歴史 第9回 世界史 発展編①

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西洋史 古代・中世

1 地質年代の新生代第3紀末期の約600万年前,類人猿から進化した最古の人類である〔 ① 〕が誕生し,〔 ② 〕・〔 ③ 〕と進化し,数万年前に現在の人類の直接の祖先である〔 ④ 〕が出現した。脳容積は〔 ① 〕で現在の人類の〔 ⑤ 〕,〔 ② 〕で〔 ⑥ 〕,〔 ③ 〕でほぼ同量であると推定される。
①猿人  ②原人  ③旧人  ④新人  ⑤3分の1  ⑥3分の2
   人類の進化は,猿人→原人→旧人→新人ですが,旧人と新人は一時期重なっています。脳容積は新人を1(約1500cc)として,猿人はその3分の1,原人は3分の2です。(旧人は新人と同じとして) 
   
2 代表的な化石人類として,猿人には「南の猿人」を意味する〔 ① 〕(南アフリカ),原人ではジャワ島で発見された〔 ② 〕や中国ペキン郊外で発見された〔 ③ 〕,旧人にはドイツで発見された〔 ④ 〕がある。
①アウストラロピテクス  ②ジャワ原人  ③ペキン原人  ④ネアンデルタール人
   ネアンデルタール人は死者を悼む心をもち,埋葬の習慣があったといわれています。
ネアンデルタール人の埋葬(メキシコ国立人類博物館 メキシコシティ)
 
   
3 ヨーロッパで発見されたクロマニヨン人は,フランスの〔 ① 〕やスペインの〔 ② 〕に洞穴絵画を残している。
①ラスコー  ②アルタミラ
   
4 地質年代の新生代第4紀の前半を〔 ① 〕といい,その大半は〔 ② 〕期であった。考古学上では旧石器時代にあたり,人類は打製石器を使用し,狩猟・漁撈・採集生活を営んでいた。
①洪積世(更新世)  ②氷河
   考古学では旧石器時代,地質年代では第四期洪積世(更新世),気候上は氷河期(氷河期と間氷期の繰り返し)。 人類の誕生は地質年代で第三期末期とされます。
   
5 最後の氷河期が終わり,地球が温暖化する約1万2000年前から現在までを地質年代で〔 ① 〕とよび,考古学上〔 ② 〕時代がはじまった。人類は〔 ③ 〕石器・〔 ④ 〕を使用し,西アジアから農耕・牧畜がおこなわれるようになった。
①沖積世(完新世)  ②新石器  ③磨製  ④土器
   考古学では新石器時代から現在まで,地質年代では第四期沖積世(完新世),気候上は後氷期。これらと前代の境がだいたい1万年(1万2000年)前。 
   
6 〔   〕とは「太陽の昇るところ」を意味し,紀元前3000年ごろ文明が発祥したエジプトからメソポタミア一帯を指す。
オリエント
  古代オリエント・地中海世界の流れ

 
   
7 エジプト文明では巨大なピラミッドが多数つくられ,中でもギザの〔 ① 〕王のものは世界最大である。神聖文字(ヒエログリフ)とよばれる文字が使用され,神殿や〔 ② 〕に書かれた。天文学や測量術も発達し,1年を365日とする〔 ③ 〕暦が使用された。
①クフ  ②パピルス  ③太陽
   「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」といったのはギリシャの歴史家:ヘロドトスとされます。(本当は?)ナイル川は上流が雨季になると毎年定期的に下流で氾濫をおこします。このときに運ばれてきた肥沃な土砂が,下流に恵みをもたらすのです。しかし洪水になるとこれはもう災害です。ナイル川の水量がいつ増えるのか,治水・灌漑の必要から測地術・天文学が生まれます。
 ナイル川にはカヤツリグサ科のパピルスという植物が自生し,この繊維を使って紙(正確には現在でいう紙ではない)をつくりました。パピルスは「ペーパー」の語源です。このパピルスに神官たちが筆記した文字をヒエログリフ(神聖文字)といいます。象形文字の一種です。 
クフ王のピラミッド

ロゼッタストーン(大英博物館 ロンドン)
神聖文字解読のきっかけとなった。
碑文は上から神聖文字・民衆文字・ギリシャ文字で記述
ロゼッタストーン上部の神聖文字
   
8 メソポタミア文明では〔 ① 〕暦や〔 ② 〕進法が発明され,粘土版にくさび形文字が刻まれた。紀元前2000年ごろに栄えた〔 ③ 〕王国ではハムラビ王が,刑法を中心の法典を残した。
①太陰  ②60  ③バビロニア
   パピルスに文字を書いたのがエジプト。乾く前の粘土板に文字を刻んだのがメソポタミアです。ハムラビ法典には刑法が書かれており,同害復讐法というのが有名です。「目には目を,「歯には歯を・・・」という言葉で知られています。
ハムラビ法典(ルーブル美術館 パリ) 石柱上部 石柱に刻まれた法典(くさび形文字)

 バビロニア王国と出てきたら,古代メソポタミアの王国であったことを思い出しましょう。 
   
9 バビロニア王国は紀元前16世紀,小アジア(現トルコ)に出現して世界ではじめて〔 ① 〕器を使用した〔 ② 〕によって滅ぼされた。
①鉄  ②ヒッタイト
   世界で最初に鉄を用いた民族がヒッタイトで,その製法は極秘でした。鉄を用いた武器や戦車を開発し,メソポタミアやエジプトに勝利しています。しかし前12世紀,ヒッタイトが滅びると鉄の製法が広がり,世界で鉄器文明が栄えることになるのです。 
   
10 紀元前1000年ごろ,東地中海では海洋貿易で栄えた〔 ① 〕人が地中海沿岸に多くの植民地を建設し,〔 ② 〕のもとになる文字を使用した。またパレスチナ地方では〔 ③ 〕人が唯一神ヤハウェを信仰する〔 ④ 〕教のもとに王国を建設し,その聖典はのちに『〔 ⑤ 〕』としてまとめられた。
①フェニキア  ②アルファベット  ③ヘブライ(ユダヤ)  ④ユダヤ  ⑤旧約聖書
   東地中海とは現在のシリア・レバノン・イスラエルあたりです。紀元前1000年ごろの沿岸地域,海上ではフェニキア人が,陸上ではヘブライ人が活躍します。
 フェニキアは海洋民族で地中海各地で貿易に従事しながら,拠点となる海外植民地を築きました。ギリシャ人の先輩です。船には現在大量伐採のためごくわずかしか残っていないレバノン杉が使用されました。レバノン杉はレバノンの国旗のデザインになっています。
 海外植民地の中にはのちに本国フェニキアをしのぐ繁栄を築いたカルタゴ(現在のチュニジア)などがありました。カルタゴはローマと地中海制海権をめぐるライバルになります。
 エジプトのヒエログリフから発展したとされるフェニキア文字を使用し,これが現在のアルファベットになります。ヒエログリフ→フェニキア文字→ギリシャ文字→ローマ文字。
フェニキア文字(カルタゴ博物館 チュニジア)

 一方,陸上ではヘブライ人が部族同士がまとまって王国(イスラエル王国)を建国します。ヘブライ人とはユダヤ人のことです。(以降ユダヤ人と表記)ユダヤ人は王国建国の地を神との約束の地(カナン)だと信じ,他民族との長年の抗争の結果,王を抱くことになった(これまでは宗教的指導者が部族をまとめていた)。宿敵であったぺリシテという民族が住んでいたことからこの地はパレスチナともよばれます。
 ダビデ,ソロモンという王のころ栄えますが,その後は内紛や他国の侵略によって民族は世界に散り散りになり,ようやくユダヤ民族の国家が再び成立したのが1948年に建国したイスラエルです。
歎きの壁(エルサレム)
紀元前10世紀,ソロモン王によって建てられた神殿の外壁を紀元前1世紀に修復したもの。ユダヤ教徒が祈りを捧げる。
向こうに見える金色のドームはイスラム教のモスク。

 ユダヤ教の聖典は『旧約聖書』。「約」とは「神との契約」を意味します。アダムとイブの「創世記」からギリシャ時代までのイスラエル民族の歴史書であり,宗教の戒律をまとめたものです。 
   
11 紀元前8世紀ごろから,古代ギリシャでは〔 ① 〕とよばれる都市国家が建設され,その中には民主政治をおこなった〔 ② 〕や軍国主義政治をおこなった〔 ③ 〕があった。その文化は〔 ② 〕の〔 ④ 〕神殿や〔 ⑤ 〕に代表される哲学にみられる。
①ポリス  ②アテネ  ③スパルタ  ④パルテノン  ⑤ソクラテス
   都市国家:ポリス紀元前8世紀ごろから形成されたと考えられています。オリンピア競技会(オリンピック)が初めて開かれたのは紀元前776年だから,このころにはもうポリスという都市国家とともに,ギリシャ人という同朋意識も存在した。
 4年に1回というのも今と同じ。競技会開催中はたとえ戦争中でも停戦するのが習いでした。「スタジアム」という言葉も当時のトラックの長さ1スタディオンという単位からきています。現在のオリンピックの開会式では毎回最初に登場するのはギリシャと決まっています。
 ポリスには強国とされる国が2つありました。アテネスパルタです。アテネはのちに成年男子(18歳)による民主政をはじめる国として重要です。伝統的に海洋貿易に長け,そして海軍国家です。
 もう1つはスパルタ。伝統的に陸軍国家で,「スパルタ教育」の由来になりました。スパルタの男子は7歳から親元を離れて集団生活をします。そこではただ肉体を鍛えることが日課です。20歳になると武器をもって山に放り出されます。1人で一週間生き抜くサバイバルテストです。一週間後,帰るときには奴隷の首を持ち帰ることが合格の条件です。
 古代ギリシャや地中海沿岸では他の文明と異なり,統一した国家が誕生しなかった。土地が石灰岩質で穀物栽培には向かず,多くの国民を養うだけの食料が得られなかったからです。そのかわりオリーブやぶどうといった付加価値の高い果物が採れる。これをもって海外と交易して穀物などを手に入れていたのです。そしてフェニキア人のように各地に拠点となる植民地を建設した。例えば,ビザンティウム(現イスタンブール)ネアポリス(現ナポリ)マッシリア(現マルセイユ)などが有名です。
 古代文明ではたいてい王権は宗教的権威と結びついています。古代ギリシャでは宗教は人々を支配するものではなく,守護するものでした。だからより身近であるため,より人に似ていなければなりません。古代ギリシャの神々は人の形をしていたのです。ギリシャ神話に登場する神々は,その性格がよいところもあれば,悪いところもある。人を暖かく見守ることもあれば,まちがいを犯すこともある。より人間らしいキャラクターが設定されています。このあくまでも人間を中心とした人間らしい文化が古代ギリシャの文化です。 
 アテネの守護神は女神アテナ。彼女は知恵の神であり,戦争と平和の神でもありました。彼女を祭る神殿がパルテノン神殿です。
 古代ギリシャではまた哲学も栄えました。哲学というと難しいと思うかもしれませんが,哲学は英語で「フィロソフィー」,「フィロ」はギリシャ語で「愛する」,「ソフィア」は「知恵・知識」を意味します。「知恵を愛する」で哲学です。つまり学ぶことそのものが哲学だったのです。日々の生活で疑問をもち,問いかけ,探り,答えを出す。解らないことの一切を超自然的な存在(神や悪魔)のせいにしない。現在の学問の基礎もまた古代ギリシャで誕生したのです。これを追求した人が哲学者です。いまのように「~学」と細かく分けられていたわけではなく,いろんなことをまとめて追求していきました。
 代表人物がソクラテス。哲学の祖ですソクラテス・孔子・シャカは紀元前5世紀のほぼ同時期の人物です。【時期】彼自身は著作を残していませんが,その教えは弟子のプラトンの著作にみられます。そのプラトンの弟子がアリストテレス。彼は現在の学問のあらゆる分野の研究をおこない,「万学の祖」ともよばれます。アリストテレスはアレクサンダー大王の家庭教師としても知られます。
   
12 紀元前5世紀,オリエントを統一した〔 ① 〕がギリシャに進軍して,〔 ② 〕戦争がはじまった。アテネを中心とするポリス連合軍がこれを撃退した。
①アケメネス朝ペルシャ  ②ペルシャ
   紀元前6世紀,オリエントに強大な統一国家が成立します。アケメネス朝ペルシャです。現在のイランを中心にメソポタミア地方・エジプト・小アジア(現トルコ)をその領土とします。そしてその覇権をエーゲ海を越えたギリシャに向けました。これがペルシャ戦争です。
 ギリシャ側は陸をスパルタが,海をアテネが指揮を執り,ペルシャを迎え撃ちます。有名なマラトンの戦いではギリシャ軍の勝利を,伝令兵が武装したままマラトンからアテネまで走って伝え,そのまま絶命したという話があります。ここから「マラソン(マラトン)」競技がはじまりました。
 ペルシャを退けたアテネはポリスの盟主となり,紀元前5世紀中ごろに全盛を迎えます。ペリクレスという人物のもと,成年男子全員が参加できる民会が国政の最高機関となり,直接民主制が実現します。注意したいのは,女性や奴隷には参加する権利はなかったということ。パルテノン神殿もこのころ建設されました。 
   
