生まれた言葉があります。「Japan」や「Korea」です。日本を表す「ジャパン」はイタリアの商人マルコ=ポーロが中国を訪れ帰国するまでの旅行記:『東方見聞録』(『世界の記述』とも表記)で日本のことを「黄金の国」と紹介したときの「ジパング」がもとになったものです。朝鮮を表す「コリア」は高麗からきています。海上交易を通じてアラブ人が紹介した。
 フビライ=ハンの死後,14世紀になると皇室の内紛や経済政策の失敗から,元はすでに衰退をはじめます。したがってモンゴル・元が活躍したのは本当に13世紀のみです。
   
8 1368年,は元をモンゴル高原に追いやり,漢民族の王朝を再興した。明は第3代の〔   〕のときに全盛となった。
永楽帝
   元を滅ぼして成立した明は再び漢民族の国であることが重要です。明の皇帝では出題されて永楽帝のみ。しかも永楽帝を直接問う問題は出題されないでしょう。彼の名前はお金に残っています。そう明銭ですね。彼が発行した明銭は「永楽通宝」といいます。これは日明貿易(勘合貿易)で日本に輸入され,日本で使用された。日本の貨幣経済を支えた重要なお金です。織田信長までもが旗印として永楽通宝のデザインを使用しています。
 明=室町時代,そして足利義満の勘合貿易。最重要事項の1つです。【時期】 
   
9 17世紀,がおとろえると,〔 ① 〕民族が中国に侵入してを建国した。中国史上最大の領土を誇ったが,〔 ② 〕年,アヘン戦争でイギリスに敗れると〔 ③ 〕条約を結び,〔 ④ 〕をイギリスに割譲した。その後,〔 ⑤ 〕が〔 ⑥ 〕の乱を起すなど国内は混乱したため,ヨーロッパ諸国が進出し,半植民地化がすすんだ。
①満州  ②1840  ③南京  ④香港(ホンコン)  ⑤洪秀全  ⑥太平天国
   清は漢民族の国でないことに注意。これは満州民族の国です。【落とし穴】満州は中国北東部を指す地域で,満州民族は北方遊牧民族の1つです。かつて宋の時代,中国北部を支配した金も同じでした。だから清は清を名乗る前,後金(こうきん)とよばれていた。
 明が滅び,清が建国されたのは17世紀前半。したがって江戸時代から清と判断しても結構です。しかし実際に,問題に出てくるのは,江戸時代後期の1840年,イギリスと戦ったアヘン戦争からです。
 アヘン戦争のきっかけはイギリスとの三角貿易にありました。下の図をみてみましょう。銀に注目します。銀は当時世界共通の通貨です。そしてイギリスではこのころとっくに産業革命がおこっていたことも頭に入れておきましょう。

 図1はイギリスと中国との貿易です。この貿易ではイギリスは中国から茶を仕入れることで銀を支払います。逆にイギリスはイギリスの代名詞でもある工業製品の安い綿織物を輸出して銀を稼いでもよかったんですが,中国にはイギリスを上回る安くて品質のよい綿織物があった。その名も「nankeen」です。わかりますか?「南京(綿)」のことです。したがってイギリスは対中貿易で赤字です。(片貿易)
 そこでイギリスは次の段階に入ります。図2です。インドに中国に対してアヘンの密貿易をおこなわせた。インドはアヘンを中国に売ることで銀を得ます。アヘンは中毒性のある麻薬ですから,いくらでも中国から銀が手に入った。そしてインドはその銀をイギリスとの貿易で使ってしまう。結果的にイギリスの1人勝ちです。銀はイギリス→中国→インド→イギリスと戻ってくるのです。
 中国はアヘン患者が増えるは,銀は流出するはで大変です。アヘンの取りしまりを強化するとイギリスが怒って,アヘン戦争となりました。結果は当然イギリスの勝利。南京条約が結ばれます。中国版不平等条約です。不平等条約といえば,内容は治外法権を認め,関税自主権がないということ。そして香港がイギリスに割譲されます。
 さてアヘンン戦争・南京条約のころ,日本では水野忠邦による天保の改革が実施されていました。これは差がつくところですね。【時期】これを知った水野忠邦は外国船打払令を停止させています。
 アヘン戦争が終わったあともアヘンの中国流入は止まらず,ということは銀の流出も止まらない。庶民の生活も風紀も乱れていく一方です。そんなとき洪秀全という人物が「太平天国」を称して,清に反乱をおこしました。太平天国の乱です。「天国」という言葉を使っているので,洪秀全はキリスト教徒です。1851年におこった反乱は南京を中心として1863年まで続きますが,清は欧米列強の力を借りながらこれを鎮圧します。
   
