歴史 第9回 世界史 発展編③

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20世紀の世界

1 19世紀末から資本主義の発達した欧米諸国が植民地獲得のためアジア・アフリカに進出した動きを〔  〕という。
帝国主義
   
2 〔 ① 〕年,フランスの〔 ② 〕によって〔 ③ 〕運河が建設されると,イギリスは株式を買収してエジプトを保護国とした。アフリカにおいてイギリスは縦断政策を進め,エジプトの〔 ④ 〕から南アフリカの〔 ⑤ 〕に至る範囲を勢力下に置き,さらにインドの〔 ⑥ 〕を結ぶ地域への勢力拡大をねらった。このイギリスの帝国主義政策を〔 ⑦ 〕政策という。
①1869  ②レセップス  ③スエズ  ④カイロ  ⑤ケープタウン  ⑥カルカッタ  ⑦3C
   帝国主義の先頭を走ったのは,当然イギリスです。それを他の列強が追いかけるという図式です。イギリスの植民地政策の基本ははインドを防衛することです。それにはまずインドに至る制海権を握ること。そしてロシアの南下に備えることでした。
 1869年フランスレセップスによってスエズ運河が建設されます。アメリカ横断鉄道開通と同じ年で,重要な年代です。日本では明治維新がはじまったころ。【時期】
 フランスとエジプト両国の出資によるものでしたが,この運河の重要性をだれよりもよく理解していたイギリスが財政難のエジプトを援助する形で運河の株式の買収に成功します。その後もイギリスはエジプトの内政干渉をつづけ,エジプトはイギリスの保護国となっていきます。ちなみに地中海の出入り口であるジブラルタルもイギリスがおさえています。
 イギリスはこのままアフリカ大陸を縦断する形で植民地を広げていきます。そしてその南端の南アフリカまで達し,エジプトのカイロ,南アフリカのケープタウン,インドのカルカッタ,これらの都市を結んだ三角形がイギリスの勢力範囲となっていきます。これを3C政策といいました。
 またロシアの南下には3C政策の一辺,カイロ・カルカッタラインにおいてペルシャ(イラン)へ進出し,ロシアのインド侵入を防ぎます。クリミア戦争(1853)では異教徒であるオスマン=トルコ側についてロシアを撃退しましす。そして東アジアでは日英同盟(1902)を結んだ。  
   
3 アフリカではイギリスの他,フランスがサハラ砂漠を中心とした横断政策をとり,ベルギーやドイツも進出した。その結果,20世紀初めには〔 ① 〕と〔 ② 〕の2ヶ国のみが独立国であった。
①エチオピア  ②リベリア  ※順不同
   イギリスに追随して,他のヨーロッパ諸国もアフリカに進出してきます。フランスは1830年七月革命のころにアルジェリアに侵攻したのがはじまりで,その後,アルジェリアを中心にアフリカ大陸の西部の広い部分(アフリカ大陸を頭蓋骨を横からみた形だとすると後頭部にあたるところ)を植民地化していきます。イギリスの縦断政策に対して,横断政策とよんだりします。 
 アフリカでもう1つ大きな部分としては中部のコンゴがあります。コンゴは歴史ではめったに登場しませんが,ベルギーの植民地となったことをおさえておきたい。【落とし穴】
 アフリカ縦断のイギリス,アフリカ横断のフランス,中部のベルギーが大きな勢力範囲でその隙間を後進国であったイタリアやドイツ,ポルトガルなどが埋めていきました。少し細かくなりますが,ぽつんと離れたナイジェリアガーナイギリスの植民地です。【落とし穴】
 この列強のアフリカ分割に屈しなかったのがリベリアエチオピアだけだったことは重要です。【落とし穴】リベリアは「自由の国」という意味です。「自由の国」といって思い出す国はありませんか?アメリカです。リベリアはもともとアメリカの黒人がアフリカに帰還して建国した国でした。リベリアの国旗はアメリカの国旗にそっくりです。しかしアメリカ帰りの人々は自分たちを文明化した人間だと思い込み,現地の人々を隷属させた。(人間って悲しいですね)悪いいい方をすれば,リベリアはアメリカのアフリカ植民地だったようなものなんです。
 エチオピアは当時から近代化が進んだしっかりとした統治体制をもったアフリカでは珍しい国でした。宗教も昔からキリスト教を信仰している北アフリカでは珍しい国です。しかしこのエチオピアも第二次世界大戦前,イタリアの触手が伸びてきます。《第10回 史料・地図》
   
4 東南アジアでは,イギリスがビルマ(現ミャンマー)・マレーシア・〔 ① 〕を領有し,フランスは〔 ② 〕・〔 ③ 〕・〔 ④ 〕を植民地化して〔 ⑤ 〕とした。〔 ⑥ 〕はスペインの植民地であったが,〔 ⑦ 〕戦争(1898)でスペインが敗れるとアメリカの植民地となった。〔 ⑧ 〕はオランダの植民地となりオランダ領〔 ⑧ 〕となった。〔 ⑨ 〕のみが唯一独立を保った。
①シンガポール  ②ベトナム  ③ラオス  ④カンボジア  ⑤フランス領インドシナ  ⑥フィリピン  ⑦米西  ⑧インドネシア  ⑨タイ
   東南アジア諸国がそれぞれどこの植民地になったかを正確におぼえておきましょう。タイのみ独立を保った。忘れ易いのがインドネシアのオランダ。注意したいのはフィリピン《第10回 史料・地図》
 フィリピンはもともとスペインの植民地であったことはすでに説明済み。アメリカの植民地となった経緯は,19世紀末の米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)。きっかけはキューバの独立をめぐっての争いです。キューバはコロンブス以来,スペインの植民地でしたが周囲のラテンアメリカ諸国に比べて独立が遅れていた。逆にスペインからするとキューバはラテンアメリカにおける最後の砦だったのです。キューバで独立運動が激しくなるとスペインは弾圧を強化します。そこへキューバの砂糖権益を求めるアメリカが介入するとい形で,アメリカとスペインとの間で戦争になりました。
 結果,アメリカが勝利し,スペインはキューバの独立を認めます。そしてアメリカはキューバを保護国とします。さらにアメリカはフィリピン,プエルト=リコ,グアムもスペインから獲得します。 
   
5 18世紀,〔 ① 〕が探検したオーストラリアイギリスの流刑植民地となった。またアメリカは19世紀末,ハワイ諸島を併合し,〔 ② 〕戦争の結果,〔 ③ 〕を保護国とし,さらにグアム島を獲得した。〔 ④ 〕年には〔 ⑤ 〕運河を開通させ,中央アメリカを強い影響下においた。 
①クック  ②米西  ③キューバ  ④1914  ⑤パナマ
   オーストラリアを最初に発見したのはオランダ人ですが,そこに上陸したのは18世紀イギリスの探検家クックでした。ちょうどアメリカが独立したころなので,イギリスはアメリカにかわる流刑植民地とした。この「流刑地」という言葉がオーストラリアの説明では重要です。
 1850年ごろ,アメリカのカリフォルニアと同じくゴールドラッシュがおこり,白人系移民以外にもアジア系移民も増加したため,アジア系移民の受け入れを制限する白豪主義がとられました。
 パナマ運河は最初,スエズ運河を建設したフランスのレセップスによって着工しましたが,標高差の大きい地峡であったため一旦挫折します。その後,アメリカの援助によって1914年に完成します。以後1999年までアメリカが所有します。1914年は第一次世界大戦の年ですね。【時期】標高差を克服するため閘門式とよばれる仕組みを採用しました。以後アメリカの軍艦はパナマ運河を通れるサイズに設計されることになります。
   
6 19世紀末まで,中国では〔 ① 〕がポルトガル領,〔 ② 〕がイギリス領であったが,19世紀末以降,列強が進出して鉄道・鉱山の利権や要地の租借権を獲得した。
①マカオ  ②香港
   香港は1997年,マカオは1999年に中国に返還済みであることをおさえておきましょう。 
   
7 中国ではロシアは遼東半島南部の〔 ① 〕・〔 ② 〕を租借し,〔 ③ 〕鉄道を建設して満州に進出した。ドイツは〔 ④ 〕半島の膠州湾を租借し,〔 ⑤ 〕を根拠地とした。イギリスは山東半島の威海衛の租借権や〔 ⑥ 〕流域の利権を獲得し,フランスは広州湾を租借して南部に進出した。また日本は日清戦争の結果,台湾を領有して,対岸の福建省の利権を獲得した。
①旅順  ②大連  ③東清  ④山東  ⑤青島  ⑥長江  ※①・②は順不同
   中国における列強の勢力範囲も必須。特に地図をよくみておくこと。【位置】 《第10回 史料・地図》
   
8 1900年,「扶清滅洋」をかかげて〔   〕事件がおこり,北京にある列強の公使館が襲撃された。清国政府はこれを援助したが,列強8ヶ国が出兵して北京を占領した。
義和団
   日清戦争後,列強の進出に拍車がかかった清では,民衆の間でキリスト教に対する反発運動が激しくなります。義和団もその1つでした。彼らは武術の鍛錬によって銃弾も跳ね返すと信じていました。
 この義和団が「扶清滅洋」というスローガンを掲げて山東省で蜂起します。これが義和団事件(義和団の乱・北清事変ともいう)です。「扶清滅洋」とは「清を扶(助)け,西洋を滅ぼす」という意味。太平天国の「滅満興漢」と【比較】しておぼえたい。また山東省からはじまり北京に広がったことも重要(太平天国は南京)。山東省(半島)はドイツの進出が目立ったところでした。
 この反乱の鎮圧に列強8ヶ国が乗り出します。動員された兵のうち,日本がもっとも多かったとおさえておきましょう。【落とし穴】そしてこの機に乗じて,ロシア軍が満州を占領します。しかし清にとってはこの行為は内政干渉・武力干渉です。清は列強に宣戦布告しますが,旗色が悪いとみるや義和団弾圧に回ります。
 結果,義和団が鎮圧されるばかりか,北京は列強によって占領され,清は北京議定書を認めさせられます。(1901)主な内容は北京に外国軍隊の駐留を認めるというものでした。このときに設置された日本の駐屯軍によってのちの盧溝橋事件が引きおこされます。
 北京議定書締結後もロシアは満州から撤兵しなかったため,日露の対立が激しくなり,日英同盟・日露戦争と進んでいく。
   