13 紀元前4世紀,〔 ① 〕王国が南下してギリシャを征服し,ギリシャ世界が統一された。その後〔 ① 〕の〔 ② 〕大王は東方遠征開始し,アケメネス朝ペルシャを征服してインダス川流域にまで至る〔 ② 〕帝国を築いた。これによってギリシャ文化とオリエント文化が融合した〔 ③ 〕文化が誕生した。
①マケドニア  ②アレクサンダー  ③ヘレニズム
   ギリシャの北方の強国:マケドニアが南下を開始し,紀元前338年のカイロネイアの戦いでギリシャ軍に勝利すると,マケドニア王国によるギリシャ支配がはじまりました。
 アレクサンダー(アレクサンドロス)が王位に就くと,彼は10年にわたる東方遠征を開始します。ギリシャの東方というと彼の当面の敵はアケメネス朝ペルシャということになります。紀元前330年,アケメネスペルシャを破ったアレクサンダーは,その領土をそのまま征服し,インダス川流域にまで達するアレクサンダー帝国を築きます。しかし帰国の途中でアレクサンダーは病死してしまいます。
 アレクサンダー大王の東方遠征がもたらした影響にヘレニズム文化があります。「ヘレニズム」とはもともと「ギリシャ風」という意味ですが,ギリシャ文化が東方に伝わったことで,ギリシャ文化とオリエント文化が融合した文化が誕生しました。例えば神々を人間の形で表す(ギリシャ風彫刻)といったことが,オリエント地域にもみられるようになりました。 これがさらに南アジア地域の仏教文化と融合して,仏像が誕生します。南アジアではガンダーラ文化(美術)とよんでいます。
ガンダーラ美術の仏像(インド国立博物館 ニューデリー)
顔やまとっている衣服はギリシャ風のもの

 アレクサンダーの死後,帝国はその後継者たちによって三分割されます。アンティゴノス朝マケドニア,セレウコス朝シリア,プトレマイオス朝エジプト。このうち出題されるとすればプトレマイオス朝エジプトぐらいでしょう。いずれものちにローマによって征服されます。
   
14 紀元前8世紀,イタリア半島中部に成立した〔 ① 〕は,紀元前6世紀に貴族による共和政を樹立し,紀元前〔 ② 〕世紀にイタリア半島を統一した。さらに地中海諸地域に領土を拡大したが,その一方で内政は安定せず,紀元前73年には大規模な剣奴の反乱:〔 ③ 〕の乱がおこるなど,紀元前1世紀は「内乱の1世紀」とよばれた。
①ローマ  ②3  ③スパルタクス
   イタリア半島に都市国家:ローマが建国されたのもギリシャのポリスと同じく紀元前8世紀です。伝説では狼の乳で育った双子の1人ロムルスが建国したとか。このロムルスがローマの名の由来です。最初は王政をしいていましたが,紀元前6世紀末,王を追放して少数の貴族による共和政を樹立しました。
 ローマ人のえらかったところは「法」による支配をおこなったことです。ローマ法に従いさえすれば,征服地の人々にもローマ市民と同等の権利を認めたのです。この法と寛容の精神がローマを強国にした。
 紀元前3世紀にはイタリア半島を統一します。この時期はちょくちょく出るので重要です。【時期】さらに北アフリカで栄えたフェニキア人の植民地カルタゴ(現チュニジア)を破って(ポエニ戦争 ポエニとはフェニキアのこと),シチリア島や地中海の制海権を獲得します。
 領土拡大の一方で内政は徐々に不安定となり,権力抗争や奴隷の反乱が絶えませんでした。紀元前73年におこったスパルタクスの乱はその最大のものでした。スパルタクスは剣奴ととばれる奴隷で,見世物として闘技場(コロセウム)で決闘をさせられた奴隷です。 
   
15 〔 ① 〕(現フランス)を征服し,内乱を治めるなどの功績のあった〔 ② 〕は終身独裁官となり,帝政をめざしたが保守派によって暗殺された。〔 ② 〕の後継者となった〔 ③ 〕は,エジプトを征服して地中海世界を統一し,紀元前〔 ④ 〕年,〔 ⑤ 〕(「尊厳者」)の称号を受けて,初代皇帝となった。
①ガリア  ②シーザー(カエサル)  ③オクタビアヌス  ④27  ⑤アウグスツス
   紀元前の1世紀の内乱を治め,ローマの勢力をアルプス北方(ガリア)にまで広げたのがユリウス=カエサルという人物です。英語名で表記するとジュリアス=シーザー。 
 ローマの政治は市民代表であり有力貴族からなる元老院,そして元老院によって選出される大統領職の執政官によっておこなわれていました。ただし執政官も常時2人という徹底した専制政治の排除が特徴ですが,非常事態の場合は期限付きで「独裁官」という職が設けられ,あらゆる権限が与えられました。
 この独裁官という職は期限付きだからこそ許されていたのですが,カエサルは終身独裁官という地位につきます。事実上の王です。カエサルとしてはわかっていた。内乱のもとは腐敗した元老院にあり,また巨大化した領土を治めるにはこの元老院に図ってその結論を待つのは非効率的だと。1人の優秀なリーダーが即決して行動に移すことができるシステムこそ,今後のローマに必要なんだと。
 しかし保守派(共和主義者)からするとシーザーは私欲で王になろとしているとしか映りませんでした。それほどローマ人は王政にアレルギーをもっていたのです。カエサルが書いた『内乱記』という本の中で彼はこういっています。「人はみな,みたいと思う現実をみるものである。」
 紀元前44年,保守派は行動に出ます。カエサル暗殺です。その中にはカエサルが信頼を寄せていたブルートゥスもいたことから,カエサルは「ブルートゥス,お前もか」とつぶやいて死んだといいます。(シェークスピア『ジュリアス=シーザー』)
 カエサルの死後,再び内乱が勃発します。この内乱を治めたのが,カエサルの甥:オクタビアヌスでした。これといってとりえのない人物にみえましたが,カエサルはこの少年(当時)の才能を見出し,前もってつくっておいた遺言状でオクタビアヌスを自らの後継者と決めていたのです。カエサルの目は確かでした。オクタビアヌスは見事内乱に終止符をうち,唯一地中海沿岸でローマの支配を免れていたクレオパトラが治めるエジプト(プトレマイオス朝)を征服したのです。
 結果,前27年,オクタビアヌスは元老院からアウグスツス(尊厳者)という称号を送られ,これまでの執政官の上に立つ,元首の地位を与えられました。元首は各種要職の任命権,元老院への議案提出権と議決に対する拒否権,そして軍の最高指揮権をもつことになります。形式上,元首は元老院が任命することになっていましたが,事実上の帝政です。よってアウグスツス(オクタビアヌス)をもってローマは帝国(帝政)になったといわれます。【時期】
 皇帝をあらわす言葉には西洋ではさまざまありますが,「アウグスツス」というのがその1つです。また「カエサル」という言葉も「副帝」を意味するようになります。ロシアではのちにこの「カエサル」から「ツァー(皇帝)」という称号になりました。また一番一般的な「エンペラー」という言葉は,軍の最高司令官をローマで「インペラトール」とよんだことからきています。
 またカエサルとアウグスツスの名前は以外と身近なところでも使われています。「7月」・「8月」を表す英語です。「7月」を表す「July」はカエサルの名の「Julius(ラテン語:ユリウス,英語:ジュリアス)」から,「8月」を表す「August」は「Augustus(アウグスツス)」からとったものです。ともにその月が誕生日であったのです。
   
16 古代ローマの文化は,〔   〕とよばれる円形闘技場や水道橋などの公共施設の建設にみられる。 
コロセウム 
   古代ギリシャの大きな遺産は民主政と哲学です。古代ローマが残した大きな遺産は「法」でした。ローマ法は現在にも通じる法体系を築きあげた。
 また「ローマは兵站で勝つ」というふうにもいわれた。「兵站(へいたん)」とは,食料や武器の配給,兵隊の配備や医療,活動施設の構築・整備・維持です。戦闘では闘争心・武器を扱う技術・腕力だけでは勝てません。それだけで戦おうとするのが蛮族なら,ローマは当時世界でもっとも「兵站」というものを意識していた国であり,文明でした。
 特に施設面を例に挙げると,ローマ街道の整備があります。ローマを中心に軍隊が迅速に移動できる高速道路網を整備しました。「すべての道はローマに通ず」という諺もあります。また定期的な維持管理も重要です。(中世にはこの維持がおろそかになった)。衛生管理も国を維持していくために重要です。この土木技術がさまざまな面でいかされました。コンクリートもローマの技術です。
 都市にははるかかなたの山から上水道(水道橋)を引きます。何十キロも離れたところから水を引くのですから,水が流れるための傾斜を計算するだけでも大変です。引かれた水は生活用水や公衆浴場で利用されました。お風呂に入るという習慣は衛生上非常によい。この習慣はローマ滅亡後,キリスト教の布教によって廃れていきました。(イエスが貧しい生活をしていたことから)
 ヨーロッパや北アフリカには今でもローマ時代の公衆浴場跡が残っています。「浴場」のことを英語で「bath」といいますが,これはローマがイギリスで温泉として開発した「バース」という町の名からきています。
 娯楽面では円形闘技場(コロセウム)が有名です。1世紀のローマの闘技場だけでなく,これもかつてローマ帝国領であったところに現在でも残っています。 
円形闘技場(ローマ)
水道橋(イスタンブール トルコ)
   
17 ローマ帝国は紀元〔 ① 〕世紀の五賢帝時代に最大領土となり,全盛期を迎えたが,3世紀には各地で反乱が頻発した。 また東方の〔 ② 〕や北方の〔 ③ 〕民族との抗争が絶えなかったため,4世紀に皇帝:〔 ④ 〕は首都をローマから〔 ⑤ 〕に遷都して,これらに対応した。
①2  ②ササン朝ペルシャ  ③ゲルマン  ④コンスタンチヌス  ⑤コンスタンティノープル 
   紀元2世紀ローマ帝国は最盛期を迎えます。北はブリテン島,南は北アフリカ沿岸地域,東はメソポタミア地方まで進出し,ササン朝ペルシャ(アケメネス朝ではない)と国境を巡った争いが頻発します。
 ヨーロッパはライン川・ドナウ川を境にゲルマン民族と対峙していました。ドナウ川を越えた地域では現在のルーマニアを支配し,このとき入植したローマ人がルーマニア人の祖先となったため,ルーマニアはラテン系で,ルーマニア語はイタリア語に似ているといわれます。
 2世紀のローマ帝国領土は東の漢と並べた歴史地図が重要。関連事項としてシルクロード交易が出題されます。
 ローマ帝国の脅威はこのゲルマン民族とササン朝でした。そのため軍はどうしても東方に向けて出動することが多かった。加えてローマの元老院の腐敗。
 4世紀はじめ,これらのことを考慮して,コンスタンチヌス帝は長年の首都ローマを離れて,東方の要所ビザンチウムに遷都することに決めます。ビザンチウムは以後,コンスタンチヌスの都市(コンスタンティノポリス)の意味でコンスタンチノープルとよばれるようになります。 【時期・位置】
   
18 〔 ① 〕年,〔 ② 〕民族の1つの西ゴート族が〔 ③ 〕川を越えてローマ帝国内に侵入すると,〔 ② 〕諸族の侵入が後を絶たなかった。〔 ④ 〕年,皇帝:〔 ⑤ 〕は帝国を東西に二分したが,首都をローマとする西ローマ帝国は〔 ⑥ 〕年に東ゴート族によって滅ぼされた。一方,〔 ⑦ 〕を首都とする東ローマ帝国は〔 ⑧ 〕年に滅ぶまで約1000年存続した。 
①375  ②ゲルマン  ③ライン  ④395  ⑤テオドシウス  ⑥476  ⑦コンスタンティノープル  ⑧1453 
   これまでもたびたびゲルマン民族はライン・ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に侵入していましたが,本格的な侵出がはじまったのは375年です。【時期】(ローマ分割「皆(37),ご(5)めん」おぼえる)
 こうなっては1人の皇帝で広大な領土を守りきれません。そこでテオドシウス帝395年,2人の息子に領土を東西に分割して治めさせることにしました。これまでも分割統治されたことはありましたがあくまでも東の正帝(アウグスツス)が全体をまとめていました。それが完全に分割され,以後統一されることはなかった。
 西ローマ帝国の首都はローマ。この国はゲルマン民族の移動先となってしまったので,分裂から100年ももたずにゲルマン民族(東ゴート族)に屈します。その領土にまもなく成立したのが,やはりゲルマンの一部族:フランク族のフランク王国です。西ローマ帝国滅亡・フランク王国成立の時期は,中国では南北朝時代の宋王朝のころです。これはおさえておきたい。【時期】
 移動した主要なゲルマン民族では,大移動のきっかけとなった西ゴート,西ローマ帝国を滅ぼした東ゴート,(「ゴート」は現在,「ゴシック様式」とか「ゴシック体」とかデザインの用語として残っています。)フランク王国のフランク族,ブリテン島に渡ったアングロ・サクソン族(現在のイギリスの主要民族の1つ)が重要。
 一方,東ローマ帝国(首都:コンスタンチノープル)はゲルマン民族の侵入の影響をほとんど受けませんでした。この国は以後約1000存続することになり,1453年オスマン=トルコに滅ぼされます。(これは非常に重要です)また東ローマ帝国は別名ビザンチン帝国という表現もされることに注意。
   