10 1894年にはじまった日清戦争で清が日本に敗れると,北京を中心に〔 ① 〕がおこり,これは列強によって鎮圧された。しかし1911年,〔 ② 〕が三民主義をかかげ辛亥革命がおこると,清は滅亡した。
①義和団の乱(義和団事件)  ②孫文
   清は欧米列強だけでなく,小国とあなどっていた日本にも敗北します。そんな清にとって下関条約は屈辱的な条約でした。割譲した遼東半島三国干渉によって返還されましたが,三国(ロシア・ドイツ・フランス)は鉄道敷設(ふせつ)権を得て,沿線の資源の採掘・経営権を得ます。また多額の賠償金を抱えることになった清は列強から借金をすることになりました。もうほとんど列強のいいなり状態になった清は,何か事件が起こるたびに自らの土地を租借地として列強に差し出します。租借というのは期限付きのレンタルです。しかしその期限は長く,ほとんど植民地状態です。
 中国各地の列強の勢力図を理解しておきまょう。《第10回 史料・地図》重要なのは,イギリス・ロシアです。ロシアは北から南下してきますので北部(満州)です。特に三国干渉で日本に返還させた遼東半島。イギリス長江流域
 さぁ清は中国王朝の伝統なんていってられない。近代化が必要だとようやく気づくのです。でもうまくいきません。民衆の方も大きな顔をする外国人には嫌気がさしています。中でも西洋の信仰をきらう義和団という組織は異様な集団でした。「カンフー(中国武術)で西洋の銃弾を跳ね返す。この技をもって西洋をやっつけるんだ。」世が世ですので,結構賛同者が増え,北京で大規模な反乱となりました。これが義和団の乱(義和団事件)です。太平天国は南京義和団は北京と比較させておぼえましょう。【比較】
 これに対し,列強は8ヶ国が鎮圧軍を派遣します。その上,北京から奪えるものは奪ってしまえと,もう無茶苦茶です。ついに弱り果てた清に最後のときがやってきます。辛亥革命です。中心人物は孫文ですが,革命がおこったときは中国にはいなかった。孫文は「民族独立・民権の伸長・民生の安定」という三民主義をかかげて清打倒の運動をよびかけただけです。
   
11 辛亥革命の結果〔 ① 〕年,アジア最初の共和国:〔 ② 〕が成立した。しかし〔 ③ 〕が政権を握ると,再び列強諸国の侵略を受けた。また1915年,第一次世界大戦中に日本が出した二十一ヶ条の要求を受け入れると,日本の中国進出がはじまり,〔 ④ 〕年,排日をかかげた〔 ⑤ 〕運動がおこった。
①1912  ②中華民国  ③袁世凱(えんせいがい)  ④1919  ⑤五・四
   革命がはじまったことを聞いて帰国した孫文は,臨時大総統に選ばれ,革命勢力は1912年中華民国の成立を宣言。南京を首都とするアジア最初の共和国が成立しました。そして清,いや中国王朝最後の皇帝がその座を退きます。清の滅亡です。
 しかし次期臨時大総統に袁世凱が就くと,袁世凱は自ら新しい王朝をたてて皇帝になろうとしました。そのため革命勢力を弾圧し,列強と手を組もうとした。やっと革命がなったのに,振り出しに戻るです。列強の侵略はさらに進められ,各国の半植民地支配に加えて国内勢力も分立する有様。日本も第一次世界大戦中の1915年,袁世凱政府に対し「21ヶ条の要求」を提出しています。【時期】袁世凱は一部を除いて大部分を承認しました。
 1919年,大戦のパリ講和会議でアメリカ大統領(ウィルソン)が14ヶ条の平和原則を唱えると,その中の「民族自決」は中国国民を勇気づけるものでした。この年の5月4日,この日は21ヶ条の要求をのまされた日でした。北京の学生を中心に労働者などが集まり反日・排日運動がおこりました。これをみた孫文は新たに中国国民党を結成。そしてこの運動に参加した学生の中から中国共産党が結成されます。  
   
