1 |
〔 〕王朝後期の都の遺跡:〔 〕墟から甲骨文字や精巧な青銅器が発見された。 |
答 |
殷 |
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殷墟は殷王朝の都の跡です。もちろん黄河流域(河南省)です。使われていた金属はまだ青銅器で,鉄器は使われていないことに注意。【落とし穴】 |
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2 |
殷を滅ぼした周では,紀元前770年ごろに西方の異民族の侵入によって遷都して以降,王室の権威が衰え,覇者とよばれる諸侯が実権をにぎった。これを〔 〕時代という。 |
答 |
春秋 |
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周は紀元前1100年ごろ成立しますが,滅亡したのは紀元前256年と非常に長い期間存続します。その間,紀元前770年~紀元前221年までを春秋戦国時代とよびます。春秋戦国時代はさらに,前半の春秋時代と後半の戦国時代に区分されます。
春秋時代は周が西方の異民族に圧迫され,都を東に移したころからはじまります。それまでの周は西側に都があったことから西周,都を東遷したあとは東周といって区別することもあります。春秋時代には周王室の権威は次第に衰え,覇者とよばれる有力者が全国に号令をかけ,周王室を守る役目を負いました。
このころの重要事項は,鉄製農具(鉄器)の使用がはじまったこと。【落とし穴】そして孔子が儒家(儒学)をはじめたことです。「春秋」とは孔子の書いた書物『春秋』からとった言葉です。ただし『論語』は孔子が書いたものではないので注意。 |
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3 |
紀元前403年から秦が統一するまで,周王室が有名無実化し,七雄とよばれる韓・魏・趙・斉・楚・燕・秦が争った時代を〔 ① 〕時代という。各国は富国強兵のため〔 ② 〕(孔子)をはじめ〔 ③ 〕とよばれる様々な思想を取り入れ,〔 ④ 〕製農具を使用して農業生産を向上させた。 |
答 |
①戦国 ②儒学(儒家) ③諸子百家 ④鉄 |
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春秋時代,周の中に有力な国:晋がありました。この晋が3国に分裂します。韓・魏・趙という国ですが,この3国にこれまであった秦・燕・斉・楚をあわせて七雄といいます。これら7ヶ国が争った時代を戦国時代といいます。このころになると周王室は有名無実化し,それとともにどの国でも世襲身分が無意味になってきます。日本の戦国時代と同様下剋上の実力主義の時代です。
戦国時代となると孔子の儒家だけでなく,様々な政治思想や学問が生まれます。これらをまとめて諸子百家といいます。鉄製農具も中国全土に普及し,各国では青銅貨幣の鋳造がはじまります。このように各国では富国強兵を図って,中国の統一をめざしました。 |
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4 |
紀元前〔 ① 〕年,秦王:政が中国全土を統一して,始皇帝を名乗った。始皇帝は〔 ② 〕制を整えて中央から役人を派遣し,度量衡・文字・貨幣を統一して中央集権国家をめざした。また儒家など思想家を弾圧し,北方民族:〔 ③ 〕の侵入に備えて万里の長城を修築するなど大規模な土木事業をおこなったため,死後民衆の反乱が相次ぎ,紀元前206年に秦は滅んだ。 |
答 |
①221 ②郡県 ③匈奴 |
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秦の統一年はしっかりとおぼえておきましょう。【時期】周の時代が地方分権的であったのに対し,秦は中央集権体制を整えます。まず郡県制を実施します。全国を36の郡にわけ,その下に県を置きます。現在の日本とは逆ですね。日本では県の下に郡がある。そして各地に中央から役人を派遣して行政・軍事を担当させます。戦国期に各地で異なっていた様々な貨幣・単位・文字を統一します。これは日本で戦国の世を終わらせた豊臣秀吉も同じことをやっている。【比較】
思想では法家の思想を取り入れ,儒教など他の諸子百家思想を弾圧します。これを「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」といいます。「焚」は「燃やす」,「坑」は「生き埋めにする」という意味です。
また北方民族:匈奴の進入に備えて,戦国時代に燕や趙(北方の国)が個々に築いた長城をつなぎ合わせて西に延長しました。万里の長城です。ただし現在の形にまでなるのはのちの明の時代であることに注意したい。【落とし穴】
始皇帝は自らの陵墓(始皇帝稜)とともに兵馬俑(へいばよう)とよばれる実物大の埋葬用の人形(「俑」という)をつくらせます。何千体とある中,1つも同じ顔がないといわれています。
始皇帝は全国巡遊中に亡くなったあと,全国で反乱が続きます。 |
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5 |
秦の滅亡後,〔 ① 〕と項羽が争い,〔 ① 〕が勝利して,紀元前〔 ② 〕年に〔 ③ 〕が中国を統一した。都を〔 ④ 〕に置き,〔 ⑤ 〕制をおこなった。 |
答 |
①劉邦(りゅうほう) ②202 ③漢(前漢) ④長安 ⑤郡国 |
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秦の滅亡後,群雄割拠する中,有力者となったのが楚の項羽と漢の劉邦。最後の一戦に勝利した劉邦が漢をもって中国を統一します。紀元前202年のことです。この年代もおぼえておきたい。【時期】都は長安です。【位置】
秦と違って劉邦は郡国制をとります。【比較】長安を中心とする中央は郡県制に,全国は王国・侯国にわけ,功績のあった家臣にその統治をまかせます。この郡県制と封建制を組み合わせた制度を郡国制といいます。 |
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6 |
漢は紀元前2世紀から前1世紀にかけて,7代:〔 ① 〕のとき全盛期となった。〔 ① 〕は〔 ② 〕を攻撃して西域に進出し,南は〔 ③ 〕北部までを支配,朝鮮半島北部には〔 ④ 〕など4郡を設置して領土を拡大した。また〔 ⑤ 〕を官学として国教化した。歴史家:司馬遷は〔 ① 〕までの中国の歴史を『〔 ⑥ 〕』にまとめ,以後中国の歴史書編纂の手本となった。 |
答 |
①武帝 ②匈奴 ③ベトナム ④楽浪郡 ⑤儒教 ⑥史記 |
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漢は7代:武帝の時に全盛を迎えます。全盛ということは領土的にも最大領土を誇ったということでもあります。中でも朝鮮半島北部に楽浪郡など4郡を設置したことは最重要。
内政では儒学を官学とします。そもそも漢を建国した劉邦は農民出身でした。彼に最後まで付き従った重臣の多くも農民出身です。大帝国を建国したからといって,最初は政治に縁のないならず者の集まりでした。宮廷には礼儀や儀式・秩序が必要だった。そこで劉邦は儒家を重用した。これを武帝が官学としたのです。これで儒学は中国全土に浸透することになり,今日まで儒教思想が中国に根強く残ることになったのです。