19 1世紀,ローマ帝国内の〔 ① 〕地方で成立したキリスト教は,イエスの弟子(使徒)によって帝国内に広められた。当初は迫害に苦しんだが,4世紀はじめ〔 ② 〕帝の〔 ③ 〕によって公認,4世紀末,〔 ④ 〕帝によって帝国の国教となった。 
①パレスチナ  ②コンスタンティヌス  ③ミラノ勅令  ④テオドシウス 
   パレスチナ地方ユダヤ人が定住した土地でしたが,1世紀ごろはローマ帝国の支配下にありました。このユダヤ人の中からユダヤ教を批判し,改革をおこなう形でイエスキリスト教を開きます。神の愛を説き,神の前ではだれもが平等で,信仰をもてばだれでも救われる(天国にいける)といいます。ユダヤ教では救われるのはヤハウェ(ユダヤの神)を信じるユダヤ人だけです。(選民思想)
 そのためイエスは皇帝を畏れず自らを「神の子」と名乗ったため,批判を受けたユダヤ人の手引きによって,ローマ法廷に差し出され処刑されることになりました。その3日後,イエスは復活して弟子の前に現れたとされます。この奇跡を目撃した弟子たちはイエスに対する信仰を深め,ローマ帝国各地で布教活動をはじめたのです。
 イエスの弟子の中で高名なのがペテロ(英語名:ピーター)。ペテロはローマで布教し,弾圧にあって死にます。ペテロの墓の上に建てられたのがバチカン聖ピエトロ寺院。そしてこのペテロこそが初代ローマ教皇とされる人物です。
 キリスト教は内乱の激しかった3世紀に信者を増やしていきます。そして4世紀末コンスタンチヌス帝ミラノ勅令を出して,帝国内での信教を公認4世紀末テオドシウス帝によって帝国の国教となりました。公認・国教の【時期】は非常に重要です。
 国教ということは皇帝がキリスト教に従ったということです。このときキリスト教と国家の関係が決まったのです。キリスト教(神)が上,国家(君主)が下。以降のヨーロッパはキリスト教が支配する世界になった。 
   
20 西ローマ帝国の滅亡後,〔 ① 〕年に現在のフランスを中心にゲルマン民族によって〔 ② 〕王国が成立した。〔 ② 〕王国はキリスト教に改宗し,イベリア半島より侵入したイスラム教徒を撃退するなど領土を拡大し,800年に〔 ③ 〕大帝がローマ教皇から西ローマ皇帝の後継者としてその冠を授けられた。 
①486  ②フランク  ③カール 
   ローマ帝国が東西に分裂したことで,キリスト教教会が東西でその優位を主張しはじめました。西はローマ教会(ローマ=カトリック),東はコンスタンチノープル教会です。ところが西ローマ帝国が滅亡するとローマ教会はその後ろ盾を失った。劣勢に立たされたローマ教会は,そのあとに建国するまだキリスト教化されていないフランク王国に目をつけたのです。
 西ローマ帝国滅亡の10年後,フランク王国が成立します。文字通り現在のフランスのもとです。フランク王国はゲルマン民族で多神教です。ゲルマンの神々は英語の曜日にみつけることができます。軍神テュールは火曜日,主神オーディンは水曜日,雷神トールは木曜日,女神フレイヤは金曜日です。
 さてフランク王国も西ローマ帝国領内の今度は被支配者となった圧倒的多数のローマ人を上手に取り込む必要があった。 そこでローマ教会に近づいた。
 両者の思惑が一致したところで,フランク国王が自らローマ=カトリックに改宗した。ローマ=カトリックの指導者はローマ教皇です。ローマ教皇はフランク国王がその地の支配者であるお墨付きを与えることで政治的・軍事的後ろ盾を得ることができ,フランク国王はカトリック信者として堂々と国を治めることができたのです。この関係はヨーロッパ社会を理解する上で非常に重要なことです。ヨーロッパにおける支配者(皇帝・王・公など)とは,ローマ教皇によってその正統性を保障されるのです。
 ローマ教皇のお墨付きをもらったフランク王家はキリスト教徒としてまた指導者として,まだキリスト教化されていない人々を導く必要があります。フランク族は王に習って改宗しましたが,周辺で建国しているゲルマン諸部族はまだです。フランク王国は周辺の国々を征服しながら,教化を進めていきました。
 また7世紀以降,勢力を強めてきたイスラム教徒の手がイベリア半島にまで伸びてきた。異教徒との戦いもキリスト教徒としての義務です。8世紀,ついにピレネー山脈を越えて国内に進入してきたイスラム教徒も撃退します。
 その結果フランク王国は,8世紀末のカール1世のとき,かつてのイスラム教化されたイベリア半島を除く,西ローマ帝国領のほとんどを回復しました。そこで800年,カール1世はローマ教皇からかつての西ローマ皇帝の称号を授けられたのです。【時期】(かつてのローマ帝国に対し,カトリックが認めたローマ帝国という意味で「神聖ローマ帝国」と表現する)そしてカール1世は「大帝」をつけてカール大帝とよばれました。(かつてコンスタンチヌスも大帝とよばれた。)
カール大帝(パリ シテ島)
   
21 9世紀,カール大帝の死後,フランク王国は現在の〔 ① 〕・ドイツイタリアに3分裂し,〔 ① 〕には〔 ① 〕王国が,ドイツには〔 ② 〕が,イタリアにはイタリア王国が成立した。イタリアはまもなく小国が割拠し,19世紀まで統一されることはなかった。 
①フランス  ②神聖ローマ帝国 
   カール大帝の死後,もともとフランク族では領土を子どもに分割相続していたこともあり,カールの孫の代にそれがもとでもめごとがおこります。これを解決するために3人の後継者はベルダン条約(843)を結び,王国を3分割しました。それでも納得できなかったのか,再びメルセン条約(870)で調整がおこなわれ,フランク王国は西フランク・東フランク・イタリアの三王国に分裂することになりました。【時期】
 3つの国はそれぞれ現在のフランス・ドイツ・イタリアであることをおさえておきましょう。のちに西フランク王国はフランス王国としてフランス革命が勃発するまで続きます。東フランク王国は神聖ローマ帝国としての地位を引き継ぎ,ナポレオンに解体されるまで存続します。イタリア王国はまもなくドイツの侵入にあい,神聖ローマ皇帝がドイツ王とイタリア王を兼ねることになりました。しかし神聖ローマ皇帝はイタリアにいることが少なかったため,イタリアでは諸侯の力が強くなり,しだいに小国家の分裂状態に陥ります。再び統一を果たしたのは1861年になってからのことです。【時期】 
   
22 8世紀,スカンディナビア半島のゲルマン民族:〔 ① 〕人が活動を開始し,ヨーロッパ各地に移動した。北フランスに移住した〔 ① 〕人は10世紀に〔 ② 〕公国を建国,11世紀に〔 ② 〕公のウィリアムがイングランドを征服して〔 ① 〕朝を建国した。 
①ノルマン  ②ノルマンディ 
   8世紀,再びゲルマン民族の動きが活発になります。ヨーロッパ北部,現在ではノルウェー・スウェーデン・デンマークに居住したゲルマン民族で,ノルマン人といいます。「バイキング」といういい方の方が耳慣れているかもしれません。バイキングとは「入り江の民」という意味で,文字通り海洋民族です。バイキングはときには「海賊」を意味する言葉として使われてきました。
 ノルマン人はブリテン島やフランス北部に侵入し,定住します。フランス北部をノルマンディー地方というのはそのためです。そこにノルマン人はノルマンディー公国を建国します。そして1066年,ノルマンディー公ウィリアムは海峡を渡ってブリテン島(イングランド)を攻め,その地を征服。ブリテン島にノルマン朝を創始しました。イギリスの歴史上「ノルマンの征服」とよばれます。
 ここで少しややこしいのは,ノルマンディー公国はフランスの地ではフランスの一部です。よってフランス王の配下にあります。そして同時にイギリス(イングランド)ではイギリス国王なのです。この関係は長年,両国の関係をこじらせていく原因となります。
 またイギリスではゲルマン系の言語とフランス系の言語が交じり合って現在の英語のもとが誕生することになります。英語にはフランス語から取り入れた単語が非常に多い。 
   
23 中世の西ヨーロッパは〔 ① 〕教会の影響下で,国王・諸侯・騎士・教会などの支配階級が〔 ② 〕とよばれる農民を支配する封建社会であった。〔 ① 〕教会の最高位である〔 ③ 〕は皇帝や国王よりも強い権力をもち,その即位や退位に大きな影響力をもっていた。
①カトリック  ②農奴  ③ローマ教皇 
   ローマ=カトリックはフランク王国と結びついたおかげで,西ヨーロッパ全体に影響力をもつ組織になりました。ローマ教皇を頂点に,枢機卿とよばれる大臣クラスの神父,各地方を統括する大司教,そして町・村には司教が任命・派遣されます。これらの任命と教会領の支配は王や領主ではなくカトリック教会の独占です。そして王権は教会(ローマ教皇)の権威に基づいています。王が王たるためには,神に認められなけばならないとされたからです。よって神の代理人である教皇によってその地位が保障されたのです。
 王の上には各地の王を束ねる皇帝が存在します。皇帝はカール大帝以降,フランク国王が任命され,フランク王国分裂後,10世紀からはドイツ国王が任命されます。これら皇帝を抱く国は神聖ローマ帝国とよばれました。皇帝や国王の下には各地の領主である諸侯や騎士がおり,彼らのもとに農奴とよばれる被支配者階級がいました。
 ローマ教皇の権力の強大さを示す事件を1つ紹介します。神聖ローマ皇帝ヘンリー(ハインリッヒ)4世が聖職者の任命権をめぐってローマ教皇(グレゴリウス7世)と激しく対立します。ローマ教皇はヘンリーを「破門」という罰に処します。破門とはキリスト教社会の参加を禁止することで,当時のヨーロッパにキリスト教社会以外の場所はありませんから,破門されるとは死を意味したのです。当然周囲の人間は破門された者との接触は禁止されます。皇帝であろうと助けてもらえません。
 ヘンリーはイタリアのカノッサ城まで赴いて,1月の寒い中3日間城外で粗末な衣を身にまとい,裸足でローマ教皇の許しを請いました。これを「カノッサの屈辱」といいます。
 さてこの「破門」。中世キリスト教社会では絶大な効力をもつローマ教皇の「伝家の宝刀」ですが,「カノッサの屈辱」の少し前,同じキリスト教に対しても振りかざしています。相手は東ローマ帝国の東方教会です。東方教会の指導者はコンスタンチノープル大司教です。西側世界で頂点に立ったローマ教皇は,ついに東側世界に対して和解を求めるのでも優位を主張するのでもなく,袂を別つことにしたのです。教会大分裂です。 (同時に東側もローマ教皇を破門)こうしてキリスト教は西ヨーロッパのローマ=カトリックと東ヨーロッパの正教会に分裂して今にいたるのです。
   
24 〔 ① 〕年,イスラム教国:〔 ② 〕が勢力を拡大すると,東ローマ皇帝はローマ教皇に援助を要請し,第1回十字軍が派遣された。以後約200年にわたって7回(8回)派遣されたが,聖地奪回に失敗した。一方,〔 ③ 〕・〔 ④ 〕・フィレンツェなどの北イタリア諸都市は遠征に乗じて東方貿易で栄えた。 
①1096  ②セルジュク=トルコ  ③ジェノバ  ④ベネチア  ※③・④は順不同 
   11世紀はユーラシア大陸の東西で遊牧民族の動きが活発化した時代です。中国では北方の草原地帯で遊牧民族が多数の国家を建国しています。はこの遊牧民国家にさんざん苦しめられた王朝でした。
 一方,草原地帯を西進した民族にトルコ民族がいました。このトルコ民族がイランを中心に建国し,西アジア一帯を征服したのが,セルジュク=トルコでした。セルジュク=トルコはバグダッドのイスラム教カリフ(指導者)からスルタン(王)の称号を与えられ,キリスト教徒に対する聖戦を実行し,聖地エルサレムも占領。その勢力は東ローマ帝国にまで達していた。
 そこで東ローマ皇帝は,西側諸国に援助を求めます。そしてローマ教皇の呼びかけではじまったのが十字軍です。ローマ教皇としてはうまくいけば,聖地奪回だけでなく,東側世界をカトリック化できると考えたのでしょう。「神が望んでおられる。」こうして1096年から約200年にわたって派遣されました。
 最初は西側各地の諸侯が中心となって聖地攻防戦が繰り広げられます。3回目はイギリス・フランス・ドイツなどの皇帝・国王が自ら参加。4回目となるももはや相手はイスラム教徒ではなく,行先は東ローマ帝国そのものになりました。これによって一時東ローマ帝国は滅んでしまいます。それ以降もキリスト教徒の王がローマ教皇の許可なくイスラム教徒と条約を結んだり,目的地が北アフリカだったり,当初の勢いはなくなっていきます。
 結果,聖地奪回はなりませんでしたが,これで大儲けした人々がいた。北イタリア諸都市,特にジェノバ・ベネチア・フィレンツェといった都市です。これらの都市は十字軍輸送を担当しながら,東方貿易によって莫大な利益を得た。これら諸都市ではのちにルネサンスが栄えます。 
   