12 〔 ① 〕のあとを継いだ〔 ② 〕は中国国民党を率い,〔 ③ 〕に国民政府を樹立させた。一方,〔 ④ 〕は中国共産党を率いて社会主義革命をめざした。対立していた両党は日中戦争がはじまると,〔 ⑤ 〕を結成して共闘した。
①孫文  ②蔣介石  ③南京  ④毛沢東  ⑤抗日民族統一戦線
   1920年代,中国の反日・反帝国主義運動も次世代に入ってきます。国民党を率いたのは蔣介石共産党毛沢東が登場します。蔣介石は北部の軍閥を武力征伐して南京に国民党の国民政府を樹立します。「国民政府」とは「中華民国の政府」を意味しますが,当の中華民国はあちこちに正当性を主張する「国民政府」があって,蔣介石はその統一に努力したのです。そしてこのとき(1928)蔣介石が打ち立てた国民政府が唯一の中華民国意思決定機関となりました。一方共産党は農村を中心に運動を展開し,労働者階級の支持を得ます。
 国民党と共産党(社会主義)は思想が異なっていましたから,それぞれを敵視していましたが,日本が中国侵略を進める(満州事変など)と両者は手を組んで日本に対抗します。この両者の同盟を抗日民族統一戦線といいます。「抗日」という一点で両者は手を組んだ。  
   
13 戦後,国民党と共産党との内戦がおこり,共産党が勝利して1949年,〔 ① 〕が成立した。一方蔣介石の国民党は〔 ② 〕に逃れ,〔 ③ 〕を存続させた。
①中華人民共和国  ②台湾  ③中華民国
   日本が敗北し,終戦を迎えると国民党と共産党は手を切り,中国国内は内戦状態となりました。何といっても中国は農業国ですから,農村に絶大に支持を受けた共産党が次第に有利になります。
 1949年,内戦に勝利した共産党中華人民共和国の樹立を宣言。社会主義国となりました。一方,国民党台湾に逃れ中華民国を継続します。現在でも台湾は正式には中華民国です。【落とし穴】 
   
14 4世紀の朝鮮半島には北部に〔 ① 〕が,南部に〔 ② 〕・〔 ③ 〕・〔 ④ 〕が分立し,7世紀に〔 ② 〕が朝鮮半島を統一した。
①高句麗  ②新羅  ③百済  ④加羅  ※③・④は順不同
   朝鮮半島が歴史で最初に出題されるのは,中国のの時代に設置された楽浪郡ですが,朝鮮史ということで最初におさえておかなければならないのが,4世紀の4国・地域です。「4」という数字があっていますね。4世紀,4つおぼえていないとダメだと思って下さい。【セット】
 大きくグループ分けしておきましょう。高句麗と新羅は日本と戦争しています。一方,百済・加羅は親日です。高句麗は4世紀に交戦,新羅とは663年,親日国:百済を援助するための白村江の戦いです。白村江の戦いは非常によく出る問題でした。日本が戦った相手は「唐・新羅連合軍」ですよ!【セット】
 百済儒教・漢字・仏教を日本に伝えた国。日本に大きな影響を与えた親日国です。加羅は日本が朝鮮半島進出の拠点とした地域(正確にいうと国ではない)。
 4世紀といえば,日本では大和朝廷が誕生したころ。【時期】そして最終的に新羅が朝鮮半島を統一したということが重要。朝鮮史は常に日本との関係,日本と照らし合わせた【時期】の問題で出題される。 
   