また武帝に仕えた司馬遷(しばせん)は中国の伝説時代から武帝までの歴史を『史記』という歴史書にまとめます。彼の歴史の叙述方法は本紀という皇帝(王)の歴史と列伝というその他の個人の伝記が中心になっているので合わせて紀伝体とよばれ,以後の歴史書編纂のモデルとなりました。 |
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7 |
漢は1世紀に外戚の王莽によって一時滅ぼされたが,〔 ① 〕が都を〔 ② 〕に置いて漢を再興し,これを〔 ③ 〕という。〔 ③ 〕の時代には蔡倫によって〔 ④ 〕が発明され,シルクロードを通じて東西交流が活発になった。その中で〔 ⑤ 〕がインドから中国に伝わった。 |
答 |
①光武帝 ②洛陽(らくよう) ③後漢 ④製紙法 ⑤仏教 |
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漢は一時,「新」という王朝に滅ぼされますが,光武帝(劉秀)によって再建されます。このときからの漢を後漢,以前の漢を前漢と区別することもあります。都は洛陽というところに置かれました。光武帝は倭の奴国に金印を授けた皇帝です。したがって後漢は1世紀(25年)になって建国された国です。【時期】
後漢の時代の重要事項は,まず2世紀の世界地図が出題されること。全盛時のローマ帝国と並んでいる地図ですね。シルクロードが発展しました。このシルクロードを通じて仏教が後漢の時代に中国に伝わったことも重要。また蔡倫という人物によって製紙法が発明されます。
紙が発明されるまで中国では竹簡という竹を縦に割って棒状にしたものに文字を書いていました。竹の繊維の性質から,漢字は縦と横の線が際立った字でしたが,紙が発明されたことで斜めの線や弧を描き易くなり,現在の漢字に近づきました。
また『漢書』が編纂されたのはこの後漢の時代です。 |
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8 |
〔 ① 〕年,漢が滅びると〔 ② 〕(華北)・〔 ③ 〕(四川)・〔 ④ 〕(江南)に分裂する〔 ⑤ 〕時代となった。〔 ⑥ 〕年,〔 ② 〕より興った晋が統一を果たすが,北方民族が黄河流域を治める〔 ⑦ 〕と漢民族が長江流域を治める〔 ⑧ 〕に分裂する〔 ⑨ 〕時代となり,隋が統一するまで続いた。 |
答 |
①220 ②魏 ③蜀 ④呉 ⑤三国 ⑥280 ⑦北朝 ⑧南朝 ⑨南北朝 |
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220年,曹丕(そうひ)という人物によって魏が建国され,漢王朝は滅びます。しかし魏は華北一帯を支配しただけで,これに続いて劉備(りゅうび)が四川を地盤に蜀を,孫権が江南(長江流域)で呉を建国します。三国時代の幕開けです。この時代は終始魏が優勢に進んでいきますが,その魏に仕えた司馬氏がクーデターによって魏をのっとり晋を建国し,三国の統一に成功します。(280)
しかし晋では身内争いが絶えず,内政が不安定になり,その隙をついて北方民族が万里の長城を越えて華北に侵入します。晋は江南に逃れ,王朝を維持しますが,420年,宋にとってかわられるのです。
以後華北には北方民族が居座り,中国文明に同化して王朝を築きます。これを北朝といい,江南では晋以降,宋→斉(せい)→梁(りょう)→陳(ちん)と漢民族の王朝=南朝が続きます。この時代を南北朝時代といいます。
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9 |
北朝に興った〔 ① 〕は〔 ② 〕制を実施し,この制度は隋・唐に受け継がれて,日本では班田収授として実施された。晋ののち,南朝に興った〔 ③ 〕へは倭王:〔 ④ 〕が使者を派遣したことが『〔 ⑤ 〕』に記されている。 |
答 |
①北魏 ②均田 ③宋 ④武 ⑤『宋書』倭国伝 |
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北部は最初五胡十六国時代という超分裂時代となります。五胡とは北方民族(胡)の民族数。それらが十六もの国を建てた。やがて多くの国々が淘汰され,北魏という北朝の統一王朝が誕生します。この国では仏教が厚く信仰され,多くの石仏が残されています。また均田制という土地制度が実施され,この制度は隋・唐にも受け継がれ,日本では班田収授として取り入れられました。
一方,南朝では宋がもっとも重要です。大和朝廷についての記述がみられる『宋書』倭国伝はこの国の歴史書です。 |
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〔 ① 〕年,北朝から興った隋が中国を統一した。第2代皇帝:〔 ② 〕は黄河と長江を結ぶ〔 ③ 〕を建設,また〔 ④ 〕遠征をおこなったが失敗したため,各地で反乱がおこり唐に滅ぼされた。 |
答 |
①589 ②煬帝(ようだい) ③大運河 ④高句麗 |
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北朝の北魏はやがて2つに分裂しますが,この一方から出た隋が6世紀末(589)に中国の再統一に成功します。2代目の煬帝(ようだい 読み方注意)の業績が重要です。
まず黄河と長江をつなぐ大運河を完成させます。これによって江南の豊かな物資が政治の中心である華北に流れるようになった。また遣隋使を受け入れたのもこの煬帝です。
しかし高句麗遠征に失敗したのが,国が傾くきっかけとなりました。 |
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〔 ① 〕年に建国した〔 ② 〕は,律令格式を整え,〔 ③ 〕制を実施して租庸調の税を納めさせた。また〔 ④ 〕とよばれる官吏採用試験を実施した。日本の〔 ⑤ 〕が仕えた第6代皇帝:〔 ⑥ 〕のころ全盛を迎えたが,〔 ⑦ 〕の戦いで敗れ〔 ⑧ 〕が西伝し,晩年楊貴妃を寵愛したため政治が乱れるなど衰退の原因ともなった。 |
答 |
①618 ②唐 ③均田 ④科挙 ⑤阿倍仲麻呂 ⑥玄宗(げんそう) ⑦タラス河畔 ⑧製紙法 |
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隋の皇室の親戚であった李氏が唐を建国します。隋の時期は聖徳太子と一致させればよいのですが,唐の建国年618年はおぼえておきたいところです。【時期】もちろん都はおなじみ長安です。
唐ではのちに日本が手本とする律令格式が整えられ,北魏からの均田制も実施されました。日本は班田収授は直接的にはこの唐の均田制をまねたものです。また科挙という官吏登用試験を実施し,元の一時期を除いて清までこの制度は受け継がれます。
8世紀,第6代:玄宗(げんそう)のころに栄えますが,晩年楊貴妃(ようきひ)という絶世の美女を溺愛したことから政治が乱れ,同時に唐衰退の原因にもなりました。
玄宗の時代の特記事項としては,遣唐使として海を渡った阿倍仲麻呂が仕え,そのまま唐で一生を終えたこと。イスラム帝国(アッバース朝)とのタラス河畔の戦いで破れ,このときに捕虜となった紙職人によって製紙法が西伝したこと。これに関連して8世紀の世界地図がよく出題される。日本は奈良時代,そして東から新羅・唐・イスラム帝国・東ローマ帝国・フランク王国とユーラシア大陸の東から西まで重要な国が並んでいる。 |