9 1905年,孫文は東京で〔 ① 〕を結成して「三民主義」を基本方針とする革命運動を指揮した。〔 ② 〕年,武昌蜂起がおこると革命が広がり,〔 ③ 〕年に中華民国が成立,孫文が〔 ④ 〕となった。清の総理大臣であった〔 ⑤ 〕は〔 ⑥ 〕を退位させ清は滅んだが,〔 ⑤ 〕は孫文から実権を奪い,自ら〔 ④ 〕の地位に就いた。
①中国革命同盟会  ②1911  ③1912  ④臨時大総統  ⑤袁世凱  ⑥宣統帝(溥儀 ふぎ)
   ポーツマス条約が結ばれた1905年孫文東京中国革命同盟会を結成し,「三民主義」を唱えて,清朝打倒を呼びかけます。「三民主義」とは「民族独立」・「民権伸長」・「民生安定」をいいます。
 辛亥革命(1911)の幕開けは武昌(ぶしょう)というところではじまりました。現在の武漢(ウーハン)です。ただし蜂起をおこしたのは孫文ではありません。そのとき孫文はアメリカに滞在中でした。
 武昌蜂起を機に全国の省が次々と独立を宣言。南京に集まった17省の代表が帰国した孫文を臨時大総統に選出し,翌年(1912)中華民国が成立します。「民国」とは「共和国」の意味です。
 しかしこのとき清は滅んでいません。幼少の皇帝(宣統帝溥儀)が帝位にあったため,総理大臣の地位にあった袁世凱が実権を握っていました。袁世凱は孫文と交渉して,次期臨時大総統の地位と引き換えに溥儀の退位を約束します。
 約束どおり清朝を滅ぼした袁世凱は北京に居座って臨時大総統に就任しますが,やがて独裁に走り, 自ら皇帝を名乗ってしまうのです。ここから再び中国は長い混乱期を迎えることになったのです。
 退位した清のラストエンペラー宣統帝溥儀は,のちに満州国国王として,日本によって迎えられることになります。
   
10 日清戦争前,朝鮮では明治維新に刺激され親日政策をとって朝鮮の近代化をはかろうとする〔 ① 〕と,親清政策をとる保守派の〔 ② 〕が対立したが,日清戦争で清が破れると〔 ② 〕は衰退した。 
①独立党  ②事大党 
   李氏朝鮮では明に引き続き,清とも朝貢関係を結びます。これまでみてきたように東アジア外交の基本路線ですね。中国の冊封体制の一部に組み込まれた。「小は大に事(つか)える」。これを「事大の礼」といいます。
 江華島事件(1875)をきっかけに日朝修好条規を結んだ李氏朝鮮では,反日を掲げ清と結んで日本や西洋の進出を抑えようとする保守的な事大党と,日本の明治維新にならって冊封体制からの脱却と近代化を目指そうとする親日派の独立党とが対立していました。
 そこへ甲午農民戦争がおこります。指導者は全琫準(ぜんほうじゅん)という人物ですが,最近は発展レベルでもあまり出題されませんね。
   
11 日清戦争後,朝鮮は独立国であることを示すため国号を〔 ① 〕と改称した。日露戦争後の1905年,日本は韓国統監府を〔 ② 〕に設置し,伊藤博文を初代統監とした。1909年,伊藤がハルビンで〔 ③ 〕によって暗殺されると,翌年に韓国を併合して朝鮮総督府を設置し,統治機関とした。 
①大韓帝国  ②ソウル  ③安重根 
 日清戦争後,下関条約が結ばれると清は朝鮮の独立を認めることになりました。これを受けて李氏朝鮮は国号を大韓帝国(韓国)と改め,清朝からの独立の意志を示します。したがって朝鮮が韓国と名前がかわったこのタイミングが重要です。日清戦争後,朝鮮半島の国名は韓国【時期】
 日清戦争の勝利で独立党が優勢になった思われましたが,事大党は今度は日本に敗れた清を見限りロシアに接近します。その結果,独立党の勢力は弱体化し,ロシアが半島での勢力を強めていくことになりました。朝鮮半島においても日露対立は決定的になった。
 日露戦争後のポーツマス条約半島における日本の優越権が確定すると,日本は(韓国)統監府をおいて外交権・軍事権を韓国から奪います。このころから韓国では義兵運動という反日武力闘争が激しくなってきます。日本側もこれに対抗するため駐留軍や警察力を強化していきます。そんな中,義兵の1人であった安重根によって伊藤博文がハルビン(長春)で暗殺されると,1910年韓国は日本に併合されました。韓国統監府は朝鮮総督府として朝鮮半島の統治機関となったのです。
 併合後,朝鮮における土地所有者の調査が進められると,多くの土地が国有地とされ多くの朝鮮農民は土地を失う結果となり,一部の人々は仕事を求めて日本に移住することになりました。
   
12 ヨーロッパでは三国同盟三国協商の対立が深まる一方で,〔 ① 〕半島をめぐって汎〔 ② 〕主義と汎〔 ③ 〕主義が対立した。1914年サラエボ事件がおこると,オーストリアがセルビアに宣戦し,イギリス・フランス・ロシアを主力とした連合国とドイツ・オーストリア・〔 ④ 〕・〔 ⑤ 〕の同盟国とが戦う第一次世界大戦に発展した。
①バルカン  ②ゲルマン  ③スラブ  ④ブルガリア  ⑤オスマン=トルコ  ※②・③,④・⑤は順不同
   1871年普仏戦争でフランスを破ったドイツ(ビスマルク首相)は,ドイツ統一を果たします。今後のビスマルク外交はこのときの復讐をもくろむフランスの孤立化にありました。そのためビスマルクはオーストリアとロシアと手を組みます。しかしオーストリアとロシアはバルカン半島をめぐって対立していたため,この同盟はうまくいきませんでした。
 バルカン半島はもともとオスマン=トルコ領でしたが,その支配が衰えると次々と独立していきます。ただしその独立国は民族・宗教などさまざまで,対立が絶えなかった。そんな中バルカンの新興国はオーストリアを頼る汎(はん)ゲルマン主義とロシアを頼る汎スラブ主義に大きく二分していきました。「汎」は「広くいきわたる」という意味です。
 1881年,フランスがアフリカ横断政策のもとアルジェリアから隣国のチュニジアを占領しました。チュニジアはイタリアと地中海を挟んで向い合う国ですので,イタリアが狙っていた国なんです。そこでイタリアは反フランスの立場をとり,ドイツに接近した。そして成立したのが三国同盟です。三国同盟の成立年,1882年はおぼえておきたい年代ですね。【時期】そしてこれを成し遂げたのがビスマルクであることも。【落とし穴】
 三国同盟に対抗し,普仏戦争以来の孤立状況から抜け出したいフランスはバルカン半島でドイツ・オーストリアと対立しているロシアと同盟を結びます。またドイツはビスマルク解任後,皇帝自ら帝国主義政策を推し進め,海外に進出するようになりました。そのためには海軍の増強が必要です。するとそこにはイギリスが待っている。ドイツの3B政策や海軍力の強化についに1国では対抗しきれなくなったイギリスは,対ロシア南下政策で日本と同盟を結ぶ(1902)とともにフランスと同盟を結ぶことにします。日露戦争の年,1904年です。イギリスはこれまで「栄誉ある孤立」としてどことも同盟を結ないことが大英帝国の誇りとしてきましたが,事態はそうもいってられない状況でした。
 さらにロシアが日本に敗れ,その脅威が弱まったのをみて,イギリスはこれまでの方針を転換。対ドイツに重点を置いてロシアと同盟を結びます。こうして三国協商が成立しました。したがって三国協商は日露戦争後に成立とおさえておきましょう。【時期】
 さてサラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦がおこるわけですが,その対立関係は連合国対同盟国と表現されます。
 同盟国ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアです。トルコ・ブルガリアは第一次世界大戦前にバルカン半島においてその勢力を削減されてしまった国です。大戦を契機にその勢力回復をもくろんだ。またトルコはドイツ3B政策のライン上(ビザンチウム・バグダッド)にあり,ドイツとの関係も密接でした。
 ところが肝心な国イタリアがいませんね。イタリアは開戦と同時に中立を宣言し,のちに連合国側に立って参戦します。というのもイタリアはオーストリアに欲しい領土があって,戦後その領土をもらえるようにイギリスと密約を結んだからです。
 同盟国の対戦国を連合国といいますが,三国協商に日本,そして遅れてイタリア,アメリカです。 
   
13 〔 ① 〕年,ロシアが革命によって戦争から撤退する一方で,〔 ② 〕がドイツに宣戦し,翌年,ドイツが降伏して第一次世界大戦は終結した。アメリカ大統領:〔 ③ 〕は14ヶ条の平和原則を唱えてパリ講和会議に臨んだが,1919年,ドイツにとって過酷な条件でベルサイユ条約が結ばれることになった。
①1917  ②アメリカ  ③ウィルソン
   1917年は大戦の転換期でした。【時期】ロシア革命によってロシアが撤退。かわってアメリカが参戦。結果的にアメリカの参戦が連合国に勝利をもたらしました。参戦の理由はドイツの無制限潜水艦作戦です。(応用編)
 ドイツ降伏の前,アメリカ大統領:ウイルソンは戦後構想を「14ヶ条の平和原則」として公表しますが,パリ講和会議ではその一部が実現されただけで,敗戦国には厳しい内容の条約が結ばれました。
 では実現されたのは何でしょう。国際連盟の設立・軍備の制限・一部の民族自決です。 
   
14 第一次世界大戦後,民族自決が唱えられ,〔 ① 〕諸国の独立が実現した。また国際連盟が成立し,日本は〔 ② 〕・〔 ③ 〕・〔 ④ 〕とともに常任理事国となった。国際連盟は,〔 ⑤ 〕の不参加,ドイツ・ソ連の排除,〔 ⑥ 〕の原則,〔 ⑦ 〕制裁のみなどの欠点があったが,戦後の国際協調の中心となった。
①東ヨーロッパ  ②イギリス  ③フランス  ④イタリア  ⑤アメリカ  ⑥全会一致  ⑦経済  ※②~③は順不同
   パリ講和会議1919年1月~6月に開催されました。この期間中,アジア・アフリカ諸国では「14ヶ条の平和原則」にある「民族自決」に期待して民族主義運動が活発になります。三・一独立運動(朝鮮)五・四運動インドの独立運動もそうです。しかし結果的に独立が達成されることはなかった。
 では実現した民族自決とはどこでしょう?東ヨーロッパ諸国であったことをおさえておきましょう。「アジアの独立が達成された」は誤文です。【落とし穴】第一次世界大戦後に独立した東ヨーロッパの国はフィンランド,エストニア,ラトビア,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリー,ユーゴスラビアです。ほぼドイツの東側が縦にズドーンと独立します。(下図)

 国際連盟の設立も実現内容です。本部はスイスのジュネーブ。スイスに置かれたにはスイスが永世中立国であったためです。戦勝国であるイギリス・フランス・イタリア・日本常任理事国
 しかしアメリカはそもそもヨーロッパ情勢に中立の立場から議会の承認を得られず不参加敗戦国ドイツや社会主義のロシア(ソ連)も排除(のちに参加)全会一致の原則(決まりにくい),経済制裁のみといった欠点がありました。 
   
15 1921年,アメリカ大統領:〔 ① 〕の提唱でワシントン会議が開かれた。〔 ② 〕条約では太平洋問題や〔 ③ 〕の破棄が,〔 ④ 〕条約では中国問題が,海軍軍縮条約では〔 ⑤ 〕保有比率が決定された。
①ハーディング  ②四ヶ国  ③日英同盟  ④九ヶ国  ⑤主力艦
   国際協調・軍備制限も平和原則をもとに進められていきました。代表的な会議・条約がワシントン会議・ロンドン会議・パリ不戦条約です。ワシントン会議・ロンドン会議の内容は《第6回 テーマ史①外交史》で説明済み。ここでは提唱者の名前をおさえておきましょう。
   