15 10世紀,新羅を倒して朝鮮を統一した〔   〕は,13世紀にに服属し,日本遠征にも従った。
高麗
   高麗もみなさんよくおぼえていない国ですが,よく出ます。しかも出題されるのは,次の2点。
・成立したのが,日本で平安時代中期。摂関政治のころ。(中国では宋・元の時期が高麗)【時期】
・元寇は元・高麗連合軍。【セット】 
   
16 〔 ① 〕年,倭寇の討伐に功績のあった李成桂は〔 ② 〕を建国した。この王朝では〔 ③ 〕文字が発明され現在でも朝鮮半島で使用されている
①1392  ②朝鮮国(李氏朝鮮)  ③ハングル
   高麗の次は朝鮮国(李氏朝鮮)です。李氏朝鮮という表現は,朝鮮は朝鮮でも「李(り)」氏がつくった朝鮮という意味です。成立した1392年はぜひおぼえておきたい。この年,日本では足利義満が南北朝を合一した年なんです。ですから足利義満(室町幕府)・ 李成桂(李氏朝鮮)・永楽帝(明)は同時期の人としておさえておきましょう。【時期】
 朝鮮の歴史は必ず,日本の時代・時期とともに中国の王朝とあわせておぼえておくこと。
・唐-新羅
・宋,元-高麗
・明,清-朝鮮国

 この国の時代,朝鮮文字であるハングルが発明されています。
   
17 16世紀末,朝鮮国の〔 ① 〕は豊臣秀吉の水軍を迎え撃ち,これを撃退した。その後朝鮮国は徳川家康と和約を結び,江戸幕府将軍の代替わりごとに〔 ② 〕を江戸に派遣し,対馬の〔 ③ 〕氏を通じて交易もおこなった。
①李舜臣  ②通信使  ③宗
   李氏朝鮮は1392年に成立して,1910年に日本の併合されるまで続く非常に長い期間存続した国です。この時代の重要な出来事は次の通り。
・14世紀,日本に木綿栽培を伝える。
・16世紀,秀吉の朝鮮出兵
・17世紀~ 江戸幕府に通信使派遣(将軍の代替わりごと) 宗氏を通じて交易
・1894年,甲午農民戦争→日清戦争
   
18 〔 ① 〕年,日韓併合によって朝鮮半島は日本の植民地となり,〔 ② 〕政策とよばれる同化政策がおこなわれた。また戦時中は名前を日本風に改める〔 ③ 〕もおこなわれた。〔 ④ 〕年には反日独立運動である〔 ⑤ 〕運動がおこった。
①1910  ②皇民化  ③創氏改名  ④1919  ⑤三・一独立
   朝鮮併合の過程はすでに《第5回 各時代の特色④》で学びました。その後の日本の植民地政策です。 皇民化は,朝鮮に限らず台湾,沖縄など日本の統治地域で実施された政策です。
   
19 日本の敗戦後,北緯〔 ① 〕度線を境界線として北部に〔 ② 〕が,南部に〔 ③ 〕が成立した。〔 ④ 〕年,中国が北部を援助して朝鮮戦争がはじまったが,1953年に休戦協定が結ばれ,現在に至っている。
①38  ②朝鮮民主主義人民共和国  ③大韓民国  ④1950
   戦後,南北をわける境界線とされたのが北緯38度。朝鮮戦争では大韓民国を支援したのは,アメリカを中心とする国連軍,北朝鮮を支援したのは中国軍(義勇軍)であったことに注意。【落とし穴】 
   