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12 |
唐の時代,〔 ① 〕・〔 ② 〕など漢詩が栄えたほか,〔 ③ 〕が仏教を求めて陸路インドに入った。 |
答 |
①杜甫 ②李白 ③玄奘(げんじょう) ※①・②は順不同 |
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7世紀に玄奘(三蔵法師)が陸路インドに渡り,経典を持ち帰った。この旅の様子は『大唐西域記』という本になり,これがもとになって『西遊記』(孫悟空らの物語)となりました。
また7世紀に鋳造された開元通宝は,日本の和同開珎のモデルとなったばかりか,円形に方形の穴という形は以後の中国の貨幣の基本となりました。 |
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13 |
〔 ① 〕年に唐が滅びると中国は〔 ② 〕とよばれる分裂時代に再び入った。〔 ③ 〕年,宋が中国を統一したが,1127年,華北を女真族の〔 ④ 〕に占領され,宋は江南に逃れて存続した。このため1127年までを〔 ⑤ 〕,それ以降を〔 ⑥ 〕とよぶ。 |
答 |
①907 ②五代十国 ③960 ④金 ⑤北宋 ⑥南宋 |
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唐が滅びたあと,宋はすぐには成立しません。中国は再び分裂時代に入る。「五代十国」という時代です。まずは唐が滅亡した年と宋が成立した年の両方をおぼえる必要があります。【時期】その間が五代十国。
「五代」とは華北に成立した5つの王朝を意味します。これらが交代で成立したので「五代」。そして江南地域では10の国が割拠したので「十国」。
中国の歴史は2つの王朝が続いて分裂するを繰り返します。2つの王朝のうち,最初の王朝は比較的短命で,2つ目が長期にわたって中国を支配する。統一→安定→分裂をまとめておぼえるのがポイント。【流れ】
殷→周→春秋戦国
秦→漢→三国・南北朝
隋→唐→五代十国
宋の時代は北方民族の動きが活発な時代でした。度々彼らは国境を侵して領内に侵入してくる。ついに防ぎきれなくなったのが,12世紀。華北は北方の金という国に占領され,皇室は江南に逃れます。そこで宋はこれ以前を北宋,以後を南宋とよんで区別します。 北宋時代の都は,開封。長安のそばですが,長安ではありません。長安の東に位置したため東京(とうけい)ともよばれていました。南宋の都は臨安(現在の杭州市)。こちらも南京に近い位置にありますが,南京ではありません。いずれにしても宋の都はかなり難です。 |
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14 |
宋の時代には,〔 ① 〕・〔 ② 〕・〔 ③ 〕が発明され,製紙法と併せて中国の四大発明とよばれる。また〔 ④ 〕の〔 ⑤ 〕は儒学に新たな解釈を加えて大義名分論を説く朱子学をはじめた。 |
答 |
①火薬 ②羅針盤 ③活字印刷 ④南宋 ⑤朱熹(しゅき) ※①~③は順不同 |
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宋では軍事面の成功は少なかったが,文化面での発達は大きかった。火薬・羅針盤・活版印刷が発明されます。火薬・羅針盤はイスラム経由でヨーロッパにもたらされます。印刷技術は普及しなかったため,のちにドイツのグーテンベルクが独自に実用化します。
思想面では朱子学が成立し,日本にも大きな影響を与えた。朱子学は南宋の時期に朱熹という人物によって説かれます。内容については《第8回 テーマ史③》で説明済み。 |
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15 |
〔 ① 〕年,〔 ② 〕がモンゴル民族を統一し,中央アジア・西北インド・南ロシアにまたがるモンゴル帝国を築いた。 |
答 |
①1206 ②チンギス=ハン |
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モンゴル民族は遊牧民ですから,家族や部族単位で土地から土地へ移動し,定住生活を営まない民族です。 それが1つにまとまった。モンゴル民族にはクリルタイという部族長会議があります。1206年,その場で民族のリーダーに指名されたのがチンギス=ハン。「ハン」は遊牧民の間では君主(王・皇帝)を意味する言葉です。一応,この1206年をもってモンゴル帝国の成立年とします。1206年は,日本で『新古今和歌集』が編纂された年,1205年がもっとも近い。【時期】 |
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16 |
モンゴル帝国第2代皇帝:オゴタイ=ハンは都をカラコルムに定め,東は中国北部の〔 ① 〕を滅ぼし,西は〔 ② 〕の戦いでドイツ・ポーランド連合軍に勝利した。その後,モンゴル帝国は西アジアに進出し,〔 ③ 〕朝を滅ぼし,朝鮮半島の〔 ④ 〕を服属させた。 |
答 |
①金 ②ワールシュタット ③アッバース ④高麗 |
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チンギス=ハンのあと,子のオゴタイ=ハンのとき,その領土は飛躍的に拡大します。まず首都をカラコルムという場所に置きます。カラコルムは現在のモンゴルのほぼ真ん中に位置します。そして東は中国北部の金を滅ぼします。金が滅んだのは1234年と非常におぼえやすい年代ですので,おぼえられる人はおぼえておくとよい。【時期】
西はロシアに遠征してポーランドにまで達します。1241年のワールシュタットの戦いではポーランド軍に勝利しています。「ワールシュタット」とは「死体の山」を意味します。この戦いに勝利したあと,モンゴル軍はオゴタイの訃報を聞き,帰路につきます。もしオゴタイがもう少し長生きしておれば,ヨーロッパの歴史や地図が変わっていたかもしれません。
オゴタイの死後,西アジアではイスラム帝国アッバース朝を滅ぼし(1258),同じ年,朝鮮半島の高麗を降伏させています。注意したいのは高麗は服属させたのであった,滅ぼしてはいないこと。【落とし穴】 |
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17 |
広大な領土となったモンゴル帝国はいくつかのハン国に分裂した。中央アジアに〔 ① 〕,南ロシアに〔 ② 〕,アッバース朝滅亡後の西アジアに〔 ③ 〕が成立し,本国モンゴルを従える第5代皇帝:〔 ④ 〕は中国を拠点として〔 ⑤ 〕に都を置いて,〔 ⑥ 〕年に国号を元と改めた。〔 ⑦ 〕年,南宋を滅ぼして中国を統一し,二度にわたる日本侵攻や〔 ⑧ 〕・ジャワに遠征をおこなった。 |
答
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①チャガタイ=ハン国 ②キプチャク=ハン国 ③イル=ハン国 ④フビライ=ハン ⑤大都 ⑥1271 ⑦1279 ⑧ベトナム |