16 1928年,パリで〔   〕条約が結ばれ,武力によらない国際紛争の解決が取り決められた。
不戦
   パリ不戦条約はベルサイユ条約が結ばれて,まだ平和だったころの最後の国際条約となります。まず国際連盟に参加していなかったアメリカやソ連も参加しているという点。「国際紛争を解決する手段として戦争を放棄する」という内容は,「戦争する権利は国家の自由」であるというそれまでの考えを覆すものとして期待が寄せられました。日本国憲法の第9条もこの条約をもとにしています。【歴史的意義】
 しかし問題点も残しました。自衛のための戦争は可能であるとしたのです。これがドイツや日本がこのあと戦争を広げていく正当性の根拠となります。また日本では条約内容の「人民の名において」という文言が議論を巻きおこします。「天皇大権」の干犯であると。 
   
17 1930年,イギリス首相:〔 ① 〕の提唱でロンドン会議が開かれ,〔 ② 〕保有比率が決定された。
①クーリッジ  ②補助艦
   
18 〔 ① 〕年,ドイツではワイマール憲法が制定され,男女の〔 ② 〕や労働者の〔 ③ 〕・団体交渉権などが補償され,当時世界で最も民主的な憲法とされた。またイギリスでは1924年に〔 ④ 〕がイギリス初の労働党内閣を成立させた。
①1919  ②普通選挙  ③団結権  ④マクドナルド
   戦後ドイツではワイマール憲法が制定され,当時「世界でもっとも民主的な憲法」とよばれました。その根拠は,女性にも男子と同じ参政権が認められたこと(女性の制限選挙は他でもあった)と社会権が保障されたことです。【歴史的意義】したがって1919年のワイマール憲法以前の文で,「男女普通選挙」・「社会権」とあれば,一切誤文であると判断しましょう。 【落とし穴】
 しかしベルサイユ条約で課せられた巨額の賠償金はドイツに重くのしかかり,支払いのため多額の貨幣(マルク)を発行したため,物価の急上昇を招き,超のつくインフレーションがおきます。貨幣価値は下がり,「超」ならぬ「兆」の単位がつくマルクまで発行されました。
 イギリスでは1924年,自由党との連合でマクドナルド労働党内閣が成立します。【落とし穴】この後,イギリスでは自由党の勢力が衰え,現在の労働党と保守党による二大政党制となっていきます。
   
19 ロシアでは〔 ① 〕年,日露戦争中に労働者による第一次ロシア革命が勃発した。皇帝はこれを弾圧したが,〔 ② 〕年の〔 ③ 〕革命では労働者や兵士は〔 ④ 〕を組織して,皇帝:〔 ⑤ 〕を退位させ,ロマノフ王朝を滅ぼした。つづく〔 ⑥ 〕革命ではレーニン率いる〔 ⑦ 〕が社会主義革命を断行し,首都をモスクワに移して〔 ④ 〕政権を樹立させ,〔 ⑧ 〕年に〔 ⑨ 〕が成立した。
①1905  ②1917  ③三月  ④ソビエト  ⑤ニコライ2世  ⑥十一月  ⑦ボルシェビキ  ⑧1922  ⑨ソビエト社会主義共和国連邦
   1917年のロシア革命には前史があります。ロシア革命に「第一次」とつけて「第一次ロシア革命」または,そのきっかけになった事件として「血の日曜日事件」という表現で問題文中に登場します。時期は日露戦争1905年で,日露戦争終結のきっかけにもなったのでおぼえやすい。
 「血の日曜日事件」とは,労働者たちが労働条件の改善,日露戦争の中止などを求めて当時の首都:サンクトペテルブルクでデモをおこなったところ,政府当局と衝突して多数の死者をだした事件です。労働者のデモは首都以外の大都市にも広がり,黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号の水兵も反乱をおこします。(ポチョムキン号事件 映画にもなった)
 これらの事件の中で改革・革命を求める労働者が自治組織「ソビエト」を結成します。ロシア皇帝は専制的な政治を改め,国会の開設を約束することになります。これが第一次ロシア革命です。この革命で帝政が廃止され,ロマノフ王朝が倒れたわけではありません。立憲君主制へと以降した革命です。【落とし穴】
 結果的にロシアは日露戦争を継続することができずに撤退することになりました。(革命を扇動したのは日本のスパイだという話も・・・)
 さて国会ができたからといってすぐに立憲政治がうまくいったわけではありません。立法権には制限があり,あいかわらずロシア皇帝の権力は強大でした。
 第一次世界大戦が長期化すると兵士・労働者・農民など国民の大多数の生活が苦しくなってきます。特にロシアは寒い。この寒さはナポレオン戦争のように味方になることもあれば,敵となることもある。穀物不足,特に野菜不足はビタミン不足をもたらし,餓えや病気に苦しむ日々が続きました。
 1917年,「戦争中止」・「専制打倒」をよびかけて民衆が首都ペトログラードでストライキとデモがおきます。(サンクトペテルブルクはドイツ語の名称で,ドイツと交戦中であった当時はロシア風にペトログラードに改称)ロシア皇帝ニコライ2世は退位して弟のミハイルに帝位をゆずりますが,ミハイルはこれを拒否。結果的に帝位を継ぐ者がいなくなってロマノフ王朝は滅びることになりました。そしてロマノフ家は全員逮捕され,銃殺されます。
 中央では頭を失った国会が臨時政府をつくります。その一方で地方の各都市では,下級兵士や労働者を中心にソビエトが結成され,その下に自治がおこなわれました。ここまでがロシア革命の第一段階:三月革命です。ただしこの時点では臨時政府は戦争続行です。戦争から撤退したのではない。【落とし穴】
 そこへスイスへ亡命していたレーニンが帰国します。「すべての権力をソビエトへ」と,戦争の即時停止と社会主義革命を訴えました。レーニンが率いる団体はボルシェビキといい,のちのロシア(ソビエト)共産党です。
 このボルシェビキがついに武装革命をおこします。これが十一月革命です。革命は成功して,社会主義(ソビエト)政府が樹立しました。翌年,レーニンはロシアが「社会主義ソビエト共和国」であると宣言し,ドイツと単独講和を結び,大戦から撤退します。
 三月革命はロマノフ王朝が滅んだ革命十一月革命は社会主義政府が成立した革命です。【比較】そしてロシアが大戦から撤退したのは十一月革命が成ってからであることに注意しましょう。
 社会主義革命の成立は資本主義(帝国主義)諸国にとっては脅威であったため,ソビエト政府打倒の対ソ干渉戦争がはじまります。【説明(理由)】これを日本ではシベリア出兵といいました。ソビエト政府は苦しみながもこれを撃退し,それとともにロシア帝国領内に革命を広げていきました。その結果,1922年ソビエト社会主義共和国連邦が成立します。
 この動きを受けて,中国で中国共産党(1921),日本でも日本共産党(1922)が成立します。【時期】またモンゴルは世界で2番目の社会主義国となりました(1924)。これは少し難。
   
20 〔 ① 〕年,朝鮮では反日独立運動である三・一運動がおこり,中国でも21ヶ条の要求をめぐって反日の〔 ② 〕がおこった。インドではガンディがイギリスの植民地支配に対して〔 ③ 〕運動をおこしたため,イギリスは1935年に軍事・外交権を除く自治権を与えた。
①1919  ②五・四  ③非暴力・不服従
   これらの民族主義運動がおこった背景にはウィルソンの14ヶ条の平和原則ロシア革命の成功があったことを頭に入れておきましょう。【説明(背景)】三・一独立運動はソウル五・四運動で北京です。いずれも反日運動です。またパリ講和会議の結果,二十一ヶ条の要求は撤回されなかったということも重要です。【落とし穴】 
   
21 第一次世界大戦の敗戦国となったオスマン=トルコでは〔 ① 〕が〔 ② 〕年に帝政を廃止して,共和政を樹立した。
①ケマル=パシャ  ②1922
   トルコ(オスマン=トルコ)もまた敗戦国の1つでした。パリ講和会議ではトルコ領のうち,西アジアはイギリスとフランスの委任統治となりました。イギリスイラク・ヨルダン・パレスチナフランスシリア・レバノンの統治を任された(委任)。その後,イギリス・フランスはこれらの国を独立させていくわけですが,このときに引かれた国境線は英仏の思惑で勝手に引かれたものだったため,現在のアラブ諸国の混乱の原因となりました。
 さてみなさんにここで頭に入れておいて欲しいことがあります。ただしテストではめったに出ません。第一次世界大戦中,イギリスは戦争に勝利するため数々の秘密協定を結びました。イタリアを味方に引き入れたのもその1つです。他にはアラブ人の協力を得るため,戦後アラブ人の独立を約束したり(フサイン=マクマホン協定),ヨーロッパのユダヤ人の財力を得るためにパレスチナにユダヤ人国家の建設を約束したり(バルフォア宣言),その一方でフランス・ロシアとは戦後アラブ諸国をこれらの国で分割する協定(サイクス=ピコ)を結んだり,二枚舌ならぬ三枚舌です。
 しかし結局,アラブ人・ユダヤ人に対してはその約束を反故にして,革命がおこったロシアはのけものにする。最後はフランスと領土を分割支配した。このことは当時の民族運動を激しくさせるばかりでなく,現在の中東の混乱につながっていくのです。
 さて結局,トルコは小アジアとイスタンブール周辺の領土を残すことになったわけですが,1922年,トルコでも革命がおこります。1922年,スルタン制度が廃止され,オスマン=トルコは滅亡。ケマル=パシャを大統領とするトルコ共和国が成立しました。「パシャ」とは大臣というくらいの意味。トルコではケマル=アタテュルクとよばれています。「アタテュルク」は「トルコの父」。
 ケマルは西洋の制度・文化・技術を取り入れトルコの近代化を図ります。トルコでは文字もアルファベット表記に改められました。 
   
22 中華民国では各地で〔 ① 〕が列強と結びついて勢力を維持していたため,孫文率いる〔 ② 〕と〔 ③ 〕が〔 ① 〕打倒のため〔 ④ 〕とよばれる協力体制を築いた。孫文の死後,国民党代表となった〔 ⑤ 〕は北部〔 ① 〕を一掃する〔 ⑥ 〕を開始すると〔 ④ 〕を解いて中国を統一し,〔 ⑦ 〕に国民政府を樹立した。
①軍閥  ②(中国)国民党  ③(中国)共産党  ④(第一次)国共合作  ⑤蔣介石  ⑥北伐  ⑦南京
   袁世凱の死後,中華民国は日本をはじめ列強各国の支援を受けた軍閥が各地に割拠する状態となりました。中国は王朝が2つ続いたあとは分裂状態になる癖がある。隋・唐のあとは五大十国,つぎは宋・元ときて,明・清と続きますが,あとの中華民国はいわば分裂国家です。
 日本など列強側としては中国は半植民地のままでいて欲しい。そのためには1つの勢力が強力になることは避けたいのです。互いに抗争を続けて欲しい。
 辛亥革命が失敗に終わったとみた孫文は,五・四運動をみてもっと民衆の力を味方につける必要があると悟り,そのため公の政党を結成する。その名も中国国民党です。「国民」という意識を強く打ち出した。また五・四運動に参加した若者の中から中国共産党が結成されます(1921)。これには外からの影響,つまりロシア革命の影響もありました。
 さてこの2つの政党は当然最初はバラバラに行動していましたが,軍閥の軍事力の前に挫折の繰り返しです。列強は当然,中国の統一をめざす2党には支援をしてくれません。では支援してくれるとしたらどこでしょう?ソ連です。ソ連は列強とも対立していますし,社会主義革命を世界に広めたい。
 ソ連は両党に提案をもちかけます。「共闘してはどうだい?」中国共産党としてはボス国のソ連の提案ですから,断る理由がありません。そして国民党もこれを受け入れます。合わせて「国共合作」といいます。一応中国国内では国民党が主導権を握る形で成立しました。
 孫文の死後,国民党のリーダーとなった蔣介石は体制が整うと,ついに中国北部の軍閥退治の軍を進ませます。かつて三国時代,蜀の宰相:諸葛亮孔明が華北の魏を討つため軍を北進させたことにならって,これを「北伐」といいます。
 途中,共産党勢力の拡大を恐れて国共合作を解いた蔣介石は1928年,軍閥:張作霖が占拠していた北京をおとして北伐を完成させました。逃げた張作霖(日本の援助を受けていた)は北伐が満州に伸びるのことを恐れた日本によって奉天駅で爆殺されます。(張作霖爆殺事件=満州某重大事件)
 そして日本に父を殺された息子の張学良が蔣介石についたため,中国統一が成ったのです。蔣介石は国民政府南京に置きます。ただし追い出された中国共産党勢力は各地でまだ活動を続けています。
   