20 インダス文明の遺跡には,中流域の〔 ① 〕や下流域のハラッパなど(現パキスタン)があり,計画的に整備された都市であったことがわかっている。これらの文明は紀元前2000年ごろから衰退し,かわって紀元前1500年ごろにインダス川流域に侵入したアーリア人が〔 ② 〕制とよばれる身分制度にもとづく〔 ③ 〕教を成立させた。
①モヘンジョ=ダロ  ②カースト  ③バラモン
   インダス文明は他の文明と同様,青銅器を使用していたことはわかっていますが,インダス文字が解読されていないため,よくわからないことが多い。インダス文字は象形文字の一種だと考えられています。遺跡としては,モヘンジョ=ダロ(「死者の丘」)がよく例に出されますが,あわせてハラッパという遺跡も問題文中に現れることがある。いずれにしても現在のパキスタンであることをまちがわないように。インドではありません。【落とし穴】
  インダス文明がなぜ衰退したかもわかっていません。しかしこれと替わるように北からアーリア人とよばれる民族が南アジアに侵入し,新しい文化を築きました。彼らはバラモン教という自然を崇拝する信仰をもち,この宗教のもとで厳しい身分制度がしかれました。カーストといいます。バラモンとはこの身分制度の最高位である僧侶階級を指します。もっとも低い身分とされたのがインダス文明をつくりあげた人々ではないかとされます。
   
21 紀元前5世紀,〔 ① 〕はバラモン教を批判して,悟りを開いて仏教を開いた。しかし仏教はインドで定着せず,バラモン教をもとに〔 ② 〕教が優勢となった。インド以外の〔 ② 〕教寺院としてはカンボジアの〔 ③ 〕がある。
①シャカ  ②ヒンドゥー  ③アンコール=ワット
   バラモン教の厳しい身分制度を批判したのが,シャカです。シャカの思想の根本は輪廻からの解脱です。輪廻とはこの世界を形成する法則です。それはこの世に存在するものはすべて生まれ変わるというもの。ただし生まれ変わってもまた同じことを繰り返すだけ。これが未来永劫に続く。奴隷の身分に生まれたものは来世も奴隷です。これはよく考えると拷問です。そう生きるとは苦しいことなんです。だから生死の輪から解脱,つまり抜け出さねばならない。抜け出すにはどうしたらよいか?修行によって悟りを開くことです。「悟り」とは「あっ,わかった」程度のものではありません。宇宙の法則と一体となり,すべての真理を理解することです。なかなかできそうにありませんね。だから簡単なことからはじめましょう。「人を殺してはならない」とか「よいおこないをしましょう」とか。長い時間がかかるかもしれません。もしかしたら2回ぐらい生まれ変わっても悟りを開けないかもしれない。何度も何度も生まれ変わってようやく「悟り」は開けるのです。
 「悟り」を開いた人を仏といいます。仏になった人は,そう何人もいません。シャカはその1人です。だからえらいとされる。そのほかには,「阿弥陀如来」に「薬師如来」に「大日如来」。「~如来」はもっとも尊ぶべき仏様です。その次は「菩薩(ぼさつ)」。「観音菩薩」など「~菩薩」とつく人です。でも彼らもまだ修行中の身です。
 仏教はしばらくインドで王の保護を受けますが,その教えは学問的で民衆が信仰する宗教としては栄えなかった。一方人々の間で根付いていたのはバラモン教の方でした。これがやがて現在のヒンドゥー教になります。仏教はインドから出たとたん,新たな解釈が加わり,民衆にわかりやすい宗教として広がっていったのです。
 ヒンドゥー教は基本的にはインドのみの宗教ですが,他の国でもみられることがある。そのうち写真【史料】として出されるのが,カンボジアアンコール=ワット遺跡。カンボジアは仏教国ですが,これはヒンドゥー教寺院の遺跡です。 
   
22 16世紀の初め,インドではイスラム教国である〔 ① 〕帝国が成立した。この国の第5代皇帝:シャー=ジャハンは〔 ② 〕を建立し,現在は世界遺産に登録されている。
①ムガル(ムガール)  ②タージ=マハル
   次にインドが歴史上登場するのは,もう16世紀です。これはインドがイギリスの植民地となる前段階として登場します。当時のインドの大部分を支配していたのは,ムガル帝国でした。「ムガル」とは「モンゴル」が訛ったものですが,直接的には関係ありません。
 ムガル帝国はヒンドゥー教ではなく,イスラム国家であったということ。ただし住民の大部分はヒンドゥー教徒です。イスラム国家であったことを示す建造物に「タージ=マハル」があります。世界遺産にも登録されています。第5代皇帝:シャー=ジャハンの妻ムムターズ=マハルのために建てた墓標です。丸屋根と周囲4本の尖塔がイスラム様式を物語っています。  
   