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フビライ=ハンが皇帝の座につくころには,モンゴル帝国の領土はあまりにも巨大化してしまいます。こうなると1人の人間が帝国を支配することが事実上不可能な上,各地域を1つの制度で統一することが難しくなってきます。習慣も文化も宗教も異なるのでその場,その場での支配体制が必要になってくるのです。
そこでモンゴル帝国は東アジアを大ハン(フビライ)が治める領土とし,大ハンは何人かのハンに各地(ハン国)の統治を任せる連合体になりました。主なハン国には,元,チャガタイ=ハン国(中央アジア),キプチャク=ハン国(南ロシア),イル=ハン国(西アジア)があります。すべて地域を一致させること。そしてこれらの国々が選択肢の中で出てくると,すべて13世紀(モンゴルの世紀)に成立し,元の滅亡と同じ14世紀中ごろに滅亡,衰退したと考えること。【時期】
いくつかの国に分裂したとはいえ,支配者はモンゴル人です。あるていどは共通した制度によって国は運営されていた。その1つが駅伝制です。帝国内すべての地域の幹線道路を整備し,一定間隔で宿駅を置く,そこでは人馬が提供され,旅行者にはパスポートが与えられ,そこを利用できた。これがユーラシアの西から東まで整備され,そして安全も保障された。これで帝国内のイスラム商人だけでなく,ヨーロッパとの交易も活発になります。つまりキリスト教徒も中国を訪れたのです。
その1人がベネチアの商人:マルコ=ポーロでした。『東方見聞録』の中で彼は駅伝制についてこう語っています。
「大汗(大ハンのこと)の駅伝の制度はまったくすばらしいものである。最良の方法で整備されている。《中略》諸地域へ通じている幹線道路には,今話した宿駅が25ないし30マイルごとにみな設けられている。そして,どの駅にも300頭から400頭の馬が,使者たちの自由になるように用意してある。また,やはり前述のような美しい館もあって,豪奢な宿泊ができる。しかも,大汗の領内のいずれの地方,いずれの王国に行っても設けられている。『東方見聞録』青木一夫訳 校倉書房 P130」
マルコ=ポーロは往路は陸路,帰路は東南アジアからインドを回る海路を利用して帰国したことをおさえておきたい。【落とし穴】
次に元について。元は北京に都を置いた最初の王朝ですが,当時の北京は大都とよばれた。また元の成立過程と元寇のタイミングは【流れ】としておさえておきたい。
元の成立(1271)→文永の役(1274)→南宋の滅亡=元の中国統一(1279)→弘安の役(1281)
元寇は三度目が計画されていたことと,日本同様にベトナム,ジャワにも遠征したがすべて失敗したことも頭に入れておきましょう。【落とし穴】 |
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18 |
1368年,〔 ① 〕は元をモンゴル高原に退け,明を建国して漢民族の王朝を再興した。3代皇帝:〔 ② 〕は都を南京から〔 ③ 〕に移し,〔 ④ 〕に命じて南海に艦隊を派遣して海の道を開拓させた。また〔 ⑤ 〕を鋳造して日本にも輸出した。この時代,儒学では王陽明が〔 ⑥ 〕をはじめ,イエズス会の〔 ⑦ 〕がキリスト教を伝えた。 |
答
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①朱元璋(しゅげんしょう) ②永楽帝 ③北京 ④鄭和 ⑤永楽通宝 ⑥陽明学 ⑦マテオ=リッチ |
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明を建国したのは朱元璋という人物です。農民から皇帝になり,漢民族の王朝を再建します(1368)。朱元璋は洪武帝ともいわれます。(光武帝ではない)明の都は最初は南京に置かれました。建国後,洪武帝は海禁政策をとります。日本でいうところの鎖国政策です。寧波を窓口として朝貢貿易だけを認めたことはすでに説明しました。
※南京を首都にした王朝・政府
呉(三国時代 当時は建業),南朝諸王朝(南北朝時代 当時は建康),明(建国時),太平天国,中華民国,南京国民政府(蔣介石)。
明の皇帝では3代目の永楽帝がもっとも重要です。永楽帝はそもそも皇位継承権が低い人物でしたが,肉親との争いに勝って皇帝即位しました。そのときから都は北京に移されます。日本との勘合貿易に応じ,永楽通宝を鋳造したことは日本史でも重要でした。
また鄭和(ていわ)というイスラム教徒に命じて数度にわたる南海遠征をおこなわせた。南海ですから東南アジアはもちろんのこと,インド・西アジア・東アフリカまで到達していた。バスコ=ダ=ガマの東アフリカ・インドのルートはこの鄭和の遠征のときにすでに確立していたのです。この南海遠征は華僑が東南アジアに進出するきっかけともなりました。
鄭和の遠征に用いられた船はジャンク船とよばれるもので,中国の伝統的な帆船です。蒸気船が普及する19世紀まで,日本を含め,東アジアの船舶のモデルとなりました。アヘン戦争の資料でよく出されるイギリス艦に撃沈されている船がもジャンクです。鄭和が南シナ海をぬけて,インド洋でみた帆船はダウ船とよばれる船で,古くからアラビア人(イスラム教徒)の海洋交易の主力でした。三角帆をもつこの船は,向かい風でもジグザグに航行することが可能でした。この三角帆は地中海諸国にも伝わり,バやがてスコ=ダ=ガマがインド洋に三隻の三角帆をもつ船で現れたのです。
明はこの永楽帝のころもっとも栄えたといわれますが,その後は「北虜南倭」に苦しめられます。「北虜」とは北方遊牧民です。遊牧民とはもちろん朝貢関係はありませんでした。それどころかいつの王朝とも同じように侵略に苦しめられる。現在の万里の長城はこの明代に強化されたものです。【落とし穴】
もう1つの「南倭」とは倭寇のことです。元末からはじまる前期倭寇は,室町幕府や朝鮮によって取りしまられ衰退していきますが,16世紀になると厳しい海禁政策に不満をもつ中国商人が海賊化した。これを後期倭寇といいます。
そこへスペイン・ポルトガル人がやってきます。ポルトガル人はインドのゴアを拠点にアジアでの香料貿易をおこなっていましたが,その足が中国まで伸びてきました。最初は政策上,明との交易ば認められませんでしたが,倭寇撃退の功績がかわれ,マカオに居留地を認められます。そのような中でポルトガル人が乗った中国船が日本に漂着したのです。(1543)
交易とともに宣教師も中国に入ってきます。16世紀末,イタリアのイエズス会宣教師:マテオ=リッチが中国布教の第一人者です。
明の時代には朱子学を批判して陽明学が成立します。その名も王陽明という人物によるものです。 |
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19 |
明が衰えると,〔 ① 〕民族が中国に侵入して清を建国し,〔 ② 〕年に〔 ③ 〕を都として中国を統一した。〔 ④ 〕帝・雍正帝(ようせい)・〔 ⑤ 〕帝のころ全盛期となった。 |
答
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①満州 ②1644 ③北京 ④康熙(こうき) ⑤乾隆(けんりゅう) |