23 1929年ニューヨークの〔 ① 〕街の株式市場で株価の大暴落が起こると世界恐慌がはじまった。アメリカ大統領:〔 ② 〕は〔 ③ 〕(テネシー渓谷開発公社)などのニーディール政策をおこなって景気回復に努め,イギリスフランスではブロック経済とよばれる〔 ④ 〕貿易政策を実施した。一方,ソ連では〔 ⑤ 〕の指導のもと,1928年から第一次〔 ⑥ 〕がおこなわれており,恐慌の影響は受けなかった。
①ウォール  ②フランクリン=ルーズベルト  ③TVA  ④保護  ⑤スターリン  ⑥五ヶ年計画
   19世紀末,工業生産でイギリスを追い抜いたアメリカは世界一の工業国となりました。1903年には重要な発明が世界を大きく変えていきます。【時期】1つはライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功したこと。これはすぐに第一次世界大戦で戦闘機の量産につながります。もう1つはフォード自動車会社が「T型フォード」の大量生産方式をあみだしたことです。組み立て工程にベルトコンベヤーをつかった。
 第一次世界大戦ではイギリスなどへの貸し出しが増え,債権国となり,ニューヨークのウォール街がロンドンにかわって世界の金融の中心となりました。
 大戦後もアメリカの経済は好調でその繁栄ぶりはニューヨークの高層ビル街に象徴されます。アメリカの「永遠の繁栄」はだれもが信じて疑わなかった。
 1929年10月24日,ウォール街の株式市場は大混乱に陥ります。世界恐慌のはじまりです。ときの大統領はフーバー大統領です。ルーズベルトではありません。【落とし穴】このフーバーこそ,アメリカ経済を「永遠の繁栄」とよんだ大統領でした。この楽観主義は恐慌がおこってもかわりません。アダム=スミス以来の古典派経済学に頼り,「自由放任主義(市場に干渉せず)」を貫きます。フーバーの無策は恐慌を長引かせる結果となりました。
ウォール街のニューヨーク証券取引所

 1933年フランクリン=ルーズベルトが大統領に就任すると,アメリカは一転してニューディール政策とよばれる政府の経済介入を実施しました。TVA(テネシー渓谷開発公社)はその一環です。この政策の後ろ盾となったのは,イギリスの経済学者:ケインズの経済学でした。
 イギリス・フランスブロック経済という保護貿易政策でこの恐慌を乗り越えようとしたことはこれまでにみてきました。
 一方,ソ連レーニンのあと,政権を握ったスターリンによる(第一次)五ヶ年計画という計画経済を1928年から実施していたため,恐慌の影響は受けませんでした。【時期・説明(理由)】アメリカは反共産主義の立場から,ソ連を承認するのが遅れていましたが,台頭するファシズム勢力への対抗と,経済が好調なソ連市場をねらって,ルーズベルトは国交を開くことを決断します。このことがソ連の国際連盟加盟(1934)につながります。【時期】
   
24 1922年,イタリアの政権を掌握した〔 ① 〕党のムッソリーニは,海外侵略によって恐慌を乗り切ろうとし,1935年に〔 ② 〕に侵攻し,国際連盟を脱退した。
①ファシスト  ②エチオピア
   イタリアファシスト党が政権を握ったのは世界恐慌の前であることに注意したい。【時期】イタリアは第一次世界大戦の戦勝国でしたが,戦後思惑通り領土拡大とはいかず,国内はまるで敗戦ムードでした。そんな中で国民の心をつかんだのムッソリーニでした。
 さらにムッソリーニは政権の正統性を強調するためにローマ教皇と結びます。ローマ教皇庁をバチカン市国として独立させたのはファシスト政権のときです。そして教皇はファシスト政権を承認した。
 世界恐慌ののちは,ドイツ・日本と手を結び,エチオピアに侵攻したことは重要です。 
   
25 ドイツではベルサイユ条約の賠償金返済のため極度の〔 ① 〕がおこり,経済が混乱した中で世界恐慌の影響を受けた。〔 ② 〕年,第一党となったヒトラー率いる〔 ③ 〕は政権を掌握し,ベルサイユ条約を破棄して再軍備宣言をおこなった。また共産主義と〔 ④ 〕民族をドイツの敵とし,1937年に〔 ⑤ 〕を結び,各地に〔 ④ 〕民族の強制収容所を建設した。ポーランドにある〔 ⑥ 〕強制収容所はその最大のものである。
①インフレーション  ②1933  ③ナチス(ナチ党)  ④ユダヤ  ⑤日独伊防共協定  ⑥アウシュビッツ
   1932年の総選挙で第一党となったナチス(ナチ党)は,1933年,議会でヒトラーに全権を委任します。事実上の独裁です。 1933年はヒトラーとルーズベルトが政権をとった年です。【時期】
 国際社会ではドイツの軍備制限を解くように求めますが,認められず1926年にやっと加盟した国際連盟を脱退します。日本の脱退と同じ年の1933年です。【時期】
 翌年,ヒトラーは大統領と首相を兼任する総統という地位につき,アウトバーン(自動車専用道路)の建設などのインフラ整備を実施して,国内情勢を安定さると,1935年ベルサイユ条約を破棄して再軍備宣言をおこないます。
 また共産主義とユダヤ人をドイツ国民の敵として迫害を強めていきます。ユダヤ人迫害についてはポーランドにあるアウシュビッツ強制収容所【位置】や迫害を逃れてリトアニアに押し寄せたユダヤ人に日本通過ビザを発行した日本の外交官:杉原千畝(ちうね)の名前をおぼえておきましょう。
 迫害にあったユダヤ人の記録としてはドイツからオランダに亡命して隠れ家生活を余儀なくされたアンネ=フランク『アンネの日記』があり,世界記憶遺産となっています。
アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所(ポーランド)
列車で連行されたユダヤ人をそのまま収容した。
アンネフランクの隠れ家(アムステルダム)
本棚の後ろに隠れ部屋がある。

 共産主義に対しては1937年日独伊防共協定が結ばれ,ドイツとイタリアの関係は「ベルリン=ローマ枢軸(枢軸国)」とよばれる強固な関係になります。のちにはスペインもこれに参加します。スペインでもはファシズムの波が押し寄せていたた中,共和主義者・社会主義者・共産主義者らが人民戦線内閣をつくります。人民戦線とは反ファシズム・反帝国主義を唱える集団です。
 これに対し軍部のフランコ将軍がクーデターをおこし,ファシズム政権を樹立。スペイン内戦が勃発します。当然ドイツ・イタリアはフランコを支援し,人民戦線側を支援したのはソ連でした。この争いは第二次世界大戦の前哨戦ともいわれましたが,勝利したのはフランコ側のファシズム政権でした。
 反ファシズム抵抗運動としては,ドイツ占領下のフランスのレジスタンスユーゴスラビアのパルチザン中国における第二次国共合作などがあります。
 
26 1938年,ドイツはオーストリアを併合し,つづいてチェコスロバキアを解体して,領土の拡大をおこなった。〔 ① 〕年,ヒトラーはスターリンと〔 ② 〕条約を調印して,東方の安全を確保すると,ポーランドに侵攻したため第二次世界大戦が勃発した。
①1939  ②独ソ不可侵条約
 ドイツはベルサイユ条約で禁止されていたオーストリアの併合に踏み込みます。オーストリアはドイツと同じドイツ民族です。言葉もドイツ語です。つづいてチェコスロバキアも解体してその領土の一部を編入します。
 またドイツにはベルサイユ条約で定められた飛び地領土がありました。東プロシアといいます。東プロシアとドイツをわずかに隔てているのはポーランドです。ではいっそのことポーランドを攻めれば,ドイツと東プロシアを1つにできるばかりか,ポーランドも支配できる。しかし問題が1つあった。ソ連の存在です。もしポーランド侵攻を実行すれば,当然,敵国視するソ連との戦争は避けられない。そこでヒトラーは世界をあっといわせる行動にでます。ソ連と手を結ぶのです。かねがね反共産主義を掲げてきたヒトラーがこのような行動にでるとはだれも思いませんでした。当然,そこにはドイツとソ連でポーランドを分割するという両者の利害が一致したからだったのです。
 1939年独ソ不可侵条約を結んで東方の安全を確保したドイツは,ポーランドに侵攻し,これがきっかけとなって第二次世界大戦が勃発したのです。
   
27 ポーランド征服後,1940年にはフランスを降伏させたドイツはヨーロッパの大部分を征服したため,ソ連は日本と〔 ① 〕条約を結んで独ソ開戦に備えた。またアメリカ大統領:〔 ② 〕とイギリス首相:〔 ③ 〕は大西洋上で会談し,〔 ④ 〕を発表して協力してファシズムに対抗することを確認した。
①日ソ中立条約  ①フランクリン=ルーズベルト  ③チャーチル  ④大西洋憲章
   ポーランド侵攻ののち,ドイツは踵を返して戦力を西に向けます。相手は長年の宿敵フランスです。オランダ・ベルギー・デンマークなどは中立を宣言していましたが,これを無視して侵略します。もうむちゃくちゃです。
 フランスに侵入したドイツはあっという間にパリを占領。フランスは降伏します(1940)。【時期】しかしイギリスに逃れていたド=ゴール将軍はロンドンで亡命政府「自由フランス」を組織してラジオ放送を通じて抵抗を訴えます。フランス各地で対ドイツ地下組織であるレジスタンスが結成されました。
 スペインも中立を宣言していましたが,フランコ政権はファシズム政権なので事実上同盟国です。残るはイギリスですが,チャーチル首相のもと,なんとかドイツ軍の上陸を阻止したため,戦争は長期戦の様相を見せはじめました。
 そこでドイツは次にバルカン半島制圧に向かいます。するとドイツとソ連との間に緊張が走りました。いつ独ソ開戦がおこってもおかしくない状況の中,ソ連と日本は日ソ中立条約を結んで,日本は北方のソ連は東方の安全を図ります(1941)。【時期】
 劣勢に立たされたイギリス(チャーチル)は何としてもアメリカを参戦させようと奔走し,1941年8月,ルーズベルトとの大西洋上会談に臨みます。両国は戦後構想を明らかにした大西洋憲章を発表し,反ファシズムで協力することを確認しました。アメリカの参戦は間近に迫っていた。そんな中,日本の真珠湾攻撃がはじまったのです。
 戦後『第二次世界大戦』を書いたチャーチルは日本の真珠湾攻撃の知らせを聞いて,「これで勝ったと思った」と書いています。(アメリカが本気になったからです。)   
   