25 十字軍遠征の失敗によってローマ教皇の権威が失墜すると,ヨーロッパ各国の王権が伸張した。イギリスでは〔 ① 〕が王権を濫用すると,〔 ② 〕年,貴族が〔 ③ 〕を王に認めさせた。またイベリア半島では〔 ④ 〕・〔 ⑤ 〕王国が中心となってイスラム教徒を撃退して,〔 ⑥ 〕年にキリスト教徒による国土回復運動が完成した。 
①ジョン王  ②1215  ③マグナ=カルタ  ④スペイン  ⑤ポルトガル  ⑥1492  ※④・⑤は順不同 
   十字軍遠征の失敗はローマ教皇,つまりローマ=カトリックの権威失墜につながりました。また同時に戦線に出た諸侯や騎士たちも没落していきます。変わって国内で力をつけたのが,各地の王でした。
 イギリスでは第三回十字軍に参加したリチャード獅子心王が,帰国の途で亡くなると弟のジョン王が即位します。ジョンはローマ教皇と対立して領土を失うなど「失地王」の烙印を押されました。さらに国内では王権を濫用して貴族と対立するなど国民の信頼を失います。そこで貴族は「マグナ=カルタ」を制定して王にこれを認めさせ,王の権限を抑制しました。これはイギリス法の基本法典として現在でもいかされています。
 一方でイベリア半島では王権を中心としてイスラム教徒の撃退に成功しています。イベリア半島では8世紀以降,イスラム国家が建国されました。現在でもスペイン・ポルトガルではイスラム文化の影響が色濃く見受けられます。
 十字軍の遠征と平行して,イベリア半島内のキリスト教国家が立ち上がり,次第にその国土からイスラム教王朝を追い詰めていきました。最後に残った勢力を撃退して,完全に再キリスト教化に成功したのが1492年。この年はコロンブスがアメリカ大陸に到達した年としても重要です。【時期】 
   
26  〔 ① 〕年,東ローマ帝国が〔 ② 〕によって滅亡し,イギリスとフランスとの間の〔 ③ 〕が終結した。
①1453  ②オスマン=トルコ  ③百年戦争 
   1453年,1000年にわったて存続した東ローマ帝国がついに滅びます。滅ぼしたのはオスマン=トルコ。これは年とともに非常に重要です。【時期】
 同じ年,以前から争いの種だったイギリスとフランスの領土問題(ノルマンディー地方など)や王位継承争いなどが原因で約100年続いていた英仏百年戦争に終止符が打たれます。フランスにジャンヌ=ダルクという少女が現れて戦争を勝利に導いたとか。
 1453年の東ローマ帝国の滅亡,百年戦争の終結。1492年のコロンブス大西洋横断,スペイン・ポルトガルの国土回復達成。このあたりから,ヨーロッパ世界は次の段階に足を踏み入れたので,この2つの年がヨーロッパの中世と近世をわけるターニングポイントであることをおさえておきましょう。【時期】 

西洋史 近世

1 14世紀,北イタリアの〔 ① 〕を中心にルネサンスがはじまった。〔 ② 〕が『神曲』をトスカナ語で著したのにはじまり,16世紀にその中心はローマやベネチアを経て,17世紀にはヨーロッパ各地へ広まっていった。イギリスには四大悲劇を書いた劇作家:〔 ③ 〕がいる。
①フィレンツェ  ②ダンテ  ③シェークスピア
 
フィレンツェ
海洋都市ベネチア
 
   
2 ルネサンスではイスラム文化や中国を起源にもつ科学技術が実用化され,火薬・羅針盤・活版印刷術はルネサンスの三大発明とされた。1450年ごろ,ドイツの〔 ① 〕は活版印刷術を実用化し,ポーランドの〔 ② 〕が主張した地動説はイタリアの〔 ③ 〕によって証明された。
①グーテンベルク  ②コペルニクス  ③ガリレオ=ガリレイ
   火薬・羅針盤・活版印刷術は中国の代の発明です。これに代の製紙法と合わせて中国の四大発明といったりします。製紙法は751年タラス河畔の戦いで,唐からイスラム圏に伝えられました。火薬・羅針盤もイスラム教徒を通じて,あるいはモンゴル人によってヨーロッパに伝わります。
 しかし活版印刷術は中国からヨーロッパに伝わりませんでした。中国で活字をつくろうとすると文字数が多くてたいへんですので,中国において普及しなかったのが原因です。また中国のものは木版印刷でした。
 13世紀,高麗世界初の金属活字が発明されますが,これもお経のためのもので一般の書物の普及には貢献しなかった。
 世界初の金属活字を実用化させたのは,1450年ごろドイツグーテンベルクだとされます。【時期】製紙法も十字軍時代に東方交易を通じてイスラム圏からもたらされ,14世紀から普及します。これとあいまって印刷技術が発展した。 これによって出版された『新約聖書』は宗教改革の最大の武器となったのです。
 地動説は16~17世紀にイタリアで活動した天文学者:ガリレオ=ガリレイが有名ですが,その100年前のコペルニクスが重要です。グーテンベルクと同じく15世紀の人物。コペルニクスがポーランド人であることも知っておきましょう。
   
3 ローマ教皇がサン=ピエトロ寺院(バチカン)の改築資金を集めるため〔 ① 〕を販売したことに対し,〔 ② 〕年,ドイツのルターは「95ヶ条の意見書」を発表して非難した。
①免罪符  ②1517
   「95ヶ条の意見書」を発表した1517年をもってルターが宗教改革をはじめた年とします。この年はおぼえておきましょう。【時期】ルターの改革の内容は次の通り
・信仰のよりどころは聖書である。
・『新約聖書』のドイツ語訳

 ローマ=カトリックではローマ教皇が「神の代理人」です。ローマ教皇を頂点として教皇→枢機卿→大司教→司教→民衆と信仰(言葉や令)が伝えられます。神やイエスの言葉が唯一の証拠となるのは『聖書』のみであるはずなのに,その聖書は難解な古代ラテン語で書かれており,一般民衆にはとても読めるものではなかった。そもそも聖書が手元にない。数限られた手書きの写本しかなかったからです。だからこそ迷える子羊たちを導くものが必要であり,だからこそカトリック教会は威張っていられたのです。
 もし聖書を民衆が簡単に手に入れることができ,直接読めるようになったら・・・。民衆はカトリック教会を介さなくてもも直接神の教えに触れることができ,教会がいかに堕落しているかがわかるでしょう。
 こうしてルターは『新約聖書』のドイツ語訳に取り組みます。訳された『聖書』は印刷所で大量に刷られて出版されます。簡単に手に入れられるようになった聖書を通じて,個人として信仰をもつことができるとともに,ドイツ語の読み書きを勉強するものも増えました。ルターのドイツ語が今日のドイツ語のもととなります。 
   
4 〔 ① 〕年,〔 ② 〕のカルバンは〔 ③ 〕で宗教改革をおこし,「勤労と蓄財」を説いた。カルバン派はイギリスでは〔 ④ 〕とよばれた。
①1541  ②フランス  ③スイス  ④ピューリタン
   ルターとともにカルバンが宗教改革をはじめた年もおさえておきましょう。【時期】「フランス人のカルバンがスイスで」というのも重要ですね。【落とし穴】
 「営利(利益を求めること)と蓄財」はカトリックでは禁止されていますが,カルバンはこれを奨励します。そのためカルバン派は都市部の商工業者に広まっていきます。各地のカルバン派はよび名が異なりますが,イギリスでは「ピューリタン(清教徒)」よばれたことは大切です。 
   
5 〔 ① 〕年,イギリスではヘンリー8世がカトリック教会から独立して新たに〔 ② 〕を設立した。同年カトリック教会は〔 ③ 〕(スペイン)らを中心にイエズス会を設立した。イエズス会の宣教師には日本に来航したザビエルや中国(明)に伝道した〔 ④ 〕らがいる。
①1534  ②イギリス国教会  ③イグナチウス=ロヨラ  ④マテオリッチ
   宗教改革においてもう1つ大切な年代が1534年です。イギリスはヘンリー8世の離婚問題がきっかけとななって,カトリック教会から独立します。カトリックでは離婚は認められていません。というのも結婚は神が決めるものだからです。もし離婚が認められるとしたら裏技を使うのです。結婚自体を無効とする方法です。ヘンリー8世はこの手をローマ教皇に認めてもらおうとしますが,認めてもらえませんでした。
 そこでヘンリー8世は自分の都合を優先させてカトリック教会からの独立を決断します。こうしてイギリスでは国王自らが教会の首長を務めるイギリス国教会が成立しました。教義内容はカトリックとほとんど変わりませんが,カトリック教会からの完全独立という点で宗教改革の1つであり,国教徒をプロテスタントの1つに数えます。
 こうして離反者を多く出すことになったカトリック教会は勢力挽回のため,反宗教改革に取り組みます。その中心的な組織としてイエズス会を創設しました。「イエズス」とは「イエス(JESUS)」のことです。創設者はイグナチウス=ロヨラフランシスコ=ザビエルら。ともにスペイン人です。
 この修道会は教皇への絶対服従と軍隊的な規律で,「教皇の精鋭部隊」ともいわれました。任務は主に海外布教と新教に改宗したものをカトリックに再改宗させることです。
 イエズス会のアジア拠点となったのが,ポルトガルのアジア貿易の拠点であるインドのゴアです。

 年代に「3・4・5」の組み合わせ違いがいくつか登場します。「1453」・「1534」・「1543」です。ややこしいのでまとめておぼえておきましょう。
1453年…東ローマ帝国の滅亡・百年戦争終結
1534年…イエズス会設立
1543年…鉄砲伝来
 
   
6 1488年,ポルトガル〔 ① 〕を派遣して喜望峰に到達し,〔 ② 〕年にはバスコ=ダ=ガマが〔 ③ 〕に到達してインド航路を発見した。以後ポルトガルはインドの〔 ④ 〕・中国のマカオを中心にアジア貿易に力を入れた。
①バーソロミュー=ディアス  ②1498  ③カリカット  ④ゴア
   バーソロミュー=ディアスは難ですが,喜望峰は重要。【位置】世界に先駆けて大航海に乗り出したのはポルトガルでした。まずはアフリカ沿岸の調査に何度も乗り出します。次に喜望峰を回ってアフリカ大陸を北上し,東アフリカからはイスラム商人の案内でインド南西岸のカリカットに到達したのが,バスコ=ダ=ガマ。よってガマ自身が実際に発見したのは,喜望峰から東アフリカの港(マリンディ)までということになります。ディアス,ガマとももちろんポルトガル人です。またカリカットカルカッタは異なるので注意。【位置】
 アジア貿易は当初,ポルトガルの独占であった。その根拠地がインドのゴア中国のマカオ。両地とも【位置】ともに重要。
ユーラシア大陸最西端ロカ岬(ポルトガル)
 
   
7 〔 ① 〕年,スペインは西回りのアジア航路を開拓するため,〔 ② 〕出身のコロンブスを援助して大西洋横断に成功した。コロンブスは〔 ③ 〕諸島のサンサルバドル島に到着したが,のちにこの周辺地域が未知の大陸であることが確認された。
①1492  ②ジェノバ  ③西インド
   1492年は世界の歴史上,非常に重要な年の1つ。コロンブスイタリア人であることと,スペインの援助を受けたことが重要。 イタリアには十字軍遠征時を全盛に地中海の東方貿易で栄えた海軍国家が多かった。特にベネチアジェノバ,ピサ,アマルフィはイタリアの四大海洋国家として栄えました。現在でもイタリアの海軍旗はイタリア国旗の中央にこの4都市の紋章が描かれています。
 その中でピサとアマルフィは次第に衰え,残ったベネチアとジェノバがしのぎを削ります。ベネチアが国家単位で海洋国の伝統を築きあげたのに対し,ジェノバは個人の船乗りの力量が優れていたといいます。しかし当の国家:ジェノバとしては権力闘争が絶えず,優れた個人は国内ではなかなか活躍の場をみいだすことができなかった。
 コロンブスもその1人でした。地球球体説の証明に命をかけようとするコロンブスにスペイン女王が白羽の矢を立てたのです。そしてこの賭けはスペインに多大な利益をもたらすことになった。
 コロンブスは計4度大西洋航海をしますが,この地をインドと疑わなかった。その後,アメリゴ=ベスプッチ(イタリア)の探検によって,未知の大陸であることが明らかとなって,この地はアメリカと名づけられました。
   
8 1519年,マゼラン(ポルトガル)一行はスペインの援助を受けて世界一周に出航したが,途中マゼランは〔 ① 〕で戦死した。〔 ① 〕はのちにスペインの征服を受け,ルソン島の〔 ② 〕はスペインのアジア貿易の拠点となった。
①フィリピン  ②マニラ
   マゼランポルトガル人ですが,彼もスペインの援助を受けて航海に出た。ひっかからないように。【落とし穴】のちにマゼラン海峡とよばれる南アメリカ南端を回って,太平洋を横断。フィリピン諸島に到達したところで,現地の抗争に巻き込まれます。そこでマゼラン自身は現地人のラプラプによって殺されます。(フィリピン人にとってラプラプは英雄です)運よく逃げた 1隻で,ポルトガルのインド航路を回りスペインに帰還しました。
 マゼランがスペインの援助を受けたことからフィリピンはスペインの植民地となります。「フィリピン」は国王(当時王太子)フィリップ2世から名づけられました。フィリピンのマニラはスペインのアジアにおける拠点となります。【位置】
   