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明の末期,満州で女真族(満州民族)が後金(こうきん)という国を建国します。あの宋代の金の再興です。この後金が清と国号を改名し(1636),1644年,北京に入城して明を滅ぼします。
清は17世紀末から18世紀,第4代~6代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝のころに全盛となり,その領土も中国史上最大となりました。これが現在の中国の領土とほぼ一致します。 |
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20 |
〔 ① 〕年,アヘン戦争で清が敗れると南京条約を結んで,香港をイギリスに割譲し,〔 ② 〕など5港を開港した。その後〔 ③ 〕が「滅満興漢」をかかげて〔 ④ 〕の乱をおこし,〔 ⑤ 〕を占領して〔 ④ 〕を樹立,国内が混乱した。また〔 ⑥ 〕号事件をきっかけにイギリス・フランス相手に〔 ⑥ 〕戦争が勃発し,再び敗れた清は列強による半植民地化が進んだ。 |
答
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①1840 ②広州 ③洪秀全 ④太平天国 ⑤南京 ⑥アロー |
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清は明と同様,海禁(鎖国)政策を実施します。唯一の貿易の窓口となったのは,清の時代には広州(広東省)です。【比較】1840年,アヘン戦争が勃発し,清はこれに破れ,不平等な南京条約を結ばされたことは応用編ですでに述べました。
その後,太平天国の乱がおこるわけですが,太平天国のスローガンは「滅満興漢」。この言葉があったら太平天国の乱だとおぼえておきましょう。
この太平天国の乱の鎮圧に苦労している最中,アロー号事件というのがおきます。広州に停泊中のアヘン密輸船:アロー号を清の役人が立ち入り検査をして船員を逮捕しました。これに対しイギリスはアロー号は香港船籍(つまりイギリス船籍)であり,掲げていたイギリス国旗を降ろした(これはデッチあげ)のはイギリスに対する侮辱であると抗議。あわせてフランス人宣教師が中国で役人に殺されたという事件も重なって,イギリス・フランスが清に宣戦布告。これをアロー戦争(1856~)といいます。まぁ,イギリス・フランスにとっては清にダメージを与えられればきっかけは何でもよかった。それより清には同情します。もちろん清は勝てるはずがありません。
結果,天津条約というのが結ばれて,アヘンの公認,キリスト教布教の自由,10港の開港などを認めさせられます。太平天国の方もイギリス軍の力でもって鎮圧。清は列強による半植民地化が進んでいきました。 |
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〔 ① 〕年に高句麗が〔 ② 〕を滅ぼして朝鮮半島北部を支配すると,中西部に百済,南東部に新羅が分立した。 |
答 |
①313 ②楽浪郡 |
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朝鮮半島の歴史が最初に出題されるのは,前漢の武帝による楽浪郡設置です(前108)。【時期】現在のピョンヤン付近です。楽浪郡は漢の出先機関です。
この楽浪郡を滅ぼして半島北部を支配したのが高句麗です。313年はコンスタンチヌス帝がキリスト教を公認したミラノ勅令と同じ年で,日本では古墳時代に入り,大和朝廷が成立するかしないかのころです。【時期】
同じころ中西部には百済が,南東部には新羅が成長していきます。南部の加羅地方は,大和朝廷・百済・新羅が争い,やがて大和朝廷は撤退し百済と新羅が吸収していきます。朝鮮の三国時代です。 |
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〔 ① 〕年に新羅が朝鮮を統一すると,高句麗の一族は中国北東部に〔 ② 〕国を建国した。〔 ② 〕は奈良時代,平城京にも使者を派遣している。 |
答 |
①676 ②渤海(ぼっかい) |
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隋・唐が成立すると,高句麗は度々これらの攻撃を受けますが,何とか撃退。しかし疲労が重なっていきます。一方,新羅は唐と組むことで半島情勢を有利に展開していきます。まずは百済を,そして高句麗を滅ぼして,676年,新羅が半島の統一に成功しました。日本では壬申の乱(672)がおこったころです。【時期】
新羅は当時の日本とよく似ていました。律令制を唐から学び,仏教が鎮護国家の宗教として重んじられました。世界遺産に登録されている「仏国寺」という寺院が説明文に使われることがあります。
さて高句麗は新羅に滅ぼされると,その一族が北方の沿海州(日本海沿岸)に逃れて渤海という国を建国します。日本とは友好関係にあり,日本からは遣渤海使が派遣されています。渤海が問題に出てくるときは奈良時代の問題です。【時期・時代区分】
新羅・渤海とも10世紀,唐が滅亡するのと同じ時期に滅んでいることも頭に入れておきましょう。【時期】 |
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〔 ① 〕年に新羅を倒して朝鮮を統一した〔 ② 〕は,13世紀に元に服属した。 |
答 |
①936 ②高麗 |
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新羅のあと,朝鮮を統一するのが高麗(936 建国は918)です。【時期】文字通り高句麗を継承しているつもりでした。英語の「KOREA」の語源ともなった。というものもこの時代何らかの形で高麗の名前がヨーロッパに伝わったからです。きっかけはアラビアのイスラム商人。特に高麗では青磁とよばれる見事な青色の磁器が生産され,国内だけでなく海外へももたらされた。ヨーロッパの大きな博物館では必ずといっていいほど,高麗青磁のコーナーがある。高麗時代を代表する文化です。
高麗が元に服属し,元寇にも参加したことはすでに説明済みです。 |
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〔 ① 〕年,倭寇の討伐に功績のあった〔 ② 〕は〔 ③ 〕を建国した。 |
答 |
①1392 ②李成桂 ③朝鮮国(李氏朝鮮) |
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元寇のとき,対馬海峡の島々の住民は元や高麗軍によって壊滅的なダメージを受けました。その後,元・高麗末期の,そして日本でも鎌倉から室町への移行期の政治的混乱に乗じて,この地域から朝鮮や中国に対して海賊行為をおこなうものが出現しました。彼らを倭寇といいます。
「倭」の字がついているので,主に日本人です。そして主に朝鮮半島で略奪行為をおこないました。これを前期倭寇といいます。対して16世紀から,「倭寇」というもののその実は日本人に化けた中国人で明の海禁政策に対抗した人々を後期倭寇といい,明を苦しめたことは先に述べました。
後期倭寇の頭目では王直という人物が有名で,王直の船が種子島に漂着して,そこに乗っていたポルトガル人によって鉄砲が伝えられたとされます。(ポルトガル人は実は倭寇と組んでいた?)