28 〔 ① 〕年,太平洋上の〔 ② 〕海戦と,1943年,〔 ③ 〕攻防戦に勝利した連合国は優勢に転じ,イタリアが降伏した。また1944年には〔 ④ 〕上陸作戦を成功させてパリを解放した。
①1942  ②ミッドウェー  ③スターリングラード  ④ノルマンディ
   第二次世界大戦で連合国側が優勢に転じた戦いをおさえておきましょう。太平洋戦線ではミッドウェー海戦,ヨーロッパ戦線ではスターリングラードの戦いです。1943年にはイタリアは早々に降伏しています。
 枢軸国の敗戦が決定的になったのは,太平洋ではサイパン島の陥落。これによってアメリカは日本の本土空襲が可能になりました。ヨーロッパではノルマンディー上陸作戦。ノルマンディーはフランスの北部海岸地域です。これでフランスが解放されます。 
   
29 1945年2月,ソ連の〔 ① 〕半島で〔 ② 〕会談が開かれ,〔 ③ 〕・〔 ④ 〕・〔 ⑤ 〕はドイツの戦後処理・ソ連の対日参戦などを取り決めた〔 ② 〕協定を結んだ。 
①クリミア  ②ヤルタ  ③アメリカ  ④イギリス  ⑤ソ連  ※③~⑤は順不同
   枢軸国の敗北が時間の問題となったころ,連合国代表は戦後処理の問題をとり決めます。応用レベルでは1945年ヤルタ会談(2月)ポツダム会談(7月)の2つで結構ですが,発展レベルではその前のカイロ会談テヘラン会談の2つを加えておきましょう。いずれも場所,参加国(首脳),主な議題をおさえること。
 カイロ会談(1943)はエジプトのカイロ。参加したのは,米(ルーズベルト),英(チャーチル),中(蔣介石)です。会談内容は対日戦争についてであったため,日ソ中立条約を結んでいたソ連は参加せず,中国になっています。
 カイロ会談に続けてテヘラン会談がもたれました。ここで米・英・ソ(スターリン)初めての首脳会談が実現します。主な議題は西ヨーロッパでの連合国の反撃(ノルマンディー上陸作戦)についてです。
 1945年2月,ドイツ敗戦が濃厚となったころ,ソ連クリミア半島でヤルタ会談が開かれます。メンバーはテヘラン会議と同じ。ドイツの戦後処理やソ連の対日参戦などを取り決めます。この内容はヤルタ協定とよばれ,戦後の国際秩序(つまり冷戦)のもとになります。(ヤルタ体制)
   
30 1945年5月,ベルリンが陥落してドイツが降伏すると,7月にベルリン郊外の〔 ① 〕で〔 ② 〕(米)・〔 ③ 〕(英)・〔 ④ 〕(ソ)が,日本の無条件降伏についての〔 ① 〕宣言をアメリカ・イギリス・〔 ⑤ 〕の名で発表した。8月14日,日本はこれを受け入れて戦争は終結した。 
①ポツダム  ②トルーマン  ③チャーチル  ④スターリン  ⑤中華民国 
   1945年5月ドイツが降伏します。ヒトラーはベルリン陥落直前自殺してしまいます。このベルリン郊外のポツダムで米英ソ3ヶ国が再び集まってポツダム会談が開かれます。ただしルーズベルトは病で亡くなっていたため,副大統領から昇格したトルーマンがその席につきます。
 ポツダム宣言は米英と中華民国の名で発表されたことに注意。ソ連がこれに関わっていると日ソ中立条約違反になるからです。 
   
31 1945年6月,〔 ① 〕会議で大西洋憲章をもとにして〔 ② 〕が調印された。10月,原加盟国〔 ③ 〕ヶ国が参加して国際連合が発足した。その一方でアメリカは〔 ④ 〕(1949年)を,ソ連は〔 ⑤ 〕(1955年)を結成し,冷戦は激化していった。 
①サンフランシスコ  ②国際連合憲章  ③51  ④北大西洋条約機構(NATO)  ⑤ワルシャワ条約機構  
   米英ソによる戦略会議とは別に,1945年6月にはサンフランシスコ国連設立のための会議が開かれ,国連憲章が発表されました。【史料】国連が発足したのは10月。終戦後です。
 その一方で,米ソ冷戦が進んでいきます。アメリカ側の軍事同盟は北大西洋条約機構(NATO),現在本部はベルギーのブリュッセルに置かれています。これに対してソ連側はワルシャワ条約機構で対抗します。
   
32 中国では戦中,国民党と共産党の第二次〔 ① 〕が成立し,〔 ② 〕を結成したが,戦争終結後は決裂し両党の内戦状態となった。〔 ③ 〕年,内戦に勝利した〔 ④ 〕を主席とする共産党は中華人民共和国を樹立。一方国民党は〔 ⑤ 〕に逃れ,中華民国を維持した。 
①国共合作  ①抗日民族統一戦線  ③1949  ④毛沢東  ⑤台湾
   日中戦争がはじまると対立していた国民党共産党が再び手を結びます。第二次国共合作です。この同盟関係はその目的から抗日民族統一戦線ともよばれます。第一次国共合作は「対軍閥」,第二次国共合作は「対日」です。【比較】
 抗日戦争に勝利すると国共両党は再び内戦状態となりますが,今度は共産党の地道な努力が実を結びました。共産党は全国で土地改革をおこない,地主の土地を農民に与えていきます。これを「解放」といいます。農民は自分の土地を守るために共産党に力を貸していきます。今でも中国の軍隊は「人民解放軍」とよばれています。
 1949年1月,人民解放軍は北京に入り,内戦に終止符を打ちました。党主席である毛沢東が国家主席の地位につきます。一方,蔣介石の国民党は台湾に逃れ,中華民国国民政府を維持します。これ以後もしばらくの間,国際的には「中国」というと「台湾政府」を指していました。国連における「中国」も台湾の中華民国でした。 
   
33 戦後,朝鮮半島は北緯〔 ① 〕度線を境に北をソ連軍,南をアメリカ軍が占領した。1948年,半島は統一されないまま韓国北朝鮮が独立する。〔 ② 〕年,北朝鮮が〔 ① 〕線を越えて南に侵攻したことで朝鮮戦争が勃発し,〔 ③ 〕軍が支援する韓国と〔 ④ 〕が支援する北朝鮮との戦いは〔 ⑤ 〕年に〔 ⑥ 〕で休戦協定が結ばれるまで続いた。 
①38  ②1950  ③国連  ④中国  ⑤1953  ⑥板門店   
   日本の敗戦とともに朝鮮半島が日本支配から解放されます。しかしそこに北緯38度線を境界として北側にソ連軍南側にアメリカ軍が進駐してきます。米ソの対立はそのまま半島を統一することなく,南に大韓民国(李承晩大統領),北に朝鮮民主主義人民共和国(金日成主席)が成立しました。
 朝鮮戦争はまず北朝鮮が38度線を越えてはじまります。そのまま一気にソウルを手中におさめ,半島南部を次々と制覇していったところで,国連軍がこれを侵略とみなして介入。逆に韓国側が北朝鮮を中国国境付近まで押し返します。そこへ今度は北朝鮮を中国軍が援助する。(当時中国は国連代表権をもっていなかった)
 韓国の参戦部隊は国連軍(事実上アメリカ軍)北朝鮮の参戦部隊はソ連ではなく中国義勇兵であったことに注意しましょう。【落とし穴】中国人民解放軍(内実は)ではなく,義勇兵とは志願兵(表向きは)であったのは,中ソ両社会主義国にとってこの戦争が朝鮮半島を越えて中ソ国内に拡大することを避けたかったからです。しかしこれで戦争が長期化することになりました。
 戦争はこのまま膠着状態が続くと,アメリカでトルーマン大統領の支持率が低下します。次の大統領選で勝利したアイゼンハワーが大統領につくと,1953年,38度線付近の板門店休戦協定が結ばれます。 現在も戦争は終わっていないことに注意しましょう。【落とし穴】
   
34 1947年,インドでは〔 ① 〕教徒中心のインド連邦とイスラム教徒中心の〔 ② 〕が分離独立した。また〔 ③ 〕島(現スリランカ)も〔 ④ 〕教徒を中心として独立する。1971年には東〔 ② 〕が〔 ⑤ 〕として分離独立した。 
①ヒンドゥー  ②パキスタン  ③セイロン  ④仏   ⑤バングラデシュ 
   バングラデシュはインドからではなく,のちにパキスタンから独立したことに注意。【落とし穴】 
   
35 東南アジア諸国も欧米支配からの独立を達成したが,フランス領インドシナではフランスが軍を派遣し,〔 ① 〕戦争がおこった。1954年,ジュネーブ休戦協定が結ばれると,カンボジア・ラオスは独立,ベトナムは北緯〔 ② 〕度線を境として北側にベトナム民主共和国,南側にベトナム共和国が成立してフランス軍は撤退した。 
①インドシナ  ②17 
   フランス領インドシナでは,本国フランスが降伏したあと日本軍が進駐してきます。その日本が降伏するとすぐに再びフランスが植民地支配を続けようとします。そこで独立戦争が勃発した。インドシナ戦争です。しかしフランスはアルジェリア独立戦争も抱えていたので,これに敗北。ジュネーブ休戦協定が結ばれました。
 この結果,カンボジアラオスは独立,ベトナム北緯17度線を境に2つの国に分裂します。このとき北ベトナムは社会主義国となりました。そして南ベトナムはフランスの傀儡政権ですが,事実上共産主義の拡大を阻止しようとするアメリカが支援し,フランス軍は撤退しました。 
   