23 〔 ① 〕年,東インド会社の傭兵:〔 ② 〕がイギリス支配に対して反乱をおこすと,イギリスは軍隊を派遣し,これを鎮圧した。さらにイギリスはムガル帝国を滅ぼし,インドを完全に植民地化した。イギリス支配下のインドでは,第一次世界大戦後,〔 ③ 〕が非暴力・不服従の抵抗運動を続け,戦後に独立を果たした。
①1857  ②セポイ(シパーヒー)  ③ガンディ
   イギリス東インド会社はもはや単なる貿易会社ではありませんでした。インドを植民地化するためのイギリスの出先機関といってもよいでしょう。ですから現地で独自の軍ももっていました。兵は現地から集められ,彼ら傭兵はセポイ(シパーヒー)とよばれていました。
 当時イギリスは新式銃の導入を進めており,この銃には紙薬莢(やっきょう)という銃弾を装填します。鉄砲の弾は火薬を詰める薬莢といわれる部分と弾丸とでできています。薬莢の火薬が銃の内部で爆発し,その威力で弾丸が筒の前から飛び出すのです。この紙薬莢,湿っては使い物になりませんから,油が塗られています。兵はこの紙薬莢の端を噛み切ってから装填するのです。ただ塗られた油脂には獣脂が混ざっていた。
 1857年,ある噂がセポイの間で広まりました。「薬莢の油に牛脂と豚の油が混ざっている。」これが事実ならインド人によって一大事です。ヒンドゥー教・イスラム教両方のタブーをイギリス人は犯させようとしている。イギリス人の陰謀だ。
 こうしておこったセポイの反乱はインド中に広がり,インド大反乱となりました。しかし翌年1858年にはイギリス軍によって沈静化し,反乱に加わったムガル皇帝は廃位,それと同時に東インド会社も解散され,イギリス王をインド皇帝とするインド帝国が設立しました。完全なイギリスの植民地となったのです。
 1857年・1858年といえば,日本では修好通商条約が各国と結ばれた年ですね。そして中国の太平天国もこの時期におこっている。これらが同時期の出来事であることをおさえておきましょう。【時期】
 イギリス統治下のインドで独立運動が活発になったのは,第一次世界大戦後でした。やはりアメリカ大統領ウィルソンの14ヶ条の平和原則がきっかけでした。その中の「民族自決」ですね。これを背景に朝鮮では三・一独立運動中国で五・四運動がおこります。インドではガンディーを指導者とする非暴力・不服従運動展開されます。【時期】
 独立が達成されたのは第二次世界大戦後。インド帝国はインドとパキスタンに分離独立します。インドはヒンドゥー教徒,パキスタンはイスラム教徒で,宗教の違いから分離することになりました。またパキスタンからのちにバングラデシュが分離独立しています。 
   
24 イスラム教は〔 ① 〕世紀初めにメッカの商人ムハンマドによって開かれ,その後継者たちによって西アジア・アフリカ・〔 ② 〕半島にわたるイスラム帝国が成立した。8世紀,その都:〔 ③ 〕は,唐の〔 ④ 〕とともに世界最大の都市であった。
①7  ②イベリア  ③バクダッド  ④長安
   ムハンマド7世紀はじめイスラム教を開いている。7世紀はじめは日本では聖徳太子が政治をおこなっていたころ。ムハンマドと聖徳太子が同時期の人物であることをおさえておきましょう。【時期】
 その後,イスラム教は西アジアを中心に北アフリカに広がり,地中海の出口,ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島にまで進出。イベリア半島はスペイン・ポルトガルがある半島です。この地形名ができるかどうかは差が出るところ。したがって現在のスペイン・ポルトガルはかつてイスラム教徒の支配下にあった。【落とし穴】
 8世紀の世界地図は既出。重要な世界地図です。 
   