さて14世紀末,前期倭寇の討伐で名をはせた人物が李成桂です。この人物が高麗を破って,李氏朝鮮を建国します。建国年は南北朝合一と同じ年,1392年です。【時期】
李氏朝鮮の特記事項は朱子学が国家の学問となったことです。その一方で仏教は排斥されます。朱子学という学問は何かと「理」が先行する学問です。「理」が重視されるため,「文」が発達します。宋も日本(特に江戸時代)もそうでした。李氏朝鮮でもこの点,同じです。「理」や「文」を形にしたものが「書」です。李氏朝鮮では書物がよく普及します。
そのきっかけになったのが,銅版活字の普及です。世界初の金属活字は高麗で発明されましたが,主に経典の複製のためでした。李成桂はこれを他の書物にまで普及させようとします。さらに朝鮮の民族文字であるハングル(訓民正音)がつくられます。(4代:世宗) |
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25 |
16世紀末,〔 ① 〕は豊臣秀吉の水軍を迎え撃ち,これを撃退した。その後〔 ② 〕と和約を結んだ朝鮮は,江戸幕府将軍の代替わりごとに〔 ③ 〕を江戸に派遣した。 |
答 |
①李舜臣 ②徳川家康 ③通信使 |
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紀元前2500年ごろ,ドラビダ人はインダス川流域に〔 ① 〕(下流域)や〔 ② 〕(中流域)などの都市国家を建設し,〔 ③ 〕文字を使用していた。 |
答 |
①モヘンジョ=ダロ ②ハラッパ ③象形文字 |
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インダス文明は未だ謎が多い文明です。その理由の1つがインダス文字が解読されていないという点です。インダス文字は象形文字であろうことはわかっていますが,それ以外のことはわからない。
都市遺跡ではインダス川下流のモヘンジョ=ダロ,中流のハラッパなどがあり,排水設備や大浴場などが整った計画都市ではあるのですが,神殿などがなく,どのような民族が住んでいたのかもはっきりわからない。
一応,今のところは現在主に南インドに居住するドラビダ人が開いた文明だとされますが,本当かどうかはわかりません。 |
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紀元前1500年ごろ,インダス川流域に〔 ① 〕人が侵入し,〔 ② 〕制とよばれる身分制度に基づく自然崇拝の〔 ③ 〕教を成立させた。紀元前5世紀には〔 ③ 〕教を批判し〔 ④ 〕が仏教を開いた。 |
答 |
①アーリア ②カースト ③バラモン ④シャカ |
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インダス文明は紀元前1500年ごろ,突如南アジアに侵入してきたアーリア人によって滅ぼされます。彼らは支配した民族を奴隷とし,カーストとよばれる身分制度をとりました。最上級身分はバラモンとよばる僧侶階級です。以下クシャトリア(王・武人),バイシャ(庶民),スードラ(奴隷)と大きく分けられます。
バラモンが説く多神教の宗教がバラモン教です。自然崇拝が特徴で,のちのヒンドゥー教のもとになりました。
バラモン教では「輪廻(りんね)」という考え方があります。同じことを繰り返すということです。生まれ変わりといってもいい。だからあるカーストに生まれた人は生まれ変わっても同じカーストになる。こうしてバラモンは特権的な権力をもちつづげ,スードラにいたってはもうあきらめるしかなかった。
そこでこれを批判したのがシャカです。本名はゴータマ=シッダールタといいます。王族の生まれですが,輪廻からの解放,これを「解脱(げだつ)」といいますが,その方法を説いた。「悟り」を開けばよいと。彼自身,苦行ののちに悟りを開いて「仏陀(ブッダ)」とよばれます。「仏陀」とは「悟りを開いた者」という意味です。
でも「悟りを開く」っていわれてもよくわかりませんね。そのために苦しい修行もしなくてはならない。そこでシャカの死後,出家(僧侶になる)して修行したものが悟りの境地に立てるとする小乗仏教と,出家しなくてもすべての人に救い(解脱)の道が開かれているとする大乗仏教に分かれていきます。 |
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紀元前3世紀,マウルヤ朝の〔 ① 〕王は仏教を保護した。このころ誕生した〔 ② 〕仏教は〔 ③ 〕島や東南アジアに伝えられた。 |
答 |
①アショカ ②小乗(上座部) ③セイロン |
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紀元前3世紀のアショカ王は国家として仏教を保護し,小乗仏教をセイロン島(現スリランカ)に伝えます。スリランカは現在も仏教国です。このあと小乗仏教は海路東南アジアへ伝播します。 |
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2世紀,クシャーナ朝の〔 ① 〕王は仏教を保護し,インド北西部では〔 ② 〕美術とよばれるギリシャ文化の影響を受けた仏教美術が栄えた。 |
答 |
①カニシカ ②ガンダーラ |
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1世紀におこったクシャーナ朝はインド北部を中心にからパキスタン,アフガニスタンを支配した王朝です。この地域はかつてアレクサンダー大王が東方遠征でたどり着いた地です。ここではギリシャ文化とオリエントの文化が融合したヘレニズム文化が栄えていた。このヘレニズム文化と仏教が融合してガンダーラ美術が生まれます。神を人間の形として表すヘレニズム文化が仏像を生み出したのです。
2世紀,クシャーナ朝のカニシカ王も仏教を保護した王として知られます。そして2世紀といえば,漢とローマ帝国の間でシルクロードを通じた交易が活発におこなわれていたころです。このシルクロードを通じて大乗仏教が中国に伝わります。 |
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30 |
4世紀に成立したグプタ朝時代になると,インドでは〔 ① 〕教と民間信仰が融合した〔 ② 〕教が優勢となった。 |
答 |
①バラモン ②ヒンドゥー |
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4世紀に成立したグプタ朝時代に,バラモン教は仏教や民間信仰と融合してヒンドゥー教となります。仏教もまた国家の保護を受けますが,学術的になり,やがてヒンドゥー教がインドで優勢となります。デカン高原西部のアジャンターなどで石窟寺院が建設され,法隆寺金堂壁画はこのアジャンター石窟のものとの類似が指摘されています。 |