36 1954年,中国の〔 ① 〕とインドの〔 ② 〕が平和五原則を発表し,翌年,インドネシアの〔 ③ 〕で第1回アジア・アフリカ会議が開催され,植民地支配からの脱却を呼びかけた平和十原則が発表された。この結果,〔 ④ 〕年にアフリカで17ヶ国が独立し,アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国は米ソ両陣営にも加わらない〔 ⑤ 〕主義を進めた。また〔 ⑥ 〕年には〔 ⑦ 〕(東南アジア諸国連合),〔 ⑧ 〕(ヨーロッパ共同体)が成立し,世界の多極化が進んだ。 
①周恩来  ①ネルー  ③バンドン  ④1960  ⑤非同盟中立  ⑥1967  ⑦ASEAN  ⑧EC 
 戦後アジア・アフリカ諸国の独立の気運を高めるために,中国周恩来(首相)とインドネルー(首相)が会談をもち,平和五原則を発表します。「領土保全及び主権の相互不干渉・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和的共存」です。
 翌1955年にはインドネシアバンドン第1回アジア・アフリカ会議が開かれて,「平和十原則」に発展し,植民地支配からの脱却をよびかけました。インドネシアの大統領はスカルノという人物です。
 このよびかけがきっかけとなってアジア・アフリカ諸国の独立が加速しました。特に1960年はアフリカで17ヶ国の独立国が誕生したため,「アフリカの年」ともよばれます。
 こうして独立を達成したアジア・アフリカ諸国やヨーロッパ諸国では冷戦下の米ソにまとまって対抗しようという動きがみられるようになりました。こうした動きを多極化といいます。世界を米ソの両極にわけるのではなく,第三勢力として国際社会で優位な地位を確保しようとする動きです。アジア・アフリカ・ラテンアメリカ・ヨーロッパのユーゴスラビアなどは非同盟中立主義といいました。中でも1967年ECASEANの結成は重要です。
 ちなみに1960年代に独立したアフリカ諸国のほとんどはイギリス・フランスの植民地でした。一方でポルトガルの植民地であったアンゴラモザンビークなどの独立は1970年代に入ってからと遅れます。ポルトガルは1974年までヨーロッパでもっとも長い独裁政権が続いていました。この独裁政権下,植民地諸国の独立を許しませんでした。1960年代,周辺諸国が独立を勝ち取る中で,ポルトガルの植民地だけは本国との戦争が続いたのです。ポルトガル本国でも戦費が国民生活を圧迫し,ポルトガルは当時西ヨーロッパでもっとも貧しい国とよばれます。
 1974年,ついに軍事クーデターがおこり,独裁政権は崩壊。またこの革命は無血革命で,市民たちが兵士にカーネーションの花を手渡したことから,この花が革命のシンボルとなり,「カーネーション革命」とよばれました。
 カーネーション革命をきっけかとして世界中のポルトガルの植民地は独立していきます。アフリカではアンゴラやモザンビークなどが,アジアではマカオが中国返還に向けて話し合いが進みます。(返還は1999年)。また東ティモールからも撤退。しかし東ティモールは直後にインドネシアによって併合され,独立したのは2002年のことでした。
   
37 〔 ① 〕年,パレスチナ地方にユダヤ人国家:〔 ② 〕が建国されると,アラブ人が反発し,第一次中東戦争が勃発した。パレスチナ地方のアラブ人は〔 ③ 〕(パレスチナ解放機構)を結成して〔 ② 〕に対抗したが,〔 ④ 〕地区など一部の居住地が与えられただけであった。 
①1948  ②イスラエル  ③PLO  ④ガザ 
   パレスチナ地方はかつてオスマン=トルコの支配下にありました。そこにはアラブ人のイスラム教徒が多数居住していましたが,19世紀末からユダヤ教徒(ユダヤ人)の入植が増加してきた。パレスチナ地方は紀元前1000年ごろ,ユダヤ人が神から約束された地としてここにイスラエル王国を建国した土地です。ユダヤ人が民族の故郷であるパレスチナに帰ろうとする運動をシオニズムといいます。
 第一次世界大戦がはじまると,イギリスはここにユダヤ国家を建国することを約束します。(バルフォア宣言)しかしその一方でアラブ人のトルコからの独立支援(フサイン=マクマホン協定)や英・仏・露による分割統治も約束するという矛盾だらけの秘密協定を乱発します。
 結局何の約束も果たされずにパレスチナ地方はイギリスの委任統治となりました。各方面からは不満と怒りの嵐です。しかしユダヤ人のパレスチナ入植は増加する一方です。ヨーロッパではドイツのユダヤ人迫害もはじまります。
 そして二度の大戦を戦ったイギリスには戦後,この地域を支配していくだけの力は残っていなかった。そこで国連に間に立ってもらってパレスチナ問題を解決してもらうことにした。パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割することになったのです。しかしこの分割案は圧倒的にユダヤ人有利な内容でした。
 1948年,イギリスの委任統治が終了した直後,ユダヤ人はイスラエル建国を宣言します。その翌日にはパレスチナ分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナに侵攻し,第一次中東戦争が勃発しました。結果はイスラエルの勝利に終わり,パレスチナの大部分の領有に成功しました。
 さてところは変わってエジプト。エジプトでも反植民地運動の風が吹いていました。イギリスの影響下から抜け出すため,1956年,スエズ運河の国有化宣言を出します。スエズ運河の大株主であったイギリス・フランスには大打撃です。そこでイギリスはエジプトに制裁を加えるべく,イスラエルをけしかけます。第二次中東戦争です。結果は国際世論を味方につけたエジプトの勝利。エジプトはスエズ運河の国有化に成功しました。
 1964年,増加するパレスチナ難民(アラブ人)のたの国家建設を目的にPLO(パレスチナ解放機構)が結成されます。議長はアラファトという人物。
 1967年,再びイスラエルの先制攻撃によって第三次中東戦争が勃発しました。イスラエルはエジプト領のシナイ半島ガザ地区,ヨルダン領のヨルダン川西岸,シリアのゴラン高原を占領します。この4つの地域の名称と位置はおさえておきたい。《第10回 史料・地図》
 このときアラブ諸国はイスラエル支援国(アメリカなど)に対する石油戦略をOPEC に提案しましたが,非アラブ諸国の支援を得られなかったため,アラブ産油国によるOAPEC を結成します。(1968) 
   
38 1973年第四次中東戦争がおこると〔 ① 〕・〔 ② 〕が原油価格を値上げしたため,石油危機がおこった。その後の世界的な経済の混乱がきっかけとなって1975年,〔 ③ 〕で第1回〔 ④ 〕(先進国首脳会議)が開かれた。 
①OPEC  ②OAPEC  ③フランス  ④サミット 
   1973年第四次中東戦争が勃発します。このときOPECは石油価格の引き上げを宣言し,OAPECは石油輸出停止を宣言するいわゆる石油戦略を実施したため,石油危機がおこりました。
 石油危機後の世界経済を話し合うためにフランスのランブイエで開かれた先進国首脳会談が現在も続くサミット(現在は主要国首脳会談)のはじまりとなりました。当時ドイツは西ドイツです。 
   
39 1979年,〔   〕でシーア派が革命をおこし,アメリカなどの影響力を排除し,イスラム原理主義に基づく国家が成立した。これに対しアメリカはイラクを援助して約10年にわたる〔   〕・イラク戦争がはじまった。 
イラン 
   イランはイスラム教の中でもシーア派が多数の国です。そしてアラブ人ではなく,ペルシャ人の国です。これはしっかりとおさえておきたい。このイランで1979年,イスラム革命がおこります。イスラム原理主義ともいわれ,当時の世界の流れとは逆行する政教一致の国家体制を築こうとしました。指導者はホメイニ師。反米・反英の反帝国主義,反西洋文明(キリスト教),そして反スンニ派です。
 あわてはのはこの地域の石油利権を一手に握っていたアメリカです。アメリカはこのとき大統領に選ばれた隣国イラクサダム=フセインを援助し,イラクはシーア派勢力の防波堤としてイランと戦います。イラン=イラク戦争です。この戦争は1980年にはじまり,1988年に国連の停戦決議が受け入れられるまで続きますので「イラ・イラ戦争」などとよばれた。このときアメリカがフセインを援助したことが,あとになって大きな災いとなります。 
   
40 1949年,ドイツは米・英・仏の占領下にあった地域が〔 ① 〕(西ドイツ)として独立,ソ連の占領下にあった地域が〔 ② 〕(東ドイツ)として独立した。首都ベルリンも西ベルリンと東ベルリンに分割され,西ベルリンは西ドイツ領であった。1961年,ソ連は東ベルリンから西ベルリンへの逃亡を防止するため〔 ③ 〕を構築した。 
①ドイツ連邦共和国  ②ドイツ民主共和国  ③ベルリンの壁 
   ドイツは戦後,米・英・仏・ソの4ヶ国によって分割占領されます。それとともに首都:ベルリンも4ヶ国に分割管理されることになりました。1946年,イギリスのチャーチルがアメリカに招かれて演説したとき「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで,大陸を横切る鉄のカーテンが降りている。」と語りました。この「鉄のカーテン」は米ソ冷戦の緊張状態を象徴する言葉となり,ここから冷戦を「東西対立」とも表現するようになります。
 そして米・英・仏占領地域が1つになって西ドイツ(ドイツ連邦共和国),ソ連地域が東ドイツ(ドイツ民主共和国)として独立します。同様にベルリンも西ベルリン東ベルリンにわかれ,西ベルリンは西ドイツの飛び地となるのです。つまり西ベルリンという西ドイツ領は東ドイツに取り囲まれているのです。
 この西ベルリンへの東ドイツからの亡命を抑えるため1961年に築かれたのがベルリンの壁です。
   
41 〔 ① 〕年,スウェーデンのストックホルムで開かれた平和擁護世界委員会で核兵器禁止を求める〔 ② 〕が発表れさた。 一方,アメリカ大統領:〔 ③ 〕は〔 ④ 〕環礁において水爆実験を続けたため,1954年,日本の漁船:〔 ⑤ 〕が被爆する事件がおこった。これを受けて1955年,第1回〔 ⑥ 〕が広島で開催された。
①1950  ②ストックホルムアピール  ③アイゼンハワー  ④ビキニ  ⑤第五福竜丸  ⑥原水爆禁止世界大会 
   冷戦の対立にともなって核開発も進む中,核廃絶を求める民間の運動も活発になってきました。その先駆けとなったのが,1950年,スウェーデンストックホルムで開かれた平和擁護世界委員会でのストックホルムアピールでした。アピールとはよびかけです。このよびかけに5億人の人々が署名しました。
 その一方で,アメリカのアイゼンハワー大統領は水爆の実験を続けます。アイゼンハワーは大戦末期,ノルマンディー上陸作戦を成功させた総司令官です。
 1954年ビキニ環礁での水爆実験の際,日本のマグロ漁船:第五福竜丸が放射性降下物(「死の灰」)を浴びる被害に遭いました。これを機に翌年,第1回原水爆禁止世界大会広島で開かれます。
 また同じ年,核廃絶と科学の平和利用を訴え,イギリスの哲学者バートランド=ラッセルとアメリカの物理学者アルベルト=アインシュタインはラッセル=アインシュタイン宣言を発表。この精神を受けて,1957年から核兵器と戦争の廃絶を訴える科学者の会議:パグウォッシュ会議が開かれることになります。パグウォッシュとは第1回会議が開かれたカナダの村の名前です。ちなみにアインシュタインはルーズベルトに原爆開発を提言した人物でもありました。 
   
42 1959年,〔 ① 〕ではカストロが社会主義革命である〔 ① 〕革命をおこして,アメリカの影響力を排除した。〔 ② 〕年,ソ連の〔 ① 〕におけるミサイル配備をめぐり,米ソが対立した。これを〔 ③ 〕という。アメリカの〔 ④ 〕大統領(民主党)は海上封鎖で対抗したのに対し,ソ連の〔 ⑤ 〕が譲歩したため第三次世界大戦の危機は回避された。 
①キューバ  ①1962  ③キューバ危機  ④ケネディ  ⑤フルシチョフ 
   米ソ冷戦が最高潮に達した事件がキューバ危機です。キューバは米西戦争後(1899),アメリカの保護国となっていました。アメリカの砂糖農場となり,アメリカ頼りのモノカルチャー経済です。大統領は親米独裁政権ばかり。
 1956年,メキシコを出発した1隻の船がありました。「グランマ号(おばあちゃん)」,とても船とはいえないオンボロヨット。10人乗りでしたが,82人をつめこんで。リーダーは弁護士のフィデル=カストロ,アルゼンチン出身の医師チェ=ゲバラでした。何とかキューバにたどり着きましたが,ほとんどがキューバ政府に殺され,生き残った12人で革命を成し遂げた。1959年のことでした。
キューバ内務省のチェゲバラの肖像
アメリカとの国交断絶以前に輸入したアメリカ車
現在も現役