9 主にアメリカ大陸に進出したスペインは,〔 ① 〕がメキシコの〔 ② 〕帝国を,〔 ③ 〕がペルーの〔 ④ 〕帝国を征服して植民地とした。メキシコやペルーで発見された〔 ⑤ 〕鉱は,スペイン王室の財政を潤し,ヨーロッパ経済に大きな影響を与えた。
①コルテス  ②アステカ  ③ピサロ  ④インカ  ⑤銀
   アメリカ大陸はブラジルを除くほとんどがスペインの植民地になりましたね。そのスペインからの征服者たちとして名前が出されるのが,コルテスピサロ。ほぼ16世紀前半の同時期にアメリカの古代文明を滅ぼしています。【時期】コルテスはメキシコのアステカ,ピサロはペルーのインカです。迷ったら4文字と3文字でおぼえて下さい。「コルテス・メキシコ・アステカ(4字)」,「ピサロ・ペルー・インカ(3字)」。インカ文明(帝国)ではアンデス山中のマチュピチュ遺跡【史料】として出される。
 さて新大陸には大航海の当初の目的である香辛料はありませんでしたが,が発見された。銀は当時の旧世界(ユーラシア)で貨幣の役割をしていましたから,これはうれしい誤算です。特に現在のボリビアポトシ銀山はおぼえておきましょう。【位置】
 こうしてアメリカ大陸はスペインの支配下に入り,白人のスペイン人による農場・鉱山経営がはじまりました。それと同時に宣教師も入植し,現地インディオのカトリック改宗をすすめていきます。そして彼らを労働力として酷使します。しかし新大陸に入ってきたものは人だけではなかった。新大陸には存在しなかった伝染病(天然痘)も人を介して入ってきたのです。旧世界固有の伝染病に免疫のないインディオたちは次から次へと死んでゆき,急激に人口を減らします。
 インディオ労働力の激減に対処するため,アフリカ大陸から黒人奴隷として輸入されます。特にアフリカ大陸のトーゴ,ベナン,ナイジェリアの海岸は奴隷海岸とよばれ,大西洋奴隷貿易の拠点となったのです。 
   
10 16世紀から,国王が〔 ① 〕説と〔 ② 〕主義に基づいて,官僚制と常備軍を整備し,いっさいの権力を掌握する絶対王政をおこなった。
①王権神授  ②重商
   絶対主義・絶対王政を支えたものには3つありました。常備軍・官僚制・王権神授説です。これまでのヨーロッパは封建社会です。王と地方領主である諸侯や騎士は王に忠誠を誓い,王は彼らに領地の支配権を認めます。したがって王は彼らの領地にまでその支配力が及ばない。王は形式上諸侯や騎士を束ねる盟主にすぎません。
 16世紀になると十字軍の遠征やルネサンス以降,没落していった諸侯・騎士の領地を王が徐々に吸収していきます。これを管理し,王の命令を実行するのが官僚です。いくらなんでも王1人で国内すべての土地や税を管理できません。これらの仕事を王の手足となって働く官僚に任せたのです。
 こういった強い権力は強力な軍事力が背景にないといけません。これまで戦争の度に封建領主や傭兵に頼っていた軍事力を,戦時・平時の区別なく常時配備しておくようにしました。これを常備軍といいます。これは王直属ですので,裏切ったりすることもありませんので安心ですし,機動性にも優れます。
 しかし官僚と常備軍を整えるには膨大な経費が必要になります。それも新大陸からの富や重商主義という経済政策で解決していきます。重商主義とは,商工業(国内産業)を保護育成し,貿易を振興する政策です。
 そして最後に王がこのような政治をする正統性(根拠・理由)も必要になってきます。これが王権神授説です。「王の権力は神聖かつ絶対であり,だれにも侵すことができない。」という考え方です。
 これまでの王の権威はローマ教皇が保障していました。王が王たるゆえんは神がそれを認めたからである。したがって神の代理人であるローマ教皇がそれを許可し,王冠を与えてはじめて王となることができたのです。しかしそのローマ教皇の権威は十字軍・ルネサンス・宗教改革を通じて弱体化した。次第に王権とは教会からではなく,直接神から授けられるものであると考えられるようになった。
 こうして教会と王権の立場は逆転していった。教会とはカトリックでもプロテスタントでもどちらでもよい。要は王が宗派を決定し,王権の支配下に教会を置くようになったことが重要なのです。(カノッサの屈辱とヘンリー8世を比較せよ。)
絶対王政とは「16世紀から18世紀にかけて,王権神授説と重商主義を背景に官僚制と常備軍を整備した王による中央集権体制。」【説明(内容)】
   
11 スペインの絶対王政は〔 ① 〕のときに全盛を迎え,海外植民地に加え,ネーデルランド・ミラノ・ナポリを領有し,レパントの海戦(1571年)でオスマン=トルコ軍を破ると地中海の制海権も獲得した。しかし〔 ② 〕が独立し,〔 ③ 〕がイギリスに敗れると次第に衰退した。
①フィリップ2世  ②オランダ  ③無敵艦隊
   当然,世界各地の制海権を握るスペインが絶対王政のはじまりとなりました。特にフィリップ2世の時代,ヨーロッパ諸国にとって最大の脅威であり,今や飛ぶ鳥を落とす勢いのイスラム国家:オスマン=トルコレパントの海戦で破ったことで,後世スペイン艦隊は無敵艦隊とよばれるようになります。またポルトガル王室が断絶したことでスペインは同国を併合。それとともにポルトガル植民地もスペイン領となり「太陽の沈まない帝国」とよばれました。
 そのスペインが落日を迎えるのは1580年代の2つの出来事です。1つはネーデルランド(オランダ)が独立したこと。そして無敵艦隊がイギリスに敗れたことです。
 スペイン領ネーデルランド(以後オランダと表記)がスペインから独立した原因は宗教問題でした。スペインは当時カトリックの旗手です。オランダはカルバン派のプロテスタントが主流です。スペイン王フィリップ2世の厳しいカトリック政策にオランダ各地で激しい抵抗運動がおこり,ついにオランダは1581年独立宣言を発します。1581年は日本では本能寺の変や天正遣欧使節(少年使節)の派遣など1582年の出来事にもっとも近いこととして出題されます。【時期】
 オランダ独立宣言の後押ししたのが,イギリスです。スペインはこのイギリスを叩くため,1588年,無敵艦隊を派遣しますが,結果はイギリスの勝利。これでオランダの独立は決定的になるとともに,世界の海の制海権は徐々にイギリスとオランダに移っていくことになりました。 
   
12 〔 ① 〕年,新教国であるオランダ(ネーデルランド)は本国:〔 ② 〕のカトリック政策に反発し,独立を宣言した。〔 ② 〕が衰退するとオランダは1602年に〔 ③ 〕を設立し,インドネシアに進出,ジャワ島の〔 ④ 〕を貿易の根拠地とした。
①1581  ②スペイン  ③東インド  ④バタビア
   スペインの衰退のあと,17世紀はイギリスとオランダの世紀となりました。【時期】ともに東インド会社を設立し,世界の海で貿易を活発化させていきます。オランダ東インド会社は世界初の株式会社ともいわれます。オランダ国内ではアムステルダムが世界経済の中心地として栄え,海外ではインドネシアを植民地化し,そのバタビアがアジア貿易の拠点となりました。バタビアは現在のインドネシアの首都:ジャカルタの旧名です。ここを拠点に日本とも通商するようになった。
 イギリスで清教徒革命が勃発するとクロムウェルは,イギリスの海上貿易の最大のライバルであるオランダに打撃を与えようとします。英蘭戦争といいます。1623年におこったアンボイナ事件《第6回 テーマ史①外交史》はその前哨戦みたいなものです。アンボイナ事件ではオランダが勝利しましたが,北アメリカではオランダが敗北しています。ニューヨークはその前,ニューアムステルダムといいオランダの拠点でした。イギリスに敗れてここをイギリスに譲ります。マンハッタン島の南部に今も残る金融街のウォール街とはオランダがイギリスの侵攻に備えて壁(ウォール)を築いた場所だったのです。
 両国の関係がよくなるのは,名誉革命オレンジ公ウィリアムがイギリス国王として迎えられてからです。ところでオランダのサッカーなどのナショナルチームのチームカラーがオレンジ色なのは,オランダでオレンジが名産なのではなく,現在のオランダ国王家がこのころから続くオレンジ家だからです。
   
13 イギリスの絶対王政はエリザベス1世のときに全盛を迎え,〔 ① 〕年にスペインの無敵艦隊を破り,〔 ② 〕年に〔 ③ 〕を設立して,インドを中心にアジアに進出した。
①1588  ②1600  ③東インド会社
   イギリス東インド会社設立は関ヶ原の戦いの年,1600年です。【時期】君主はイギリス絶対王政を築いたエリザベス1世(女王)。父はイギリス国教会を創立し,絶対王政への道筋をつけたヘンリー8世です。無敵艦隊を破ったのもエリザベスです。無敵艦隊撃破の年(1588)は,刀狩の年と同じです。【時期】
 東インド会社はやがて香料貿易を主業としながら現地の徴税権を与えられ,軍隊も保有し,植民地統治機関へと成長していきました。
 1623年のアンボイナ事件でオランダに敗れるとその活動の中心を東南アジアからインドに移し,1757年プラッシーの戦いで自前の軍隊でフランス軍を破り,100年後のインド大反乱を契機にインド帝国が成立するまでインド経営の中心機関となりました。
   
14 フランスの絶対王政は,〔 ① 〕王朝のルイ14世のころに最盛期を迎え,パリ郊外に〔 ② 〕宮殿を造営した。
①ブルボン  ②ベルサイユ
   17世紀,もう1つ忘れてはいけないのがフランスです。イギリス・オランダに半世紀ほど遅れますが,ルイ14世という王が登場します。ルイ14世の王家がブルボン家(ブルボン王朝)であったこともおさえておきましょう。
 ルイ14世の言葉で有名なのが「朕(私)は国家なり」です。 
   
15 神聖ローマ帝国(ドイツ)は国内の分裂が進み,18世紀,〔 ① 〕(フレデリック2世)や〔 ② 〕(マリア=テレサ)で絶対王政がおこなわれた。
①フリードリヒ2世  ②マリア=テレジア
   スペインからはじまり,イギリス・フランスと進んだ絶対王政ですが,この波に乗れなかったヨーロッパの大国がドイツです。当時は神聖ローマ帝国です。というのも17世紀,ドイツでは三十年戦争という宗教戦争が勃発し,これに周辺各国が干渉したため国内は荒廃してしまった。簡単にいうと神聖ローマ帝国内の領国が各々で宗派(カトリック・プロテスタント)を決めてしまったため,国としての統一性を失ってしまったことが原因です。
 しかしこの混乱の中でも神聖ローマ帝国内で力をつけていった国があります。プロシアオーストリアです。プロシアはそもそも現在のポーランドあたりにあったドイツの辺境国でした。この国が18世紀にベルリンとその周辺地域まで支配する王国に成長します。 
 オーストリアは長くハプスブルク家が支配する国でした。このハプスブルク家は巧妙な政略結婚をヨーロッパ各地で繰り広げ,オーストリアだけでなくヨーロッパ各地を支配する名門に成長します。神聖ローマ帝国皇帝の多くもこのハプスブルク家から選出されました。
 ともあれドイツ自体の中央集権化が遅れていましたから,プロシアやオーストリアは自力で自分の国を強国につくりあげていかなくてはなりません。そこでこれらの国が取り入れたのが,当時西ヨーロッパで流行していた啓蒙思想でした。啓蒙思想は文芸・科学・政治思想などにおける近代的精神です。この精神と専制君主制をうまく融合させたイギリスやフランスとは異なった絶対王政をすすめていきます。啓蒙専制君主制と難しくは表現します。(啓蒙思想は必ずしも絶対王政を否定していない)
 プロシアのフリードリッヒ2世は「君主は国家第一の下僕」といいます。ルイ14世の「朕は国家なり」に比べると何と謙虚なことか!しかし国民の権利についての述べていないところが,専制君主らしいところです。
 オーストリアのマリア=テレジアは,フリードリッヒ2世に対抗するためフランスに自分の娘を嫁がせます。フランスは当時,ブルボン家のルイ16世。娘の名はマリー=アントワネットです。
 ドイツの中でも近代化に成功して強国となったプロシアとオーストリアは,ナポレオンが神聖ローマ帝国を解体したのち,ドイツ統一に向けて常に争う仲になっていきます。
   