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7世紀,イスラム教徒となったアラブ人は〔 ① 〕とよばれるムハンマドの後継者を中心にがアラビア半島を統一した。651年にイランの〔 ② 〕を滅ぼすと,その勢力は西アジア全体に広がった。 |
答 |
①カリフ ②ササン朝ペルシャ |
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イスラム教はまず西アジアのアラブ人が信仰します。ムハンマドの死後,宗教的指導者となったのは,カリフとよばれる地位でした。カトリックのローマ教皇的な存在ですが,最初は宗教的指導者であるとともに,王としての地位も兼ねました。
ムハンマドの死後,彼の妻の親戚(外戚)から4人のカリフが順に選ばれます。この時代を正統カリフ時代といいます。この時期にアラビア半島は統一され,イランのササン朝ペルシャを破って滅ぼし,東ローマ帝国からシリアとエジプトを奪い,西アジアを征服します。 |
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32 |
661年,〔 ① 〕家のムアーウィアがカリフとなると,〔 ① 〕朝を樹立した。〔 ① 〕朝は東はインドの一部から西は北アフリカ・〔 ② 〕半島にまで領土を拡大し,〔 ③ 〕王国にまで侵入した。 |
答 |
①ウマイヤ ②イベリア ③フランク |
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3代目のカリフはウマイヤ家という一族でした。このカリフが暗殺されます。暗殺側が立てた4代目のカリフはアリーという人物でした。そこでウマイヤ家とアリーとの間で対立がおこります。
結局アリーも暗殺されるのですが,次にカリフを名乗ったのは殺された3代カリフのウマイヤ家の人物でした。ムアーウィヤーという人です。以後カリフの地位は以後ウマイヤ家が世襲することになり,ウマイヤ家のカリフ時代をウマイヤ朝と表現します。
一方,殺されたアリーの側もカリフの正統性を主張します。理由はアリーの妻がムハンマドの娘だったからです。つまり2人の間に生まれた子孫はムハンマドの血を引いていることになります。このアリーを正統と認めるイスラム教徒はのちにシーア派とよばれ,シーア派以外の人々はスンナ派といい,スンナ派がイスラム教徒の多数を占めるようになります。
さてウマイヤ朝は都をダマスカス(現シリア)に置き,東はインダス川流域にまで達し,西は北アフリカからジブラルタル海峡をこえてイベリア半島にまで達します。さらにフランク王国に侵入したところでキリスト教徒に撃退されフランス支配はなりませんでした。ウマイヤ朝が支配したイスラム帝国は別名:アラブ帝国ともいいます。その支配の中心となったのがアラブ人だったからです。 |
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750年,ウマイヤ朝にかわって〔 ① 〕に都を置く〔 ② 〕朝が成立した。〔 ② 〕朝はアラブ人の特権を廃止し,イスラム教徒間の平等を実現したため,〔 ③ 〕帝国とよばれる。751年,〔 ④ 〕河畔の戦いで唐を破ったことで,製紙法がイスラム世界に伝わった。 |
答 |
①バグダッド ②アッバース ③イスラム ④タラス |
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8世紀半ば,ウマイヤ家はアッバース家に倒されアッバース朝が成立します。アッバース朝は都をバグダッドに移します。領土的にはまだ中央アジアに進出の余地が残っていましたから,そこへ向かいます。同じころ中央アジアに進出してきた唐と対立してタラス河畔の戦い(751)となります。これに勝利したアッバース朝に唐から製紙法が伝わりました。
一般にはこのアッバース朝をイスラム帝国とよんでいます。アラブ人やイラン人などの区別なく,イスラム教徒という点で平等な社会が実現されたからです。
イスラム世界の流れ(赤:イスラム国家 青:キリスト教国家)
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11世紀,イスラム帝国内にトルコ民族が侵入し,アッバース朝のカリフから〔 ① 〕の称号を得て,〔 ② 〕が成立した。〔 ② 〕の勢力拡大は十字軍遠征のきっかけとなった。13世紀,モンゴル民族の侵入が激しくなり,〔 ③ 〕年にアッバース朝は滅び,モンゴル系の〔 ④ 〕国が成立した。 |
答 |
①スルタン ②セルジュク=トルコ ③1258 ④イル=ハン |
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アッバース朝は広大な領土を誇りましたからアラブ人以外にもいろんな民族が共存しています。アッバース朝ではイスラム法の下でのイスラム教徒の平等が保障されていましたから,イスラム教徒であれば何もアラブ人でなくても要職につけた。(もちろんカリフであるアッバース家はアラブ人です。)
そこでアッバース朝では様々民族が台頭してきます。特に西方からの移動してきた遊牧民たちはのちに大きな影響を与えます。最初はイラン人にはじまり,トルコ人,モンゴル人がやってくる。
11世紀,中央アジアからトルコ人がやってきます。セルジュク=トルコです。1055年,アッバース朝のカリフはセルジュク=トルコの王に「スルタン」の称号を与えます。スルタンは「世俗の王」を意味する言葉です。
これによってカリフは政治と宗教の指導者であったのが,政治的権力を放棄して,その役目をスルタンに委譲しました。これによってカリフは宗教的権力のみを有する存在となり,以後政治・軍事はスルタンの手に委ねられるようになったのです。(以後,アッバース朝という場合は宗教的権威を意味し,キリスト教ではローマ=カトリックというのとほぼ同意義。そしてそのアッバース朝の中にさまざまなイスラム国家=スルタンが存在する。)
セルジュク=トルコはさらに東ローマ帝国を圧迫し,小アジアを制圧。エルサレムも占領し,十字軍のきっかけとなりました。
13世紀からはモンゴル人の侵入を受けます。ついに1258年,バグダッドに侵入したモンゴル人によってアッバース朝は滅亡。以後カリフの地位は,西アジアや北アフリカの国々を転々とします。 |
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14世紀,イスラム化した中央アジアで〔 ① 〕が〔 ② 〕国を滅ぼして〔 ① 〕帝国を建国した。16世紀はじめ,〔 ① 〕の子孫はインドに侵入して〔 ③ 〕帝国を建国し,ヒンドゥー教との融和をはかった。〔 ④ 〕は17世紀に建てられた〔 ③ 〕帝国第5代皇帝:シャー=ジャハンによるヒンドゥー=イスラム建築である。 |
答 |