25 イスラム教は〔 ① 〕の神を信仰し,『〔 ② 〕』を聖典として,〔 ③ 〕の神殿に巡礼することを信者の義務としている。信者は〔 ④ 〕とよばれる礼拝所で祈りを捧げる。
①アラー(アッラー)  ②コーラン  ③メッカ  ④モスク
   イスラム教の説明でよく出てくる語句です。キリスト教と【比較】させながらおぼえるとよい。

 イスラム教では豚肉・飲酒の禁止,断食(ラマダン),女性が髪を隠すなど独特の習慣があることも大切。 
   
26 中央アジアのトルコ民族は西アジアに移動し,イスラム教に改宗した。11世紀には,イスラム帝国領内に〔   〕が成立し,キリスト教の聖地を占領するなど,キリスト教徒の脅威となった。このことは十字軍のきっかけとなる。
セルジュク=トルコ
   イスラム国家として具体的に名前をおぼえておきたいのが,トルコ民族のセルジュク=トルコオスマントルコ,そしてインドのムガル帝国です。
 セルジュク=トルコは十字軍遠征のきっかけとなった国。オスマン=トルコは大航海時代のきっかけとなった国。【比較】いずれもヨーロッパと接するところにあったので,西洋文明に大きな影響を与えた国です。 
   
27 13世紀末に成立した〔 ① 〕は,15世紀にバルカン半島に進出し,〔 ② 〕年に東ローマ帝国を滅ぼした。東ローマ帝国の首都:コンスタンチノープルは,そのまま〔 ① 〕の首都となりトルコ風に〔 ③ 〕とよばれた。第一次世界大戦ではドイツ側の同盟国として参戦し,敗北したため列強に解体された。
①オスマン=トルコ  ②1453  ③イスタンブール
   オスマン=トルコは1299年に成立し,1922年に滅亡する長期間存続した国です。「2」と「9」をひっくり返すとおぼえられる年代ですが,無理におぼえなくても結構です。
 しかしぜひおぼえておきたい内容が2つある。1453年に東ローマ帝国を滅ぼしたこと。少なくとも15世紀~16世紀ごろ,全盛であったことはおさえておきたい。【時期】このころ東ヨーロッパにまで進出したオスマン=トルコは大航海時代のきっかけとなったことはすでにお話しました。また大航海時代と16世紀の世界地図もよく出題される歴史地図の1つです。
 もう1つは第一次世界大戦でドイツ側につき敗戦したこと。この結果,この国は滅亡します。 
   
28 第二次世界大戦後,パレスチナ地方にユダヤ民族(ユダヤ教)の〔 ① 〕が建国されると,現地のアラブ人が難民となって周辺諸国に離散した。これをきっかけに周辺アラブ諸国は〔 ① 〕に宣戦布告し,〔 ② 〕が勃発した。1973年の第〔 ③ 〕次〔 ② 〕では,〔 ① 〕を援助する先進工業国で石油危機がおこり,各国経済は大きな打撃を受けた。
①イスラエル  ②中東  ③4
   ユダヤという民族は紀元前1000年ごろ,西アジア(中東)のパレスチナ地方に住み着いた民族です。パレスチナ地方とは,現在のイスラエルがある場所。もともと「ぺリシテ」という民族が住んでいたのを長年の放浪と抗争の末,ユダヤ民族が王国を建設します。彼らはキリスト教やイスラム教と同じ唯一神を信仰していました。それもそのはず,そもそもキリスト教やイスラム教はこのユダヤ教がもとになって生まれた兄弟宗教なのです。
 しかしこの地域がさまざまな大国(ローマ帝国など)に支配されると民族は世界各地に離散します。ヨーロッパ各地のユダヤ人がナチス政権下のドイツでひどい迫害を受けたことはしっかりとおぼえておきたい。
 そしてようやく自分たちの民族国家がつくられたのが第二次世界大戦後。アメリカやイギリスの支援を受けて,かつてのパレスチナ地方に現在のイスラエルという国が建国されます。
 ところが建国の際,当時生活していたイスラム教徒(アラブ人)はそこを追い払われます。アラブ人にとっては紀元前1000年ごろのことを持ち出されても困ります。もう何世代もの間,そこ住み続けてきたのですから。こうして土地を追われたアラブ人は難民となって周辺諸国へ逃れます。彼らはパレスチナ難民とよばれました。
 すると当然周辺国イスラム(アラブ)諸国はイスラエル建国を非難するわけです。こうしておこったのが中東戦争でした。イスラエル建国以来,大規模な戦争は4度おこなわれていますが,重要なのはその4回目,1973年第4次中東戦争です。このとき周辺のアラブ産油国がイスエラルを支援するアメリカなど先進諸国に対して石油輸出制限をおこなったのです。原油の輸入を中東諸国に依存している先進工業諸国の経済は大打撃を受け,日本ではここれまで続いてきた高度経済成長がストップしました。これを石油危機といいます。
 1973年,第4次中東戦争と石油危機は歴史の必須問題の1つ。【時期・セット】絶対に落としてはいけません。 
   