16 17世紀末,ロシアでは〔 ① 〕王朝の〔 ② 〕大帝が西欧に学んで近代化を進め,絶対王政をおこなった。シベリア開発を進め,〔 ③ 〕条約(1689年)を結んでとの国境を定めた。
①ロマノフ  ②ピーター(ピョートル)  ③ネルチンスク
   ロシアもまたヨーロッパでは後進国でした。ロシアに国らしきものができたのは,9世紀ごろです。スカンジナビアから南下したノルマン人が建国します。ロシア(スラブ人)ではノルマン人のことを「ルーシ」とよんでいたのが「ロシア」の語源です。
 13世紀,ロシアはモンゴルの占領下に入ります。モンゴル帝国の一部:キプチャク=ハン国です。【時期】(13世紀はモンゴルの世紀)そしてモンゴル人の勢いが衰えると,15世紀にその支配から独立してモスクワを中心にモスクワ大公国が成立します。 ちょうどこのころ東ローマ帝国オスマン=トルコによって滅ぼされ(1453),このとき東ローマ帝国最後の皇帝の姪がモスクワ大公国に嫁いだため,モスクワ大公国は東ローマ帝国の後継者となりました。そしてその権威のもとにシベリアに領土を広げていきます。
 17世紀ピーター(ピョートル)が帝政を宣言したことで,正式にロシアはロシア帝国とよばれるようになりました。ピーターの家系からこの王朝をロマノフ王朝ともいいます。ピーターは西欧の技術や文化を積極的に学び,専門家を多数西欧から招いた。ときには造船所で自ら1人の職人として汗を流すこともあったそうです。
 シベリア進出が進むと中国(清)との国境問題もおこり,1689年ネルチンスク条約康熙帝との間で結んでいます。(1689年当時,ピーターはまだ子どもで,この条約は取り巻きの大臣が主導したため,正確にはピーターの実績ではない)ちなみにこのネルチンスク条約(1689)から考えて,ピーター大帝・ルイ14世・康熙帝・徳川綱吉は同時期の人物です。また権利の章典も同年です。【時期】
 こののち18世紀,プロシアからロシア皇帝の皇妃に迎えられたエカテリーナ(難)が皇帝の死後,自ら女帝として即位し,ロシア絶対王政の全盛を築きました。彼女が日本に派遣した人物がラクスマンです。 
   
17 イギリス国王チャールズ1世は,非国教徒(清教徒)を弾圧し,重税を課したため,議会は王に〔 ① 〕を出してこれを認めさせた。しかし王はこれを無視して議会を解散したため,〔 ② 〕年,王党派(国教徒)と議会派(清教徒)との間で内乱が勃発した。これを清教徒(ピューリタン)革命という。
①権利の請願  ②1642
   清教徒革命の宗教的背景は応用編で説明済み。「権利の請願」(1628)ができるかどうかが発展編でのポイント。【落とし穴】議会の同意なしでの課税に反対したものです。
☆清教徒革命【流れ】
・権利の請願→国教徒(王党派)と清教徒(議会派)の対立→清教徒革命 
   
18 1649年,国王の処刑によって〔 ① 〕を樹立したクロムウェルは護国卿となって軍事独裁をおこなったが,その死後王政が復活した。〔 ② 〕年,議会は国王ジェームズ2世を廃位し,娘のメアリーとその夫オレンジ公ウィリアムを〔 ③ 〕から迎えてウィリアム3世とし,「権利の章典」を発布して議会の権利と国民の自由を承認させた。これを名誉革命という。
①共和政  ②1688  ③オランダ
   1649年に処刑されたのはチャールズ1世。クロムウェルは行政権を握る護国卿という地位につきますが,事実上の独裁政治です。 その後,チャールズ2世が即位して結局王政復古(1660)となりますが,この間のクロムウェルがおこなったことで重要なのは2点。アイルランド征服英蘭戦争です。
チャールズ1世が処刑されたパンケティングハウス(ロンドン)
   
19 名誉革命後,イギリスの思想家〔 ① 〕は『〔 ② 〕』を著して名誉革命を正当化し,権利の章典を擁護した。また「国王は君臨すれども統治せず」の原則が浸透し,内閣が議会に対して責任を負う〔 ③ 〕制が成立した。
①ロック  ②市民政府二論(統治論)  ③議院内閣(責任内閣)
  ☆イギリス革命の【流れ】
権利の請願→清教徒革命→クロムウェル独裁→王政復古→名誉革命(権利の章典)→議院内閣制の成立

 政治における啓蒙思想はまずイギリスホッブズによってまとめられました。人間は生きる権利を平等にもっている。生きる権利とは自由とか平等とかです。しかし人間は利己的な動物だから,放っておくと「万人の万人に対する戦い(無秩序な状態)」がおこる。この状態を克服するために個々の権利はいったん国家権力(国王)に委譲する。その権利を委譲した1人ひとりは国家権力によって秩序ある状態に保ってもらう。このような国家と個人との関係を社会契約とよびました。
 しかしこれでは王権の正当性を認めてしまうことになる。王権神授説に変わる新しい視点からの王権正当説である点ではまさしく啓蒙思想ですが,絶対王政を認める点では変わりありません。個人は王に従順であるばかりです。せっかく自由や平等といった権利を委譲しているのに,それはないわとホッブズに異を唱えたのがジョン=ロックでした。
 国民が権利を委譲するのは国民の信託を得た立法機関だ。立法機関では多数決で決定される。もしこの立法機関は国民の意思を反映しないのなら,国民は抵抗権(革命権)を行使して,これを覆す権利をもっている。民主政治(多数決)と抵抗権(革命権)をロックはその著書『市民政府二論』で主張したのです。「二論」とあるのは「第一論」で王権神授説への反論を,「第二論」で政治権力の範囲や目的を論じたからです。 
   
20 17世紀,フランスは〔 ① 〕を中心にカナダへ,ルイ14世時代にはアメリカ南部の〔 ② 〕へ進出した。またイギリスは1620年に信仰の自由を求めて渡米した〔 ③ 〕をはじめ,アメリカ東部海岸に〔 ④ 〕州の植民地を建設した。
①ケベック  ②ルイジアナ  ③ピルグリム=ファーザーズ  ④13
   16世紀,スペインのアメリカ大陸進出のあと,イギリス・オランダ・フランスが主に北アメリカ東岸で植民活動を繰り広げます。
 イギリスは16世紀末,エリザベス時代から植民がはじまり,17世紀はじめには北東部海岸沿い,その名もニューイングランド地方に植民地を形成します。この地にわたった主な人々は本国で信仰の自由を奪われた清教徒(ピューリタン)でした。彼らをピリグリムス(ピルグリム=ファーザーズ)といいます。特に1620年のメイフラワー号は有名です。彼らが到達したプリマス(ボストン近郊)がニューイングランド植民地の中心となりました。
 その南側,現在のニューヨーク州はオランダの植民地で,もとはニューアムステルダムといい,17世紀半ばからの英蘭戦争の結果,イギリス植民地となって,ニューヨークと改名されたことは前に述べました。
 またイギリスはさらに南側,アメリカ東部海岸線のフロリダ半島手前(ジョージア州)まで18世紀前半に計13の植民地を形成します。
 一方,17世紀はじめ,フランスセントローレンス川北側に植民地を築きます。セントローレンス川がの川幅が急に狭くなったところにケベック(現地語で「川幅が狭くなったところ」)を築きます。(現ケベック州) 
 さらにルイ14世時代,ミシシッピ川流域に進出して「ルイの土地」を意味するルイジアナを植民地化します。フランスの植民地は北アメリカ大陸の2つの大河を基準にすればよい。
   
21 アメリカ植民地に対するイギリス本国の課税が強化されると,「〔 ① 〕なくして,課税なし」をスローガンに反対運動が盛り上がり,急進派は東インド会社の船を襲撃する〔 ② 〕をおこした。
①代表  ②ボストン茶会事件
   アメリカ植民地への課税が強化されると,植民地の反英運動が激化します。というのも植民地からは本国に代表を送っていないにもかかわらず,植民地の同意を得ず本国は課税したからです。このことの違法性はイギリスの基本法の1つマグナ=カルタにも書かれていることです。
 課税の中でもアメリカ独立戦争のきっかけとなったのは茶法(茶条例)です。本国との関係が悪くなっていたため,植民地商人はオランダから茶を密輸していました。すると本国の東インド会社の茶は売れなくなってしまった。そこでイギリスは東インド会社に植民地での茶市場の独占を認めたのです。
 すると植民地の急進派はインディアンに変装して,ボストン港に停泊中の東インド会社の船を襲撃。茶の入った荷を次々と海に放り投げた。イギリス当局は犯人を捕らえようとしますが,植民地側の人々は「ボストンでティーパーティ(茶会)を開いただけだ」と文字通り茶化すだけ。結局犯人は捕まりませんでした。これをボストン茶会事件(1773)といいます。 
   
22 〔 ① 〕年,ワシントンを司令官として独立戦争がはじまると,翌年,〔 ② 〕が起草した独立宣言が発表された。これにはロックが主張した暴政への〔 ③ 〕権の影響がみられる。
①1775  ②トマス=ジェファーソン  ③革命(抵抗)
   独立宣言を起草した人物:トマス=ジェファーソンは難。第3代大統領でもあります。 
   
23 独立戦争ははじめ植民地側が苦戦したが,〔 ① 〕や〔 ② 〕が援助すると攻勢に転じ,1783年,イギリスはアメリカの独立を承認した。その後に制定されたアメリカ合衆国憲法では大統領制など〔 ③ 〕(フランス)が主張した三権分立の影響がみられる。
①フランス  ②スペイン  ③モンテスキュー  ※①・②は順不同
   植民地側に立ってイギリスに軍事援助をしてきたのは,これまでイギリスに苦汁を飲まされてきたフランススペインであったことは重要です。
 結果,アメリカの独立が承認されたのは1783年。1788年には三権分立を骨子とする合衆国憲法が制定され,ワシントンが初代大統領となったのは1789年,フランス革命の年です。
 難問ですが,このときのアメリカの首都は実はニューヨークです。アメリカ最初の首都です。その後1790年から10年間フィラデルフィアに移され,1800年から現在のワシントンDC置かれることになった。
   
24 相次ぐ外征とその失敗や王室の奢侈によって財政が窮迫していたフランスでは,国王:〔 ① 〕が〔 ② 〕を召集して,免税特権をもつ第一身分・第二身分への課税を検討した。議決方法をめぐって特権階級代表と市民・農民(第三身分)の代表が対立したため,第三身分の代表は〔 ③ 〕をつくって,封建的特権を廃止する新憲法の制定まで議会を解散しないことを宣誓した。
①ルイ16世  ②三部会  ③国民議会
   フランス革命に入る前に,フランス革命前のフランスの状況をおさえておきましょう。
 まずルイ14世から続く王室の奢侈(しゃし=ぜいたく)や外征の失敗,そしてルイ16世のアメリカ独立戦争参戦により,フランスの財政は火の車でした。
 当時のフランス財政を支えていたのは第三身分とよばれる平民からの税金です。フランス社会には王室を除けば3つの身分が存在しました。第一身分とよばれる聖職者第二身分貴族,そして全人口の90%を占める平民です。第一・第二身分は特権階級で,広大な土地と重要な官職を独占し,免税の特権をもっていました。王室や聖職者・貴族はこの特権の上にあぐらをかいていたのです。このようなフランス革命以前のフランスの旧制度を「アンシャン=レジーム」といいます。フランス語でそのまま「旧制度」を意味します。
 ルイ16世は財政再建のため改革派の財務長官を起用しますが,財務長官は財政難の打破には特権身分の土地に課税するしかないとルイ16世にせまります。当然,特権身分は反対するわけですが,この反対を正当化するために彼らは民意を問うように国王にせまります。民意とはフランス議会のことです。フランスでは議会を三部会とよびました。三部会は三つの身分から構成される三院制の議会です。
 フランスで三部会が召集されるのは,ルイ14世が絶対王政をはじめるもっと前にさかのぼらなければなりません。久々に召集された三部会に当然平民代表は意気揚々として集まります。特権身分への課税は望むところだからです。一方,第一身分・第二身分もあわてたりしません。こちらは当然課税反対意見が通ると見込んでいるからです。
 それもそのはず,三部会の議決方法は身分別議決方式だからです。第一身分の総意で1票,第二身分の総意で1票,第三身分の総意で1票。これなら絶対に2対1で特権身分が勝利する。「民意を問う」とは片腹痛い。
 そこで召集された三部会は早々にこの議決方式をめぐって紛糾します。第一・第二身分は慣例通りの身分別議決方式を,第三身分はドーフィネ方式(フランスのドーフィネという場所で試験的に取り入れられた投票方式)とよばれる代表1人1票方式を主張したのです。ドーフィネ方式だと代表が一同に会して多数決を採る。すると議員数の多い第三身分が有利になるのです。
 しかし第三身分の主張は通らなかったため,第三身分代表は三部会を離脱を決定します。そして新たに独自の国民議会を発足させました。国民議会はベルサイユ宮殿内の球戯場(テニスコート)に集まり,憲法制定と王が国民議会を承認するまで解散しないと誓います。(「テニスコートの誓い」という) 
   
25 1789年7月14日国民議会に呼応したパリ市民は武装して〔 ① 〕牢獄を襲撃し,フランス革命が勃発した。その後発表された人権宣言には人民主権を説いた〔 ② 〕やアメリカ独立宣言の影響がみられる。
①バスチーユ  ②ルソー
   やがて第一身分や第二身分中からも国民議会に合流するものが出はじめるとルイ16世はこれを認めます。その一方で反対派の王室や貴族は治安悪化を理由に国民議会に圧力をかけるためベルサイユやパリに軍隊を召集します。そしてルイ16世の意向を無視して民衆に人気があった財務長官を罷免したのです。この財務長官(ネッケル)はあの特権身分への課税を国王に進言した人物です。
 民衆の爆発はここからはじまった。1789年7月14日,民衆はバスチーユ牢獄へ向かいます。バスチーユ牢獄はもともと政治犯を収容していた絶対王政の象徴でしたが,当時は弾薬庫として利用されていた。民衆は軍に対抗する武器を手に入れるためバスチーユへ向かったのです。「武器を取れ」と。
 革命がおこった7月14日は現在でもフランス国民にとってもっとも重要な祝日となっています。(日本でこの日を「パリ祭」と呼ぶのは昔ヒットしたフランス映画の邦題からです。同名の曲もとてもいい。)
 民衆の暴動が各地に飛び火する中,国民議会は8月,人権宣言封建的特権の廃止を決議します。人権宣言にはアメリカ独立宣言ルソーの人民主権などさまざまな啓蒙思想の影響がみられます。
これがフランス革命の第一段階です1789年,王政が廃止されたわけではありません【落とし穴】
   