①チムール ②チャガタイ=ハン国 ③ムガール(ムガル) ④タージ=マハル |
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13世紀,中央アジアはモンゴルの支配下にあり,その帝国の一部としてチャガタイ=ハン国が建国されました。14世紀,このチャガタイ=ハン国からチムールという人物が出て,彼がチャガタイ=ハン国(中央アジア)とイル=ハン国(西アジア)を滅ぼして建国した国を,その名をとってチムール帝国といいます。都はかつてシルクロードの交易都市として栄えたサマルカンド。現在のウズベキスタンにあります。もちろんイスラム国家です。
チムールはちょうど明を建国した朱元璋(洪武帝)と同じ時期の人物。したがって明(初期)とチムール帝国は同時期の国ということが大切です。14世紀(13世紀はモンゴルの世紀),ともにモンゴル帝国を駆逐したということを意味しています。【時期】さらにチムールはモンゴル系ですので,モンゴル人を中国から追い出した明に対して復讐心をもっていました。そこでチムールは明に遠征に出ますが,その途中で亡くなります。
16世紀,チムール帝国はウズベク人によって滅ぼされ,ウズベク人国家ものちにロシアの植民地となります。この中から,ウズベキスタン,カザフスタン,トルクメニスタン,タジキスタン,アフガニスタンなど「スタン」がつく国が生まれます。
チムール帝国の崩壊によってその王族はインドに逃れ,デリーを攻略してイスラム国家建国します。これがムガル帝国(1526~)です。「ムガル」とは「モンゴル」がなまったものです。
ムガル帝国はイスラム国家ではありましたが,ヒンドゥー教を頭ごなしに禁じたわけではなく,イスラムとヒンドゥーの融合を図りました。それを形にしたのが,タージ=マハルです。タージ=マハルは第5代皇帝:シャー=ジャハンが建立した妻:ムムターズ=マハルの霊廟で,インド・イスラム文化の代表作といわれています。 |
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〔 ① 〕年,〔 ② 〕の戦いでイギリスがフランスを破ると,インドにおけるイギリスの優位が確定した。100年後の〔 ③ 〕年,東インド会社の傭兵:〔 ④ 〕がイギリスに対して反乱をおこすと,イギリスがこれを制圧した。翌年,イギリスはムガル帝国を滅ぼし,東インド会社を解散して,イギリス国王:〔 ⑤ 〕が直接統治するインド帝国が成立した。 |
答 |
①1757 ②プラッシー ③1857 ④セポイ(シパーヒー) ⑤ビクトリア女王 |
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16世紀,インドにはまずポルトガルがやってきます。ゴアを拠点として貿易を展開します。17世紀からはイギリスとオランダがやってきます。両国ともその名も東インド会社という貿易会社を設立します。
1623年,アンボイナ事件でオランダに敗れたイギリスは東南アジアの香料貿易から撤退しました。かわってイギリスはインドでの綿や茶の貿易に専念します。同時期,フランスもインドを頻繁に訪れることになり,その対立が激しくなりました。
1757年,イギリスとフランスはインド経営権をかけて戦います。プラッシーの戦いといいます。出題されることはまれですが,非常に重要な戦いです。この結果,イギリスが勝利し,イギリス(東インド会社)のインド支配が決定的になった。一方,敗戦したフランスは,直後のアメリカ独立戦争への援助も重なり,財政難となってフランス革命へと突入していく。【歴史的意義】
イギリスはカルカッタ(現コルカタ),マドラス,ボンベイ(現ムンバイ)を中心にインドを植民地化していきます。またフランス革命・ナポレオン戦争の混乱期にオランダがフランスの支配下に入ると,この隙をついてイギリスは再び東南アジアに進出します。オランダ,フランスの弱体化はイギリスのビルマ(現ミャンマー) ,マレーシア,シンガポール植民地化を容易にしました。
プラッシーの戦いからちょうど100年後の1857年,インド人のイギリスに対する反感が頂点に達します。インドの大反乱(セポイの乱)です。この反乱については応用編ですでに説明済み。
翌年,反乱を鎮圧したイギリスは東インド会社を解散。イギリス本国のインド直接統治がはじまりました。これによってムガル帝国は滅亡。かわってインド帝国となり,イギリス国王:ビクトリア女王がインド皇帝を兼務します。【流れ】
インド大反乱(1857)→東インド会社解散(1858)→ムガル帝国滅亡→インド帝国
1858年の重要事項【時期】
・東インド会社解散とムガル帝国滅亡
・日米修好通商条約
・アロー戦争(1856~),太平天国の乱(1851~)
・ダーウィンの『種の起源』(1859) |
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13世紀末,小アジアに成立した〔 ① 〕は,〔 ② 〕年,コンスタンチノープルを占領して〔 ③ 〕帝国を滅ぼした。コンスタンチノープルを〔 ④ 〕と改称して都とし,西アジア・エジプト以外にもヨーロッパでは〔 ⑤ 〕半島にまでその勢力を拡大した。 |
答 |
①オスマン=トルコ ②1453 ③東ローマ ④イスタンブール ⑤バルカン |
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13世紀,西アジアにモンゴル人が侵入するとトルコ人はそのもっとも西側に追いやられます。もっとも西というのは小アジア(現トルコ)です。そこにセルジュク朝の一部族がオスマン=トルコを建国します。1299年です。オスマン=トルコは1299~1922年まで続く国で,この年は以外とおぼえ易い。「2」と「9」をひっくり返せばいいのです。【時期】
しかし建国した当初は西に東ローマ帝国,東にイル=ハン国(モンゴル系)に挟まれ大国としての片鱗をみせることはありませんでした。イル=ハン国がチムールにとってかわられても,チムールにあわや滅亡かという大打撃をこうむります。
しかしメフメト2世がスルタン(王)の地位につくと,状況が一転しました。1453年,メフメト2世は東ローマ帝国の都:コンスタンチノープルの鉄壁の守りを攻略し,帝国の息の根を止めたのです。コンスタンチノープルはトルコ語に改められイスタンブールとなり,オスマン帝国の首都となります。
その後,オスマン=トルコは西アジアからエジプトを攻略し,カイロに保護されていたかつてのアッバース朝のカリフをイスタンブールに迎え,その称号を継承します。これによってオスマン帝国のスルタンは名実ともにイスラム世界(スンナ派)の盟主となりました。またヨーロッパにも進出してバルカン半島をその領土とし,オーストリアのウィーンにまで迫ります。 15世紀から16世紀にかけてのオスマン=トルコの成長は,大航海時代のきっかけにもなりました。 |