 カストロはベトナムホー=チ=ミンのように社会主義者ではありませんでしたが,アメリカの影響を排除して国民の生活を安定させるためには社会主義の道をとるしかなかった。一方,アメリカ側は当然この革命政権を倒しにきます。カストロはソ連の援助を求めました。
 ソ連にすれば渡りに船です。アメリカのこんな近くに親ソ政権が誕生した。ソ連のフルシチョフはキューバにミサイル基地の建設にとりかかります。これに対し,アメリカのケネディはキューバを海上封鎖。米ソの緊張は日に日に増します。
 あと一歩で核戦争というところで,ケネディとフルシチョフは直接交渉で戦争を回避。フルシチョフが折れてミサイル基地を撤去しました。1962年のキューバを舞台とした核戦争の危機をキューバ危機といいます。
 この事件で米ソの裏側に隠れてしまった形となったキューバですが,2016年までアメリカとの国交は断絶。しかし今でも数少ない社会主義国の1つです。キューバにはアメリカと国交があったころのアメリカ車が今でも現役で走っています。 
   
43 キューバ危機後の1963年,〔 ① 〕条約が結ばれて〔 ② 〕実験を除くすべての核実験が禁止され,1968年には〔 ③ 〕条約で核保有国が非核保有国に核兵器を譲渡することが禁じられた。 
①部分的核実験停止  ②地下  ③核兵器拡散防止   
   キューバ危機のあと,米ソ関係は緊張緩和の時代へと進んでいきます。難しくは「デタント」といいます。米ソの間では緊急時に直接電話で対話できるようにホットラインが引かれます。
 デタントの表れというべき条約が,1963年部分的核実験停止条約です。「部分的」とは「地下実験を除くすべての核実験の停止」です。逆にいえば「地下実験だけOK」。米ソにイギリスを加えて結ばれました。
 また1968年には核兵器拡散防止条約が結ばれ,核兵器の保有は米・英・ソ(現ロシア)・仏・中(現中華人民共和国)に限るとされました。こちらは国連主導の条約です。非核保有国にはIAEA(国際原子力機関)の査察を受ける義務があります。 
   
44  1956年,スターリンの死後,ソ連の第一書記となった〔 ① 〕〔 ② 〕をおこない,スターリンの執政を非難した。これを受けて〔 ③ 〕では民主化を求める反ソ運動がおきたが,ソ連軍の介入によって鎮圧された。1960年代には中ソ関係も悪化し,1969年の〔 ④ 〕紛争に発展した。また1968年,チェコスロバキアでも民主化を求める運動:〔 ⑤ 〕がおきたが,失敗に終わった。
①フルシチョフ  ②スターリン批判  ③ハンガリー  ④中ソ国境  ⑤プラハの春
   社会主義国では共産党の一党独裁です。党の代表は書記長(中国では総書記)とよばれます。つまり書記長が国を代表する人物というわけです。
 1953年,スターリンが死にます。スターリンは数々の政敵をやっつけて,反勢力を粛清してソ連において長年独裁をおこなった人物でした。そしてその死後,党の代表となったフルシチョフによってその暗黒面が公表された。これを「スターリン批判」といいます(1956)。フルシチョフはスターリンと同じ書記長とよばれるのを嫌い,「第一書記」という言葉を使用するようになりました。(フルシチョフのあと,この地位は書記長に戻る)
 当時の社会主義国はすべてスターリンの指導のもと,その体制を受け入れてきたわけですから,そのスターリンを当のソ連が批判したわけです。 ソ連の衛星国は複雑な思いで受け取ったでしょう。まず体制側はスターリン色で染められています。スターリンの体制をならい,指導者はスターリンのように振舞うことが求められていたのです。つまり社会主義の徹底と独裁です。一方,国民は厳しい国家統制下で生活していたわけですから,スターリン批判は望むところでした。そして東欧各国では国民の共産党一党独裁への反発となります。
 ハンガリーではハンガリー暴動,遅れてチェコスロバキアでは「プラハの春」とよばれる民主化運動がおこります。ソ連はこれらの運動を容認したのではなく,軍事介入によって制圧した。【落とし穴】
 中国でもスターリン批判の影響は大きかった。スターリン路線を継承する毛沢東はフルシチョフのスターリン批判を社会主義の修正主義だとし非難。両国の関係は悪化していきました。キューバ危機後の部分的核実験停止条約での米ソ協調も気に入りません。これに対し中国は独自で核開発を進め,1964年に核実験を成功させます。
 さらに中ソの対立は国境紛争(中ソ国境紛争)にまで発展し,毛沢東はソ連を敵視するようになります。このような中ソ対立に,各国の共産党(政府)はソ連支持を表明しますが,東欧のアルバニアだけが中国を支持します。
   
45 インドシナ戦争後,北ベトナムには東南アジア最初の社会主義国が成立したため,アメリカは南ベトナムを支援した。1965年,アメリカの〔 ① 〕大統領(民主党)は南北の対立に本格的に介入し,〔 ② 〕戦争がはじまった。 
①ジョンソン  ②ベトナム 
   ジュネーブ休戦協定後,ベトナム北緯17度線を境に南北それぞれに国家ができます。北ベトナムは社会主義国となり,南ベトナムはフランス撤退後アメリカが支援する形になります。朝鮮半島と同様です。
 冷戦下のアメリカの外交政策にはドミノ理論という考え方があった。ある一国が社会主義(共産主義)になるとドミノのように隣接国も社会主義になる。したがってこのまま北ベトナムを放っておけば,そのうち南ベトナムも北ベトナムに飲み込まれ,ゆくゆくは東南アジアが社会主義地域になってしまう。「ここで食い止めなければ」となるわけです。
 キューバ危機を話し合いで解決したケネディですが,ベトナムに関しては軍事介入を強化していきます。1963年11月,翌年の大統領選挙で再選を狙うケネディはそのキャンペーンとしてテキサス州ダラスを訪れます。市内をオープンカーでパレード中,頭部を狙撃され死亡しました。隣に座るジャクリーン夫人はその瞬間,無意識のまま飛び散った夫の脳を拾い集めようとしました。
 同行していた副大統領のジョンソンは難を逃れ,大統領専用機(エアフォースワン)でワシントンに向かい,その機内で大統領宣誓式をおこないました。副大統領は大統領に不測の事態がおこったときにかわって大統領となるのです。だからアメリカ人は大統領選挙において,大統領候補とともに副大統領候補も考慮に入れて投票するのです。
 リンドン=ジョンソンは64年の大統領選挙で勝利し,代役ではなく正式に大統領となります。そして65年も早々に北ベトナムに対してアメリカ軍自ら爆撃を開始します。これを北爆といい,ベトナム戦争がはじまったのです。
 インドシナ戦争はベトナムVSフランスベトナム戦争は北ベトナムVS南ベトナム+アメリカです。【比較】しかしアメリカ軍の相手は実は北ベトナムだけではなかった。南ベトナムの中にも北ベトナムの支援を受けたゲリラ組織があり,彼らも相手にしなければならなかった。彼らは南ベトナムのコミュニスト=共産主義者という意味でベトコンとよばれ,アリの巣のような地下迷路を縦横無尽にはりめぐらし,現れてはアメリカ軍にダメージを与えて消えていきます。さらに南ベトナム市民の中にも北ベトナムを支援するものも多くいた。
ベトコンが使用したトンネル穴

 そんなわけで短期で終わると予測したアメリカの思惑は裏切られ,長期戦となりました。日本は当時高度経済成長期にありましたが,戦争の長期化とともに反戦運動・学生運動が60年の安保闘争以来の盛り上がりをみせます。特にアメリカ軍の沖縄基地使用が活発になると沖縄では本土復帰運動がさかんになりました。
 ジョンソン大統領にはケネディが残したもう1つの重要な問題がありました。アフリカ系アメリカ人による公民権運動です。 奴隷解放宣言によって黒人やアフリカ系アメリカ人(奴隷解放後にアメリカに渡ったアフリカ系や黒人奴隷の子孫)の人種差別は解消されのではありませんでした。以前根強く社会に浸透していたアフリカ系アメリカ人の差別解消を求めて特に1960年代を中心におこった大衆運動です。中心人物はキング牧師。ワシントン大行進では「I have a dream」という有名な演説をおこなった人物です。
 ケネディは公民権法の制定に前向きでしたが,途中で凶弾に倒れ,その後を継いだジョンソン大統領によって成立しました。(1964)
46 ベトナム戦争による軍事費の増大からドルが流出すると〔 ① 〕大統領(共和党)は金・ドル交換停止を決定し,外国為替相場は〔 ② 〕制へと移行した。さらに〔 ③ 〕和平協定を結んでベトナムからの撤兵も実現させ,1976年,ベトナムでは社会主義共和国が成立した。 また1972年,ソ連に対抗するため中国を訪問し,関係正常化をはかった。
①ニクソン  ②変動相場制  ③パリ 
   ベトナム戦争が長期化すると,軍事費としてドルが湯水のように流れました。アメリカは第二次世界大戦の3倍の量にあたる爆薬を投下し,さらに枯葉剤をまいてジャングルを焼き尽くしたのです。米兵の戦死者は約6万人におよび,帰還兵の中には精神に異常をきたすものも少なくなかった。
 1968年の大統領選挙では民主党が敗北し,共和党のニクソンが勝利します。ニクソンに課せられた使命はベトナムからいかに手を引くかとドル防衛策でした。この2つについてニクソンは当時の世界をアッと驚かせる方針を打ち出します。ニクソン=ショックといいます。
 1971年,ニクソンは訪中宣言を電撃発表します。泥沼化したベトナム戦争を終わらせるため,北ベトナムとの和解に中国の支援をとりつけようとしたのです。中国の方も中ソ対立からアメリカに接近する必要があった。この両者の接近は,世界中を驚かせます。
 ちょうどこの年,中国の国連代表権が台湾政府(中華民国)から北京政府(中華人民共和国)に移ります。これと同時に台湾政府は国連から除名されました。提案国は中国の友好国アルバニアでしたのでアルバニア決議といいます。中国とアルバニアはスターリン批判後,堂々と反ソ姿勢をみせていた国でした。
 本来,国連加盟の決定は安全保障理事会の役目でしたが,安保理でこの議題をかけると台湾政府が拒否権を行使するので,ダメになります。そこでアルバニアは総会に,「北京政府の権利回復と,北京政府を唯一の合法的政府であると認め,台湾政府代表を追い出すことを決定する」という形で提出します。このときアメリカも日本も反対票を投じましたが,結果は賛成多数で可決。北京政府が国連代表権を獲得しました。それと同時に台湾政府は国連を脱退します。
 1972年,中国を訪問したニクソン(ニクソン訪中)は北京政府を中国の正統な政府として認めます。これを受けて日本の田中角栄日中共同声明を結び,日中国交正常化をおこないました。米中の国交樹立1979年,民主党のカーター大統領のときに実現します。