26 1792年,革命政府は共和政(第一共和政)を樹立し,翌年ルイ16世とその王妃を処刑すると,周辺諸国は革命の余波が自国の広がるのを恐れて,対仏大同盟を結成して革命に干渉した。これを破って政権を掌握した軍人の〔   〕は,1804年に皇帝に即位し帝政を開始した。(第一帝政) 
ナポレオン 
   革命は勃発しましたが,革命政府は王政の廃止を目指していたわけではありません。逆に立憲君主制を何とか維持しようとします。しかし革命後,特権を奪われた貴族や聖職者は国外へ逃亡。王室の面々もいつ革命が過激化(王政の廃止=共和政)するか不安な日々を送っていました。
 とうとうルイ16世は行動に出ます。パリから逃亡して王妃マリー=アントワネットの実家オーストリア(ハプスブルク家)を頼ろうとしたのです。ところがその途中バレンヌという町で見つかって捕らえられ,パリに連れ戻される。この王の行動は,フランス国民にとっては裏切りに映りました。
 王室の信頼が薄らいでいくとともに,革命政府は共和政を目指して過激化していきます。1792年,革命政府はついに王を幽閉して王政を停止,ブルボン王朝が崩壊して,共和政が樹立されました。(第一共和政)さらに翌年,革命政府はルイ16世の処刑を決定します。処刑に使われたのはギロチンという断首台です。以後ギロチンは正義の象徴として1981年までフランスで使用されていました。
 第一共和政の成立。ここまでが革命第二段階です。
 国王の処刑に至ったフランス革命に干渉するため,周辺諸国はイギリスを中心に対仏大同盟を結成します。革命の影響が自国に広がることを警戒したのです。
 一方,革命政府内部ではさらに急進派が勢力を強め,そのリーダーであったロベスピエールが実権を握ります。ロベスピエールは反革命分子を次々と処刑。その政治は「恐怖政治」とよばれました。(ロベスピエールは難)
 ロベスピエールの恐怖政治。これが第三段階。
 やがてロベスピエールのやり方に不満をもつ人々が彼を政権の座からおろしていくわけですが,それと同時にフランス国民の革命熱も冷めていきます。しかしその一方で対外的には対仏大同盟に包囲されているわけですから,ピンチの連続です。このピンチからフランスを救った英雄が現れました。将軍ナポレオン=ボナパルトです。彼は対仏大同盟を解体して帰国すると,軍事力を背景にクーデターをおこして革命政府をのっとり,フランス共和国の統領となります。さらに国民投票によって皇帝の位に就き,帝政を開始しました。(第一帝政)旧体制(アンシャン=レジーム)の打破を目指したフランス革命は,王政を廃止して共和政を実現したものの,帝政という形で終結したのです。
 ナポレオンの登場によってフランス革命が終息。これが第四段階(最終段階)。 
   
27 ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体し,大陸封鎖令を出してイギリスを孤立化,ヨーロッパの大半を制覇したが,〔 ① 〕遠征に失敗すると失脚した。ナポレオンによって混乱したヨーロッパ秩序を回復させるため,〔 ② 〕年に〔 ③ 〕会議が開かれ,ヨーロッパはフランス革命以前の状態に戻すことが取り決められた。 
①ロシア  ②1814  ③ウィーン 
   皇帝となったナポレオンはその後も快進撃をつづけます。ライバル:イギリスとは海上で敗れたため,大陸封鎖令を出してイギリスの孤立化をねらいます。隣国ドイツに侵入して神聖ローマ帝国を解体。10世紀から続いたこの国は消滅しました。
 さらにナポレオンはロシア遠征に赴きますが,その寒さとロシアのゲリラ兵に敗れて退却します。これがナポレオンの運命を決定づけました。その後は連敗。ついに退位を迫られ,イタリア半島とサルジニア島の間のエルバ島というところに流されます。一度はエルバ島を脱出し,復帰しますが,ベルギーのワーテルローでイギリスのウェリントン卿指揮する連合軍に敗北。その後は大西洋のセント=ヘレナ島に流され,そこで余生を過ごすことになりました。
 1814年,ナポレオンによって混乱したヨーロッパの今後を話し合うため,オーストリアのウィーンで会議が開かれました。ウィーン会議です。95ヶ国53公国もの代表者が集まったため,話し合いなどまともにできません。またウィーンはヨーロッパきっての名門ハプスブルク家のお膝元ですから,代表者は会議よりも華やかな宴会に夢中。この様子は「 Le congrès danse beaucoup, mais il ne marche pas」といわれました。フランス語です。「会議は踊る,されど進まず」
 約半年の間,無駄な会議と宴会は続きますが,ナポレオンがエルバ島を脱出した報を受けてようやく本腰を入れたようです。しかし結局決まったことは「フランス革命以前の状態に戻す」ということでした。「そんなぁ」って感じでしょ。
ウィーン会議が開かれたシェーンブルン宮殿

 一度芽生えた自由・平等を求め,封建社会に対抗する精神は消え去ることはありませんでした。フランスで芽生えたこの精神はナポレオンとともにヨーロッパ各地に伝えられ,各国でさまざまな花となり実となります。折りしも産業革命も進展しますから,新たに誕生した産業資本家労働者といった階級が今度の主人公となっていくのです。
 国際関係では勢力均衡を原則に領土問題・植民地分割・軍事同盟が話し合われます。こうして整えられたヨーロッパ秩序をウィーン体制といいます。この結果,次に全欧を巻き込む大きな戦争はちょうど100年後の第一次世界大戦ということになります。このウィーン体制を破っていくのが,新興国ドイツ(帝国)です。
フランス政体の変化
   
28 18世紀イギリスの〔 ① 〕地方の〔 ② 〕を中心に産業革命がおこった。紡績機や織機が発明され,動力には〔 ③ 〕が用いられた。19世紀になると鉄鋼や交通の分野も進展し,〔 ④ 〕は鉄鋼業で栄え,〔 ⑤ 〕(アメリカ)が蒸気船を,〔 ⑥ 〕(イギリス)が蒸気機関車を走らせた。 
①ランカシャー  ②マンチェスター  ③蒸気機関  ④バーミンガム  ⑤フルトン  ⑥スチーブンソン 
   イギリスの産業革命の中心地となった地域・都市をおさえましょう。【位置】ランカシャー地方ペニン山脈の西側です。(東側のヨークシャー地方毛織物工業です。)その中心になったのがマンチェスター。マンチェスターの外港となったのがリバプール。蒸気機関車ができるまで運搬は運河網を利用した船が主流でした。
 19世紀にになると,産業革命は交通・鉄鋼の分野で発達します。世界初の実用的鉄道が走ったのもリバプール・マンチェスター間です。蒸気機関車の開発者はスチーブンソン。同じ時期,アメリカでもロバート=フルトンが世界初の実用的蒸気船の運行に成功しています。フルトンが蒸気船を走らせたのは,ニューヨークのハドソン川です。
 産業革命まで製鉄には鉄鉱石と木炭を使用していました。鉄鉱石は酸化鉄です。酸素を取り除いてあげなければ鉄になることができません。そこで酸素を取り除くために炭素を使うのです。鉄鉱石と木炭を炉に入れてふいごで空気(酸素)を送って燃焼させてやる。すると鉄と二酸化炭素が生じる。(Fe2O3+3C+3/2O2→2Fe+3CO2)
 炭素が取り除かれた鉄は,真っ赤な硬い石です。木炭では高い燃焼温度が得られないため鉄は溶けないのです。この赤熱の鉄をカンカン叩いてさらに不純物を絞り出すとともに形を整える。この作業を「鍛える」といいます。鍛えた鉄は再び木炭が燃えている中に突っ込んで炭素を入れてやる。炭素含有量が少ない鉄は柔らかく強度に欠けるからです。鍛えては炭素を入れる。これを繰り返す。刀鍛冶がこのような作業をしているのを何かで見たことないですか?鉄鉱石に炭素を加えるのは,酸化鉄の還元と炭素含有量を調節するためです。
 したがって鉄の生産量は木炭の量,つまり森林資源の量にかかっていたのです。古代に鉄器文明先進地域の多くが現在乾燥地域に変わっているのも森林資源を使い果たしてしまったからです。当然,18世紀のイギリスでも森林の枯渇が問題となってきました。
 そこで木炭に替わる資源として利用されたのが石炭です。イギリス中央部のペニン山脈は古期造山帯です。石炭が豊富に採れた。石炭は木炭よりも燃焼温度を上げられるので鉄を溶かして製造することができる。しかし問題もあった。石炭には多くの不純物,とくに硫黄が多く含まれていたのです。硫黄は鉄をもろくします。
 18世紀,石炭の硫黄分を除去するために発明されたのがコークスです。コークスは石炭を蒸し焼きにしたものです。こうすることで石炭のに含まれる不純物をいくらか除去できるのです。でも全部ではありません。全部ではありませんが,コークスを使用する方法が現在の製鉄業の基礎となります。
 18世紀末,反射炉という技術が開発されました。石炭と高温に熱せられた鉄を別の部屋にセットします。石炭を熱した熱を炉の壁に反射させて鉄の部屋に導きます。石炭の火力は鉄を融解させるに十分なものである上に,石炭と鉄が触れることはありません。不純物が鉄に混入することがないのです。江戸時代末,日本に書物を通じて入ってきた製鉄法はこの反射炉です。
 19世紀になるともっと短時間に大量生産できる技術が開発され,さらに鉄鉱石に含まれる不純物リンの除去も石灰を用いることで解決し,産業革命は軽工業から鉄(重工業)の時代へとかわっていった。イギリスの鉄鋼業の都市としてバーミンガムをおさえておきましょう。【位置】
   
29 産業革命の発展とともに資本主義経済が進展し,〔 ① 〕と〔 ② 〕の新たな階級が誕生した。イギリスの〔 ③ 〕は『国富論』を著して自由主義経済を説き,産業革命の理論的支柱となった。一方,資本主義経済がもたらす弊害を正すため,〔 ② 〕の救済と経済的平等をめざす,社会主義が19世紀におこった。ドイツの〔 ④ 〕はこの考えを体系化し,社会主義運動に大きな影響を与えた。 
①資本家  ②労働者  ③アダム=スミス  ④カール=マルクス 
   これまでの社会ではたいていの人々はなんらかの生産手段を有していました。土地とか道具とかお金(資本)です。しかし産業革命がおこると,生産手段をもつ者ともたない者という新しい階級社会が誕生します。生産手段をもつ者が資本家もたない者が労働者です。そこで労働者階級は難しく「無産階級」といういい方をします。
 資本家と労働者という関係で生産していく方法(社会)を資本主義(社会)といいます。18世紀アダム=スミスは個人の利益追求が「見えざる手」(需要と供給の関係)によって社会全体の利益を増進させると説きました。いわゆる自由主義経済(学)です。そして資本主義社会の構造をはじめて理論的に分析した『国富論』という本を著します。
 しかしアダム=スミスの自由主義経済を進めていくと経済格差が生じます。富は力あるもの(もてる者=資本家)のもとに集中してしまう。独占企業というのも現れてくる。この欠点を指摘したのが,19世紀カール=マルクス(ドイツ)です。
 マルクスは資本家階級をなくし,生産手段を労働者の共有とし,経済的平等な社会を理想としました。このような考え方を共産主義といいます。社会主義とはこれを現状(資本主義)の議会政治の中で,徐々に進めていくことをいいます。より過激(理想)なのが共産主義,より緩やか(現実的)なのが社会主義です。
 マルクスの思想は『資本論』という難解な書物の中で語られていますが,これは実は未完に終わっています。最後はマルクスの友人エンゲルスがまとめたものが出版されました。
 またマルクスとエンゲルスは1848年『共産党宣言』を著し,共産主義の目的を明らかにしています。これは年が大事。【時期】
   
30 1830年代,イギリスでは都市労働者を中心に普通選挙をめざした〔   〕運動がおこった。 
チャーチスト 
   産業革命が進んだイギリスでは1832年に選挙法が改正され,産業資本家が選挙権を獲得しました。そこで選挙権を得られなかった労働者が納税額(財産による差別)によらない男子普通選挙など6か条の要求(人民憲章=People's Charter)を掲げてデモや署名活動といった運動をおこします。これをチャーチスト運動といいます。
 しかしイギリスで男子普通選挙が達成されるのは1918年男女普通選挙は1928年になってからのことでした。
   