29 19世紀以降,インドシナ半島では〔 ① 〕のみが独立を保ち,ミャンマー・マレーシア・シンガポールは〔 ② 〕の,ベトナム・ラオス・カンボジアは〔 ③ 〕の,フィリピンは〔 ④ 〕の,インドネシアは〔 ⑤ 〕のそれぞれ植民地となった。
①タイ  ②イギリス  ③フランス  ④アメリカ  ⑤オランダ
   インドシナ半島とは東南アジアの大陸と陸続きの部分です。「インド」と「シナ(China=中国)」の間に位置するから「インドシナ」です。このインドシナ半島,まずタイを植民地とならなかった独立国とおさえておきましょう。そしてタイを基準に東側がフランスの植民地。そしてそれ以外の地域(主に西側)がイギリスの植民地とおさえます。イギリスはインドを支配していましたから,その流れで考えればよい。
 次に島国をおさえます。インドネシアはオランダの植民地となります。これが差がつくところですね。インドネシアはイスラム教でオランダの植民地だった。しっかりとおぼえておきたい。【落とし穴】そしてフィリピンはアメリカの植民地となります。ではここで重要事項。フィリピンはアメリカの植民地となる前は,どこの植民地であったか?スペインです。【落とし穴】もともとフィリピンはスペインのアジア貿易の中心地でした。その後,アメリカとスペインとの戦争でスペインが敗北し,アメリカに譲られることになります。だからスペインはキリスト教カトリックです。【落とし穴】 
   
30 〔 ① 〕年,インドネシアの〔 ② 〕でアジア・アフリカ会議が開かれ,アジア・アフリカ諸国の独立が促進された。この結果,〔 ③ 〕年は「アフリカの年」とよばれ,アフリカで17ヶ国の独立国が誕生した。また〔 ④ 〕年には〔 ⑤ 〕(東南アジア諸国連合)が結成され,米ソ両陣営に加わらない第三世界を形成していった。
①1955  ②バンドン  ③1960  ④1967  ⑤ASEAN
   1955年の重要事項は前にまとめました。アジア・アフリカ会議は開かれた場所が大切です。インドネシアのバンドン【位置】そのためこの会議はバンドン会議ともよばれます。この会議で反植民地主義,民族自決などがうたわれ,その後アジア・アフリカ諸国の独立が相次ぎます。特に「1960年はアフリカの年」とよばれるぐらいアフリカで独立国が増えました。【時期】
 1967年はASEANとECが結成された年です。【時期】 
   
31 戦後,南北に分裂した〔   〕では,北部に社会主義政権が樹立し,南部はアメリカの保護下にあった。南北の対立は1965年に〔   〕戦争に発展し,1975年,北部が南部を制圧して,アメリカ軍は撤退,〔   〕社会主義共和国が成立した。
ベトナム
   戦後,朝鮮半島と同様に南北に分離独立した国がベトナムです。フランスからの独立です。【落とし穴】これもまた朝鮮半島と同じく,北ベトナムは社会主義国南ベトナムは資本主義国となります。そして北はソ連・中国の支援を受け,南はアメリカの支援を受けて戦争となったのがベトナム戦争
 朝鮮戦争との違いは,北ベトナムが勝利して戦争は終結。統一されてベトナムは社会主義国となったという点です。【比較】

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