 もう1つのニクソン=ショックは同じ時期におこったドル=ショックです。
 第二次世界大戦後,世界経済はアメリカのドルを基軸通貨として成り立っていました。まずアメリカは世界の3分の2の金を所有していました。そこで世界経済は金ドル本位制となります。まず金1オンス(重さ 約31グラム)=35ドルと決定します。各国の通貨はこれを基準として固定相場制をとります。例えば1ドル=360円です。これをブレトン=ウッズ体制といい,ブレトン=ウッズとはこの制度を取り決める会議が開かれたアメリカの地名です。そしてこれはアメリカが所有する豊富な金を背景として成り立っていた。
 1960年代,アメリカはベトナム戦争を開始します。さらに日本が高度経済成長を迎え,西ヨーロッパは戦後復興を終え,ECを結成するようになった。新興の経済国の登場により,「経済大国」とはもはやアメリカの専売特許でなくっていた。戦費拡大とこれらの国との貿易でアメリカドルはどんどん世界に流出していき,財政赤字となりました。ついには世界で流通しているドルがアメリカの金の保有量を超えていきます。金とドルはイコールの関係でしたから,ドルの価値が下がると金の価値も下がってしまう。そこで世界各国は争って今のうちにドルと金を交換しておこうと,今度はアメリカの金が流出します。こうしてアメリカの金保有量は激減していった。もはや金保有量に裏打ちされたドルを基軸通貨とするのは,実体経済に見合っていなかった。
 1971年,ニクソンは決断します。金・ドル交換停止です。これは戦後経済(ブレトン=ウッズ体制)の崩壊を意味しました。その後,もう少し実体経済に見合った固定相場制(1ドル=308円)が設定されました(スミソニアン合意)が,1973年からは先進国はすべて変動相場制へと移行しました。

 ベトナム戦争の方は,1973年にパリ和平協定が結ばれ,アメリカ軍の撤退が決まります。このあとは南北ベトナム人同士の戦いとなります。アメリカ兵のいなくなった今,北ベトナムの優勢は決まったようなもので,南ベトナム内のベトコンの協力もあって,1975年,南ベトナムの首都:サイゴンが陥落。翌年,ベトナム社会主義共和国が成立しました。一応現在もベトナムは社会主義国です。サイゴン市は,北ベトナムの指導者:ホー=チ=ミンの名をとって,現在はホーチミン市とよばれています。
   
47 1987年,〔 ① 〕大統領(共和党)はソ連との間で〔 ② 〕条約に調印した。 
①レーガン  ②中距離核戦力(INF)全廃 
   ニクソン大統領は2期目の任期を全うせず辞任しました。1972年,再選を狙う大統領選挙で民主党(ニクソンは共和党)本部があるウォーターゲートビルに何者かが忍び込み,盗聴器を仕掛けようとします。逮捕された犯人とニクソンの関係が疑われたため,ニクソンは2期目途中で辞任。ウォーターゲート事件といいます。任期途中の大統領辞任はアメリカの歴史上唯一です。
 大統領辞任を受けて,副大統領のフォードが大統領につきます。彼は次の大統領選挙に当然立候補しますが,ウォーターゲート事件の余波から,共和党は破れ,民主党のカーターが当選しました。結果的にフォードは大統領選挙で勝利しなかったこれまたアメリカ歴史上唯一の大統領になりました。
 カーターのあと,再び共和党が政権を握り,ロナルド=レーガンが大統領になります。もと映画俳優という異色の経歴の持ち主です。
 レーガンのスローガンは「強いアメリカ」でした。ソ連を「悪の帝国」とよび,軍備の増強,戦略防衛構想を打ち出しSFさながらの新兵器の開発に打ち込みました。これらは当時流行した映画の名前から「スターウォーズ計画」とよばれました。さすがハリウッド俳優です。
 しかし軍事の増大と減税政策により財政赤字が膨らみ,さらにドル高による輸入の増加に加え特に日米貿易摩擦が激しくなり貿易赤字となりました。この2つの赤字は「双子の赤字」とよばれます。
 そしてさらに政治家としても強敵となるゴルバチョフがソ連に現れます。 
   
48 ソ連の〔 ① 〕書記長は,〔 ② 〕から軍を撤退し,〔 ③ 〕とよばれる政治改革を実行してソ連の民主化・自由化を推進した。その結果,〔 ④ 〕年,アメリカの〔 ⑤ 〕大統領(共和党)との〔 ⑥ 〕会談において冷戦終結が宣言された。
①ゴルバチョフ  ②アフガニスタン  ③ペレストロイカ  ④1989  ⑤ブッシュ  ⑥マルタ 
   フルシチョフが失脚したあと,ブレジネフという人物が書記長の地位につきます。「書記長」という名が示す通り,フルシチョフとは逆の保守的な政策をとります。最初の大きな事件は「プラハの春」でした。そして中ソ国境紛争など中国との対立が激化。国内の言論・情報の統制も厳しくしていきます。
 しかし新しい試みにも挑戦しています。アメリカとの間に第一次戦略兵器制限交渉(SALTⅠ ソルトワン)をおこないます。「戦略兵器」とは核兵器のことです。続けて1979年第二次戦略兵器制限交渉(SALTⅡ)もおこないますが,アフガニスタン侵攻をおこなったため,この交渉は打ち切りとなりました。ソ連とアメリカの緊張緩和(デタント)はこれで終わりとなります。
 アフガニスタンでは親ソ政権を支援するソ連と,イスラム反政府組織が対立します。アメリカを中心とする西側諸国は反政府側ゲリラ組織を支援し,米ソ対立の代理戦争となりました。戦争は10年にわたり泥沼化しました。アメリカにとってのベトナム戦争のようです。結果的にこの行為がソ連崩壊につながっていく。
 1985年,ゴルバチョフが書記長に就任します。ゴルバチョフが引き継いだソ連は社会主義の矛盾が吹き出し,経済はズタズタでした。農業国であるはずのソ連が農作物を輸入しなければならないし,最新科学技術も西側諸国にずいぶん遅れをとっていた。
 このことすべてが露呈したある重大事件がおこります。1986年,チェルノブイリ原子力発電所(現ウクライナ)の事故です。技術・労働環境・情報,あらゆる問題が多くの犠牲者を生みました。
 ゴルバチョフは改革の必要性を痛感します。そして実施したのがペレストロイカです。ロシア語で「改革」を意味します。そのために必要なのはグラスノスチ(情報公開)による言論の自由であるとします。ペレストロイカとグラスノスチは【セット】でおぼえましょう。
 さらに軍事費の削減と西側諸国との関係改善をめざします。1987年,アメリカ(レーガン)との間で中距離核戦力全廃条約を結び,1989年にはアフガニスタンからの撤退を実行します。撤退したのはアフガニスタンだけではありませんでした。東欧諸国や中ソ国境からの軍の一部撤退をおこないます。これによってベルリンの壁が崩壊し,東欧諸国では民主化運動がおこり,中ソ対立も解消されます。
 そしてこの年の末,地中海のマルタ島(マルタ共和国)にてアメリカのジョージ=ブッシュ(父)と会談をもって冷戦の終結を宣言しました。翌年には共産党一党独裁を改め,多数政党による大統領制を導入し,大統領に選ばれています。こうなるともはやソ連はソ連ではなくっています。つまりソ連は崩壊したのです(1991)。
 ソ連撤退のアフガニスタンでは,イスラム原理主義をもとにした民族主義が台頭し,西側諸国が供給した軍事物資をもとに勢力を拡大していきます。その中でタリバンとよばる勢力が政権を握ると,オサマ=ビン=ラディン率いる国際テロ組織アルカイダの拠点となり,2001年アメリカ同時多発テロにつながっていくのです。 
 
49 〔 ① 〕年,ソ連がペレストロイカを進める中,その衛星国であった東ヨーロッパ諸国に民主化革命がおこった。〔 ② 〕ではレフ=ワレサ率いる連帯が非共産党政権を樹立したのにはじまり,11月には〔 ③ 〕が崩壊し,翌年に東西ドイツが統一した。1991年には〔 ④ 〕がそろってソ連からの独立を宣言し,それとともにソ連も崩壊した。
①1989  ②ポーランド  ③ベルリンの壁  ④バルト三国 
   1989年東欧革命の中で最初に非共産党政権が生まれたのはポーランドであることをおさえておきましょう。「連帯」(自主管理労働組合)という組織です。11月には冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊し,翌1990年東西ドイツの統一が達成されます。1989年は平成元年でもあります。【時期】
 1991年にはエストニア・ラトビア・リトアニア(バルト三国)がソ連邦離脱と独立を宣言したため,ソ連は解体します。ソ連内のバルト三国を除く共和国はロシア連邦と対等の独立国家共同体(CIS)を結成します。ロシア連邦初代大統領にはゴルバチョフではなく,ボリス=エリツィンが就任しました。 
   
50  〔 ① 〕年,イラクが〔 ② 〕に侵攻すると,アメリカの〔 ③ 〕大統領は国連決議に基づいて多国籍軍を組織してイラクを攻撃した。これを〔 ④ 〕戦争という。 
①1991  ②クウェート  ③ブッシュ  ④湾岸 
   1990年,イラクサダム=フセインは突如クウェートに侵攻します。この戦争は国連決議に基づいてアメリカを中心とする多国籍軍がイラクを攻撃しました。1991年湾岸戦争です。
 結果は多国籍軍の圧勝でした。イラクはクウェートから撤退しましたが,フセイン政権は存続し,対米姿勢をあらわにします。
 もともとフセインはイラン=イラク戦争でアメリカの援助を受けて,シーア派拡大の防波堤としての役割を任せられた人物です。そしてイラクの中にはシーア派が多数居住しています。フセイン(イラク政権)はスンナ派であるため,国内のシーア派はフセインの弾圧を受けるのです。シーア派だけではありません。国内にはクルド人など反フセインを掲げる少数民族も居住しています。フセインはこれらの少数民族も弾圧の対象としていました。
 2003年,アメリカはフセインの少数民族弾圧や対アメリカを想定した大量破壊兵器の開発,アメリカ同時多発テロへの関与など証拠不十分なものも含めてイラク攻撃の正当性を国連に訴えます。裏の事情としてはイラクにおける石油利権もあったでしょう。結果的に安保理決議を得られぬまま,イギリスとともにイラク戦争をはじめました。結果は米英の勝利でしたが,そのあとの混乱は収拾がつかず,その間にイスラム国(IS)が台頭することになりました。イラク戦争は安保理決議なかった点が重要です。【比較・落とし穴】
 また湾岸戦争では日本は資金援助しかできなかったため,国際社会から非難を浴びます。その結果,1993年PKO協力法が成立し,自衛隊の海外派遣が可能になりました。またアメリカのアフガニスタン攻撃ではテロ特措法(特別措置法)を制定して海上自衛隊のインド洋給油活動が,イラク戦争ではイラク特措法を制定して陸上自衛隊のイラク派遣がおこなわれ, 自衛隊の国際貢献が活発になっています。

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