31 ウィーン会議後,フランスではブルボン王朝が復活し専制政治をはじめたため,1830年,〔 ① 〕がおこった。さらに〔 ② 〕年に〔 ③ 〕がおこると,世界初の男子普通選挙が実施され,再び共和政(第二共和政)が実現された。第二共和政のもとで大統領となったルイ=ナポレオンは,1852年,クーデターをおこして皇帝となり,ナポレオン3世となった。(第二帝政) 
①七月革命  ②1848  ③二月革命 
   ナポレオン戦争後のウィーン会議で,旧体制が復活したものの,ナポレオンがヨーロッパ各地に与えた影響は大きかった。まずフランス革命の精神,「封建制の打破」・「自由・平等・博愛」といった考えが各地に広まったこと。そしてナポレオンがこのような精神をもとに編纂したナポレオン法典はフランスをはじめ,ヨーロッパ各国の近代法の基礎となりました。日本も明治時代,フランス民法をもとに民法を作成しています。またナポレオン自身,国民投票によって皇帝の地位についたこともあり,国民主権の原理による政体の選択という考えも芽生えます。もちろん彼は軍人として成功した人物ですから,その戦略・戦術は近代戦の手本となり,世界各地の戦争指導者が参考にしています。特にこの時代,プロシアが積極的に取り入れたことが,プロシアを強国にする要因の1つでした。
 ウィーン会議後,ナポレオンがもたらした自由主義はヨーロッパでは国民主義(ナショナリズム)として発展します。国民の人権を尊重して,民主的な国家を形成していこうという動きです。また植民地となっていた地域では民族主義という独立運動に発展します。

 フランスではウィーン会議の結果,ブルボン王朝(ルイ18世)が復活します。選挙権の縮小,議会の解散,言論・出版の自由の制限,アルジェリア侵攻(1830)など,反動的な政治をおこなったため,市民の不満が高まります。そして1830年7月,パリの学生・労働者が中心となり暴動がおこります。七月革命といいます。その結果,民主化に理解のあるブルボン家の親戚オルレアン公が担ぎ出され,新たな王政(七月王政)が成立しました。
 ここで頭に入れておかなければならないことは,1830年代というとフランスで産業革命が進展していた時期です。産業革命がおこると資本主義もおこります。つまりこの七月王政で主導権を握ったのは新たに興った産業資本家だった。七月王政は産業資本家と労働者の対立という新た火種を残したのです。
 この火種が爆発したのが1848年賃金労働者を中心に第二の革命がおこります。今度は2月におこったので二月革命といいます。この革命では再び王政が停止され,フランス革命時の共和政(第一共和政)に次ぐ共和政が樹立されました。第二共和政といいます。
 さてこの二月革命(第二共和政)の重要な点は「世界初の男子普通選挙が実施」されたことです。【歴史的意義】そして共和国の大統領にルイ=ナポレオンという人物が選ばれました。そうあのナポレオンの甥っ子です。
 男子普通選挙は実現しましたが,実際議会で主導権を握っていたのは産業資本家たちでした。よって共和政議会は幅広い民衆の支持を受けることができなかった。民衆は閉塞感を打ち破る英雄を欲していた。この民衆の心をつかんだのがかつての英雄の血を受け継ぐルイ=ナポレオンだったのです。
 ルイ=ナポレオンは大統領任期が切れるのを期にクーデターによって議会を解散。1852年,新しい憲法を制定して国民投票を実施し,ナポレオン同様,皇帝に即位します。なぜ毎回こうなってしまうのか理解に苦しみますが,こうして第二共和政は4年で終了。第二帝政がはじまりました。ルイ=ナポレオンはナポレオン3世となります。
ウィーン会議後のフランス【流れ】
七月革命(七月王政)→二月革命(第二共和政)→ナポレオン3世(第二帝政)→普仏戦争→(パリ=コミューン)→第三共和政
   
32 イタリアではサルジニア王国を中心に統一が進み,〔 ① 〕年,イタリア王国が成立した。ドイツでは〔 ② 〕王国の〔 ③ 〕首相が「鉄血政策」をおこなって統一を進め,〔 ④ 〕戦争でフランスのナポレオン3世を破ると,〔 ⑤ 〕年,ドイツ帝国が成立した。敗れたフランスではパリに世界初の労働者による自治政府:〔 ⑥ 〕が成立した。 
①1861  ②プロシア(プロイセン)  ③ビスマルク  ④普仏  ⑤1871  ⑥パリ=コミューン 
   イタリアは中世,フランク王国が分裂してのちしばらく経つと小国家の分裂状態になります。そして1861年にようやく統一する(イタリア王国)。この年はおぼえておきたい年です。【時期】選択肢の中でイタリア統一がいきなり出てくることもある。ただし詳しい内容はたいして問われませんので安心して下さい。
 統一の中心になったのはサルジニア王国。サルジニアとは地中海の島の1つですが,いやいや実はこのサルジニア王国,当時は北イタリアにも領土をもっていた。その地域もトリノ・ジェノバを中心とする一帯で,現在でもイタリア屈指の工業地帯です。つまりイタリアの中でも当時もっとも産業革命の進展していた地域というわけです。
 一方,ドイツもフランク王国の一部でしたね。その後東フランクは神聖ローマ帝国としてナポレオンに滅ぼされる19世紀初めまでヨーロッパの一大国でした。しかしその歴史の後半は,領内の地方領主たちの力が強く,イギリスやフランスと違って地方分権的な国でした。
 ウィーン会議後,かつて神聖ローマ帝国であった領土は,かつて何人もの神聖ローマ皇帝を輩出してきた名門オーストリアを盟主としてドイツ連邦が結成されます。プロシアもその1つとなり,合計39の国や都市からなる連邦国家です。
 1848年,フランスで二月革命がおこるとその知らせはドイツにも入ります。フランスと同様産業資本家と賃金労働者の対立が顕著になってきたドイツでも各地で暴動がおこりました。『共産党宣言』を発表していたドイツ人のマルクスとエンゲルスも帰国します。 (三月革命)
 暴動をおこした原因にはドイツの統一問題もありました。この統一問題がこじれて1866年,プロシアオーストリアの戦争に至ります。普墺(ふおう)戦争です。結果はプロシアの勝利,時の首相がビスマルクです。その後,オーストリアはハンガリーを併合してオーストリア=ハンガリー帝国となりドイツ統一問題からは撤退。,北ドイツはプロシアを中心にまとまっていきます。残るは南ドイツの統一です。
 この時代はナショナリズムの時代でした。プロシアもイタリアと同様,ドイツ民族の国民国家を樹立させるのが悲願です。しかしこのプロシアの強大化をおそれたのがフランスです。特にフランスとドイツの国境地帯アルザス=ロレーヌ地方は鉄資源や石炭が豊富なところです。この地方をめぐる両者の対立がこのとき最高潮に達します。普仏戦争のはじまりです。(1870)このとき南ドイツ諸国がプロシア側について参戦し,全土ドイツは一丸となってフランスと戦いました。
 結果はプロシアの勝利。フランスのナポレオン3世は捕虜となり,プロシア国王はベルサイユ宮殿でナポレオン3世に替わって帝位につき,ドイツ統一が達成しました。ドイツ帝国の成立です。(1871)イタリア王国(統一),ドイツ帝国(統一)の成立年は非常によく出る年ですのでしっかりとおさえておきたい。【時期】
 普墺戦争・普仏戦争を勝利に導いたのは,モルトケという軍人でした。モルトケはナポレオンの戦術をもとに書かれた『戦争論』を学んだ人物です。奇しくもナポレオン3世は叔父の生み出した近代戦に敗れた。そしてこのモルトケの影響をもっともよく受けたのが明治の日本陸軍だったのです。
 フランスではナポレオン3世の退位によって第二帝政が終結。新たにできた政府はドイツとの講和に,アルザス=ロレーヌ地方の割譲と賠償金の支払いを約束します。これに怒りをあらわにしたパリ市民がパリ=コミューン(パリ自治政府)を樹立。しかしこれはすぐにプロシアの支援を受けた政府軍によって打倒されました。パリ=コミューンは2ヶ月の短命政権でしたが,「世界初の社会主義政府」として重要です。【歴史的意義】
 こののちフランスは第三共和政の時代となり,第二次世界大戦でナチスに降伏するまで続きます。
ウィーン会議後のドイツ(プロシア首相:ビスマルク)【流れ】
普墺戦争→普仏戦争→ドイツ帝国 
33 19世紀中ごろ,領土が太平洋岸に達したアメリカでは,産業革命が発達し〔 ① 〕貿易や奴隷制に反対する北部と〔 ② 〕貿易や奴隷制に賛成する南部との対立が激化し南北戦争がおこった。北部のリンカーン大統領は〔 ③ 〕年,奴隷解放宣言を発表し,1865年,戦争は北部の勝利に終わった。その後アメリカでは全国で工業化が進み,〔 ④ 〕をロシアから買収,〔 ⑤ 〕年には〔 ⑥ 〕鉄道が開通した。 
①保護  ②自由  ③1863  ④アラスカ  ⑤1869  ⑥大陸横断
   1848年,アメリカ西部のカリフォルニアで金が発見されます。ゴールドラッシュです。このニュースはまたたく間に世界中に広がり,中国やヨーロッパなどから多くの人々がやってきます。49年が特に多かったので一攫千金を夢見た49年の人々を「49ers(フォーティナイナーズ)」とよびました。現在,サンフランシスコのアメリカンフットボールチームの名前にもなっています。
 1848年は何の年かおぼえていますね。フランスの二月革命マルクスの『共産党宣言』,ドイツでも革命がおこった年でした。【時期】この革命で挫折した人々がおしよせた。またアイルランドでのジャガイモ飢饉の影響で新天地を求めて移住した人々もいます。現在ではアイルランド系はアメリカの政治の世界でも大きな影響力をもっています。ケネディ,レーガン,クリントンなど大統領もそんなアイルランド系移民を先祖にもちます。
 このゴールドラッシュでアメリカの開拓は西部まで到達しましたが,同時に先住民(インディアン)の居住区や生活を追い詰めることになりました。また黒人奴隷も拡大していくことになります。カリフォルニア州では結果的に奴隷制は反対となりましたが,このころから次第に奴隷制に反対する北部と支持する南部の対立が激しくなっていきます。北部では奴隷制反対する者が現在の共和党を結成したのです。奴隷制とともに北部と南部の対立点は応用編でお話しました。
 戦後,アメリカ合衆国憲法に新たな修正条項が付け加えられ(アメリカの憲法は前文と7条からなり,新たに修正条項が付加されていく),修正13条で奴隷制の廃止,修正14条で黒人に市民権(公民権),修正第15条で黒人に参政権が与えられました。注意したいのは次の点です。【落とし穴】
・黒人に公民権は与えられたが事実上は無視され,解放後にも差別は続いた。
・黒人も白人も女性には参政権は与えられていなかった。
・インディアンの権利については奴隷解放宣言も修正条項も述べていない。


 南北戦争後のアメリカでは産業革命も資本主義もめざましく発展し,1869年には大陸横断鉄道が開通します。(この年はスエズ運河開通の年でもある)【時期】19世紀末には工業力でイギリスを抜き,この発展にアメリカンドリームを求めて世界各地からの移民が増加します。またロシアからアラスカを買収し,ハワイを獲得したのも19世紀末のことです。【時期】 
   
34 〔 ① 〕年,ロシアは南下政策を進め,オスマン=トルコとの間に〔 ② 〕戦争をおこした。イギリス・フランスの介入によって敗れたが,〔 ③ 〕年,〔 ④ 〕を出して産業革命を進展させた。 
①1853  ②クリミア  ③1861  ④農奴解放令 
   ナポレオン戦争の影響はロシアにも及びました。ロシア遠征を撃退し,パリまで追いかけていったロシアの青年たちは,その自由な空気を肌で感じます。そしてロシアにも改革と革命の必要性に気づいていくのですが,ロシア帝国の皇帝とその政府は旧態依然の体質を守ることしか考えていませんでした。
 帝国は南下政策による領土拡大も推し進めていきます。ロシアの最大の弱点は不凍港が少ないことだというのをこれまで何度かお話したと重います。ではロシアが南下するとどこの海にたどりつくかというと「黒海」です。当時その周辺はオスマン=トルコ領でした。ロシアはこのオスマン帝国と争うことになります。クリミア戦争です(1853~)。日本では開国の時期です。【時期】
 クリミアとはクリミア半島のこと。最近,ウクライナ領であったこの半島がロシアに編入されたことで有名な場所です。またのちにヤルタ会談が開かれることになるところでもあります。
 オスマン=トルコにはイギリスとフランス(ナポレオン3世)がつきました。こうなると結果はみえています。近代化が進んだイギリス・フランス相手に後進国ロシアが勝てるはずがありません。ロシアは黒海において軍艦の保有を禁じられ南下政策をあきらめざるをえませんでした。(そのかわり東アジアでウラジオストクを建設し,日本海進出を目指すことになります。)
 自らの後進性に気づいたロシアはやっと近代化のための国内改革に乗り出します。1861年農奴解放令を出します(アレクサンデル2世)。形式上解放された農奴は2300万人ほど。ロシアが潜在的に労働力をどれだけ保有していた国かわかるでしょう。そしてこれだけの労働力がいるということはのちに,この力を背景に社会主義革命が成立したこともうなづけます。 
 ちなみにクリミア戦争中,看護士として従軍したイギリスのフローレンス=ナイチンゲールの活躍に影響され,国際赤十字社が結成されます。
   
35 1851年,世界初の万国博覧会が〔   〕で開催された。 
ロンドン 
 その時代の科学技術の粋を結集し,様々なものを展示する万国博覧会が世界で最初にロンドンで開催れさます。イギリス・ロンドンというのは難しく考えなくてもわかることでしょう。年代は1851年。これは難ですね。
 万博で重要なのは,1873年のウィーン博覧会岩倉使節団が訪れていることが一員の久米邦武(くめくにたけ)の『米欧回覧実記』に書かれています。【史料】あとは1970年の大阪【時期】

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